2020年8月号 vol.170

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目次

幻の創刊準備号

Kindleで復刊

 
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もう久しく人に触れてない。文字通り触ってない。

友達にも会ってない、集まってない、1日の平均歩数は12歩。

経済活動は戻ってきたものの、

相変わらず外出は自粛気味で未だにパンデミック前の毎日を懐かしむ。

 

#tbt #W杯2018 #ブラジル #Copadomundo2018 #worldcup2018 #brazil #撮影時の記憶は鮮明 #試合内容と結果の記憶は消去 #最近撮影してない #そろそろネタ切れ #嘘だけど #あと2年は余裕 #オーバーだけど #やれる気しかない #これは本当

 

#tbt:「Throw Back Thursday」の略で「木曜日に昔に戻ろう/思い出そう」という意味。

木曜日になるとこのハッシュタグを入れて一昔前の思い出の写真を投稿する。

鶴田成美(つるたなるみ)

 
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「勝ち負け抗争」に関与した

山下博美(やました・ひろみ)さん

写真・文 松本浩治

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 第2次世界大戦後、ブラジルの日系社会では情報不足から日本の戦勝を信じてやまない「勝ち組」派と、敗戦を認識していた「負け組」派との間で約10年に及ぶ「勝ち負け抗争」が発生した。山下博美さん(83、三重県出身)は皇国崇拝の気持ちから、「決行員」と称して1946年4月1日の野村忠三郎(ちゅうざぶろう)氏と、同年6月2日の脇山甚作(じんさく)元陸軍大佐の両射殺事件に関与した。

45年8月、サンパウロ州奥地で終戦を迎えたが、敗戦を認める気持ちにはなれなかった。それどころか、ブラジルに住む日本人の一部に皇国を誹謗する者がおり、山下さんにとっては決して許せない存在だったという。
 

 45年10月に日本の外務省がスイスを経由して英文で打電した「終戦の詔勅」が日系社会に送られ、敗戦の事実を伝えて混乱を鎮めようとする主旨の集会で「詔勅」を奉読したのが野村忠三郎氏だった。その後、当時の日系社会の指導者たち7人の署名をもとに「終戦事情伝達趣意書」が作られたが、英文での「詔勅」を敵側の仕業と思い込んだ山下さんたちは、グループに分かれて趣意書に署名した人物を標的として「決行」することを決意した。

 サンパウロ州奥地から同志10人が集まり、山下さんのグループ5人はそれぞれに拳銃を携帯して野村氏が住むサンパウロ市ジャバクアラ区の自宅に侵入。野村氏と思われる人物に向かって5人全員が引鉄を絞りこんだ。野村氏は即死だったが、山下さんの拳銃は不発で、5人はバラバラになって逃走。山下さんは運良く逃げ切ったが、他の4人はその後すぐに逮捕された。

 山下さんはスザノ市在住の日本人のもとに匿われた後、その2か月後には逮捕されずに残った他のメンバー4人とともに、今度は脇山氏に狙いを定めた。脇山氏が住んでいたサンパウロ市ボスケ・ダ・サウーデ区に向かった4人は、決行後は自首する覚悟で、家の正面から堂々と扉を叩いた。脇山氏の孫たちが客と思って扉を開け、4人は家人から応接間に通された。脇山氏から「座れ」と促されたが、メンバーは立ったまま自決勧告書と短刀を手渡し自決を迫った。脇山氏が「自分はもう齢だし、そんな気力はない」と言ったところ、メンバーの2人が計3発を発砲し、脇山氏は絶命。この時、山下さんは拳銃を持っておらず、「(脇山氏の)家族が騒いだ時に押えるのが自分の役目だった。決して他の家族に被害がおよぶことはさせなかったが、後から思えば、あれほど大きな騒ぎになるとは思わなかった」という。

 実行後、4人はセントロ区の警察に自首した。カーザ・デ・デテンソン(未決囚留置所)を経て数か所の警察を回され、DOPS(社会政治保安部)の取り調べを受けた山下さんたちは、拷問は受けなかったものの執拗に「誰に命令されたのか」と詰問されたという。

 

「自分は当時21歳と若かったが、誰の命令を受けた訳でもなく、自分の信念で行動した。しかし、そのことを信じてはくれなかった」

 DOPSは山下さんたちの事件を、当時の「勝ち組」組織の一つだった「臣道連盟」の仕業だと疑っていた。しかし、山下さんは臣道連盟が存在する噂は伝え聞いていたものの、その詳細内容についてはほとんど知らなかったという。同年7月、約80人の囚人とともにウバトゥーバ沖のアンシェッタ島へと護送された山下さんは、約1年間を島で過ごした後、サンパウロ市内の未決囚留置所に戻された。

