2020年9月号 vol.171
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目次
鶴田成美
松本浩治
リリアン・トミヤマ
秋山一誠
白洲太郎
おおうらともこ
下薗昌記
幻の創刊準備号
(2006年6月号)
Kindleで復刊
先月号
(2020年8月号)
Kindleで入手可能です


日本人は無宗教という割にはお守りやお祓いを当たり前に受け入れ、何かと神社やお寺にお参りに行く。
田舎道に静かに佇む祠を前にお供え物をして、手を合わせると突然風が吹き、森の木たちがわさわさと音を立てる。
何人かはこの文章を読んで「風」の存在を宗教的なものに結びつけたのではないだろうか。
日本人は文章から自分が体験しているような感覚を得て、さらには擬音を脳内で再生できるという研究を読んだことがある。
他にも「間」「無」「情緒」「わびさび」など西洋人には理解しがたい感覚を持っているのは周知の話だ。
このように特殊な感覚を持つ日本人は宗教に関係なく「何か」を感じるのに長けているのではないだろうか。
その光景を前にして時が止まり周りから音が消える感覚はきっと多くの人が経験したことがあるような気がする。
鶴田成美(つるたなるみ)

写真・文 松本浩治
コチア青年の佐野米夫(さの・よねお)さん

「自分の夢は何とか、叶えることができました」—。
こう語るのは、アクレ州のリオ・ブランコ市に住む佐野米夫さん(69、福井県出身)だ。第1次14回コチア青年として、1958年5月17日にサントス港に到着。アチバイアの横川農場、バストスの畑中農場で4年間の任期をまっとうしたあと独立し、南マット・グロッソのドゥラードスを経て、リオ・ブランコへと渡った。
実家が米作りなどの農業を営み、少年時代は養蚕などの手伝いも行なっていたという佐野さんは、戦前、満州に行っていた兄・金蔵(きんぞう)さん(故人)の影響を受け、「土地の大きなところに行きたい」との思いをずっと持っていたという。
地元・若狭高校の農林科を卒業し、京都の製材所に4年間勤めた経験を持つ佐野さんは、コチア青年の募集雑誌などで知り、ブラジルに行くことを決意。当時の日本は失業者も多く、当初は自衛隊にも願書を出し、入隊する気持ちもあったが、家族からは猛反対されたという。
「兵隊はダメだと言った親や兄弟たちも、ブラジル行きには反対しませんでした」
と語る佐野さんは、三重県鈴鹿市での事前研修、神戸移住センターでの生活訓練を経て、58年3月末に「さんとす丸」に乗り込んだ。その頃、伝染性結膜炎の「トラコーマ」が流行し、佐野さん自身もトラコーマにかかってしまった。ブラジル移住にあたって、名目上の検査は通ったものの、「他のコチア青年でも(トラコーマのため)目薬を差している人が何人もいた」状況だったという。
コチア産業組合により、アチバイアの横川農場に配耕された佐野さんは約1年間、同地でトマト作りや野菜の農薬散布などの仕事に携わった。農場主がバタタ(ジャガイモ)で借金を作ったために移転を余儀なくされ、バストスの畑中仙次郎(せんじろう)氏の農場へと転住。畑中氏は当時のブラジル拓殖組合(ブラ拓)支配人で、その長男は同地の日系市長にもなるなど、名を馳せていた。
「畑中さんはパトロン(雇い主)でありながら、人間的にも優しい人でした」
アチバイアでの1年を合わせて、コチア青年としての4年間の義務農年をバストスで果たし独立。同じコチア青年のパトロンの配慮で南マット・グロッソ州ドゥラードスに土地を借りることになった。そのパトロンは、サンパウロ州高等裁判所判事だった渡部和夫(わたなべ・かずお)氏の兄だったという。独立資金は一切なかったものの、畑中氏は佐野さんたちが独立する前にトラクターを貸し出し、自立するための手助けを行なってくれた。
ミカンの苗や野菜作りを行なっていた佐野氏は、その数年後には自分の作った生産物をフェイラで販売するようになっていた。その時知り合ったのが、アサイ(パラナ州)出身の芳子(よしこ)夫人(2002年に死去)だった。結婚して10年後に芳子夫人の兄がリオ・ブランコに土地を買ったことが契機となり、佐野さんも同地への再移住を決めた。当時いた日本人家族はわずかに3家族のみ。
