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2020年10月号 vol.171

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画像をクリックするとissuu.comのPDF版がご覧いただけます。

目次

ファインダー

鶴田成美

移民の肖像

松本浩治

ポルトガル語ワンポイントレッスン

リリアン・トミヤマ

開業医のひとりごと

秋山一誠

カメロー万歳

白洲太郎

ブラジル百人一語

岸和田仁

クラッキ列伝

下薗昌記

目次

今月号のスポンサー一覧

幻の創刊準備号

​(2006年6月号)

Kindleで復刊

​2020年7月号

​2020年8月号

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10月は女性にゆかりのある日が多い。

 

「フェミニズム」

「フェミニスト」

 

この言葉を連想するのは私だけだろうか。

本来の意味から外れた言動をする人も中にはいる。

まだまだ理解されるには時間が必要だろうし、次第に意味も違ってくるだろう。

もしかしたら既に変わってきているのかもしれない。

何はともあれ、いつかこのようなものが不必要となる時代が来て欲しいものである。

 

ここに世界中の女性たちへの敬意を示す。

鶴田成美(つるたなるみ)

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写真・文 松本浩治

シベリア抑留体験者の天願憲松(てんがん・けんしょう)さん

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 第2次世界大戦終戦直後、約3年間シベリアに抑留され、ようやくの思いで故郷の沖縄に生還した経験を持つ天願憲松さん(88)。戦後渡伯した後、野村流音楽協会ブラジル支部長などを歴任し、その活動に力を注いできた。

​ サンパウロ市内に住む天願さんは戦前、沖縄県具志川村で稲作やサトウキビなどの農業生産を手伝っていたが、1943年8月に召集され、鹿児島を経て満州の「独立混成第80旅団砲兵隊」に入隊した。21歳の時だった。

​ 45年8月9日、旧ソ連が日ソ中立条約を一方的に破棄して宣戦布告。満州に侵攻して攻撃を仕掛けてきた際、どこで武装解除が行われたのかは天願さんの記憶にはないという。覚えているのは、「日本に帰れると思って汽車に乗り、向こう(シベリア)に着いて初めて帰れないということがわかった」ことだ。収容所の名前もすでに記憶にないが、口滑らかに出た言葉は「エレクトロ・マッセルスキー」という収容所付近で労働させられた職場の名前だった。

 

 シベリアでの強制労働は日によって違ったが、主に鉄道の枕木の切り出しや敷設など様々だったという。当時、背が高い上に体格も良かった天願さんは、その恵まれた身体を見込まれてソ連軍から「鍛冶屋工」の仕事を命じられた。他の日本人捕虜たちが零下35度前後にまで下がる屋外での労働を強要された中、天願さんの仕事は火を使用する屋内での作業だったことが、最終的に生き残る好条件となった。

「日本で鍛冶屋の仕事はしたことがなかったが、決まった仕事を集中してやるのが良いと一生懸命やっていると、ロシア人から認められ、最後には頭を下げて刃物の注文が来るようになったほど。『2人分の食事をもってきたら、仕事をしてやろう』という交渉もできるようになり、周りでは『テンガン』という名を知らない人間はなかったほどだった。最初の1、2年は苦しかったが、まだ若かったし、環境に慣れることができた」

と天願さんは当時の様子を振り返る。

 

 それでも食事は、燕麦と高粱が主で、「米など見たことがなかった」という。「黒パンがあったが硬くて、パンの上に乗っても割れなかった」と天願さん。ごくたまに、ジャガイモを見つけ、馬糞を燃料に焼きイモにしてこっそり食べたこともあり、「とにかく、食べることしか頭になかった」生活を続けてきた。

 48年9月29日に舞鶴港に到着、翌49年1月にようやく沖縄に戻ることができた天願さんだが、「本当に生きて帰れるとは思ってもいなかった」という。

 召集前に19歳で現在の照子(てるこ)夫人(86)と結婚していた天願さんは沖縄に帰った後、嘉手納(かでな)アメリカ空軍基地で働いた。バス通勤中のある日、バスのラジオから沖縄の琉球古典音楽が流れ、天願さんは釘づけになって聴き惚れた。それをきっかけに三線(さんしん)を使って琉球古典音楽を唄うようになり、音楽教習所にも通い始めた。しかし、生活が苦しく、当時5人いた子供と照子さんを連れてブラジルへ行くこととなり、「あふりか丸」で58年3月にサントスに到着。モジ・ダス・クルーゼスに入植し、キャベツやバタタ(ジャガイモ)生産などを行ったが生活は楽にならず、7か月でサンパウロへと出た。サンパウロでは、葉野菜作りとともに自分で作った品物をフェイラで売りさばき、家計を助けてきた。そうした生活の合間にも琉球古典音楽を継続。その普及に貢献し、同協会ブラジル支部長も2期4年間務め、その後も相談役として後進の指導に当たってきた。