 裁判で31年8か月の刑を言い渡された山下さんだが、刑務所に移送されることなく、留置所内で病理検査の仕事をさせられることになった。結局、予審を入れて15年間拘置されていた山下さんは、61年に仮出所の身となった。その後、留置所で覚えた技術を生かし、ブラジル人医師の協力も得て臨床病理検査師として働いてきた。

「自分たちは決して人を殺したいのではなかった。どこまでも日本人として、その頃の風潮が許せなかった。しかし、その気持ちを(世間は)分かってはくれなかった」

 

 山下さんは時代の波に流されながらも、当時の「日本人」としての思いを持ち続けている。

(故人、2008年8月取材、年齢は当時のもの)

松本浩治(まつもとこうじ)

 
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リリアン・トミヤマ

à beça

 アミール・クリンキAmyr Klinkというブラジル人をご存知ですか?彼は航海士で、大西洋を独りで漕いで横断しました(ナミビアとブラジルのサルバドールの間7千キロメートル)。

『Quatro Cinco Um』という雑誌のポッドキャストのインタビューでこの自粛(隔離)期間に行った実験について語っています。古い手漕ぎボートを出してきて庭に吊るし、その中で一晩過ごしました。

アミール「頭がおかしくなりそうでしたよ」

 

雑誌「しかし、嵐や機器の故障や鮫といった問題に遭遇するより安全な家の中のほうが楽なのでは?」

 

アミール「大変ですよ。海の上ではある場所へ向かいながら作品を作っているという感覚なのです。その感覚が満足を与えてくれます。自分は歴史を作っているのだとわかるのです」

 考えてみると、自粛に対して私たち皆が持っている居心地の悪い感じかもしれませんね。みなさんはいかがですか?何をしてきましたか?

 私の場合は

Eu estou lendo à beça.

です。

 この表現をご存知ですか?

「à beça」は「muito(たくさん)」と同じです。

〈例〉

Na quarentena, ele come à beça.  (= Ele come muito)

(隔離中彼は食べすぎだ)

Ele trabalha à beça. (= Ele trabalha muito)

(彼は働きすぎだ)

Eu falo à beça. (= Eu falo muito)

(彼はよく喋る)

 

 この表現の起源はと言うと、残念ながら、よく知られている説明は実際とは食い違っています。「à beça」は、よく喋るセルジッペ州出身の法律家ギリェルメ・ベッサGuilherme Bessa(1859〜1913)の姓から来ているというものです。そこからよく喋る人は、「ベッサ風に喋る」となった。この説明は2015年5月7日のラジオBand News FMにも出ました。

 しかし、真面目な哲学者や言語学者は皆決してこの説明に同意していません。彼らの間で意見が一致しているのは、フランス語から来ているというものです。起源はフランス語の「à verse」で、「量が多い」という意味です。19世紀から20世紀に変わる時期、フランスはブラジル人の文化的目標でした。一例は1927年エスタード紙のアルトゥール・ネイヴァArthur Neivaの記事で、「ほとんど全ての芸術的及び科学的文化はフランスの雑誌と書物を通じて我々にもたらさせれる」とあります。

 

 今月もお読みいただきありがとうございました。皆が無事にこの自粛期間を乗り切れるようにと願っています。アミール・クリンキとは違って、私はこの自粛をすごい深遠な経験に変える必要性は感じていません。その点では、私は年代記作者のジルベルト・アメンドラGilberto Amendolaに似ています。彼はエスタード紙にこんな気持ちを書いて発表しています。

 

「Covid-19のパンデミックが終わったとして、私は何も新しい宗教を持たないだろう、何も新しい言語を知ることにはならないだろう、ただカフェテリアのぐらぐらのテーブルに座るのを懐かしむだろう、映画館で若者が騒ぐのに文句を言うのが懐かしいと思うだろう、ハグしたいという気持ちを懐かしむだろう…」

 

 Saudade à beça!!