「入植当時は野菜も何もない。マモン(パパイヤ)の青いのを煮て食べていました」
と佐野さんは当時を振り返る。
義兄が購入した土地は1万アルケール(約2万4千ヘクタール)。1ヘクタールが、20センターボほどの安価な時代だったという。当初は10分の1の土地を譲り受ける予定だったが、現在の土地は50ヘクタールに過ぎない。義兄は300〜400ヘクタールほど土地を開いたが、正式な地権を持っていなかったことなどから、大半の土地はFUNAI(先住民保護財団)の保護地区となった。
農作業に追われ、子供たちと一緒にいた時間が少なかったという佐野さんだが、子供たちの教育のためにキナリーの町などに家を借りて学校に通わせた。
現在は日本での出稼ぎで資金を貯めて帰伯した息子たちが、農業生産を引き継いでいる。佐野さん自身もキュウリや柑橘類などの生産活動を行いながら、悠々自適の日々を送っている。農業を一貫して続けてきた佐野さんは
「まあ、自分の夢は叶ったと思っています」
と、陽に焼けた顔をほころばせていた。
(2005年5月取材、年齢は当時のもの)
松本浩治(まつもとこうじ)

リリアン・トミヤマ
A fim de ~
量り売りのレストランはずっとブラジルで成功してきました。このシステムは1980年代に登場し、商業、事務所、ショッピングセンターがたくさんある地区にあります。
ABRASEL(ブラジル・バー・レストラン協会)の会長によると、パンデミック前は量り売りレストランが27万軒ありましたが、そのうちの30パーセントが閉店してしまったとのことです。
そのため、パンデミックを生き延びるために、多くのレストランがデリバリーサービスを始めています。あるいは、客がまず手袋をはめて空の皿を持ち、食べ物を指差すと、従業員が皿に入れるという風になっています。行列はソーシャル・ディスタンスで各々が1~2メートル離れています。結局、量り売りはスピードが売りだったのですが、それがなくなってしまいました。
しかし実際、認めるのは悲しいことですが、これらのレストランはパンデミックを生き延びるために必死なのです。
そこで、今月のレッスンは「~するために」です。
実際さまざまなオプションがあります。
ビジネスシーン(フォーマルな場面)では「a fim de~」を使うことができます
<例>
A fim de evitar o contágio da Covid, reforçamos a higienização.
(Covid感染を避けるために、衛生を強化した)
A fim de proteger os funcionários, a empresa reduziu as reuniões internas.
(社員を守るために、会社は社内の会議を減らした)
A fim de impedir o avanço da Covid entre os funcionários, estabelecemos um comitê de crise.
(社員間の感染拡大を食い止めるために、危機委員会を設置した)
「A fim de~」という前置詞句はフォーマルなもので、ほかの表現もあります。「Para~」です。こちらはフォーマルな場面でもそうでない場面でも使えるので便利です。
<フォーマルな場面の例文>
Para evitar o contágio da Covid, reforçamos a higienização.
(Covid感染を避けるために、衛生を強化した)
Para proteger os funcionários, a empresa reduziu as reuniões internas.
(社員を守るために、会社は社内の会議を減らした)
Para impedir o avanço da Covid entre os funcionários, estabelecemos um comitê de crise.
(社員間の感染拡大を食い止めるために、危機委員会を設置した)
<くだけた場面の例文>
Para emagrecer, ela cortou os doces.
(痩せるために、彼女はスイーツをカットした)
Para entrar na universidade, ele estuda muito.
