2022年7月号 vol.193

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目次

 

幻の創刊準備号

​(2006年6月号)

Kindleで復刊

​2020年7月号

​2020年8月号

 

布施直佐

アパート貸します

 先月の16日に変わった内容の賃貸広告がフェイスブックの不動産専門ページにアップされ話題を呼んだ。

 広告は

・ゴイアス州ゴイアニア市、家具付きアパート、家賃800レアル。

・鼻炎・副鼻腔炎の人は呼吸がうるさいので不可。

・トイレの使用は1日6回まで、それ以上は超過料金が課される。

・シャワーは1日2回まで。

・子供が大声を出したら罰金が課される。

等々、異常な規則が並べられている。

 この広告を作ったのはゴイアニア市在住の公務員ペドロ・パウロ・ゲーデス・レオン(35歳)で、貸家の広告に異常な規則が多数あるのを真似して架空の広告を「創作」したそうだ。広告を真に受けて批判する人から、「何て厳しい規則なんだ、このアパートはアフガニスタンや北朝鮮にあるのか」と冗談をかえす人まで色々な反応があり、アップ後2日間で2百万回の「いいね!」、10万件のコメントが寄せられたそうだ。また「鼻炎・副鼻腔炎」の部分は、ひどい鼻炎持ちの友人が二人いて「彼らに敬意を表して」載せたらしい。

 食べ物の彫刻!?

 パラナ連邦大学の学生食堂ではバナナで作ったイルカ、玉子のネズミ、リンゴの白鳥等、食材で作った遊び心あふれる「彫刻」が学生たちのお腹と目を毎日楽しませている。

 今年の2月に調理助手のマイナラ・ホドリゲス・モレイラが学生を楽しまそうと食材で色々な「彫刻」を作ったところ、学生たちが大喜びしたのが始まりで、他の調理師たちもこの「創作活動」に次々と参加するようになった。ツィッターやインスタグラムに投稿された写真がさらに反響を呼び「今日はどんな動物を食べれるのか」と皆、楽しみにするようになったそうだ。学生食堂の食事は1,30レアルで、経済的に余裕のない学生には無料で提供される。

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布施直佐(ふせなおすけ)

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写真・文 松本浩治

ペレイラ・バレットに住み続けた馬生巌(ばしょう・いわお)さん

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 かつて「チエテ移住地」と称された現在のサンパウロ州ペレイラ・バレット市には、ブラジル拓殖組合(ブラ拓)により1928年から日本移民の入植が開始された。同地には今も約400家族の日系人が在住しているというが、コーヒーや綿栽培で栄えたころの面影はない。加えて、イーリャ・ソルテイラ、トレス・イルモンスなどの水力発電所ダム建設により、水没したノーボ・オリエンテ橋やイタプーラの滝に昔の思いを寄せる人も少なくない。

 一方、入植祭の皮切り行事として毎年7月下旬に実施されている盆踊り大会は有名だ。「ブラジルで唯一」と称される円形の常設盆踊り会場は約3アルケール(約7.2ヘクタール)の面積を誇り、場内には野球場、陸上競技場やゲートボール場も完備されている。

 1934年、8歳で家族とともにブラジルに渡ってきた馬生巌さん(72、岡山県出身)は、入植以来ずっとこの地を見続けてきた。乳牛を飼っているためか、顔は日に焼けて黒く、深い皺が年輪のように顔に刻まれている。

 ブラ拓のコーヒー担当者としてチエテ移住地に入った馬生さんの父親は翌35年、価格が伸び悩んでいたコーヒーに見切りをつけ、綿栽培への転換を支配人に陳情。同移住地での綿作りのきっかけになるとともに、ブラ拓が立ち直る要因にもなったという。移住地で生産された綿は、サンパウロ州アンドラジーナ、ミランドポリス、バル・パライゾなどの工場で原綿にされ、海外へと輸出。「金のなる木」としてもてはやされた。

 第2次世界大戦後、景気が落ち始めてから70年代初期まで綿栽培を続けた馬生さんだが、害虫の消毒剤の研究に励んだこともあって、「綿作りには楽しみがありましたよ」と当時を振り返る。