 ​戦中の同時期に召集され、シベリア抑留時期も一緒だった沖縄の戦友たちに対して日本政府から軍人恩給が支給された一方で、天願さんは日本政府側の特殊な恩給計算方法により、「10か月足らないために恩給を受けられない」立場にあった。以前は、日本政府のやり方に反発し、同政府からの銀杯授与を拒否したこともあったが、「もう恩給の有る無しについては、問題にしていない。戦友たちがシベリアで惨めな死に方をしていても、何の補償もないことを思えば、今さら恩給をもらってあくせくと生きたくもない」と話す天願さん。「零下35度もの寒さの中で死に絶え、そのまま土となって今もシベリアに埋まっている戦友たちのことを思えば、生き抜いてこられただけでも有難いと思わなければ」と、噛み締めるように語っていた。

(2010年8月取材、年齢は当時のもの)

松本浩治(まつもとこうじ)

移民
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リリアン・トミヤマ

Grande

 ブラジルで最も有名なパンのひとつと言えばポン・デ・ケイジョ(Pão de Queijo)です。食べたことがありますか?

 ポン・デ・ケイジョは18世紀に登場しました。研究者たちによれば、カナストラ山脈(Serra da Canastra)のサン・ロケ・デ・ミナス(Roque de Minas)で生まれたそうです。

 このブラジル植民地時代はまだ小麦粉がありませんでした。ですからヨーロッパのような伝統的なパンを作ることができず、マンジオカ芋の粉で代用したのです。

 

 UFMG(ミナスジェライス連邦大学)の歴史学者ジョゼ・ニュートン・メネーゼスによると、ポン・デ・ケイジョはパンを膨らませる酵母がないので、技術的にはパンとは言えません。技術的にはビスケットやクッキーと考えられるのです。でも、家計において大きな価値を持つためパン(「ポン」)という名前を与えられ、主な原材料としてチーズがあるので「デ・ケイジョ」と付け加えられたのです。

 ここで質問です。次のどちらの文が正しいでしょうか?

 

(a) O pão de queijo é um pão grande brasileiro.

 

(b) O pão de queijo é um grande pão brasileiro.

 

 正解は(b)です。

 

 (a)のほうは大きさについて言っていて、ポン・デ・ケージョがそんなに大きくないことは皆さんご存知ですね。

 一方、(b)のほうはパンの重要性について言っています。

 

 でも、大きさのことを言っているのか重要性のことを言っているのかどうやって知ることができるのでしょうか。それが今月のアドバイスです。

【 grande の位置 】 

(1)名詞の後=物理的な量

 Maria é uma mulher grande. (=Maria é alta.)

 マリアは大女だ。(=背が高い等)

 O Amazonas é um estado grande. (=O Amazonas tem grande dimensão.)

 アマゾナス州は大きな州だ。(=面積が大きい)

(2)名詞の前=徳性、重要性

 Maria é uma grande mulher. (=Ela é uma mulher de grande valor.)

 マリアはすごい女性だ。(=価値が大きい)

 

 O Amazonas é um grande estado. (=É um Estado de grande importância.)

 アマゾナス州は偉大な州だ。(=大きな重要性)

 

 今月もお読みいただきありがとうございました。お気をつけてお過ごしください。次の言葉をみなさまに願って終わりにします。

 

 Grandes momentos no Brasil ☺

リリアン・トミヤマ(Lilian Tomyama)

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日本ブラジル比較文化論

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救世物になればよろしいのですが…

 このところ毎月「今月はコロナ関連のひとりごとはしないぞ」と息巻いてるのですが、世の中をすっかり変えてしまった100年に一度といわれる災難なのでどうしても話題の中心になってしまいます。しかたないです。ウィズコロナの今日この頃です。ということで、今月は最近問い合わせが多い、「ワクチン」や「免疫」について展開します。

 

