
2020年7月号 vol.169
<目次>
鶴田成美
松本浩治
リリアン・トミヤマ
秋山一誠
白洲太郎
ピンドラーマ&おおうらともこ
下薗昌記
issuu.comで紙媒体で発行したものをご覧いただけます。
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みんなと同じように、和から外れないように、崩さないように。
今までこうだったから、前例がないから、断られ、濁され、逃げられて。
古き良きはもちろん大事。でもモノによっては新しくしないと消滅する。
会えないからこそ、集まれないからこそ、今だからこそできること。
色んな「こそ」を見つけ出して対応していかないと、今度こそ…。


第1回松原移民の奥田義夫(おくだ・よしお)さん

南マット・グロッソ州ドゥラードス市内で、餅をはじめ、豆腐、揚げ物など日本食品の製造販売業を営んでいた奥田義夫さん(75、和歌山県田辺市出身)を取材するために同地を訪れた際、本人は両腕を真っ白にしながら黙々と餅づくりに励んでいた。
7人兄弟の末っ子だった奥田さんはブラジルに渡る前、後の松原移民第1次船代表責任者となる故・納谷三郎(なや・さぶろう)さんとともに、田辺市で4年ほど「芋飴」づくりを行っていたという。当時の日本は1950年の朝鮮戦争の後、経済状態も悪く、思うように生活が成り立たない時代だった。
53年3月頃、当時「西牟(にしむろ)」と言われた町役場から、納谷さんが条件の良い話を持ち帰ってきた。「ブラジル行きの移民を募集している。ここで芋飴を作っているよりよっぽどええ」—。そう言われた奥田さんは、自分も一攫千金の夢を求めてブラジルに行くことを決意した。その頃、仲人を通じて貞子(さだこ)さんと知り合い、同年4月8日に結婚。約1か月後の5月13日には第一次船の21家族とともに神戸港を出航するという、何とも慌しい日々だった。
ブラジルに行く条件として、一家族に3人の働き手が必要だったため、いとこの野久保耕治(のくぼ・こうじ)さんに構成家族になってもらった。しかし、船の中で身ごもっていた貞子さんが流産し、サントス港に着いたと同時にサンタ・カーザ病院に入院。奥田夫妻は他の家族と一緒に目的地のドゥラードスまで行くことができず、「松原移住地」生みの親である松原安太郎(やすたろう)氏がサンパウロ州マリリアに持っていた農場に20日ほど世話になった。
他の家族に遅れること約1か月。奥田夫妻はマリリアから「ティコティコ(小型セスナ機)」でドウラードス入り。ちょうど、その頃は松原移民第二次船の20家族も到着しており、移住地の道づくりに一緒に参加した。
ようやくのことで松原移住地に入植できたが、奥田さんは新天地での思いもかけない苦労の連続で、精神的にかなり参っていた。農業の経験もなく、戸惑うことばかり。貞子さんも身体が本調子ではなく、医者通いの日々が続いたという。
身体の弱い貞子夫人と小さな子供を抱えて奥田さんは、63年に移住地の土地を売り、約100キロ離れたポンタ・ポランの兵舎の前で飲食店(bar)を開けた。しかし、失敗して金は「スッカラカン」の状態に。当時、すでに子供は5人に増えていた。
「どうにもこうにも、しょうがない」と、奥田さんは日本にいる父親に送金を頼んだ。「3年すれば故郷に錦を飾る」との思いで日本を出てきた奥田さんにとっては、断腸の思いだったに違いない。しかし、生活は苦しさを増すばかりで、送金してもらわざるを得なかった。当時は送金してもらっても、サンパウロのブラジル銀行でなければ金を受け取れない。サンパウロに行く旅費までも借金した。
送金を受け取り、65年にようやくの思いでドゥラードスに戻った奥田さんは、日本食品店を開店した。同地でちょうど豆腐づくりをしていた日本人が辞め、その人に大豆を引く臼(うす)を分けてもらい、「後は無い」と必死の思いで見よう見真似ながら豆腐づくりを覚えた。日々のコツコツとした積み重ねが、生活を少しずつ安定させていった。
「自分の人生は成功できず諦めた。しかし、子供たちには徹底して勉強をさせたかった」(奥田さん)
両親の苦労した姿を見続けてきた子供たちのうち、2人は大学を出て建築家と歯科医になり、1人は家業の日本食品店を継いでくれた。
「子供たちも悪い方向に進まず、素直に育ってくれた。これまでの苦しさを考えたら、これからはもう何があっても恐いことはありません」と語る奥田さん。「今になって、ようやく落ち着きました」と、和やかな表情を見せていた。(2003年8月取材、年齢は当時のもの)