リリアン・トミヤマ(Lilian Tomyama)

 
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物事の本質を曝露させたコロナかな

 このコラムの24人の読者様、コロナ禍の「新しい生活様式」(註1)に馴染んで来られてますか?このところ、5回連続でコロナ関連のひとりごとだったので、今月はもうしないぞと周囲に言っていたのですが、食言してしまいます。サンパウロ市では一通り第一波が落ち着き、規制緩和が進んでいますが、ブラジル全体では6週間連続で死者が1日1千人以上を維持し、この原稿を書いている時点で新型コロナウイルス感染症死者数が8万7千人近くなっています。ブラジルを含む米州全体の感染拡大の理由は諸説提示されていますが、その一つに欧米文化の個人主義があるのではないかと思います。各自が意見を持ち、それに従って行動することが是とされる文化は今回のコロナ禍対策が必要とする社会一体の取り組みでは脆弱性を表します。例えば、当地では新しい生活様式を「novo normal、“新しい正常”」と呼ばれる様になってますが、馬鹿馬鹿しくて笑えてしまうのが、「正常とはなんだ」「正常は人によって違うだろう」「貴方の正常は自分にはそうでない」といった様な論説が多々散見することです。

 

『新しい生活様式は別に各個人の人権や人格を否定しているものではなく、単なる「感染症対策として」普段しなかった行動を生活に取り入れるだけの問題だろ』

 

コロナウィルスを含む、感染症、つまり伝染病の完璧な対策は「病原体に接触しない」であることは簡単に理解できますよね。伝染病に対する予防医学の大前提が「物理的隔離」と「病原体の排除」です。エイズや梅毒の様に一定の行為やマラリアやデングなど一定の場所に特異した伝染病とは違い、コロナは基本的に「人間であること」だけが感染する条件です(註2)。もちろん貧富の差で「感染する確率」や「治癒する確率」の違いはありますが(註3)、これは単に隔離や排除できる経済的余裕の違いだけであり(註4)、生物学的には誰でも罹患します。ちゃんとした教育を受けていないため、状況がわかっていない人達も沢山いますが、それら以外に周りの人間の行動を観ていると、コロナの防疫は自分は関係ないみたいな人結構いますね。サンパウロでいわゆるリベラル派が多い地域では、“保守派政権が提言することなどしないぞ”といった行動に基づく輩や(註5)、日本でもニュースになっていた“マスクなしで外出していたため罰金を科され激高した司法裁判所判事”(註6)のような特権階級意識のため「マスクしない派」がいます。

 

『リベラル派であろうが、特権階級であろうが、そんなこと、ウイルスにわからん。感染するのですけどね』

 

 人間は国家や家族、会社といった共同体を維持することで社会を作っています。今回のコロナ禍で全人類が今まで経験したことのない状況におかれてます。マスク着用や手洗いなどはともかく、人類の存続を危うくする身体的距離(註7)を取らないと命の危険がある(かもしれない)これまで踏み入れたことのない世界を現在我々は生きてます。この様な究極の状況におかれると、 人間の 本質が出るものです。新しい生活様式は他の言い方では「うつさない、うつされない」行動です。これには結局なにが基本的必要かというと、他人に迷惑をかけない、命を奪わないといった「道徳」(モラル)ではないでしょうか?(註8)

 

 感染症に対する道徳も心配ですが、大変危欋すべきではないかと思うのが現在の社会で盛んになっている「遡及的道徳」に基づいたキャンセルカルチャー(cancel culture)です。遡及的道徳とは、「現行の道徳」に合致しない「昔の」行動や作品、あるいはそれらの発言者や作者を批判・攻撃することです。最近おこった、米国の警官による黒人殺人事件が引き金となったブラック・ライブズ・マター抗議の一環で、黒人奴隷に関する歴史的産物や芸術作品を否定する運動にまで発展しています。筆者が大変びっくりしたのが、映画「風と共に去りぬ」を抹消すべきといった運動です。確かに以前から黒人奴隷の歴史を美化した人種差別作品と言われてきてます。しかし、映画作成の教科書的な面などもある重要な作品であることは間違いないですし、映画が作成された時代、そして作品が模写する時代を反映する内容であることを考慮すべきだと考えます(註9)。キャンセルカルチャーは現行の価値観に沿わないモノ(人や組織)をすべて抗議、否定、キャンセル、削除、侮蔑、非売運動などをする行動に至り、主にSNSなどネットで拡散します(註10)。社会の周辺にいる人達が”声を拡大し、不利な現状に挑戦する行為”だと言われます。しかし、キャンセルカルチャーの視点で見ると、人は善か悪かの選択しかなく、その中間や又違った余地がまったくない。米国初の黒人大統領であったオバマ氏すら、気に入らないモノに対して草々に見切りをつけ、接触を完全に拒絶する姿勢は慎むべきであると説いています。

 