 新型コロナウイルスを含め、一般的に感染症というものは、その元になる「病原体」(註1)に接触(伝染)することから始まります。病原体には特徴があり、まずそれから理解することが大事です。ヒトの例ですと:

 

• 肉眼や外観から見えない。

• 発病の責任因子である、つまり病原体が作用していると発症し、作用していないと発症しない。

• 伝染性がある、つまり病気になったヒトから接触や空気などを介して他のヒトに伝達する。

• 増殖性がある、つまり伝染によって患者が増え、病原体自体も増える。

• 可搬性がある、つまり発症しているヒトが移動して、新たな場所で伝染病が発生する。

 

『こうやって病原体の定義を改めて見ると、まさにコロナの世の中そのものだな。新型コロナウイルスは新しく現れた病原体なので、誰も免疫を持っていないし、治療も確立していない。したがって、この「病原体の特徴」をブロックすること(だけ)が一番はじめにされたわけだな。都市封鎖やマスク使用などでヒトからヒトの伝播をなくすしか手がなかったわけだ』

 

 病原体が現れたら生物が死滅するシナリオでは、現存する生物などいないはずなのですが、いるのはそれらに対する防御があるからです。これがいわゆる広義の「免疫」というものです。生物の長い進化の中で、免疫がすぐれた個体が多く子孫を残したわけです。我々はその子孫なのでしっかりした免疫をもっていることになります(註2)。免疫はそれだけで学問になるほど複雑かつ難解ですが、簡単に説明を試みます(註3)。まず大きく分けて、自然免疫と獲得免疫があります。自然免疫は自分自身ではない細胞の構成物、つまり、異物・病原体に対する防御です。特定の病原体に対してではありません。血液中にある白血球がこの役割をします。簡単にいうと、異物を食べて体内から除く方法で、「食細胞」と呼ばれます。感染症になると痰や膿が出ますが、これは病原体を食べた白血球の死骸ですね。異物は「抗原」と呼ばれます。

 

 しかし、自然免疫は感染した細胞内に入ってしまっている病原体や毒性分子には対処できないのです。ここでさらに高度な作用機序をもつ「獲得免疫」が出てきます。これは特定の病原体に対する作用があり、大きく分けて、「特定の抗体を作る作用」と「感染した細胞を破壊する作用」があります。抗体は産生されると、血流に乗って身体中を巡るので「液性免疫」とも呼ばれます。感染細胞破壊は感染症が終われば必要なくなり、関連する細胞(エフェクターT細胞)は消滅しますが、一部がメモリーT細胞と呼ばれる細胞になり、体内に残ります。これが「細胞免疫」と呼ばれるものです。細胞免疫は一回目の感染で病原体と接触して得た情報を記憶しているので、次回感染した場合、直ちに反応し、その病原体を退治するのです。ただし、細胞免疫は一種類だけの抗原を認識するため、異なる抗原に対して何百万単位の種類の免疫細胞が必要になります。

 

『体調を整えないと免疫が低下するなどと言われるのは、この「自然免疫」や「獲得免疫」が上手く作動しないことを指すのだな』

 

 感染症に対する防御は投薬で治療するといった手がありますが、抗生剤はある病原体をすべて完全に死滅させるわけではありません。ある程度減少させたり不活性化させたりしたはしますが、最終的には体内の免疫が作動しないと感染症は終息しません。なので、投薬するにしても、免疫も作用するようにしないとダメです(註4)。事前に細胞免疫がない場合、ワクチンを使用します。ワクチンによる予防接種は、人為的に病原体と接触し、免疫を獲得する方法です。新型コロナウイルスの場合、新規に現れた病原体なので、「運悪く」早い時点で感染した方以外はだれも免疫をもっていないわけです。そこで、今世界中で最も望まれているのが「新型コロナワクチンを!」でしょう。

 

 先月のひとりごとでワクチンにも触れたように、現在数か月後に使用可能な製品が出てくると思われます。これを心待ちにしている人達が多いのは承知してますが、残念なことにここにきて心配な事柄が判明してきました。有効な抗体はできるのですが、どうやらコロナウイルスに対する抗体は短時間で消滅してしまう可能性が大変大きいようです。さらにやっかいなのが、「再感染」の症例が報告されてきたことです。抗体が減ったため再感染するのも困りますが、その再感染により感染症が重篤化する可能性があるからです。「抗体依存性免疫増強」という状況がそれです。

 