 ブラジルの有識関係者と面識があったことに加えて、ダム建設に伴う掘り割り工事のためCESP(サンパウロ州電力公社)が馬生さんの土地の一部を買い上げたことが移住地に残る大きな原因となったそうだ。金融機関からの融資も労せず受けることができた馬生さんはその後、連作が利かない綿栽培から牧畜に変更。残った34アルケール(約82ヘクタール)の土地に乳牛や豚を飼うとともに、トウモロコシ栽培などの雑作(ざっさく)を行ってきた。

 現在も牧畜に携わる馬生さんは乳牛の品種改良などにより、生産の効率化も行っているが、「今後、牧畜だけに頼るのも難しくなってきた」と時代の流れを実感しているようだ。

 1972年にブラジルに帰化した馬生さんは自らの経験から、ブラジル社会との接触が大切だと強調する。

「ペレイラ・バレットからもようやく日系の市長が出るようになった。日本人1世が少なくなる中で、これから次世代が伸びていくには、ブラジルの政治に携わっていかないと希望は薄い。私たちが日本から来てブラジルにお世話になったように、今度はブラジルにお返しをする必要がある」

 ダムの完成により、ノーボ・オリエンテの橋が沈んだ現在、4キロにおよぶ新大橋ができたことによって交通の便は良くなった。「生活は今の方が少し楽になった」と笑う馬生さんだが、子供には一切、お金を残さないと語る。

「財産は自分で作るもの」—。馬生さんは、自分の人生哲学を貫き通してきた。

(1998年7月取材、年齢は当時のもの)

松本浩治(まつもとこうじ)

 

第二次世界大戦後のブラジル日本移民社会で起きた勝ち組負け組抗争を描いた小説

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リリアン・トミヤマ

そうであっても

 調査研究機関ラティノバロメトロ(Latinobarómetro)が2021年下半期に以下の国々で調査を行いました。アルゼンチン、ブラジル、ボリビア、チリ、コロンビア、コスタリカ、グアテマラ、メキシコ、ウルグアイ、ベネズエラです。この調査の目的は、世界で最も発展している国々に関するラテンアメリカ諸国の認知度を測ることです。

 ラテンアメリカの成人、中等教育以上、都市部および農村部の人々12,000人がインタビューを受けました。

 ある調査の質問で、「あなたの意見では、発展のモデルとなる国はどの国ですか?」というものがありました。最も回答の多かった順に、アメリカ(44%)、ドイツ(41%)、日本(31%)となりました。

 そうであっても、これらの国々も様々な問題を抱えています。

ところで、ポルトガル語で「そうであっても」をどのように言うでしょうか?

 

 そうであっても=Mesmo assim

 

 例文を見ていきましょう。

 

 O remédio é muito amargo.  Mesmo assim eu vou tomar.

 (薬が苦いなあ。それでも飲むよ)

 A tarefa é difícil.  Mesmo assim eu não vou desistir.

 (課題は難しい。そうであっても私は諦めはしない)

 Esse candidato é mentiroso.  Mesmo assim muitos brasileiros gostam dele.

 (この候補者は嘘つきだ。とはいえ、彼を気に入っているブラジル人は多い)

 A piscina está gelada.  Mesmo assim eu vou nadar.

 (プールは氷みたいに冷たいよ。でも泳ぐつもり)


 

 今月もお読みいただきありがとうございました。冒頭で色々な国の話をしましたが、悲しい戦争に遭っているウクライナのことを考えないわけにはいきません。興味深いことですが、ブラジル文学の偉大な作家のひとりクラリセ・リスペクトル(Clarice Lispector)はウクライナの生まれです。彼女の作品は読んでみる価値があります。ポルトガル語ですらすら読めなくても、様々な作品の英語訳が出ています。身体的な特徴のひとつとして印象的なのは彼女の眼です。眼と言えば、彼女はこのように書いています。