 現在我々が生きている世界は、良いも悪いも今まで人類が渡ってきた歴史の賜物です。帝国主義や奴隷制度があって、有害であったモノだったからこそ、現在そのようなコトにならないような社会を築いているのではないでしょうか?間違いから学び、場合によっては責任をとり、そこから得た教訓をみんなで共有し、社会をより良くするのが真の道徳であると思います。リベラルな社会では言論の自由を最重要視しますが、自分たちには言論の自由がないと言って、言論の自由を脅かしていることがわかっていない。異なる意見や価値観を受け入れることによって、学ぶことも多いし、個人の意識の向上になると思います。保守的な特権階級もその特権を失う危険があるので、自分達の価値観を固持するので、結果的には同等ですね。

 

『結局は自分自身を高めるのではなく、他人を見下して、自分のレベルに合わせている。幼稚園だな。マスク不使用も同じ。先が思いやられる』

 診療所のホームページにブラジル・サンパウロの現状をコメントした文章を記載してますので、併せてご覧いただければ幸いです。

 

註1:またかですが、新しい生活様式、または新しい生活習慣とは、「身体的距離確保」「マスク着用」「手洗い」をベースに、換気するとか、健康管理するとか、接触を避ける食事の仕方とか、各行政が提言しているコロナ対策。

註2:感染しにくい人やしない人などもいるようですが、この場合の議論と関係ありません。

註3:いうまでもなく、富裕層の方が自宅隔離やテレワークなどができ、罹患してもより早くより良い医療にアクセスできるので死亡率が比較的低い。サンパウロ市の疫学調査では、社会経済的底辺は上層部に比べると感染確率は3倍。

註4:適当な栄養分を摂取できるかの違いもある。

註5:ポル語でrebeldia ignorante、無知な反抗と呼ばれてますな。

註6:7月18日にサントス市でマスクなしで海岸を歩いていたサンパウロ州司法裁判所判事が市の警備隊にマスク着用を求められ拒否したため、市の条例に基づき罰金を科したところ、「字を読めるのか」と罵り、罰金書類を破り捨て、警備隊の上司にクレームすると強迫した事件。その前日も同じようなことをしていた。

註7:子孫ができませんね。

 

註8 :前述の判事などは、沈没する船から一番に救助艇に乗り移るタイプですな(笑)。

 

註9 :気に入らないから自分は観ないのであれば、それは勝手だけど、それを他人に押しつけるのはどうか。

 

註10:この様な批判を始める人物は「道徳的グランドスタンディング(moral grandstanding):道徳的な話を利用して自分自身の社会的地位の促進を目指す」をして社会的に優位に立とうとすることが多いように見えます。

秋山一誠(あきやまかずせい)

 
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しらすたろう

第53回 実録小説『ケリーの置き土産』

 2020年1月初旬。時刻は17時30分を少しまわったところである。

 

 大型のバスが太郎の住む町のプラッサにとまると、かれとかれの妻になる予定のちゃぎのはほっとした表情を隠さず、いそいそと車内に乗り込んだ。搭乗券の座席ナンバーを確認し、一番前の席に陣取る。優先席扱いなのか、普通の席よりも若干ゆったりしているため、なかなか快適である。車内は冷房が効いているためとても涼しい。外から乗り込んだ瞬間は天国に思えるが、これがしばらくすると極寒に様変わりするのである。『サービス精神=冷房の効き』という項目が社内マニュアルに記載されているのかどうかは知らないが、その体感温度は防寒具なしでは一夜を越せないほどであった。もちろん暖房グッズ貸し出しサービスなどあるはずもなく、心得た乗客たちは皆一様に毛布とまくらを持参してくるのである。
 

 それにしてもこんなに寒かったっけ? 
 

などと呟きながら、太郎はちゃぎのと一緒にペラペラの毛布にくるまった。外にいたときは海パンにティーシャツ姿だったのが、今では綿パンにフード付きのパーカーを羽織り、つま先に靴下、頭にはニット帽まで被っている。今回は約8時間のバス旅で、行き先はバイーア州の州都、サルヴァドールであった。
 

 バスが隣町に向けて出発した。
 

 太郎が何気なく周囲を見回すと、通路を挟んで反対側の席に、どこかで見たことのある顔がいる。とてつもなく懐かしい顔である。が、すぐには誰だか思い出せず、記憶の糸を辿るようにその人物を凝視していた太郎であったが、先方もかれの熱視線に気がついたらしい。こちらを振り向いた折りに目が合うと、過去の記憶が一気に蘇り、太郎の口から「ケリーじゃん」という言葉がすんなりと出てきたのである。