 獲得免疫の産物として抗体がありますが、実はすべての抗体が有用であるわけではないのです。抗体は大きく3種類に分けられます。病原体をブロックして感染症を発症させない「中和抗体」がいわゆる「善玉抗体」であり、皆これを期待するのです。例は麻疹の抗体です。一旦できると、一生効果があります。次に、「感染抗体」があり、これはブロックもしないが悪さもしない、「感染した証拠」になるだけの抗体です。例はエイズのHIVの抗体です。そして問題が「感染増強抗体」、俗に「悪玉抗体」と呼ばれるタイプです。例はデング熱の抗体です。抗体依存性免疫増強は過去の感染やワクチンによって獲得した抗体がワクチンの対象となったウイルスに感染した時、または過去のウイルスに似たようなウイルスに感染したときにその抗体が生体に悪い作用を及ぼしてしまう状況です。既にできている抗体はウイルスに結合するのですが、中和しなく、「免疫複合体」とよばれるモノになり、自然免疫などの細胞に吸着しやすくなり、さらにウイルスの侵入門戸を広げてしまうことになるのです。

 

『新型コロナウイルスの再感染がこの作用機序で起こっている事実は現時点で認められていない。しかし、既に変性新型コロナウイルスが何種類かある(註5)上、再感染は前回のウイルスの型と異なるとの報告が多くを占めるので、今後の検証が必要だな』

 

 この様な事情のため、救世物になる新型コロナワクチン、手放しで喜べないです。ごめんなさい…

 

 診療所のホームページにブラジル・サンパウロの現状をコメントした文章を記載してますので、併せてご覧いただければ幸いです。

 

註1:ウイルス、細菌、カビ、寄生虫、など。

註2:進化の結果として、現在人類が病気になっている見方もあります。「進化医学」と呼ばれる考え方で2010年5月にひとりごとしてます。

註3:一般向けに免疫を解説してある京都大学再生医科学研究所のサイト:http://kawamoto.frontier.kyoto-u.ac.jp/public/public_Top.html

註4:感染症の治療に免疫抑制作用があるステロイド剤を使うことがあるが、やり過ぎると治療が上手くいかない。

註5:武漢で発生したウイルスは、日本や東南アジア、オセアニアに伝播したモノは弱毒した変性とされ、ヨーロッパ経由で米州や中東、南アジアに伝播したモノは強毒化していると、分類されている。

秋山 一誠 (あきやまかずせい)。

サンパウロで開業(一般内科、漢方内科、予防医学科)。この連載に関するお問い合わせ、ご意見は hitorigoto@kazusei.med.br までどうぞ。診療所のホームページ www.akiyama.med.br では過去の「開業医のひとりごと」を閲覧いただけます。

ひとりごと
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しらすたろう

第55回 実録小説『やった、今夜はトンカツだ』

 2020年1月某日。空が茜色に染まり、日差しが柔らかになってきた頃合である。
 白洲太郎とかれの妻になる予定のちゃぎのは、近所の田舎道を手をつないで歩いていた。柵に囲まれた草原のなかでは3頭の馬が走り回り、遠くからは牛の鳴声が聞こえてくる。ところどころに自生している雑木では小鳥たちが合唱しており、草木と馬糞、牛糞の入りまじった香りが太郎の鼻孔をくすぐっていく。かれは大きく深呼吸をし、心ゆくまでこの『田舎の香り』を堪能した。これぞ自然界の芳香である。
「これだから田舎暮らしはやめられんな。のぅ、ちゃぎのよ」
などと言いながら彼女の肩に手をまわし夕焼けを眺めていると、次第に目的地が近づいてきた。数十頭の牛が草を食んでいる牧場のすぐ横に、弓のような弧を描いた坂道がある。その坂道を5往復するのが、最近の太郎の日課であった。フェイラがある日は夕方だけ走り、休みの日は早朝と夕方に汗をかく。『坂道ダッシュ5本』は楽ではないが、キツい分、走り終えたときの爽快感はたまらない。運動によるセロトニン分泌の効果なのだろうか、とにかく気持ちが良く、走ることのできなかった日は物足りないし、すっきりしない。太郎はすっかり、この『坂道ダッシュ』の虜になっていたのである。
 普段はひとりで走るが、散歩がてらちゃぎのがついてくることもある。今日の彼女の目的は『猫じゃらし』を採取することで、ちゃぎのはカポエイラ歴15年の運動好事家だが、太郎が坂道をダッシュしているときは、ウォーキングしたり、植物を観察したり、野良犬と遊んだりしているのが常であった。
 このあたりは湾曲した地形をしているため、家の建築には向いていない。それでも思いついたように2、3軒、家屋が点在していて、人が住み始めている。これから家を建てようとしているのか、更地になっているところもあるので、数年後にはこののどかな風景も変わってしまうかもしれない。
「寂しいことだがしかたない。変わらぬことなどなにひとつないのだよ。それが無常というものだ。わかるか、ちゃぎのよ」
 太郎は情感をこめて発言したが、ちゃぎのは猫じゃらしと地面の天然石を探すことに夢中で、かれの話などまったく聞いていなかった。いつものことである。
 そうこうするうちに太郎たちの歩いてきた道と坂道が交差する地点まできた。ここを左に折れて下っていき、谷底で折り返すと、一気に頂点まで駆け上がっていく。距離にしたら200メートルくらいであろうか。この上り下りを朝夕5往復ずつ、ひたすら繰り返すのである。 

