2022年5月号 vol.191

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目次

 

幻の創刊準備号

​(2006年6月号)

Kindleで復刊

​2020年7月号

​2020年8月号

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☺ うさぎと一緒に

パラー州マラバー市の病院の新生児集中治療室で治療を受けている未熟児の赤ちゃんたちの少し変わった撮影会が行われた。

先月14日、パスコア(キリスト教の復活祭)を記念して、ボランティアの人々が編んだ長い耳付きの帽子をかぶった赤ちゃんたちが、手編みのパスコアの卵やうさぎに囲まれ撮影された。これは生まれたばかりの赤ん坊と母親たちの、人生で二度とない特別な瞬間を写真に残すことを目的とした「最大限の優しさを」というプロジェクトの一環で、撮影を受け入れた母親の一人、ジョアナ・シウヴァさんは「撮影には感動して胸が熱くなりました。来年のパスコアは家で息子と祝えると信じています」と語った。

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☺ PAREが...

サンパウロ州エルドラド市中心部の道路標示の写真がSNSで話題を呼んだ。

市の交通当局は先月21日、交通量が少ない祝日(チラデンテス記念日)を利用して市内で道路標示のメンテナンスを行った。メンテナンス後すぐに、同市中心部の2つ大通りが交差する、市内でも最も交通量が多い場所の表示が、通常の「PARE(とまれ)」が「RAPE」となっているのを歩行者が見つけSNSに写真を投稿したところ、多くの反響を呼んだ。「こんなことはエルドラド市でしか起こらないよ」

「これを書いた人は仕事後に遊ぶことで頭が一杯だったんだね」

「こんなことがしょちゅう起こるからいつも携帯を持ち歩かないとね」

市当局は間違えが指摘された後すぐに表示を修正した。

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布施直佐(ふせなおすけ)

 
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写真・文 松本浩治

第2次松原移民で村長経験の谷口文太郎(たにぐち・ぶんたろう)さん

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 第2次世界大戦後、日本の国策による第1回移民として、南マット・グロッソ州ドウラードス近郊に入植した松原移民。和歌山県出身の戦前移民で、サンパウロ州マリリア市に住んでいた故・松原安太郎(やすたろう)氏が当時のジェトゥリオ・ヴァルガス大統領から受け入れた移民枠により実現し、計60数家族が1953年、3次に分かれて海を渡ってきた。

 松原移民第2次渡航者の代表責任者でもあり、和歌山県内で村長経験があったことで、松原氏から移住地入植の世話役も任されていたのが谷口文太郎さん(92、和歌山県日高郡出身)だ。
 戦中に徴兵されていた谷口さんは45年10月に和歌山へと戻り、地元農協の食糧配給を担当後、50年頃から3年間は村長も任された。そうした中、戦後初めてのブラジル移住の話を他県に先駆けて受け入れた和歌山県では、松原氏が当時の県知事を通じて移民を募集。その頃の谷口さんは39歳と、県内に約300あった市町村の中でも最も若い村長だった。県知事の命令により、移民募集の話を各市町村に呼びかけ、自らも責任者としてブラジルに行かざるを得なくなった。
 谷口さんは家族でブラジルに渡り、53年8月8日にサントス港に到着。ノロエステ鉄道でカンポグランデを経由して終着点のイタウン駅までは5日間を要した。同駅からトラック3台ほどに分乗し、そこから約90キロ離れた施設に一時的に収容された。一行はすぐにドウラードス日本人会初代会長の自宅に迎えられ、そこで待っていた松原氏の出迎えを受け、握り飯などをご馳走になったという。
「入植地は整地されている」と日本では聞かされていたが、実際には原始林の大木が無造作に切り倒されているだけだった。女性や子供たちをドウラードスにあった病院内の簡易収容所に残し、15歳以上の男性には開拓の義務が背負わされた。男たちは翌日から、すでに道づくりのために原始林に入っている第1次船の人々に合流。9月下旬にようやく道づくりが終わり、10月1日に待望の入植ができたのだった。