 ケリーは、太郎がこの町に来て初めて交際した金髪娘、アスクレイアの叔父にあたる人物である。が、諸事情により、今は叔母という呼称の方がふさわしいかもしれない。平たく言えばオカマなのである。もっとも2011年に太郎が出会った頃にはすでにタマナシだったので、彼女が男だった時代のことは知らない。とはいえ、久しぶりに会ったケリーは、昔よりも女っぷりが良くなっているように見えた。ガリガリではないくらいにほどよく痩せていて、テラテラのスパンコールスーツにフェイクレザーのバッグを合わせている。もともとCacheado(巻き毛)である髪も、ストレートパーマでさらさらヘアーになっているのであり、オカマらしく身なりには気を遣っている様子である。ここ数年姿を見かけなかったが、どうしていたのだろう?
 

 と疑問をぶつけようとした瞬間、太郎はあることを思い出した。ケリーはちゃぎのの通うカポエイラグループの若きリーダー、エルラン先生の母親が経営する小さなレストランで長年働いていたが、あるときを境にぷっつりと姿を現さなくなったのである。程なくして流れてきた噂が、『ケリーが家族の金を持ち逃げして行方をくらませた』というものであった。事の真偽はわからない。ただ『火のないところに煙は立たぬ』という言葉があるように、何らかのトラブルがあったものと推測される。オカマという特異性から、噂だけがひとり歩きしている可能性もあったが、ひとつだけ確かなことは、彼女が太郎の住む町から姿を消してしまったことであった。


 そのケリーが目の前にいる。聞きたいことは山ほどあったが、内容が内容だけにストレートに尋ねることは憚られた。それにサルヴァドール行きのバスに乗ってるということは、今では州都在住なのであろうか。ジャブがわりに訊いてみると、あっさり「隣町で降りる」との返事がかえってきた。彼女は太郎の家から50キロほど離れたトリュンフという町に住んでいるらしい。「最近、こっちに引っ越してきたのよ。やっぱり家族の近くはいいわね」などとしんみりした調子で語っていたが、ケリーの家族は今もこの町に住んでいるはずであり、わざわざ隣町に居を構えたということは、親類縁者とのわだかまりがまだ解けていないのかもしれぬ。太郎はふとそう思ったが、これ以上は下衆の勘繰りだ。噂の件については触れないでおくことにした。


 型通りの挨拶を終えると、ケリーはそわそわした様子で、「ちょっと失礼」といいながら、バスの最後部に設置されているトイレへと向かっていった。しばらくしてもどってきたケリーは、素知らぬ顔で座席に腰をおろしたが、彼女の動きによって発生した微風に、太郎とちゃぎのはただならぬ気配を感じとった。明らかに『悪い空気』をまとっているのである。そのふんわりとした臭気をかぎとった瞬間、太郎は素早く鼻呼吸から口呼吸へと切り替えた。自己防衛本能というやつである。ちゃぎのは顔をしかめながら、「ケリー、ものすごいの投下してきたんちゃうか」と小声でいい、太郎は無言で頷いた。自分たちは最前部にいるからまだいいものの、トイレ付近の乗客たちの心境はいかばかりであろうか。かれは尿意を感じていたが、さすがに今、震源地に出向く気にはなれない。当のケリーは、何事もなかったかのようなすまし顔で窓の外を眺めていた。とてつもなくイノセントな様子である。


 市街戦でもあったのかと思うくらいに、ボコボコに穴が開いたアスファルトの道をバスは慎重に走っていった。タイヤが穴にはまるたびに車内がゆれる。空気がゆらぐ。そのたびに汚染されたエアーが室内を循環するのである。鼻呼吸から口呼吸に切り替えていた太郎は、かろうじて平静を保っていたが、もし乗客にパニック障害などを患ってる人がいたら発狂してしまうかもしれない。そんなことを考えているうちにバスが隣町の入り口付近に差しかかった。すると「お先っ」とか言いながら、ケリーが軽やかに降車していき、バスは次の乗客たちの待つ停留所へと向かっていったのである。


 小さなプレハブ小屋の前には、たくさんの人たちが列をなしていた。それまでは車内の半分にも満たない乗客数であったのが、これで一気に満席となりそうな勢いである。気になるのはケリーの『置き土産』についてであった。いかに冷房が効いているとはいえ、満席の人いきれは侮れない。それに加えて、あの悪臭である。快適なバス旅など望むべくもなく、地獄のサルヴァドールツアーになることは想像するに難くないのである。口呼吸をしながらちゃぎのに懸念を表明していると、新たに乗客となった若い女性が、最後方から人をかきわけるようにして運転席までやってきた。