 西の空が赤く燃えている。

 1本目を終えた太郎は、呼吸を整えながら山々の稜線を眺めた。夕焼けが美しいのは、太陽がその日一日の生命を燃やし尽くそうとしているからかもしれない。力尽きる直前の線香花火のような、一瞬の煌めき。この夕日を見物するだけでも来る価値はある。それに加えて気持ちの良い汗までかかせてもらえるなんて、おれはなんて幸せ者なんだ。太郎はうっとりとした表情を浮かべていたが、そのかれの前を、群からはぐれたメス牛と仔牛がおびえたように通り過ぎていった。首にくくりつけられた鐘が音をたて、時おりモォーという声をあげながら草を食んでいるその姿を、ちゃぎのが興奮の面持ちで写真に収めている。太郎の住む町で生活を始めてから3年以上が経過していたが、動物を目撃するたびに目を輝かせているのである。彼女の動物への愛情は深く、それが悪臭を放つ野良犬であっても、怯むことなく撫でまわしてやるので、町内の薄汚れた犬たちからしてみれば、聖母マリアとでもいった存在であろう。一方の太郎は、動物が好きか嫌いかと問われれば、もちろん「好き」と答えるが、汚れた犬をなでまわすほどの愛情は持ち合わせていない。以前、気の迷いから、乞食犬を徹底的に愛撫してやったことがあったが、手にしみこんだ悪臭は容易に消えず、太郎の野良犬愛護精神は一瞬で挫折したのである。
 2本目を登り切った太郎は荒く息をつきながら、谷底に向かって歩き始めた。汗が滴り落ち、肩のあたりに乳酸がたまってきているのがわかる。感覚的には3本目までが一番きつく、4本目からフィニッシュまではあっという間である。身体が慣れ始めるからであろうか、後半にさしかかるにつれて調子がでてくるのは、ランナーズ・ハイによる効能かもしれない。
「たろちゃん、アゴ、あがりはじめとるで」
 ちゃぎのに発破をかけられながら、太郎は3本目をスタートした。
 4本目が終わり、いよいよあと1本というところまできた。深呼吸をしようとするのだが、心拍数があがっているためどうしても呼吸が浅くなる。飢えた野犬のように、短く息を吐きながらインターバル歩行をしていると、後方から何者かが迫ってくる音が聞こえてきた。車でもバイクでも人でもない。馬である。栗毛と黒毛の2頭の馬がゆっくりと太郎の方に歩を進めてくる。サラブレッドのような筋肉が夕日に照らされ輝いていた。おそらく姉弟なのだろう、栗毛に少女が、黒毛には少年が跨っており、2人そろってカウボーイハットを被っている。

 かっこいいなんてもんじゃない!!

 いよいよ興奮の極みに達したちゃぎのは歓声をあげながら動画を撮影し、太郎は憧憬の眼差しでもって2人に手を振った。夕日と馬とカウボーイハット。絵になる要素がすべて集結してしまったのである。夕暮れに背を向ける2頭の馬を見送った太郎とちゃぎのは、その美しい光景にしばし見惚れていた。とてつもなく得をした気分である。
「いいものを見させてもらった。この勢いで今夜はトンカツだな」
 さりげない調子で太郎がオファーすると、ちゃぎのは満更でもなさそうに「うむ」と頷いた。
 やった、今夜はトンカツだ。