(大学に入るために、彼はものすごく勉強している)
今月もお読みいただきありがとうございました。この危機を乗り越えられるよう頑張りましょう。前へ進んでいくためには、ブラジルのさまざまな面に磨きをかけていかなければなりません。エドゥアルド・プラグマシオ・フィーリョEduardo Pragmácio Filhoとリサ・トミヤマLissa Tomyamaがエスタード紙に寄稿した「パンデミック時代に家族と仕事のバランスをとる」という記事にこういう一節があります。
「前に進んでいかなければならない。パンデミックにより引き起こされた社会的隔離によって、政府、組合、企業がもっとうまく機能しなければだめなのだということが露呈した・・・」

しらすたろう
第54回 実録小説『しらすたろうがダントツ』
2020年8月上旬。
世界は変わらず、新型“マザーファッキン”コロナウイルスの蔓延に悩まされており、好転の兆しは一向に見えてこない。太郎が拠点とするブラジルは、よりにもよって世界第2位の感染者数を誇る『コロナ先進国』なのであって、一瞬たりとも気の抜けない状況が続いている。
先月、ついに太郎の住む町にも数名の感染者が確認されたが、最近になって『全員回復』の報が市役所からもたらされたばかりである。よって、現在の感染者数は『0』なのであるが、文字通りの『ゼロ』というわけにはもちろんいくまい。近隣の市町村でもチラホラと感染者が出始めているし、町の入り口で簡易的な検疫を行ってはいるものの、ブラジルらしいおおらかさで完璧とは程遠い。中途半端な我慢を数か月にわたって強いられている住民の忍耐力もそろそろ限界に近い様子である。
近隣の町への行商が禁止されてから4か月以上が経ち、白洲太郎はモヤモヤとしたイラだちを感じていたが、それは仕事ができないからではなかった。幸いなことに、地元の市場への出店は許可されていたため、週に2日は安物アクセサリーを売ることができ、生活費に困ることはなかったのである。
では太郎が何にイラだちを感じていたのかというと、一向にブレイクしない自らのYouTubeチャンネルに対してであった。チャンネルを開設したのが今年の4月23日であるから、丸3か月以上が経過したことになるが、満足する結果は残せていない。考えてみれば当然である。どこの馬の骨ともわからぬ者が、歯並びの悪い顔面を晒しながら、日常の出来事をざらざらの動画で投稿しているのである。そんな映像を喜んで見てくれる視聴者がいるとすれば家族ぐらいなのであって、事実、動画を投稿し始めてから1か月くらいの間は、『安否確認にはなる』という両親の感想が届くのみであった。再生回数は2ケタが当たり前で、ひどいときは自分で再生した回数しかカウントされていないこともある。とにかく他人に見てもらえないのである。しかし他のチャンネルに目を向けてみると、海岸で野良猫を撮影しただけの映像が100万回再生されていたり、テンションは高いけど面白いとは到底思えない若者のおバカ動画が50万回再生されていたり、芸能人でもない女が顔も出さずに淡々と朝メシを食べてるだけで10万回再生されていたりと、とにかく納得がいかないものばかりなのである。
太郎のYouTubeのホーム画面に流れてくる映像はどれも最低1万回以上は再生されていて、自分のソレとは比べるべくもない。1万回どころか1000回の再生ですら太郎にとっては夢のまた夢である。誰かに見られているという感覚はほとんどなく、YouTubeという広大な海を、ペットボトルのキャップに乗って航海している一寸法師のような心境であった。誰にも発見してもらえずに大海を彷徨う漂流者。誰かオレを見つけてくれ。見つけてくれよぉ~!!という叫びはしかし、濃霧の前に虚しくかき消される……。
意気消沈の日々を過ごす太郎であったが、時間はあり余っているのでとにかく動画を作り続けることにした。ノリ気でなかったちゃぎのも少しずつ協力してくれるようになり、試行錯誤の毎日が続く。そうしているうちに、少しずつではあるが、家族以外の視聴者からも反応が得られるようになってきたのである。数は少ないが、動画を投稿すれば必ずコメントをくれる人も現れはじめ、太郎は徐々に元気を取り戻していった。そして、かれの自信をもっとも回復させたのは、ある視聴者からのこんなコメントであった。