「Tá fedendo demais!! Tá fedendo demais!!(めちゃ臭えぞ!めちゃ臭えぞ!)」


 若者らしい素直さで、バスの最後部から漂う激烈な臭気に抗議をしているのである。決して安くはない運賃を支払っている客に対し、この仕打ちはなによ!と、青筋をたてて激怒しているので、やはり最前部と最後部では被害の度合いがまるでちがうのだろう。この若い女性の一声をきっかけに、後ろの方の席に座っている乗客から一斉に「掃除をしろ!」「金返せ!」「フィーリョ・ダ・プウタ!」などの声が飛び、車内は異様な熱気に包まれた。バスの運行スケジュールでは、トイレ掃除はここから数時間離れた町で行うことになっていたが、そんなことにでもなれば暴動はまぬがれない。急遽、停留所スタッフであるおばちゃんの計らいにより、化学薬品でケリーの『置き土産』を消毒することになった。そうしてようやく、乗客たちの興奮が収まったのである。


 強烈な薬品の匂いが車内に漂っていたが、『さっきの』よりはマシだと、文句をいう者はひとりもいなかった。


 ケリーの置き土産。


 それは強烈な印象を残し、乗客たちの記憶に生涯刻みつけられることになるだろう。


 サルヴァドールまであと約7時間。


 バスが再び走り始め、太郎とちゃぎのは身を寄せ合うようにしてペラペラの毛布にくるまったのである。

しらすたろう

 
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岸和田仁

ジュディス・カーネイ

(植物地理学者、カリフォルニア大学大学院)

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「1695年、ブラジル南東部のミナスジェライスで金が発見されたが、この発見が、奴隷労働に依存していたブラジルという植民地に新しい次元を付加することになった。従来の奴隷需要は沿岸部の砂糖プランテーション向けであったが、この時点以降は内陸部の山間地帯で新しく発見された金鉱へ需要が拡大することになった。一攫千金を狙う連中が多数流入し、川沿いにも山沿いにも金の採掘場が設営されていった。金の塊はふるいにかけられ、金の細かな粉は水洗式で掬い取られていた。ミナスの金鉱の生産性は高く、利益率もすこぶる高かった。18世紀の100年間、ブラジルで掘られた金は全世界の供給量の8割に達した。さらに1720年代になってダイアモンドが発見されたことで、アフリカからの黒人奴隷輸入に一層の弾みがついた。ブラジルの鉱業は、サトウキビ同様、奴隷労働力のおかげで成り立っていたのだ。

 この新しいエルドラードへの食料供給は恒常的に不足していたが、奴隷たちが自分で農地を耕して自給作物を得ることは許されなかった。その結果、奴隷の死亡率は極めて高いものとなった。」

 米国における稲作は、サウスカロライナ州沿岸部の低湿地で17世紀末に始まったが、その米作のパイオニアとは西アフリカから強制連行された奴隷たちであり、種子も彼らが持ち込んだものであった。このファクトを植物地理学の視点から研究・分析した成果を『Black Rice』(2001年)として発表したのがカリフォルニア大学教授Judith A.Carneyであったが、彼女の主著といえるのが次作『In the Shadow of Slavery(奴隷制の不可視的影響)』(2009年)であった。サブタイトルが、「大西洋世界におけるアフリカの植物学的レガシー」となっているように、この労作は、膨大な史料・関連文献を読み込み、並行して植物地理学的調査も行ったうえで、奴隷貿易によってアフリカから米大陸に持ち込まれた人、モノ(植物・動物)の重要性を、解読した作品である。

 この著を、二年前、たまたま訪問したノースカロライナ州セーラム市歴史博物館の土産売り場で見つけた筆者は、一読してその内容の濃密さに驚嘆した。黒人問題関連図書部門の“登竜門”フレデリック・ダグラス賞を受賞しているだけあって、文章も読みやすく、アフリカ起源の植物や食物が南北アメリカ大陸の食文化を豊かにした経緯が巧みに叙述された歴史書となっている。もちろんブラジルに関する記述も実に多様にして豊潤である。