 入植してすぐに松原移民たちは食糧確保のために陸稲、フェイジョン(豆)、トウモロコシや野菜などのほか、豚や鶏などの家畜を飼った。実際にカフェを植えたのは、翌54年10月からだった。
 同年8月には、移住地で初めてのカフェの植付けを2か月前に控えて、ブラジル国内では衝撃的な出来事が発生。当時のヴァルガス大統領が自殺し、国民は騒然となった。松原氏は信頼していた大統領を失い、移住地への経済的工面ができなくなり、翌55年の終わり頃には和歌山に帰ることに。その後、故郷で生涯を終えている。
 移住地への配給資金などは当時、松原氏が出資していたが、氏の帰国でそれができなくなった。そのため、谷口さんは金策に走り回り、当時リオ市にあった在ブラジル日本国大使館を訪問して農業担当官に直訴。やっとのことで移住地に来てもらい、60家族分の食糧代を2年間にわたって立て替えてもらったという。 移民たちはそれぞれ、わずかながらも営農資金を持って来ていたが、カフェ栽培の準備などで使い果たしていた。

 一方、「唯一、金のなる木」として期待されたカフェだったが、55年7月の降霜で被害を受けた。「辛抱して、続けよう」と励ましあったが、57年、59年にも続けて霜害に。その後も3年に1回くらいの割合で降霜にやられたという。

 松原移住地では60年、日本政府機関の援助により、カフェ精選出荷組合(松原組合)を設立。初代組合長に谷口さんが就任した。64年には松原組合を発展的解消した南マット・グロッソ産業組合が誕生。同組合は、当時「南米最大」と言われたコチア産業組合の単協的役割を果たし、松原移住地だけでなく、ドウラードス周辺地域をはじめ、ドイス・イルモンエス・ド・ブリチ、カンポグランデ、コルンバなど、南マット・グロッソ州全域を網羅していた。
 しかし、相次ぐ霜害に「これだけやってカフェができんなら、他に移るしかない」と、谷口さんは77年に移住地を離れ、先に転住していた長男を頼ってドウラードスから北に約250㎞離れたドイス・イルモンエス・ド・ブリチに移転した。だが、同地でも82年の降霜とともにカフェの国際相場が暴落。それ以後はトウモロコシ、大豆や綿などの生産に切り替えざるを得なかった。
 谷口さんは農業生産活動を長男に任せ、同地で好きなピンガを飲み、タバコを吸いながらもマラクジャ(パッションフルーツ)等を趣味で植えるなどして晩年を過ごした。

(故人、2003年8月取材、年齢は当時のもの)

 

松本浩治(まつもとこうじ)

 

第二次世界大戦後のブラジル日本移民社会で起きた勝ち組負け組抗争を描いた小説

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リリアン・トミヤマ

八方美人

 フィナンシャル・タイムズの記者レイラ・アブード(Leila Abboud)によると、選挙の候補者たちは、物価や生活費の高騰を理解しているところを見せたくて、高価に見える衣装や装飾品をすべて外しているそうです。例えばマクロンです。彼はカルティエの腕時計を使っていましたが、安いものに替え、最近では腕時計を使っていません。

 ブラジルではどうでしょうか?

 ブラジルでも今年はこうした態度が見られることは間違いないでしょう。2022年は選挙の年ですから。ヴァロール紙の記事で、サンパウロ大学教授のジョゼ・デ・ソウザ・マルチンス(José de Souza Martins)は、政治におけるアルコール飲料の意味についての興味深い分析を行っています。

 彼が指摘するように、2018年の選挙では、ルーラ元大統領を悪く言う方法のひとつは、彼がピンガ(またはカシャーサ。サトウキビの蒸留酒で安価で強い酒)を好む点を指摘することでした。低層階級を想像させる飲み物で、工場労働者が工場近くのバールで一杯やるという。こうした指摘で強められるのは、相応しい条件を備えていない無作法な人物というイメージです。

 ひとこと付け加えておくと、カシャーサの愛好家であるという人もいます。当然安物のカシャーサではなく、特別な蒸留器(alambique)で何段階も蒸留を経たサトウキビ蒸留酒です。輸出用カシャーサと呼ばれるものです。

 さて、今年の選挙で観ることができるのは、各候補者の政策論だけではありません。我々が生きる時代に相応しいメッセージを伝えるために、演説や服装やスタイルの中にある微妙な相違点も観ることができます。そして間違いなく八方美人の候補者が多いことでしょう。

 ところで、ポルトガル語で「八方美人」をどう言うでしょうか?