隔離期間に使える動詞「maratonar」
コロナウイルス危機は社会のあらゆる分野に影響を及ぼしています。文化の分野における損害は1千億レアルを超えるという研究もあります。
テレビの場合、例えばTVグローボの連続ドラマは撮影が休止中で、過去のドラマを再放送しています。
グローボの声明では、この変更について次のように説明しています。
「抱擁、握手、キス、パーティー、喧嘩、濡れ場など現実の生活を反映するものすべてがないドラマはありえません。しかし今、安全に演ずることができません」
テレビの代わりに、多くの人がNetflixやGloboplayなどの動画アプリを使ってドラマを観ています。それで、サンパウロ大学教授のマルセロ・モドロMarcelo Módoloとエンリケ・ブラガHenrique Bragaが書いたサンパウロ大学新聞(Jornal da USP)の記事を思い起こしました(興味のある方は「Maratona da preguiça: um neologismo que não sai do sofá」というサイトをご覧下さい)。大変興味深いのでみなさんと共有したいと思います。
「maratona」という名詞の意味はみなさんご存知でしょう。ご存知なければですが、「(一種の)競争」という意味です。
<例>
Eu vou correr a Maratona do Rio.
リオ・マラソンを走るつもりです。
O meu sonho é correr a Maratona de Tóquio.
私の夢は東京マラソンを走ることです。
ご覧のとおり、名詞「maratona」には動詞「correr」がついてくるのが大半です。
ところが、前述のモドロとブラガによれば、競技としてのマラソンとは関係なく、1990年代に新しい動詞「maratonar」が登場したとのことです。
「maratonar」は、「連続ドラマを何話も続けて観る」という意味です。
<例>
Ele ficou no sofá maratonando La Casa de Papel na Netflix.
彼はソファにいてネットフリックスで『ペーパーハウス』を何話も観ている。
Você pode me indicar séries para maratonar?
続けて観られるドラマ教えてくれませんか?
Maratonar séries atrapalha o sono.
ずっとドラマを観ていると眠気が妨げられる。
読者のみなさんはなにかドラマを続けて観ていますか(maratonando)?隔離期間中は文化的なものに価値を見出すものですね。映画、テレビ番組、本など何も見ないで独りでいるのは不可能ですから。
最後になりますが、Covid-19の悪夢が早々に終わり、街でニューノーマルの生活が早くできるよう願っています。ミルトン・ナシメントMilton Nascimentoとロー・ボルジェスがLô Borges歌ったように…
Eu já estou com o pé na estrada, qualquer dia a gente se vê, sei que nada será como antes, amanhã...
俺はもう道を歩んでいる、いつの日かまた逢おう、明日、前と同じものは何もないんだから


接触しないとできないこともあるでしょ。
ここのところ連続で恐縮ですが、またコロナ渦関連のひとりごとです。百年に一度の危機と広く認識される世の中ですので、話題には事欠きません。この原稿を書いている時、ブラジルでは新型コロナウイルス感染症死者数が5万5千人を超したところでした。1か月前の2.5倍です。当地ではコロナ感染対策が明らかに迷走していますので、なかなか終息に向かう光景が見えないです。現在サンパウロ州では”感染率”Rt(註1)が約1なので、「増えないけれど減らない」状態です。今回は感染症予防対策として発出された「オンライン診察」に焦点をあてていきます。
『今更何故新型コロナウイルス感染症拡大の予防に「人と人が接触しない」のが重要か説明しなくても良いかと思うが、その不接触の方法の一つとしてパンデミックの初期から推奨されるようになった「遠隔医療」は、初めは外出規制の緩和策の意味が強かった。接触云々より、外出規制のため出かけられない、出かけたくない、または感染を恐れるので医療機関を受診したくない人が目当ての応急措置、そして医療機関での院内感染予防や外来の待合等で人が密集するのを避けるための方策だったのだな』