 例えば、ブラジルで今でも広く食べられているアングーは、マンジオカ粉ないしトウモロコシ粉を原料とする粥であり、地域によってはバナナを原料とすることもあるが、19世紀初頭のブラジルの風景や社会を絵筆で記録したフランス人画家ドブレの記録によれば、奴隷女たちが市場でマンジオカ原料のアングーを売っており、オクラや野菜類と一緒に食していた。これはカリブ諸島のサトウキビ・プランテーション社会でも、同様で、ドミニカ(共和国)ではマングー、プエルトリコではモフォンゴ、キューバではフフーと呼ばれており、そのルーツはアフリカだ。地域としては西アフリカのガーナ、ナイジェリア、カメルーンで、原料はタロイモやヤムイモといった塊茎類だが、米大陸に来て地元原材料をベースとする食品に転化したのだ。

 冒頭に引用したのは、18世紀から19世紀にかけて多数出現した南米各地の逃亡奴隷村(マルーンないしキロンボ)における自給戦略についての章の初めの部分だが、本著の主張を要約している部分も次に引用しておきたい。

「ポルトガル船によって西アフリカ社会へ導入された、新世界のトウモロコシとマニオクが歴史的に重要だと強調されすぎるため、アフリカは恒常的に食料不足で苦しむ大陸だ、との現代のイメージが固定化している。だが、新大陸の作物がアフリカに導入された時代は、アフリカ原産の農作物がアメリカ大陸に伝わった時代でもあった。(中略)

 イスラムのキャラバンやポルトガルのカラベル船(帆船)がアフリカ大陸に到達するずっと以前から、アフリカの住民は有用植物や動物の栽培・飼育を始めていた。グローバルな食料供給へのアフリカ人の貢献は、100種類を超える品種からも明らかだ。アフリカから世界に拡散した作物としては、トウジンビエ(食用稗)、ソルガム、コーヒー、スイカ、ササゲ、オクラ、パーム油、コーラの実、タマリンド、ハイビスカス、コメ(数品種)などだ。コカコーラ、パーム石鹸、ウスターソースなど日常的に使われる消費財はアフリカで栽培された作物なしには成立しない。こうしたアフリカの、世界有用植物の歴史への貢献は、ほとんど認識も評価されていない。」

岸和田仁(きしわだひとし)

岸和田仁の著書

 
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下薗昌記

〜 第130回 エドゥー・マランゴン 〜

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 「ゴール未遂」でさえも、人々を魅了してきたのが王様ペレ。1970年のワールドカップメキシコ大会、チェコスロバキア戦でペレは相手GKが前に出過ぎていると見るや、ハーフライン手前から超ロングシュートを放ち、惜しくも枠を外したことがあった。

 そんなペレを超える「ゴール未遂」を見せたのは魔法がかかった左足を持つエドゥー・マランゴンだった。

 舞台は1985年のサンパウロ州選手権の決勝、対サンパウロ戦だ。ポルトゥゲーザのエースだったエドゥーがその輝きを見せた。決勝第1戦は3対1で敗れているポルトゥゲーザは第2戦、追い込まれた状況に立たされていた。

 開始早々、サンパウロGKのジウマールのポジションを確認するとエドゥーは自陣から豪快に左足を振り抜くと、ボールは2度クロスバーにあたるという奇跡のような外れ方を見せ、得点には至らない。

 しかし、その瞬間、エドゥーのキック精度は王様がかつて見せた軌道の美しさを超えていた。

 1963年、サンパウロ市で生まれたエドゥーの本名はカルロス・エドゥアルド・マランゴン。エドゥーは言わずと知れたエドゥアルドにちなむものである、古き良き時代の背番号10の象徴とも言えるプレースタイルの持ち主だった。エレガントなプレースタイルに、当時の背番号10に不可欠だったフリーキックも武器に持ち合わせていた。

 「ボーイ・ダ・モオカ」愛称で知られた天才キッカーは、イタリア系移民が多いモオカで生まれ育ったが、最初に門を叩いたのはイタリアのユベントスにちなんだ名を持つジュベントゥス。左利きの天才少年はポルトゥゲーザに見初められ、プロの世界に足を踏み入れるのだ。

 1985年のサンパウロ州選手権では準優勝に終わったものの、その後エドゥーはイタリアのトリノやポルトガルの名門ポルトなどでプレー。そしてエドゥーはそのキャリアにおいて最大の挑戦に挑むのだ。

 ポルトに在籍していたある日、エドゥーの自宅の電話が鳴った。代理人から聞かされたのはフラメンゴからの誘いだった。

「大きな挑戦ということに加えて、条件も良かった。それにフラメンゴでプレーしたくない奴なんていないだろ」

 フラメンゴで1度目の引退を迎える間際だったジーコとともにプレーしたエドゥーだったが、期待されたのは「ポスト・ジーコ」としての役割だった。しかし、フラメンゴではわずか一年プレーしたのみで出場は15試合。しかし、エドゥーはすぐに幼い頃からの夢を果たすことになる。