 こういう表現を使います。

 

 ter(動詞)+ duas caras

 

 例文を見てみましょう。

 

 Eu não voto no seu candidato.  Ele tem duas caras.

 (君の候補者には投票しないよ。彼は八方美人だから)

 

 Eu não gosto da Maria. Ela tem duas caras.

 (オレ、マリア好きじゃないよ。八方美人だし)

 

 O professor tem duas caras. Ele concordou com os alunos e depois falou o contrário para o diretor.

 (あの教師は八方美人だよ。生徒に同意したかと思うと後で教頭に反対のこと言ってるよ)

 

 今月もお読みいただきありがとうございました。

 ところで、アウグスト・ドス・アンジョス(Augusto dos Anjos、1884-1910)の「Versos íntimos」という有名な詩があり、衝撃的で有名な一節「A mão que afaga é a mesma que apedreja(撫でるその手が石を投げつける)」を「A stroking hand, my friend, may stone you too」と翻訳しています。この詩や他のブラジル文学の古典をポルトガル語と英語でお読みになりたい場合は、サンパウロ大学がPDFを無料で読めるようにしていますので、

https://www.revistas.usp.br/clt/article/view/49504

にアクセスしてみて下さい。

リリアン・トミヤマ(Lilian Tomyama)

 
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第26回 アンゴラ編

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ジャイアーネさん

 今年3月、ポルトガルのリスボンで開催されたミス・コンテスト「第6回MISS CPLP(ポルトガル語諸国共同体)」で、ブラジル人ジャイアーネ・サントス・ダ・クルスさん(20、バイーア出身)が優勝した。同コンテストはCPLP出身者が美を競うイベントで、今回はブラジル、アンゴラ、カーボベルデ、ギニアビサウ、モザンビーク、ポルトガル、サントメ・プリンシペ出身の12人のファイナリストの中からジャイアーネさんが勝利を収め、後日、パリのルーブル美術館でのファッションショーにも参加した。

 彼女を養成したモデル事務所が、サンパウロにあるナミビ・プロ・モデルス(Namib Pro Models)で、その指導に当たっているのがアンゴラ出身のマイコン・クリントン・シルシャさん(32)である。

◆路上生活を経て、モデル事務所創設へ

 ルアンダ出身のマイコンさんは、2008年8月、18歳の時にサンパウロに単身で到着した。父親がアンゴラの政治家の自宅で土木建設の仕事をしていた時、奴隷制のような待遇のひどさに耐えられず、労働環境の改善を訴えたところ政治家の怒りを買った。家族全員が脅迫されて自宅から出られなくなり、やむを得ず、父親は9人きょうだいのうち、長男のマイコンさんと2人の弟を海外に出すことを決意。出国先を選ぶことはできず、縁のあったブラジル人によって、マイコンさんはブラジルに、弟2人はそれぞれドイツとイギリスに渡航した。

 ブラジルに旅行ビザで入国したマイコンさんは、最初2か月間、サンパウロで知り合ったアンゴラ人の家で暮らしたが、父親から手渡された資金もすぐに底をつき、仲間だと思ったアンゴラ人からは家を追い出されることになった。アンゴラでもポルトガル語を使用していたため、言葉こそ困ることはなかったが、サンパウロの土地勘はなく、知人や友人もおらず、路頭に迷った末、行きついたのがセー広場だった。そこで約1年3か月、見ず知らずの人々とともに路上生活を送った。

「寒さと空腹には苦しみました。それでも、警察や行政から食べ物を恵まれ、生き延びることができました。アンゴラからの習慣で、あまりアンゴラ人同士は助け合わず、助けてくれたのはいつもブラジル人でした」

 当時、セー広場のすぐ横に難民受け入れセンターのカリタスがあったにもかかわらず、誰もその情報を教えてくれる人はいなかった。通りの人に声をかけても多くの人は素通りしていった。ブラジルに来て3か月でビザの有効期限は切れ、不法滞在となった。