「愛は赤。嫉妬は赤。私の目は緑。でも深い緑色なので写真では黒になる。私の秘密は、緑色の目を持っているのに誰も知らないこと」

 この緑色の眼は作家マヌエル・バンデイラ(Manuel Bandeira)を虜にします。ふたりは一度も恋愛関係になりませんでしたが、別の作家ルーベン・ブラガ(Rubem Braga)がこれにインスピレーションを得て、「詩人と娘の眼」という短編を書きました。興味のある方は、YouTubeにナレーションが出ていますので、「“O poeta e os olhos da moça" CLARICE LISPECTOR e MANUEL BANDEIRA」で検索してみて下さい。

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リリアン・トミヤマ(Lilian Tomyama)

 
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岸和田仁

VEJA誌(2021年9月20日号)

 19世紀末から20世紀初めにかけての30年間、主にヨーロッパからやってきた、およそ400万人の移民たちにとっては、ブラジルは「希望の港」そのものであった。彼らの大多数は、戦争や飢餓から逃れ、熱帯の地において人生を新たにやり直すべく大西洋を渡った。農作業の現場で働く外国人労働者を呼び寄せ、まだまだ手付かずの広大な未利用地の開発を奨励することを目指した、ブラジル政府による様々なプログラムに、彼らは惹かれたからであった。ところが、最近になって、特にここ30年ほどのあいだに、この人流の方向は逆転し、入る移民よりも出る移民のほうが増えており、この出国ペースは2019年以降加速してきている。この国外脱出者増大傾向はジャイール・ボルソナーロが大統領になった時期に合致しており、ブラジルを出国した人の数は20%以上も増加し、現在では420万人に達している。これは、ブラジルの歴史において記録的な数値である。新型コロナ感染パンデミックのため世界中の国々が国境を実質的に閉鎖した現実を勘案するならば、最近二年間のこうしたコロナ禍にも拘わらず(ブラジルからの)出国ペースが加速したとは、驚嘆すべきことである。

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 もう10年以上前のことだが、2007年5月、所用があって筆者は米国東部を訪問した。ノースカロライナでのヤボ用を片付けてから、折角の機会だから「アメリカ発祥の地」を見ておこうと思いたち、マサチューセッツ州プリマスを訪ねてみた。プリマス港に係留された「メイフラワー号」原寸大複製船では当時の服装をしたスタッフが17世紀の英語発音で時代情勢を言葉巧みに説明してくれたのが滅法興味深く、筆者も調子に乗って、「自分はブラジル在住の日本人だが」と自己紹介してから、「1620~1630年代というと、日本では三代将軍徳川家光が江戸幕府の基盤を整備し、国を閉じる鎖国体制が確立した時代だったが、一方、当時世界最大のサトウキビ生産国であったブラジルはオランダの支配を受けたりしながらも砂糖ブームを謳歌していた」などと混ぜっ返したところ、彼も真面目に、「JapanのEdo(Tokyoとは言わず)では~」なんて即興の返答で歴史談義が始まったり、と面白い展開になったりした。また、ピルグリムファーザーズの入植地を再現したテーマパーク「プリマス・プランテーション」は、当時の衣装を着たスタッフが畑を耕し、鍛冶場では赤く焼けた鉄にハンマーを叩きつけ、と「ライブの17世紀野外博物館」となっていた。

 ボストン行きバスを待つ時間、近場のマック(その辺りではコーヒー店はマックしかなかった)に入ってコーヒーを飲んだのだが、その時アテンドしてくれたスタッフ5人のうち4人がブラジル人だった。

 プリマスは人口5万人ほどの中規模都市だが、タクシー運転手(パキスタン人だった)に訊いたところ、市内には、ブラジル料理店が3軒あり、在住ブラジル人も多いとのことだった。

 ボストンに戻って宿泊していた安ホテルの清掃係に話かけたら、二人共ともブラジル人(ミナス出身)で、夕食でファストフード店に入ったらウェイトレス3人全員がブラジル人、さらにはホテルの近くのスーパーを覗いてみたが、食品売り場の一角が「ブラジル食材コーナー」で、店舗内のあちこちからポ語が聞こえてきた。当時、米国在住の出稼ぎブラジル人の数は100万人といわれていたが、ボストンやプリマスの位置する米国北東部はブラジル人集積地域の一つであった。まさにその事実を実体験したことになる。