『私の好きなYouTubeチャンネルはしらすたろうがダントツ一番で、2位以下同率で、Operação de Risco、きまぐれクック、ナオキマンショーです』
思わず何度も読み返してしまったタロー・シラスであったが、間違いなくそう書いてあるのである。
普段YouTubeをまったく視聴しない太郎はそこにある自分以外のどの名前にも馴染みがなかったが、まずは、とばかり『Operação de Risco』を検索してみると、チャンネル自体は『RedeTV』のものでブラジル警察が犯罪現場に踏み込んでいくドキュメント番組であった。再生回数は平均で30万回くらいであろうか。動画によっては80万回以上再生されているモノもある。このコメントをくれた人物はどうやらポルトガル語を解する人物らしい。などと思いながら、続いて『きまぐれクック』をチェック。魚介を扱った料理動画がメインのチャンネルで、なんと登録者数364万人である。サブチャンネルの118万人と合わせると、合計登録者数482万人を誇る化け物のような人物であった。続いて『ナオキマンショー』を検索してみると、『ミステリー、スピリチュアル、精神世界、宇宙、陰謀、都市伝説、ライフハックなどのネタをアップしていきたいと思います』という紹介文とともに、登録者数130万人という数字が目に入る。『きまぐれクック』ほどではないにしろ、超一流の数字といっていいだろう。
130万人……。冷静に考えるとものすごい人数である。視聴者に需要のある動画を提供し続けた結果なのであろうが、まさに天上人のような存在であって、『きまぐれクック』に至っては『神』にも等しい存在に思える。
しかしである。これらのYouTubeエリートたちを引き離して、『しらすたろうがダントツ』と言い切る人物が存在するとは誰が想像したであろう。まったくもって慧眼と言わざるを得ないが、このコメントによって不死鳥の如き復活を遂げた『ブラジル露天商しらすたろう』は、再び動画を投稿する意欲が湧いてきたのであった。
その後、少しずつチャンネル登録者も増え始め、動画の再生回数もどうにか3ケタは行くようになった太郎であったが、ブレイクの兆しは依然として皆無である。今後も爆発的に伸びることはなさそうに思えるが、くじけそうになったときにはこの言葉を思い出せばいい。
しらすたろうがダントツーー。
枯渇した身体に潤いが広がっていくこの魔法のような言葉を、太郎は来る日も来る日も唱え続けているのであった。

第16回 セネガル編
●正真正銘アフリカの母
サンパウロで通称「ママ・アフリカ」と称され、文字通り母のような存在として、セネガル、モザンビーク、ナイジェリア、アンゴラ、カメルーン、コンゴなど、近年アフリカ各国から来たアフリカ人に慕われているのが、セネガル人のジアモウ・ジオップDiamou Diopさん(60歳、ダカール出身)です。
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この5年くらいの間でより目立つようになったヘプブリカ広場に近いバロン・デ・イタペチニンガ通りに立ち並ぶアフリカの露店市(フェイラ)。実はこの通りで最初にアフリカ製品のフェイラを始めたのもジアモウさんでした。自身の才能とセネガル人や身近な人々のサポートネットワークにより、ブラジルでの人生を切り開いてきた勇敢な女性です。
通称ママ・アフリカのジアモウさん
●船でサントス港に到着
ジアモウさんは2007年、セネガルから船でサントス港に到着しました。セネガル社会の貧しい経済情勢の中からより良い生活を求めてのことでした。
セネガルではいつも何かを販売して生計を立て、ゆで卵やオレンジを販売して子ども3人と母親を支える時期もありました。今もセネガルに暮らす家族たちに仕送りをしています。ブラジルに来る前に半年間キューバで過ごしたこともありましたが、一旦セネガルに戻り、その後、航空券代もなくどこの国のビザも取得できずでしたが、最終的にブラジルがジアモウさんの新しい人生の舞台となりました。
ビザなしでの入港でしたが、サンパウロに到着後、ギニア・コナクリ出身の友人が貸してくれた家に暮らし、難民申請を行いました。そして、2009年の恩赦で難なく永住ビザを取得できました。