一時的な措置であることは、日本でもブラジルでもオンライン診察は「コロナウィルスパンデミック中の期間限定解禁」とされたことが一番の証拠です。この「解禁」という言葉がひとりごとのポイントになります。解禁と言うのは、「禁止されていたものを解くこと」なので、元々オンライン診察は医療行為としては禁止されていたわけです。今回のコロナ禍で人との接触を7〜8割削減するのも予防対策の一つで、テレワークやオンライン授業などの世の中になり、わざわざ出向かなくでもできる仕事がいろいろ判明しましたが(註2)、反面、現場に人がいないとできないことは何かも判明したと考えます。医業は人間を診て、訴えは何か判断し(診断ですね)、処置する流れに完結します。いうまでもなく対面の対応が必要です。
しかし特に米国発信の遠隔医療推奨が最近10年ほどで強くなってきています。遠隔医療(英語telemedicine)とは情報通信機器を活用した医療に関する行為と定義されます。情報通信機器は簡単にいうと、スマホ、タブレットやパソコンなどのことです。医療行為は原則的に対面で行われます。医療行為の対象となる人間は各自心身の状態が異なり、話からだけでは診断は困難です。処置で例をあげると、オンライン手術って無理ですよね(註3)(註4)。この様な事情から、遠隔医療の進歩は正に言葉の狭義のとおり、距離的に遠い、僻地に医療行為をもたらす方法が勘案されてきました。一番良い例は、遠隔地で撮影した医療画像を専門医に送り、診断の助言を仰ぐ方法です。ブラジルでは医業を取り締まる連邦医師評議会(CFM、Conselho Federal de Medicina)が一旦2018年12月にオンライン初診を含む遠隔医療を認可しましたが、医療現場からの大反対で3か月後に認可取消に至った経緯があります(註5)。日本では、医師法に「無診察治療の禁止」という項目があり、対面診察でないとこれに該当するとされてきました。しかし、5年ほど前から”事実上解禁”といった解釈の上、「スマホ診療」と呼ばれるITを駆使した医療サービスが出現するようになってきてました(註6)。
『問題は「オンライン初診」だな』
遠隔医療は次のように分類されます:
1 遠隔健康医療相談
一般的な情報提供による医学的助言。
相談者の個別な状態を踏まえた具体的診断は伴わない。
2 オンライン受診勧奨:受診不要の指示や助言。
診断や医薬品の処方等は行わない。
3 オンライン診察
患者の診察及び診断を行い、処方箋発行などの診療行為を行う。
既に診察している患者さんはともかく、初めて見る人物をビデオ通話を利用しても初診することは大変困難です。責任のある医師であれば、この3分類の内、相談と受診勧奨しかできないです。医師の診断手順には単なる話を聞くだけではなく、その話し方やちょっとした身体の動作・仕草、同席した家族の言動、あるいは患者の匂い等対面でないと不可能な感度が必要なのです(註7)。今回の「期間限定の解禁」はこの様な制約がある行為なので規制があったのが、政治的な判断で解禁された事実をこのコラムの24人の読者様によくご理解いただく必要があると思います。
『ただし、オンライン診察全体を否定するものではない。筆者の診療所ではオンライン診察は医療の利便性を高めるものと位置づけ、数年前より「感染症患者が通院しなくても済む」ために実施している。初診で感染症の診断をした場合、罹病期間中はオンラインでフォローする運用方法だな。移動や待合の時間節約になるし、それ以上に治療が継続しやすくなる。体調不良や付き添いがない時でも受診できるので、頻繁なフォローが可能になり、経過を把握しやすいので病気の悪化を予防できる。さらに、外出しないことで周囲を感染させない、本人は他の病気の院内感染を防げる(註8)』
感染症に対する運用以外では、慢性疾患で症状が安定している患者さんのフォローもオンライン診察でできると考えます。今回のコロナ禍で世の中のいろんなモノ・コトが確実に変革します。医療の仕方もその一つでしょう。限定期間が終わってもオンライン診察はなくならないと予想しています。医師側、患者側、どちらも賢く利用すればとても有用と考えます(註9)。医者に行かんでも薬がでると喜んでる方もおられるようですが、大変危険ですよ。オンライン診察ができるかどうかを先ず相談してみてください!