 路上生活中は、サンパウロを知るために各所を歩き回り、頻繁にマリオ・デ・アンドラーデ図書館に通い、専門分野のファッションや自然に関する本を読みあさった。7歳からモデル業に携わってきたプロ意識やファッションへの情熱は変わらず、セー広場でも毎日筋トレに励み続けた。

 やがて、マイコンさんが他の路上生活者とは異なると感じた一人の女性から声をかけられ、彼女とその主人が暮らす家で半年間を過ごすことになった。その間、レストランの仕事を得て、一か月300レアルの家賃の住居を見つけ、サンパウロでの自活への第一歩を踏み出した。

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マイコンさん

◆南米初のアフリカ出身者が経営するモデル事務所

 アンゴラでは母親の勧めで7歳からモデルとして活躍してきたマイコンさん。その能力をさらに伸ばすため、父親の勧めで15歳の時にフランスへ渡航し、一年間モデル学校に通った。アンゴラ時代からフランス語も習い、言葉には困らず、ロシア人やイタリア人たちのモデルと寝食を共にし、最初、黒人が一人で偏見を持たれたが、組織のリーダーの指導で次第に人種を超えて打ち解け合った。7か月後にはさらに10人のアフリカからのモデルが到着し、心強くなった。

「フランスのことは今も大好きで、多くのことを学べました。しかし、当時は母親が恋しくて1年で帰国してしまいました」

と振り返る。

 ブラジル人夫妻の家を出ると同時に、モデルの仕事もスタートさせた。テレビ局の俳優のアシスタントやTVグローボのドラマにも出演するなど、活動範囲を広げていった。仕事の契約を結ぶ際、不法滞在で書類手続きができないことが判明し、難民申請することで合法的に生活できることを知った。ブラジルに到着して2年後、ようやく難民申請を行い、3年後に認定され、今年9月にはブラジルへの帰化が認められる。

 サンパウロでモデルの仕事を始めてから、公園や施設を利用してモデル学校の活動を続けてきたが、マイコンさんの人柄と地道な努力が認められ、昨年、正式にナミビ・プロ・モデルスの事務所をShoppingDに構えることができた。

 サンパウロには多くのモデル事務所があるが、アフリカ出身者が経営するモデル事務所は南米でも初となる。現在の生徒数は約250人、うち37人がアフリカ各国、ベネズエラ、コロンビア、ボリビアからの難民や移民で、経済的に大変な家庭の子どもたちには奨学金制度が設けられている。毎週金、土、日の2時間半、モデルを目指す3歳から60代の人々がレッスンに励み、マイコンさんは生徒への指導と教師の育成を一手に担う。美の競争に勝つことよりも、モデルとなる勉強を通じて自尊心を高めるのがモットーである。

「今、日系人が1人、韓国人2人が事務所に所属しています。モデルの夢は、パリ、ミラノ、ニューヨーク、東京に行くことです。もっとアジア人モデルも増えてほしいです」

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モデル事務所前

◆子供たちが夢を持てる社会に

 マイコンさんが生まれた時のアンゴラは内戦(1975-2002)下にあり、多くの人々がまともな食事もできない日々が普通だった。その状況は今も改善されていない。マイコンさんの学校に銃を持った人々が押しかけ、子どもたちを兵士として連れ去ろうとして、逃げる子どもたちに発砲したこともある。その際、マイコンさんの脚をかすった銃弾の跡が今も残る。

「セー広場で暮らしていた時、両親に見捨てられた子供たちが路上を徘徊している姿をよく見かけました。子供たちは将来の社会を担う宝です。全ての子どもたちが希望や夢を持てる扉を開くNGOを設立したいです」

と目標を語る。

 これまで、ブラジルをはじめアンゴラ、コロンビア、ポルトガル、フランスでのファッションショーにモデルを送り出してきた。パンデミックの間はファッションショーも中止されていたが、様々なイベントが再開され始めた今、ミスコン優勝のニュースで注目を集めたナミビ・プロ・モデルスに熱い視線が注がれている。

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マイコンさんとキッズモデルたち

◎モデル事務所『Namib Pro Models』

住所:Shoppin Dの1階

Av. Cruzeiro do Sul, 1100 - Canindé

www.instagram.com/namib_pro_models/

企画:ピンドラーマ編集部

取材・文:おおうらともきお

取材協力:Abdulbaset Jarour、Namib Pro Models

 
 