 あるいは2009年8月、ポルトガルのコインブラで食事した時、レストランの給仕係はブラジル人女性だったし、リスボンやポルトの街中を歩いていると、聞こえてくるのは、ポルトガルのポ語よりも、ブラジル人のポ語のほうが多かった。声高に話しがちのブラジル人の声量がデカイのだから、よく耳にはいってきたのは当然であった。

 たまたま、筆者自身が直接実体験した卑近な例をいくつか記してみたが、1990年代に入って本格化したブラジルから海外への出稼ぎ労働者の大量移動は、2019年からまた急増している、というのがVEJA誌(2021年9月29日号)特集記事の内容であった。

 この記事に付されている図表によれば、2009年318万人だったが、2012年に200万人台に減少、2019年から再上昇して2020年421万6千人、これが国外在住ブラジル人の数であり、出稼ぎ先としては、従来からの米国とポルトガルに加え、新規移住先としてアイルランド、メキシコ、ウルグアイ、オーストラリア、イタリアなどが挙げられている。

 ちなみに、2020年時点の在外人口順位は、①米国(177万)、②ポルトガル(27万)、③パラグアイ(24万)、④英国(22万)、⑤日本(21万)、⑥イタリア(16万)、⑦スペイン(16万)、⑧ドイツ(14万)、⑨カナダ(12万)、⑩アルゼンチン(9万)、となっている。

 この巻頭コラムのタイトルは、”A Diáspora Brasileira”(ブラジル人の海外離散)で、特集記事のタイトルは、”BYE-BYE, BRASIL”であった。冒頭に引用したのは、この巻頭言の前半部分である。

岸和田仁(きしわだひとし)​

 
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今度はサル。また変なモノ出てきましたな。

 コロナ禍で我々の生活が大変な制限を受けている今日この頃、「マスク外せ」、「いや、また戻せ」といった行ったり来たりの不安定な状態です。現時点では当地サンパウロでは「まあ落ち着いているでしょう」といった感じですが、これでコロナ収束に向かう保証はありません。まだいつまた流行がぶり返しても不思議ではない世の中です(註1)。

 

世界を巻き込んだ保健衛生的緊急状態でそれだけでも大変なのに、ここにきて何やら新規のよくわからん感染症が出現してきました。「原因不明の子供の急性肝炎」と「サル痘」です。前者はアデノウイルスが関与しているらしい。後者は天然痘の親戚ウイルスが原因です。今年夏期のブラジルの年始年末でインフルエンザが流行ったように、コロナ禍で今までと違った生活(註2)をしていると普段では見ることのない感染症が現れます。いわゆるバイ菌は「空いている場所を占拠する」のが一つの特徴であるので、感染症全体がコロナ対策で減ると、「じゃあ」といって他のが出てくるということです。

 

『まあ、生物であればなんでも混んでいる所より空いている場所のほうが繁殖しやすいからなあ。人間でもそうか。ブラジルでは空いている土地持っていたら(いちおう不法)占拠される確率大だからな』

 

 サル痘は元々アフリカ大陸で局地的に見られる感染症(註3)だったのですが、ここ数か月で欧米の少なくとも12か国(註4)で100件近い発症例が認められています。コロナ禍の規制緩和で人の往来が増えているのでブラジルへ来るのも時間の問題でしょう。サル痘は人の天然痘の病原ウイルスの親類でオルソポックスウイルス属に含まれます。「サル」と言われますが、自然界でサル痘ウイルスを保有しているのはリスやネズミなど小さなげっ歯類だと考えられています(註5)。天然痘自体は新型コロナでも大議論になった「ワクチン」のおかげで撲滅された感染症です。罹患者の半数が死亡し、生き残ったのも顔に痕がついた大変な病であったのが、英国人医師のジェンナー(下の絵)が開発した種痘法が認知され普及したため1977年を最後に姿を消しました(註6)。世界保健機関は1980年に天然痘根絶宣言をだし、それ以来予防接種は行われていません。日本では1956年に最後の感染例があり、1976年に接種が中止されています。ブラジルでの最後の感染例は1971年で、1975年までに予防接種が行われました。ただし、当地は南米で最後に国内感染が勃発した国であるため、1966年から1973年の間、国家をあげて大々的に天然痘予防接種を進めました。その間に国内で2.68億回分のワクチンを製造した実績があり、これが1975年から始まったPrograma Nacional de Imunização(PNI、予防接種国家プログラム)に発展した歴史があります。