 爽快な汗をかきながらクールな馬を眺め、さらにカツまで食えるとは。こんなに幸せでいいのだろうか。
 とはいえ、坂道ダッシュがあと1本残っている。

 Vamos lá!!
 眼前にぶらさげられたトンカツを追いかけるように、かれは5本目を駆け上がり始めたのであった。

しらすたろう

カメロー
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ジョエルミール・ベチング Joelmir Betting 

(経済コラムニスト、ジャーナリスト 1936~2012)

 Indústria da seca(旱魃便乗ビジネス)は、マウリシオ・デ・ナッサウ(17世紀のオランダ支配時の統治者)の時代から暗躍していた。この旱魃商売は、明らかな政治屋的利益分配やカモフラージュされた経済的利得と秘かに繋がっているのだ。旱魃の時や戦争の時の人災を悪用するのは古典的な悪徳ロジックだ。様々な解決策によって諸問題を解決できるのだが、解決してしまうよりも問題を問題のままであり続けたほうが利益になるのだ。(中略)

 既に生産地となっている灌漑農地は、1haあたり年間1万ドル程度の収益をもたらしており、ブドウの場合は二期作(年に二回の収穫)が実現している。当該農地における年間日照時間は、3,050時間となっており、世界で最も代表的な灌漑農業産地となっているカリフォルニアが2,190時間であることを想えば、太陽光パワーに恵まれている。(中略)

 熱帯果実の灌漑農業用に開拓された面積は、ノルデスチ内陸部乾燥地帯の灌漑可能面積全体の1%程度でしかない。(中略)

 何世紀も前から続いているノルデスチ問題とは、雨の不足が原因で起きているのではなく、いうまでもなく水の不足でも全くない。不足しているのは、対策の実行力である。

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 1980年代から2000年代にかけてブラジルのメディア(新聞であれTVであれ)において八面六臂の活躍をしていた経済コラムニスト・TV解説者の代表格といえるのがジョエルミール・ベチングだろう。TV(GloboやBandeirante)では、ちょっと斜に構えた語り口でざくりと問題点を切り裂き、新聞(エスタド紙に加え、エスタド通信社経由全国各紙に配信)の特設コラムでは、エスプリと巧みなレトリックを駆使した短文の連鎖で、マクロとミクロ両方の視点から鋭い筆さばきを展開する、独特の“ジョエルミール節”を毎日掲載していた。となれば、このコラムを愛読する読者は全国各地に多く(筆者もその一人であった)、大学の文学部やジャーナリズム学部の修士論文や博士論文で「ジョエルミール論」を書きあげた学生が複数いたほどで、この人気コラムは結局34年間も続けられたのであった。

 

 サンパウロ州内陸部(タンバウ市)出身のジョエルミールは、苦学の末(7歳の時から畑作業を手伝い、15歳で地元ラジオ局の下働き)サンパウロ大学を卒業(社会学専攻)したが、社会学の卒論は「サンパウロの自動車産業におけるノルデスチ出身労働者の適応」であった。彼のルーツはドイツ系だが、4代前の高祖父は本国では織工をやっていたので、まさにジョエルミールが学生時代に熟読したマックス・ウェーバーの古典的名著『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の事例研究の対象となったドイツ人労働者が自分のルーツだ、との深層意識を抱いていたのではないか、と筆者は“邪推”している。ちなみに高祖父がブラジルに移民として到着したのは1864年であった。

 彼が大学を出てから入社したのがフォリャ・デ・サンパウロ紙であった。初めはスポーツ記者、次に自動車記者で、彼が経済部に移動したのは1970年であったが、彼の経済解説の切れの良さが評判となって、特設コラムが設けられることになったのだ。彼のコラムはフォリャでは1991年まで、1991年からはエスタド紙に移動したが、2004年に終了するまで特設コラムの基調は変わらなかった。

 

 冒頭に引用したのは、1998年5月9日付けのコラム(タイトルは「二つのノルデスチ」)からであるが、ノルデスチのセッカ(旱魃)問題とは、天災であると同時に人災でもある、とわかりやすく解説している。

 

 ここでノルデスチにおける灌漑農業の代表例である、ペトロリーナとジュアゼイロという双子都市を中心とする大規模灌漑農業開発をざっくりと復習しておくと、1968年に設立されたベベドウロ・プロジェクト(総面積7,797ha、灌漑可能面積2,418ha)を嚆矢とするが、サンフランシスコ河中流域における灌漑農業が本格化するのは、1978年に、ラテンアメリカ最大の人造湖ソブラディーニョ・ダムが竣工し、さらに、最大規模のニーロコエリョ・プロジェクトが1984年に設立されてからだ。