「神様とブラジルには感謝しかありません!」
と笑顔のジアモウさん。
「ブラジルが大好きです。セネガルではまともな食料も健康も確保できません。ブラジルでは無料の医療機関もあります。ブラジルはパンデミックでもセスタ・バジカ(基本食料の詰合せ)が必要な人々に配布されて食べるのにも困りませんでした。セネガルでは考えられないことです」
●アフリカ製品の輸入と服飾の制作
「ブラジルに来たばかりの時、初めて私の服装を見た人からマクンベイロ(アフリカ由来のブラジルの宗教信徒)と見なされ、隣にも座ってもえないことがありました。でも、今はどうでしょう!ブラジル人がアフリカの衣装を購入してくれます。通りにもこんなにアフリカ製品を販売する人が増えました。今ではブラス地区で中国人がアフリカ柄の布地のコピー商品まで販売しています!」
ジアモウさんは2008年にサンパウロでアフリカ製品の販売に着手しました。最初は大学の企画として参加しました。その後、2011年頃からバロン・デ・イタペチニンガ通りでアフリカ直輸入の布地や雑貨、服飾品などを本格的に販売し始めました。
「サンパウロのショッピングエリアでカラフルな色の服を着て布地を買っている人々を見た時、なぜセネガルから布地を持ってこないのだろう?と思いました。それからアシスタントを雇い、アフリカ製の布地を使って縫製業も開始しました」
と振り返ります。現在は自宅で2台のミシンを使って、セネガルからブラジルに来た娘さんも一緒に、日々服飾品や小物類を制作しています。
サンパウロで最もよく販売されている布地は、バティック技法(ろうけつ染め)でカラフルな色柄がプリントされた綿生地です。手作業で描かれた独特なデザインも少なくありません。
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セネガルの伝統的なデザインのシャツ「BOUBOU」
ジアモウさんが制作する服のデザインで代表的なものは、伝統的なセネガルの「boubou」です。boubouはチュニック(腰からひざ丈の服)で、襟周りがU字型に様々な装飾デザインが施されています。男女共用のポピュラーな商品で、誰でも気軽に着こなすことができます。
他にターバンも代表的な商品です。アフリカの人々にはなじみがあり、皆おしゃれに着こなしています。ある時、そのおしゃれ感が買われ、抗がん剤治療で髪の毛の抜けたブラジル人がテレビ出演する時に使用されたこともありました。
●結束のあるセネガルコミュニティー
「ポルトガル語は今もできないわ!サンパウロに着いた時、カリタスの開いているポルトガル語教室に3か月通ったけれど、何も頭に入らずじまい!」
とあっけらかんと明るいジアモウさん。彼女の第一言語はウォロフ語。旧宗主国のフランス語は公用語です。ポルトガル語で特に悩んだこともなく、人々とのコミュニケーションを通じて自然と覚えてきました。フェイラや縫製業だけでなく、SESCで服飾の講師や講演活動を行ったり、様々なNGOの活動にも参加したりしています。
「ブラジルのセネガル人コミュニティーは世界でも大きく結束している方です」
とのことで、サンパウロではヘプブリカ広場で毎週日曜日(17h~20h)にはセネガル人の宗教の集いがあり、祈りと相互扶助の場となっています。また、月曜日(19h~22h)には宗教的な意味も含まれたダンスと歌の集いがあり(パンデミックで一時中断中)、ダンスを周囲で見学している人々にはコーヒーや簡単なお菓子がふるまわれ、ボーッと見惚れて時間を過ごせる居心地の良さがあります。
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ジアモウさんとフェイラで一緒に話していると、どこからともなく彼女を慕う若者たちが次々と訪れます。国が違っても彼女の側にいると確かに居心地の良さを感じます。「セネガルは塩も有名なんですよね?」と尋ねると、「ぜひ今度持ってきてここで販売しましょう!」と気合いが入ります。今、サンパウロのお土産にはアフリカンファッションもおススメ。既成品は日本人にはサイズが大きめの場合もありますが、ジアモウさんに注文すれば臨機応変に制作してくれます!