診療所のホームページにブラジル・サンパウロの現状をコメントした文章を記載していますので、併せてご覧いただければ幸いです。
註1:正確にいうと「実効再生算数」またはRt(アールティー、Effective Reproduction Number)。感染者が平均して何人に感染させるかという人数。1以下でないと感染拡大が終息しない。
註2:現場に人がいないと成り立たない業種にまで8割削減とか要求し、その現場が疲弊したアホな国もありましたな。
註3:遠隔手術ではない。遠隔手術とは遠隔操作で行われる手術のこと。
註4:米国で近年発達しているtelemedicineは、対面診察をオンライン診察に変えるものです。彼の地では元々触診などあまりしなく、検査ベースの医療文化のため問診をビデオ通話で行うのに変更したと考えてもよいです。
註5:この認可には大きな経済的利権が動いたとされています。
註6:https://www.nikkei.com/article/DGXMZO97275590V10C16A2000000/
註7:結構匂いで細菌性感染症の診断がつくのです。バカになりません。
註8:オンライン診療は対面診療を補完するものと考えています。急性疾患であれば初診と治癒確認の最終再診は必ず対面で行う必要があります。慢性疾患であっても、定期的に対面診察が必須です。
秋山 一誠 (あきやまかずせい)
サンパウロで開業(一般内科、漢方内科、予防医学科)。この連載に関するお問い合わせ、ご意見は hitorigoto@kazusei.med.br までどうぞ。診療所のホームページ www.akiyama.med.br では過去の「開業医のひとりごと」を閲覧いただけます。


第52回 実録小説『これ、ニセモノやん』
2019年某月。
その日、白洲太郎とかれの妻になる予定のちゃぎのは、愛車である『FIAT UNO 2002年式』を快調に走らせ、ある町のフェイラへと向かっていた。カーステには『白いUSB』が挿入されており、このUSBには80年代から2010年代くらいまでの、誰もが皆、一度は耳にしたことがあるであろうJPOPが大量に収録されている。たまにボサノヴァだったり、ビルボード系の洋楽がかかったりもするが、基本的にはJPOPである。ユーミン、サザン、ミスチル、中島みゆき、TRFなどが立て続けに流れ、ちゃぎのは鼻歌を歌いながら上機嫌であった。機嫌のバロメーターは、やはり鼻歌の有無なのである。落ち込んでいたり、ムカついていたり、何かの不安を抱えているときに、この鼻歌はでない。太郎はちゃぎのの様子に満足し、自らも陽気にハンドルを握っていた。スピーカーからはYUIの『恋しちゃったんだ』が流れだし、そのキャッチーなメロディーに調子がでた太郎はアクセルを踏み込み、勢いよく坂を登りはじめた。そのときである。
「これ、ニセモンやん」
と言いながら、ちゃぎのが『次の曲ボタン』を押したのである。ノリノリだったメロディーは、しっとりとしたバラードに変わってしまい、太郎は水をさされたような気持ちになった。咄嗟のことであったため、かれは平静を装ったが、内心では動揺していたのである。『白いUSB』には大量のJPOPが収録されているが、そのなかにはユーチューブから引っ張ってきた音源も混ざっており、稀に、というかけっこうな割合で、歌に自信のある素人やセミプロなどが投稿したカラオケ音源、つまり『ニセモノ』が混入している。太郎もちゃぎのも『ニセモノ』には厳しく、発覚次第、即飛ばすことを常としているが、先ほどの『恋しちゃったんだ』に関しては疑問符がついた。ちゃぎのは速攻で飛ばしていたが、太郎は密かに『ホンモノである』と判断していたからである。それも明らかな真作で、疑念を抱く余地など1ミリもない、正真正銘、紛うことなきYUIの歌声である。と、かれは確信していたが、それを口にだすことはしなかった。機嫌のよいちゃぎのをそのままの状態にしておきたかったことも大きいが、『まちがいなく本物である』という確信をもちつつも、苦い過去の記憶が太郎を逡巡させ、その発表を躊躇わせるのである。
話は一年ほど前に遡る。
よく晴れた日であった。