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ジェンナー

『このプログラムのおかげで現在もブラジルは世界的に予防接種先進国と認知され、ブラジル人のワクチン好きもここから来ると考えられる。それが今回の新型コロナの場合も功を奏して非常に高いワクチン接種率に至ったと一因と言えるのでは?』

 

 筆者を含め、現在大半の医師が天然痘を診たことがないので、良い機会なのでサル痘をダシにおさらいしてみましょう。医療の現場では潜伏期間や症状などが似ているので「天然痘」「サル痘」「水疱瘡」の見分けが難しいとされます。実際は「天然痘は根絶してるし、サル痘はアフリカだし、では水疱瘡であろう」といった診断の仕方になっていたのですが、ここにきて水疱瘡と同じく子供が罹りやすいサル痘が出てきたので注意が必要です。サル痘は5日〜21日、平均7〜14日(天然痘は7〜19日、平均10〜14日;水疱瘡は平均7〜21日)の潜伏期間を経て、発熱、強い頭痛、リンパ節の腫れ、筋肉痛、強いだるさで発症します。発症から24時間くらいで水疱が頭と顔に出現し、やがて体躯に広がります。水疱は顔以外では特に手のひらや足の裏にできやすく、口の粘膜や眼、生殖器にも出現します。出現から10日ほどでかさぶたになります。かさぶたが消えるまでは3週間程度かかります。水疱がある間は伝染します。水疱のでき方や特徴は天然痘そっくりで見分けがつきません。唯一の違いはリンパ節の腫れが天然痘にはないのですが、水疱瘡にはあるので、ややこしいです。確実な判定は水疱内の分泌物をPCR検査することで得られます。

 

『そうです、コロナ禍で有名になったPCR検査はコロナ専用ではないのです』

 

 サル痘はヒトからヒトへの伝染は難しいとされていますが、今回の流行はアフリカへ渡航歴(つまり、アフリカ現地で動物と接触があった)がない人達なので、ヒトからヒトへの伝染はあるのでしょう。感染は飛沫感染と接触感染ですが、「長期にわたる接触」が必要とされています。アフリカでは致死率が20%まで報告されていますが、彼の地では栄養不足の子供が多いのが理由と考えられています。WHOの試算では一般人口では致死率3〜6%程度とされています。治療薬はありません。いちばん有効な対策は「予防」であり、現在コロナ禍で行っている措置、マスク使用、手洗い、アルコール消毒、ソーシャルディスタンスで十分と考えられいています。また、天然痘の予防接種を受けた人は交差免疫があり、サル痘に感染しにくく、85%の発症予防率がある報告がされています。現在だいたい55歳以上の方は天然痘の予防接種を受けている(註7)ので、安心ですが、問題は小児ですね…24人の読者様は接種されていますか?年齢がわかりますよ。

 

註1:現在北朝鮮で大流行がおこっている。RNAウイルスであるコロナウィルスは増殖すればするほど変異するので、今、彼の地では「新型コロナウイルス・ピョンヤン株」を作成中だな。