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Little Saigon 

Rua Treze de Maio, 1,088 - Bela Vista

Tel : (11) 2639-0120


エスニック料理のことが頭に浮かぶと、居ても立ってもいられなくなるのは私だけだろうか。そんな土曜日の午後、リトルサイゴンを尋ねた。

リトルサイゴンはブリガデイロ・ルイス・アントニオ大通りとトレゼ・マイオ通りが交差するガード下近くにある。20年ほど前、3年ほどしか営業しなかった伝説的なベトナム料理のレストランがリベルダーデにあった。そのベトナム人オーナーはボートピープルで、海で漂流していたところをペトロブラスの船に救助され、たまたまブラジルにやってきたという話を聞いたことがある。リトルサイゴンのベトナム人二世のオーナーはこの救助されたベトナム人の友人の息子だと話してくれた。

この日頼んだのは定番の生春巻きと牛肉のフォー。半透明の春巻きの皮から見えるエビの赤、野菜の緑が美しい。ピーナッツ入りのオイスターソースにつけて食べると期待どおりの味。

王道のフォーは出汁を取るのに使われた塊肉を薄く切ったものと薄切りのフィレミニョンの二種類の牛肉が入っている。もやし、パクチー、ミントの葉を山盛り入れ、レモンをぎゅっと絞る。スープを一口すすると口の中が清涼感で満ちる。まったく、脂分を感じさせないスープは化学調味料を使わず、何時間も塊肉を丁寧に煮込んで濾したものであることがわかる。滋味あふれる味で最後の一滴まで飲み干してしまった。

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Le Jazz

Rua Dr. Melo Alves, 734 - Cerqueira César

Tel :  (11) 3062-9797


パンデミックが落ち着いた後、はじめてLe Jazzを尋ねた。気取らないビストロ料理を出す店である。

テリーヌ、タルタルステーキ、カモのコンフィー、ステーキとフレンチフライなどクラシックな料理がメニューに並ぶ。ムール貝のクリームソースは新鮮な貝が手に入る週末のみ提供される。

私が毎回頼むのは、赤ワインなどで煮込まれた数種のキノコにパーフェクトエッグ(温泉卵)のフライが乗った一品。濃厚なキノコソースと柔らかい卵の黄身の絶妙なマリアージュ。

この日、頼んだ田舎風の豚肉のテリーヌ、外はカリッ、中はしっとりとしたカモのコンフィーなどどれも心もお腹も満たしてくれる料理である。ワインとの相性も抜群。砂糖とバターで飴色になった温かいリンゴとアイスが組み合わされたタルトタタンも期待を裏切らない。

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宮本碧

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ロライマ州の郷土料理「ダモリーダ」
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 ブラジルを代表する食材マンジオカ(キャッサバ)。ブラジル北部ではそのマンジオカの中でも有毒なマンジオカ・ブラバという種類を解毒し、トゥクピーと呼ばれる食材が作られます。インディオ由来の食文化で、興味深いのは、トゥクピーの中でも黒く熟成させたトゥクピー・プレットがあり、この香りがしょう油に似ているということです。このトゥクピー・プレットを使用したロライマ州の先住民マクシー族などが受け継いできた鍋料理がダモリーダです。香味野菜をたっぷり使い、唐辛子やトゥクピー・プレットとの絶妙なハーモニーで、完成した料理は川魚の臭みは気になりません。サンパウロでは入手困難な食材ですが、今回は旅先のボアビスタで、同地出身のシェフ、マーラさんが、本誌のために特別レシピをご紹介してくれました(ピンドラーマの Youtubeチャンネルで動画を視聴できます)。

【材料】

・タンバキ...1kg(ぶつ切りにして香味野菜と塩で1時間ほど下味をつける)