充実のフェイラを終えた太郎とちゃぎのは、愛車『FIAT UNO 2002年式』のカーステから流れてくるグッドミュージックに身体を揺らせながら、ときに熱唱し、ガラナジュースを回し飲みしたりしていた。安全運転を心がける太郎は、どんなに見晴らしの良い直線コースであっても時速100kmを超えないように注意していたが、テンポの良い曲がかかると、自然とスピードもあがってしまう。そのときかかっていたのが、篠原涼子の『恋しさと せつなさと心強さと』であった。1994年にリリースされ、200万枚を売り上げたJPOP史上に輝く名曲だが、この『白いUSB』に収録されているバージョンに関して、『ニセモノ疑惑』が浮上したのである。その説を唱えているのはもっぱらちゃぎのの方で、太郎自身は、これがニセモノであるなどとは考えたこともなかった。正直、『なーにいっちゃってんだよ。シロートさんがよぉ』と心のなかで嘲笑っていたほどなのである。しかしちゃぎのは幼少の頃から、ピアノ、オルガン、琴を習っていたといい、音楽的素養は太郎をはるかに凌駕している。一方、かれの音痴は有名であり、鼻歌で完全に音を外すことができるレベルである。そんな太郎であったが、この件に関してだけは揺るぎのない自信があった。何度聴いても篠原涼子の歌声そのもので、どうしてこれをニセモノ呼ばわりするのか、かれにはまったく理解ができなかったのである。
リピート再生での検証が続き、ちゃぎのはいかにも『音楽的素養があります』という顔をして、ときに目を閉じ、集中したりもしていたが、
「やっぱりちゃう。絶対ちゃうよ。ニセモノやって!!」
と繰り返すのである。その表情は真剣で、まるで盗聴テープから手がかりを見出そうとする連邦警察のエージェントのようであった。そこまで言われると、さすがの太郎もぐらついてくる。ちゃぎのの耳はよく、動物、特に猫の鳴声などは抜群にうまい。音感もリズム感も太郎よりはるかに優れていて、軟体動物のように身体が柔らかく、特技はキャリア15年のカポエイラである。そんなちゃぎのが確信をもって、この篠原はニセモノだといっているのである。太郎の分が悪いのは明らかであった。
しかし、かれにも男としての意地がある。ちゃぎのが音楽的センスに優れているのは認めるが、おれだってこれまでに培ってきたカメローのキャリアがある。と、かれは胸を張った。
バックパッカーくずれのいち青年が、ブラジルのど田舎で生き抜いてきたヴァイタリティーは生半可なものではなく、はっきりいっておれは普通の人間ではない。尋常じゃない精神力と稀有な人生観をあわせもった、いわば超越人(ちょうえつびと)。そのおれがこの篠原を真作と判断したのである。そこらの三下がいってるのじゃない。このおれがいっているのだ。『史上最高のカメロー』を自称するこのおれが。乃公が。
と、かれはいつものように自賛し、自己をこれでもかというくらいに肯定した。この自己肯定力のおかげで艱難辛苦をのりこえ、これまで生きのびることができたのである。
かれはちゃぎのに対し、「甘いな」「まだまだだね」「そんなことをいっているようではおれの域に達することはできないぜ」「申し訳ないけど、あれは200%篠原で決まりだよ」などの言葉を投げかけながら、これでもしこちらが間違っていたら家出するしかないな、という若干の不安を感じながらも、大言壮語を吐き続けたのであった。ちゃぎのはそんな太郎を気の毒そうな目をして眺めていたが、数十分後、かれは布団をかぶって羞恥の念に打ち震えることになるのであり、予定調和の展開ではあるが、白洲太郎とはそのような宿命の持ち主なのかもしれない。
しかし今回ばかりはーー。
自信があるのである。
あれは間違いなくYUIの『恋しちゃったんだ』であり、ニセモノなどでは断じてない。
太郎はそう確信していたが、篠原の件で大恥をかいたかれにとって、それを発表するには並々ならぬ決意と勇気が必要なのである。
動くか、動くべからずかーー。
額の脂をぬぐいながら、太郎はそればかりを考えていた。
ちゃぎのだって人間だ。間違えることだってあるさーー。
しかし万が一彼女が正しかったらーー。
屈託のない様子で鼻歌を口ずさむちゃぎのを横目に、かれの懊悩はより深まっていくのであった。


第15回コロナウイルスと難民編
3月23日にコロナウイルスの影響による外出自粛が始まり、サンパウロ州やブラジル各地でその日食べる物も購入できない人が続出してきました。非正規雇用、個人事業主、フリーランス、飲食業などで生計を立てていることが多い難民や移民にもその影響は直撃し、隔離政策が明けてからも短期間で元の状態に回復できることは見込めません。ブラジル政府からの緊急援助金も必要としている人が受け取れないケースもあり、5月17日にはサンパウロ市内で援助金の受取りを巡ってブラジル人が外国人嫌悪からアンゴラ人を殺害し、市内のアフリカンコミュニティーが震撼するニュースもありました。