註2:とにかく隔離。人と人の接触を極限まで減らした生活。かつて見たことのない消毒の普及。

註3:コンゴ地方で多い。致死率が低い西アフリカ型と高い中央アフリカ型に分類される。

註4:主な例は英国、スペイン、ポルトガル、ドイツ、ベルギー、フランス、オランダ、イタリア、スウェーデン、米国、カナダ、オーストラリア。

註5:このウイルスは1958年に実験用に飼育されていたサルから発見されたからサルの名称がついた。

註6:この種痘法の原則は現在でも通用し、ワクチン製造に使用されている。

註7:法律で天然痘の予防接種は右肩に2回接種することになってたので、右上腕に1cmくらいの痕が残っています。

 

秋山 一誠 (あきやまかずせい)。サンパウロで開業(一般内科、漢方内科、予防医学科)。この連載に関するお問い合わせ、ご意見は hitorigoto@kazusei.med.br までどうぞ。診療所のホームページ www.akiyama.med.br では過去の「開業医のひとりごと」を閲覧いただけます。

 
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白洲太郎

第75回 実録エッセー『すべてのお母さんに感謝をこめて』 

 これを書いている今、つまり2022年の5月8日ということになるが、時計の針はすでに午後4時を回っている。皆さんもご存知のとおり、本日はいわゆる『母の日』というやつで、ブラジルではDia das mães と呼ばれているが、買い物好き、プレゼント好きのブラジル人が、いつにも増して消費に一生懸命になる日として知られている。そんな日の青空市場ともなれば、金を遣いたくてたまらない連中が手ぐすねを引いて待ち構えているのであり、露天商にとってはこの上ない書き入れ時となる。当然、我らが白洲商店も隣町の青空市場に出店したが、今回はそんなボクらの一日を簡単に紹介してみよう。ブラジルの田舎に暮らす『いち露天商の生活』がどのようなものなのか、少しでも伝われば幸いである。
 まず、当然のことながら朝は早起きである。日の出前の3時15分に起床し、まずはコーヒーを沸かす。しっかりと目を覚ましてから運転するのがボクの流儀なので、家を出る時間は4時30分くらいだ。ちなみに友人のブラジル人露天商の多くは起床してから30分以内には家を出発するようである。少しでも長く寝ていたいということなのだろうが、ボクには到底真似のできぬ芸当である。
 隣町までは車で1時間ぐらいの距離だ。ちょうど夜明けを迎えようとする頃合いに到着。朝焼けを眺めながら屋台を設営するが、この景色がまた美しく、空気はとても新鮮である。30分もかからずに店が完成すると、家から持参してきたおにぎりを頬張りつつ、近くのパダリア(パン屋)でソンヨと呼ばれる菓子パンを購入したり、自転車の荷台で売られているパモーニャ(蒸したトウモロコシのおやつ)を買い食いしたりなどして、腹を満たす。この時間帯は、野菜やフルーツ、パステウなどの屋台以外は割と閑散としていて、露天商たちは開店準備に勤しんだり、朝食などを摂ったりして時間をつぶすのである。
 しかし今日は泣く子も黙る『Dia das mães』、普段は現れることのない流れ者のcamelô (露天商)がウヨウヨしているので、全体的に落ち着かない雰囲気だ。こういうときに起こりがちなのが『ポント問題』である。毎週レギュラーで仕事をしている露天商には、当然自分のポント(定位置)があるが、事情を把握していない流れ者がルールを破ってしまうこともしばしば。そのような場合には醜い喧嘩にまで発展するケースもある。見ている分には楽しい人の喧嘩であるが、当事者にはなりたくないのが人情というものだ。
 そのようなハプニングを期待しつつ、市場を注意深く観察していると、見知らぬ屋台がバッシーニョのポントに設営されている。バッシーニョは時計やサングラス、ラジオなどの雑貨を販売するベテラン露天商で、あだ名のbaixinhoは『チビ助』というような意味合いであるが、『小さい犬ほどよく吠える』の言葉どおり、敵に回すとかなり厄介な存在だ。長い付き合いのなかで彼とは3回ほど小競り合いをしたが、頑固なブラジル人ほど面倒な相手はいない。自分の主張は絶対に曲げないし、それ以前に人の話をまったく聞かないのである。