★ママ・アフリカさんのフェイラ
Rua Barão de Itapetininga
メトロ・ヘプブリカ駅を出てすぐ側
パンデミックの間の営業時間:10h~16h
地図のあたりの路上
企画/ピンドラーマ編集部
文・写真/おおうらともこ
2020年7月号
Kindleで入手可能です

下薗昌記
第131回 ニジーニョ Niginho

トスタンやトニーニョ・セレーゾらミナス・ジェライス州生まれの名選手は数多く、カナリア色のユニフォームに身を包んで来たが、ブラジル代表の初期はリオデジャネイロ州とサンパウロ州の「二大派閥」が幅を利かせていた。
そんなセレソンの歴史において初の「ミネイロ」がニジーニョの登録名で呼ばれた名ストライカーがいる。
レオニジオ・ファントーニその人である。
1912年、ベロ・オリゾンテに生を受けた若き日のニジーニョは、サッカー選手として活躍すべき星の元に生まれて来た。ブラジル国内にはおよそ800万人のクルゼイロサポーターが存在すると言われるが、ファントーニ一族ほどその栄光を独占した一家はないはずだ。ニジーニョの兄弟や甥っ子を含めるとファントーニ一族の計6人がクルゼイロの前身にあたるパレストラ・イタリアやクルゼイロでプレー。タイトル獲得に貢献して来たのである。
14歳の頃から、パレストラ・イタリアの下部組織でプレーして来たニジーニョは生粋の点取り屋であると同時に、勝負強さでも知られていた。とりわけ宿敵のアトレチコ・ミネイロやアメリカとの一戦では下部組織時代から、数多くのゴールをゲット。そして188センチの巨躯を生かし、相手DFをなぎ倒す豪快なプレースタイルは「タンキ(戦車)」とも呼ばれたものだった。
下部組織時代に、同じチームでプレーしたのはいとこに当たるオターヴィオで、彼の登録名はニニーニョだったが、パレストラ・イタリアでともに活躍し、父祖の国であるイタリアの名門から誘いを受けるのだ。兄ニナオといとこのオターヴィオが一足先にイタリアのラツィオでプレーしていたことから、ニジーニョはラツィオ時代の登録名を「ファントーニ・テルセイロ(3番目のファントーニ)」と呼ばれた。
当時のラツィオには数多くのブラジル人選手が在籍したことから「ブラジラツィオ」と称されたほどで、ニジーニョはACミランとの一戦で4ゴール。イタリアでもその実力を証明し、いとこのオターヴィオは二重国籍だったためにイタリア代表としてプレーしたほどだった。
ニジーニョもまた、二重国籍を保持していたが第二次世界大戦を戦っていたイタリア軍の一員としてエチオピア戦線に召集。しかし、「戦車」と呼ばれた男はピッチ外での戦いを好まなかった。
イタリアでの生活に別れを告げ、1936年にブラジルに帰国。この年だけ古巣のパレストラ・イタリアでプレーすると、翌年からはヴァスコ・ダ・ガマに移籍し、この年、現在のコパアメリカに相当する南米選手権においてブラジル代表に初招集。1938年のワールドカップフランス大会にはレオニダス・ダ・シウヴァの控えとして大会メンバーに名を連ねた。
1942年、敵性国家の名として禁じられたパレストラ・イタリアから現在のクルゼイロに改名した古巣で現役生活の最後を終えたニジーニョは1946年に現役を引退。257試合207得点という成績はクラブ歴代3位という輝かしいものだが、監督としても1959年からミナス・ジェライス州選手権で三連覇を果たすなど栄光に満ちたサッカー人生だった。
1975年に63歳の若さで天に召されたニジーニョだが、ファントーニ一族がクルゼイロに残した栄光は、永遠にクラブの歴史として語り継がれていく。