出身国の難を逃れ、ようやくブラジルで一息ついて数年。少しずつ生活にも慣れてきた矢先、ブラジルの難民と移民はコロナウイルスの影響による生活困難な状況とも闘わなければなりません。
◆時代はi-food!!◆
シリア人タマドール・ファヘル・アルデーンさん(33、ラタキア生)は、夫のゼルバさんと2人の息子とともに2年間のエジプトのカイロ生活を経て2014年5月にグァルーリョス空港に降り立ちました。2011年に始まったシリア戦争で、ラタキアはアサド大統領の出身地で同大統領と同じアラウィー派が多いことから、大規模な戦闘には発展しませんでしたが、家のすぐ近くにも着弾するようになり、命の危機を感じたゼルバさんは海外に逃れることを決めました。多国籍の移民が暮らし、難民を受け入れていたことからブラジルを選択し、到着2日後には難民申請をして、一年後には認定されました。
ゼルバさんはラタキア港の税関で働き、安定した生活を送っていましたが、昨年5月からアラブ料理店ゼルバZrba comida Árabeをオープンし、ケータリングビジネスを手掛けて来ました。コロナウイルスによる外出自粛が始まってからもi-foodビジネスを導入し、家族で今の難局を乗り切っています。

ゼルバさん
「ブラジルに来て2年ほどは言葉もわからず大変でした。その後、サントアンドレに引っ越してからはいつも近所のブラジル人たちが助けてくれて感謝しています。13歳と9歳、そしてブラジル生まれの5歳の息子はブラジルにすっかりなじみ、ここが彼らの国だと思っています。家族のいるシリアやトルコ、ドイツに離れてしまった家族は懐かしいですが、今後もブラジルで生活するつもりです。コロナウイルスの問題はもちろん、シリアや世界各地での戦争が終わり、人々の生活が今よりもっと良くなることを願っています」
◆多国籍の難民移民にセスタ・バジカを◆
パンデミックによる外出自粛令がサンパウロで発令された直後から、食べられなくなる人が続出することを察知し、最も早く難民と移民にセスタ・バジカ(基本食料の詰め合わせパック)と衛生用品の配給に着手したNGOがアフリカ・ド・コラソンです。同NGOは、これまでサンパウロだけで月に平均2、3回、登録制で国外からの難民と移民で生活が困窮している人々に対し、セスタ・バジカを配布してきました。4月の初回は60箱、5月には500箱以上の配布を行い、6月もほぼ毎週日曜日に活動し、年内はセスタ・バジカの配布が同NGOの主な働きになりそうです。
代表のジャン・カトゥンバ・ムロンダイさん(41、コンゴ民主共和国キンシャサ生)は、コンゴの現政権から命を狙われ、2013年に家族にも内緒でブラジルに難民として到着しました。翌年には無事に妻と2人の子どもも呼び寄せることができ、3人目の子供はブラジルで生まれました。
「私がブラジルに来た時は、ほとんどのブラジル人にとって黒人の移民や難民はハイチ人と認識されているように感じました。もっとコミュニケーションを通して、難民と移民の文化的多様性について触れてもらう機会を作りたいと思いました。」
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2018年の難民サッカーW杯でブルーノ・コバスサンパウロ市長(左)から感謝状を受け取るジャン・カトゥンバさん(右)。
6年前に同NGOが設立されて以来、移民や難民がなぜブラジルに来たのかを身近に感じてもらおうと、継続して実施してきたイベントが難民サッカーWカップでした。今年も女子難民サッカーWカップと合わせてブラジル各地でイベントが実施される予定でした。
「年内はサッカーの試合はもちろん、人の集まるイベントの実施は期待できません。その代わりにセスタ・バジカの配布がNGOのイベントになりそうです」
パンデミックの終息が見えない今、多くの難民と移民の家族は、食料がなく、ポルトガル語を話せず、家賃を支払うお金もなく、路上生活を余儀なくされる危機に瀕しています。NGOアフリカ・ド・コラソンでは「難民と移民のための連携SOS」というキャンペーンを通じて、ポルトアレグレ、フロリアノポリス、クリチバ、サンパウロ、リオデジャネイロ、ブラジリアでもセスタ・バジカを配布し、6月7日までに有志の寄付とボランティアによって1800箱が多国籍のブラジル居住者に届けられました。