・玉ねぎ...大2個 

・トマト...大3個

・パセリや香草...60g

・チコリ(好みで)...10枚

・唐辛子(複数の種類を好みで)...30g

・水...500ml

・トゥクピー・プレット...700~900ml

・ジャンブー(好みで)...60g

・塩...適量

・ベイジュー(付け合わせ)...適量

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材料

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トゥウピー・プレット

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ジャンブーとチコリ

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様々な唐辛子

①ざく切りにしたトマトと玉ねぎを少量の油で炒める。

②しんなりとしたら水を入れて沸騰させ、半量のトゥクピー・プレットと香味野菜やチコリを入れる。

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③②がひと煮立ちしたら魚を入れ、唐辛子と残りのトゥクピーを入れて約1時間煮込む。

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④塩で味を調え、先住民由来のパネーラ・デ・バーホ(土鍋)に盛り付ける

⑤皿に取り分ける時は、ムケッカのようにピロンを付け合わせる。先住民の文化では、米の代わりにベイジューと呼ばれるマンジオカの粉で作ったせんべい状のものをスープに浸しながら食べられる。

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◆今回の先生

マーラ・アブレウさん(Sra. Mara Abreu)

ロライマ州ボアビスタ生まれのシェフ。専門はブラジル料理全般ほか、ポピュラーな西洋料理から日本食、アラブ料理まで。アマゾン水系の魚さばきだけでなく、刺身に切って盛り付ける腕前も見事。現在はアマゾナス州マナウスのアラブ料理店『NAJUA)』に勤務。

 

文・写真/おおうらともこ 

取材協力/江田テツヤ

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☆文協秋の古本市

2年ぶりに復活した恒例の古本市。日本語の古本が激安で購入できる。

5/15(日)9時〜15時 入場無料

会場:文協文化ホール(文協ビル地下1階)

Rua São Joaquim, 381 - Liberdade(地下鉄São Joaquim駅近く)

tel:(11) 3208-1755

 

☆秋のヴィーガングルメ祭り

チョコレート・ケーキ・クッキー・チーズ等、ヴィーガン向けの食品が勢揃い!(毎月開催)

5/15(日)12時〜19時 入場無料

主催:Encontro Vegano JMA

会場:北海道協会

Rua Joaquim Távora, 605 - Vila Mariana(地下鉄Ana Rosa駅近く)

※入場時にはワクチン接種証明の提示が求められる。

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☆セバスチャン・サルガド写真展(〜7/31)

“神の眼を持つ写真家”セバスチャン・サルガドが7年間にわたって撮影したアマゾンの自然・先住民の写真200点を展示。

会場:Sesc Pompeia

Rua Clélia, 93 - Pompeia

火曜〜土曜:10時半~21時 / 日祝:10時半 - 18時

月曜休み 入場無料

※入場時にはワクチン接種証明と写真付きの身分証明書の提示が求められる。

 

☆森山大道写真展(〜8/14)

強烈なスナップ写真で世界的に評価されている写真家の作品200点を展示。

会場:IMS Paulista

Avenida Paulista, 2424(地下鉄Consolação駅近く)

火曜〜日曜:10時~20時  月曜休み 入場無料

tel:(11) 2842-9120

※入場時にはワクチン接種証明の提示が求められる。

 
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第74回 実録エッセー『彼の名前を覚えよう』 

 どこの国に住んでいても生活上のトラブルとは常に付き合っていかねばならないが、それがブラジルのど田舎ともなれば、いろんな事件が発生する。

 たとえば今日、朝起きてみると裏庭の地面が沈下していた。前から弱っているな、とは思っていたものの、見て見ぬフリをしているうちに事態は確実に進行していたらしい。気がつけば1メートル四方の範囲で亀裂が入り、今にも崩れ落ちそうなのである。    
 恐る恐る、状態を確認するために手のひらで押してみると、
 ずしーん。
という音とともに、勢いよくセメントの塊が落盤した。なんということであろうか、よく晴れた日の早朝6時、我が家の裏庭はまるで砲撃でも食らったかのような惨状になり果ててしまったのである。
 これはさすがにマズい。

 裏庭では洗濯物を干したり、毛布を日光浴させたりといったイベントがよく開催されているし、コーヒーの木やモリンガ、レモングラスなど、まったく統一性のない植物たちが気まぐれに植えられているため、彼らの世話をするにおいてもこの巨大な穴は弊害となる。
 ついでにいうと我が家の裏庭は運動場としての役割も担っていて、ちゃぎのはカポエイラ、ボクは腕立て伏せ、さらには2人の共同事業としてキャッチボールが行われることもたまにあるのであり、一刻も早い修繕が求められる。