 バッシーニョの到着はいつも遅めだが、現れない可能性もゼロではない。しかし幸か不幸か、本日はDia das mães である。普通に考えれば、彼は意気揚々とやってくるはずだ。その時どのようなバトルが展開されるのか、ボクは不謹慎ながらも楽しみにしていた。
 それにしてもなんと不注意な流れ者であろうか。初見の町で仕事をするときは、まずはフィスカウ(管理人)に問い合わせをするのが常識というものである。一体どんなマヌケが屋台の持ち主なのだろう?と俄然、興味が湧いてきたボクとちゃぎのであったが、果たして流れ者の正体は如何に?
 固唾をのんで見守っていると、現れたのは青空市場に似つかわしくない格好をしたブリンブリンのねーちゃんであった。よく手入れされたふわふわの髪の毛、下着が見えてしまいそうなほどのミニスカート、そこから臨むことのできる真っ白な太ももはとてもジューシーで、男性はもちろん女性までもがふり返ってしまうほどの妖艶なオーラを発散していたのである。下僕のような男をひとり連れているが、恋人という感じではない。屋台の運搬・設営などは彼の仕事で、ねーちゃんは接客担当ということなのだろう。それにしても異色の存在である。ど田舎の広場に突如マリリン・モンローが現れたようなもので、その衝撃はまたたく間に青空市場内に広がっていったのであった。
 さすがのボクも好奇心を隠しきれず、サングラス越しにブリンブリンねーちゃんの身体を楽しませてもらったが、そんなことばかりしている訳にもいかない。なぜなら今日はDia das mães、金を遣いたくてたまらん連中が市場をウヨウヨと徘徊しているのだから。
 さあ、仕事だ仕事!
 気持ちを切り替えようとした矢先に、本日ひとり目の客が現れ、いきなり極太チェーンのネックレスをお買い上げ。ボクとちゃぎのは色めき立ち、そこからあっという間に5時間が経過したのである。 
 午前11時30分。
 普段なら客足が落ち着きはじめる時間帯であるが、さすがは『母の日』である。小銭を握りしめて母親へのプレゼントを買いに来る少年少女が後を絶たず、しらす商店ならではの微笑ましい光景が展開されていた。忙しさのピークは過ぎ、客の相手をしながらパステウを頬張ったり、サトウキビジュースを飲んだりといった余裕もでてきたので、ここにきてようやく、ボクらはあのブリンブリンねーちゃんの存在を思い出したのであった。
 どういうわけかバッシーニョは今日のフェイラ(市場)に現れなかったようで、ねーちゃんの屋台にはいまだに人が群がっている。商いは大盛況の様子であり、その証拠にねーちゃんは、何事かを叫びながらノリノリで客とセルフィーを撮ったりしているのである。まさに『本日の主役』といった趣きであった。
 しかし気になる点がひとつある。
 なぜかというと、ねーちゃんを囲む群衆のなかによく知った顔があったからだ。露天商仲間のファビオである。ファビオとは家族ぐるみで仲良くさせてもらっているが、その彼がデレ顔でねーちゃんと会話をしているのである。ボクとちゃぎのは戦慄した。なぜならファビオにはクレイアという愛妻がおり、彼女もフェイラで仕事をしているからだ。慌てて彼女の方に目を向けると、そこには鬼の形相でねーちゃんを睨みつけるクレイアの姿が。そんな視線に微塵も気づかぬ2人はそのまま顔と顔を寄せ合って…という展開になったかどうかは定かではないが、いずれにせよファビオはタダでは済まないだろう。
 屋台を片付けると、時計はすでに14時を回っていた。普段なら13時過ぎには撤収するが、今日のフェイラはそれだけ勢いがあったということだ。周りの露天商はダラダラと商いを続けているが、我々はさっさっと帰る派である。ブリンブリンねーちゃんとファビオ、そしてクレイアによる三角関係の行方は気になるが、そんなゴシップよりも、早く家に帰って休みたいというのが本音であった。
 アイス屋でささやかな祝杯を上げ、車に乗り込む。
 あとは雄大な景色を眺めながらのドライブである。今日もやりきったという充実感が、じわじわとこみ上げてくるのもこの時だ。
 そんなこんなで大きなトラブルもなく、今年も無事に母の日を終えることができた。
 すべてのお母さんに感謝をこめて。
 Feliz dia das mães!!