 

 1991年の段階で、全てのプロジェクトを合算すると、灌漑可能面積43,000haとなっていたが、二大主要作物マンゴーとブドウの収穫量推移をみてみると、1991年8千トンだったマンゴーは、2017年には54万トン(ブラジル全国の収穫量の5割)へ、同じく、1991年3万2千トンだったブドウ生産量は2017年には27万トンへ、と急成長してきた。日照時間が長いおかげで熱帯果実の糖度が高く、欧米市場での評価も高いことから、ブドウもマンゴーもブラジル輸出量全体の9割以上が同地域から出荷されている。ジョエルミールの“予言”が的中したといえよう。

​岸和田仁(きしわだひとし)

百人一語

岸和田仁の著書

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下薗昌記

第132回 ヴァウジール・デ・モライス

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 2019年12月、GK版の「バロンドール」とも言えるレフ・ヤシン賞で映えある第一回の受賞者に選ばれたのはブラジル代表の守護神、アリソン・ベッカーだった。

 ブラジル代表でアリソンのサブに回るエデルソンも世界屈指のGK。近年、好GKを輩出してきたブラジルサッカー界が忘れてはいけないクラッキが存在する。

 ヴァウジール・デ・モライス。2020年1月に天に召されたヴァウジールはGKとしてのパイオニア的な存在だった。

 1931年、リオ・グランデ・ド・スウに生を受けたヴァウジールはやはりGKとしてプレーしていた父の後を追うようにゴールマウスに立つ。

 現代サッカー界では190センチを超えるGKが当たり前のように存在するが、現役時代のヴァウジールは極めて小柄なプレーヤーとして知られていた。

 身長は172センチしかなかったヴァウジールだが、小柄な守護神のポリシーはこうである。

「賢くなければ、背が高くても意味がない。私は常に試合展開が読めたし、相手のプレーの先読みをしていたものだ」

 

 最大の武器はクレバーなプレーと、抜群の反射神経を生かしたアクロバティックなセーブだった。

 1954年、地元のレンネルでキャリアをスタートさせたヴァウジールだったが、1958年には名門パウメイラスに移籍。1968年までに「偉大なる緑」の守護神として480試合に出場し、3度のブラジル王者に輝いている。

 

 そして1961年に創設されたコパ・リベルタドーレスでも優勝こそ逃したものの、最初に決勝の舞台に立ったブラジル人GKはヴァウジールだった。

 

 1960年と1961年にはサンパウロ州でも最優秀GKに選出。サンパウロ州選抜の常連でもあったヴァウジールは1962年のワールドカップチリ大会のメンバー入りも期待されたが、現在と異なり当時のGK枠は2人だったため、ジウマールとカスチーリョの後塵を廃し、檜舞台は逃している。

 

 1970年、地元ポルト・アレグレのクルゼイロ(ベロ・オリゾンテの名門と同名)で現役を引退した、ヴァウジールだったが、その功績は現役時代のそれに勝るとも劣らないものだった。

 

 ヴァウジールはブラジルサッカー界におけるGKコーチの先駆者だった。

 

 他ならぬヴァウジールもこう語っている。

 

「私がGKコーチという役割を生み出したのかどうかは知らないね。ただ、ブラジルのクラブでこういう仕事をしていた人は見たことがない」

 

 小柄なサイズを補えたのは常にポジショニングや予測などクレバーなプレーを心がけたからである。指導者としても頭角を現したヴァウジールはテレ・サンターナが率いた1982年のワールドカップスペイン大会のブラジル代表でもGKを担当。ブラジル代表での世界一は手にすることがなかったが、のちにテレが率いるサンパウロでもゼッチや若き日のロジェーリオ・セニを指導。1992年と1993年にはクラブ世界一にも貢献している。

 現役時代の古巣であるパウメイラスではマルコスやヴェローゾを、サンパウロではゼッチらを、そしてコリンチャンスでもロナウドやジーダを指導したヴァウジール。

 現在のブラジル代表ではかつての名手、タファレウがGKコーチを務めるが、ヴァウジールが蒔き続けた種がアリソンらの台頭につながったのは間違いない。

下薗昌記(しもぞのまさき)

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下薗昌記の著書

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