 こういうときに頼りになるのが、近所に住むベラジーニャだ。彼の本職は学校の先生だが、隣人たちへの気軽な大工仕事も請け負っていて、ボクらも何度かお世話になっていた。最近の例では、ちゃぎのの部屋の天井板が野良猫とともに落ちてきたことがあったが、これもベラジーニャに出動を要請し、事なきを得たのである。そのさらに数か月前にはシャワールームのタイルが落盤、絶体絶命のピンチに陥ったが、彼はわずか半日で工事を終えてみせた。我々にとって足を向けては寝られぬ人物、それがベラジーニャなのである。

 このように彼とは良好な関係を保ってきたが、ボクにはひとつだけ悩みがあった。知りあってからもう10年以上がたつが、彼の呼び名である『ベラジーニャ』という固有名詞がどうしても覚えられず、ほとほと困り果てていたのだ。この悩みはつい最近、解消することができたが、10年もの間、なぜ彼の名前を覚えることができなかったのか、甚だ疑問であった。人の名前はすぐに覚える方なのに、ベラジーニャに限ってはそうはいかぬ。一体全体どういうこと?と、首をかしげる日々が続いていたのである。だが、こうして文章を書き、熟慮・熟考を重ねていくうちに真相が見えてきた。その理由はごくシンプルなものだったのである。
 皆さんはgeladinho (ジェラジーニョ)という氷菓子をご存じだろうか? 透明のビニール袋に果汁ベースの液体を流し込み、それを凍らせただけというアイスもどきのオヤツで、日本でいうチューペットのような存在である。気軽に作ることができるため、そのへんの主婦が家で用意したジェラジーニョを市場で売ったりもしている。Picolé (棒アイス)と並んで、ブラジルを代表する夏の風物詩だ。しかし、まさかこのジェラジーニョの存在が仇になるとは…。10年もの間、仲の良い隣人の名前を覚えることができなかったのは、まさにこのジェラジーニョのせいだったのである!
 つまりはこういうことだ。
 何かの用事を思いたち、彼の家を訪ねに行く。門の前で名前を呼ぼうとするが、
(あれ?彼の名前ってジェラジーニャだっけ?それともジェラジーニョだったかなあ?)
と、この時点でもうラビリンスに迷い込んでいるのである。ブラジルを代表する氷菓子、ジェラジーニョの存在感はデカい。似たような名前ならすべてジェラジーニョとされてもおかしくないくらいのビッグネームの前で、『ベラジーニャ』というネーミングはいかにも弱いのである。つまり、彼の名を呼ぼうとするとき、必ず先に浮かんでくるのがジェラジーニョという単語であり、いったんそれがインプットされてしまうと『ベラジーニャ』などという呼称は、何をどうしたって出てこない。その度に名前を思い出すのを諦め、『Oi!』とか『Amigão!』などの言葉を発することによって対処してきたが、そうこうするうちに10年が過ぎてしまったというわけなのである。

 これまでに何度も『彼の名前を覚えよう』と決心、その都度、悲壮な覚悟をもって『ベラジーニャ』という単語の暗記に努めたが、成果はなかった。もはやこれまでかと諦めかけたとき、『夢は書けば叶う』といった論調の自己啓発本のアドバイスを思い出し、冷蔵庫の横に張ってあるホワイトボードに『ベラジーニャ』とメモ書き、1日最低3回は眺めることにした。最初は苦戦したが、毎日続けていくうちに効果はてきめん、ようやくボクは『ベラジーニャ』という名前を覚えることに成功したのである。今後、ジェラジーニョと混同することは2度とないだろう。長い戦いの歴史に終止符が打たれた瞬間であった。

 ところで、ベラジーニャとはポルトガル語でbeiradinhaと書くらしい。グーグル辞書で調べたところ、意味の欄には『へり、縁、岸、ひさし、一部分、少量、近所、周囲』とあり、この中のどの部分が彼のあだ名の語源となったのかは定かでないが、本人いわく、『物心ついたときからそう呼ばれていた』とのことである。あだ名とは得てしてそういうものなのかもしれない。
 と、ここで、裏庭の惨状を思い出したボクは壁掛け時計を眺める。

 ちょうど午前7時をまわったところだ。
 できれば今日、今すぐにでも工事をしてもらいたいところであるが、ベラジーニャのスケジュールはどうであろうか?