​白洲太郎(しらすたろう)

 
 
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下薗昌記

第152回 ピエーレ

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 2021年のブラジル全国選手権で2度目の優勝を飾ったアトレチコ・ミネイロ。現行方式の大会が創設された記念すべき1971年の初代チャンピオンでもあるベロ・オリゾンテ市の雄は、パウメイラスやフラメンゴとともにブラジルサッカー界で隆盛を誇っている。

 ブラジル全国選手権2部降格も経験。全国的な実績だけを考えれば、一時は「古豪」の呼び名が似合いつつあったアトレチコ・ミネイロがその存在感を取り戻したのが2013年のコパ・リベルタドーレス初制覇だった。

 宿敵のクルゼイロが2度手にしている南米王者の肩書きを手にした2013年、チームの顔はロナウジーニョだったが、攻撃偏重のチームを陰で支えていたのが「アトレチコ・ミネイロのピットブル(闘犬)」の愛称で知られたピエーレである。

 派手なテクニックを持つ訳でも、ゴールを量産するわけでもないが、ピエーレはその献身的な姿勢でチームを支え、そしてサポーターの心を掴んできた。

 頭角を現したのは2007年から2011年まで所属したパウメイラス時代だが、出場機会を失っていた彼をアトレチコ・ミネイロに招いたのは名将のクーカ。ピエーレはアトレチコ・ミネイロで復活を果たすのだ。

 彼のサッカー人生も、波瀾万丈に満ちたものだった。1982年、バイア州のイトロローに生まれたピエーレだったが、20歳を目前にしていた彼は動物くじを売る店で、モトボーイとして生計を立てる若者だった。

 同年代のサッカーエリートたちは既に高給を手にしていることも珍しくなかったが、ピエーレはようやく巡ってきた名門、ヴィトーリアの下部組織のテストを受けることを逡巡する。

「職を失いたくなかったんだ。でも店の主人が僕にテストを受けることを許してくれた」

 ヴィトーリアの下部組織入りしたものの半年で追われることになったピエーレだったが、サンパウロ州の中堅クラブ、イトゥアーノから誘いを受け、プロの道を歩み始めた。

 ヴィトーリアの下部組織時代にピエーレを知っていたフィジカルコーチがイトゥアーノで職を得ており、声をかけてくれたのだ。

 その後、パルメイラスで頭角を表し、国内屈指の守備的ボランチとして知られたピエーレのスタイルは「ノミ」と呼ばれるほど相手のキーマンをねちっこい守備で封じ込めるもの。173センチと上背はないが、チームの黒子に徹し、泥臭く戦い続けてきた。

 2011年、アトレチコ・ミネイロに移籍し、かつての輝きを取り戻したピエーレにとって、最高の瞬間はやはり2013年のコパ・リベルタドーレスの制覇である。

 モトボーイから南米王者に上り詰めたピエーレは2015年4月にフルミネンセに移籍。アトレチコ・ミネイロでは公式戦170試合に出場したもののゴールはゼロ。しかし、アトレチコ・ミネイロのサポーターは「永遠のピットブル」と彼を称賛。2017年にフルミネンセの一員としてアトレチコ・ミネイロのホーム、インデペンデンシア競技場に戻ってきたある試合で、アトレチコ・ミネイロのサポーターはピエーレを温かく迎え入れたのだ。

「アトレチコ・ミネイロで得点が取れなかった分、その穴埋めは、数々のタイトルでしたよ」

と笑い飛ばすピエーレだが、クラブに初の南米王者の肩書きをもたらした功績と、その献身性は未来永劫、語り継がれる。

 2019年、怪我にもたびたび泣かされた小柄なボランチは「闘犬」としてのサッカー人生にピリオドを打った。

​下薗昌記(しもぞのまさき)

​ブラジル、サンパウロ