★NGOアフリカ・ド・コラソンではセスタ・バジカと衛生用品を生活困窮者に配布するため、寄付金を下記の口座番号で受け付けています。1レアルの少額からでもOK。他にも現物で食料品、シャンプー・歯磨きなどの衛生用品、生理用品、紙おむつ、粉ミルクなどを寄付いただける方は、
NGO(facebook : Pdmig-África do Coração)もしくは大浦智子(cel & whatsapp 11-99971-9575)
まで直接ご連絡ください。
【África do coraçãoの銀行口座】
Banco Bradesco 237 - AG 0515 - CC 0005122-5
CNPJ 25.224.617/0001-11
企画・ピンドラーマ編集部 文と写真・おおうらともこ

セスタ・バジカの配布時に米国でジョージ・フロイドさんやサンパウロ市内でアンゴラ人男性が外国人嫌悪で殺害されたことを受け、「人種差別反対」を掲げるジャンさんとNGOのメンバー


~ 第129回 クアレンチーニャ 〜
洋の東西を問わず、共通することわざがある。
この父にして、この子ありーー。ボタフォゴのクラブ史上、最多となる313ゴールを叩き出した名ストライカーは父から受け継いだサッカーの才能をグラウンド上で発揮した男である。ヴァウジール・カルドーゾ・レブレゴという本名で彼を呼んだ者はいない。彼の登録名はクアレンチーニャ。風変わりな呼び名の原点は、ルイス・ゴンザーガ・レブレゴの本名を持つ父にちなむものである。
父の登録名は学校の出席番号が40番だったことに由来するクアレンタ(40)。クアレンタの息子であるが故に、「クアレンチーニャ(小さな40)」になったわけである。
ベレンの名門クラブ、パラーやヴァスコ・ダ・ガマでプレーした父は1920年代から1940年代にかけてFWとして活躍した名ストライカー。そんな点取り屋のDNAはクアレンチーニャにも確かに受け継がれていた。

父が現役時代最後にプレーしたパイサンドゥーのスタジアム近くに住んでいた幼きヴァウジールを、パイサンドゥーの下部組織に連れて行ったのは父だった。
目ざといサポーターがクアレンタの息子を「クアレンチーニャ」と呼んだのはごく自然の成り行きだったのだ。
パイサンドゥーでブレークしたクアレンチーニャは、1954年、リオデジャネイロの名門、ボタフォゴに移籍する。1933年、父がヴァスコ・ダ・ガマに移籍した当時は船旅でリオに向かったが、クアレンチーニャは飛行機でひとっ飛び。そして、ボタフォゴでもゴールマシーンぶりは変わらなかった。
サッカー王国を代表するコラムニストのアルマンド・ノゲイラは生粋のボタフォゴサポーター(余談だがボタフォゴのホームスタジアムの記者会見場は、アルマンド・ノゲイラの名で呼ばれている)で知られるが、ノゲイラはクアレンチーニャをこう評している。
「私はクアレンチーニャのプレーを何度も見たが、敬意を払うべきFWでいかなるGKをもたじろがせる強烈なシュートの持ち主だった」
左利きのクアレンチーニャは、その強烈な一撃が最大の武器だった。そしてボタフォゴではガリンシャがチームに芸術性を、クアレンチーニャがゴールをもたらしたのだ。
ボタフォゴでは442試合で313ゴール。ゴールマシーンとして知られた「小さな40」は、ゴール後に過度に喜びを表さないことでも知られていた。
「僕はゴールを祝うために給料をもらっているわけじゃない。ゴールを決めるためさ」
ペレ擁するサントスとともにブラジルサッカー界の中心に君臨していたボタフォゴのエースは、1958年から3年連続でリオ州選手権で得点王。ブラジル代表でも17試合で17得点という暴れっぷりを見せていたが、1962年のワールドカップチリ大会の直前に半月板を痛めて、招集メンバー外に。代わって呼ばれたのがサントスでペレと黄金コンビを形成していたコウチーニョだった。
現役時代の晩年はコロンビアのクラブを転々とし、1968年にサンタカタリーナ州の弱小クラブでスパイクを脱ぐ。
ゴールを決めても喜ばない男は、ボタフォゴサポーターに313回の歓喜を与え、クラブ史にその名を刻み込んだ。
惜しむらくは1996年、心不全によって62歳の若さでこの世を去ったことである。
ボールを蹴る才能と登録名を父から受け継いだ偉大なるストライカー、クアレンチーニャ---。天国のグラウンドでは父とコンビを組んでいるのかもしれない。