​白洲太郎(しらすたろう)

 
 
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下薗昌記

第151回 ルイジーニョ・レモス

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 かつて世界で最も多くのサポーターを飲み込み、数々の伝説的な試合の舞台となってきたマラカナンスタジアム。ブラジルサッカー界の聖地で、最もゴールを決めた男はフラメンゴの英雄ジーコ、そして2位の記録を誇るのがロベルト・ジナミッチである。

 そんなブラジルサッカー界の天才に続いて、マラカナン史上3番目に多いゴール数を決めているのがルイジーニョ・レモスである。

 レモス家に生まれた男たちはサッカーの才能、とりわけ相手チームのゴールネットを揺らす点取り屋としての才能を、天から与えられていた。

 パウメイラス史上屈指の名ストライカーだったセーザルとフラメンゴやボタフォゴでも活躍したカイオを兄に持つルイジーニョは1952年、リオデジャネイロに隣接するニテロイで生まれた。

 速さと強さ、そしていかなる体勢であろうとシュートを相手ゴールに突き刺すことにこだわってきたルイジーニョは今やすっかり古豪となったアメリカでクラブ史上最も得点を奪っている英雄でもあった。

「どんな形のシュートだろうと、俺は気にしない。踵に当たって入ってもいいんだ。大事なのはゴールネットを揺らすことさ」

「悪魔」の愛称を持つアメリカが、まだリオデジャネイロのサッカー界で敬意を持たれていた当時、赤いユニフォームをまとって311得点を決めたルイジーニョ。2018年9月18日、マラカナンのピッチ上でアメリカのクラブ114回目の誕生日を祝うイベントに姿を現したルイジーニョの隣には、彼に次いでゴールを決めているエドゥ・アントゥネスの姿もあった。言わずと知れたジーコの実兄である。

「このマラカナンに来たのは初めてだ。だけど昔の光景が懐かしいね」

 ルイジーニョは、2014年のワールドカップブラジル大会に合わせて新たに生まれ変わったマラカナンに初めて足を踏み入れたという。

 ルイジーニョがマラカナンでゴールを量産した当時、庶民のための席だったジェラウと呼ばれる空間こそが、マラカナンをマラカナンたらしめていた。

 レモス家のストライカー3人はいずれもフラメンゴで背番号9を背負った共通項も持ち合わせるが、ルイジーニョは17万6000人が足を運んだフラメンゴ対ヴァスコ・ダ・ガマでもゴールをゲット。フラメンギスタからは喝采を、ヴァスカイーノからはブーイングを浴びていた。

 1974年にプラカール誌が選出する「ボーラ・ダ・プラッタ(ベストイレブン)」にジーコらともに選出。ブラジル国内の名門だけでなく晩年にはカタールのアルサッドなどでもプレーし、1994年に現役を引退する。

 引退後、かつてプロデビューを飾ったアメリカで監督としての新たなキャリアをスタートさせ、中小の様々なクラブを率いたかつての名ストライカーが2018年、再びアメリカで指揮を執る。そして、2019年6月2日、ルイジーニョはサッカーキャリアと同時に、自らの人生にも突然、その幕を下ろすのだ。

 リオデジャネイロ州選手権の2部の試合中、心臓発作で倒れたルイジーニョは、帰らぬ人となった。

 アメリカのクラブアンセムはこんな一節で始まっている。

 

〈応援せよ、応援せよ、応援せよ。死ぬまで、死ぬまで、死ぬまで応援せよ……〉

 

 アメリカで最多のゴールを記録し、死の直前までピッチサイドで選手を指揮していたルイジーニョ。

 古豪アメリカが、ブラジルサッカー界のトップシーンに返り咲く日は、もはや帰ってこないかもしれない。ただ、聖地マラカナンで3番目に多いゴール数を決めている男がアメリカ史上最大の英雄である事実がくすむことはないのである。

下薗昌記​(しもぞのまさき)

​ブラジル、サンパウロ