 次なる誘いはサントスでのプレーだった。託された背番号はペレの代名詞でもあった背番号10。

「僕の子供の頃からの夢は、サントスで10番を付けることだった」

 今でこそ復権を遂げているサントスではあるがエドゥーがプレーした当時は暗黒時代だった。1984年のサンパウロ州選手権優勝を最後に栄冠から遠ざかっていた港町の名門で一年プレーしたエドゥーはその後、パウメイラスなどを経て、極東の島国で新たなキャリアをスタートさせた。

 今は存在しない横浜フリューゲルスでも背番号10を与えられたエドゥーは元ブラジル代表の肩書きでも注目を集めたが、未だに日本のJリーグファンの記憶に残るのはそのフリーキックである。

 

 1994年、ジュビロ磐田相手に40メートルの超ロングフリーキックを叩き込んだエドゥー。当時の実況したアナウンサーは「こんなゴールが見られるのは30年後」と興奮気味に話したが、ジュビロ磐田戦からわずか一週間後、ベルマーレ平塚(現湘南ベルマーレ)戦でやはり、エドゥーはFKからスーパーゴールを叩き込んでいる。

 

 1997年の現役引退後、監督としては必ずしも大成しなかったエドゥーだったが、その左足から放たれた美しい球筋はブラジル人と日本人の記憶に刻み込まれている。

下薗昌記(しもぞのまさき)

下薗昌記の著書

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写真・文 田中規子

第95回

ルビンRubim、マカエMacaé

和名メハジキ、益母草

学名:Leonurus sibiricus

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 コロナヴィールス蔓延により、いつもより健康には気を遣うようになった。とはいえ栗の木の剪定はしなきゃいけないし、乾燥が続いているので水かけを準備したりでやはり多忙で、食事がおそろかになりがちなのは改めたいところだ。

 その他、病院には行かなくて済むようにするのはどうするのか、ということも気を付けようと思っている。そこで関心があるのが薬草だ。ブラジルにも様々な薬草があるが、アジア原産でブラジルに自生している薬草もある。雑草とおもっている容易く目にする草も調べてみたら薬草であることも多いようだ。

 ブラジルではルビンRubim、マカエMacaéと呼ばれる雑草はアジア原産で、和名はメハジキ、益母草(ヤクモソウ)という名前である。ブラジルのと日本のとでは学名が少し違うので品種は違うが、同じように薬草として使われている。ブラジルでは全国的に自生しており、特に南部と南東部に見られる。

 シソ科の植物で2年生。20㎝~80㎝ぐらいの高さの草になる。葉は発芽のころは丸く、成長すると星形の葉になる。花は7月から9月にかけて咲き、紫の小さな花をつける。花にはミツバチや特にクマバチが群がる。クマバチが好きなため、別名クマバチの草(Erva dos zangões)とも呼ばれている。夫も子供のころ、ルビンに来るクマバチをとって遊んだといっているが、案の定刺されたらしいので真似はしないほうが良さそうだ。

 

 薬効は利尿作用、血圧を下げる、抗炎症作用、喘息に効くとされている。茎、葉、花全て薬草として使え、花は喘息に効く。お茶にして飲むが苦いらしい。薬草としての歴史は紀元1世紀に薬として使われた記録があるとか。日本でも利尿作用、血行を良くするなどの薬草とされている。ただし、妊産婦の使用は控えたほうが良いとのことだ。また薬草以外の利用方法として、乾燥させて粉末状のものはフェジョン豆の倉庫におくとゾウビチュウの防虫効果がある。

 

 とはいえ、ブラジル全国にはびこるこの雑草は、コーヒー園、バナナ園、野菜畑には悪影響をもたらしている。ルビンがレタスの成長を抑制し、果樹園にもいい影響を与えない。粘土質の土壌では非常に増殖し、除草が大変になる。私の栗園でも若干みられるが、まだそんなにはびこってはいない。適度に草刈りなどで防除しつつ、薬草として使えるかどうか実験してみたいものだと思っている。いまのところは夫婦2人とも高血圧もないしお世話になることはなさそうだが、まずは夫に試してみてもらえればと密かに思っている。抗炎症作用あたり、どうだろうか。いやまずは効能の実験より使わなくてすむように健康でいるようにしよう。

田中規子(たなかのりこ)