2020年11月号 vol.171

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目次

ファインダー

鶴田成美

移民の肖像

松本浩治

ポルトガル語ワンポイントレッスン

リリアン・トミヤマ

開業医のひとりごと

秋山一誠

カメロー万歳

白洲太郎

☆せきらら☆難民レポート

おおうらともこ

クラッキ列伝

下薗昌記

 

日伯修好125年を祝うオンラインイベント

“ 波の出会い” – ENCONTRO NAS ONDAS

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ブラジルの桜は力強い、日本の桜は儚い。

ブラジルの夏の太陽は細胞に押し入って体の内側から溶かされるような感じがする。

日本の夏は…じとっとしてた以外に記憶にない。

ブラジルの夏は色がとても綺麗で、みんなも明るい表情で楽しそうだ。

夏に撮る写真は色も人も全てが明るい。

しかし私は夏が嫌いだ。天気がいい時は外に出たくない。

なのにこれから雨が降るたびに暑くなっていく。マスクが別の意味で死活問題になる季節に入っていく。

強盗が減って、電気代も浮く夏時間もないし。

早速憂鬱!

鶴田成美(つるたなるみ)

 

幻の創刊準備号

​(2006年6月号)

Kindleで復刊

​2020年7月号

​2020年8月号

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写真・文 松本浩治

ゴム移民の岡田隆典(おかだ・りゅうすけ)夫妻

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 パラー州サンタレン近郊在住の岡田隆典さん(76)は、故郷の宮崎県で地元の産業開発青年隊として、観光道路の開発などを行っていた。次男である隆典さんは「ブラジルに来るとは考えてもいなかった」というが、長兄がブラジル行きを熱望し、父母、兄弟ら合わせて6人で1954年12月に神戸港から海を渡ってきた。「ゴム移民」として入植した当時のゴム園「ベルテーラ」について、「本当にきれいだった」ことが深い印象として記憶に残っている。

​ 隆典さんは、宮崎県時代に産業開発青年隊の仕事以外に夜学に通い、測量や修理技術の勉強をしていたこともあり、機械分野を得意としていた。そのため、ベルテーラでは、総支配人の越智栄(おち・さかえ)氏から「ディーゼル・エンジンに詳しい人は居ますか」と問われた際、一番に名乗りを上げた。仕事内容は、採取されたゴム液を遠心分離機にかけ、濃度をより濃くすること。午前8時から午後4時までで、機械が止まった時に修理を行う。技術職であったため、他の人よりも若干給料が良かった。夜は特別に小学校でポルトガル語を教えてもらい、4か月間通ったという。

 比較的安定した生活が続いたが、強制退去命令により、日本人家族の生田(いくた)家族、千葉(ちば)家族とともに、岡田家もアレンケールへと移ることに。仕方なく、55年9月にアレンケールに転住し、高拓生の沢木さんという人の世話になり、見よう見真似で当時相場の良かったジュート麻栽培を行った。「胸まで水に浸かってジュートを切っていると、時々電気ウナギが水中を通り、電気ショックで足にビリビリ響くんですよ」と隆典さん。食べ物は、米をはじめ、カピバラやピラルクーの干したものなど結構何でもあり、「肉体労働のため体力を付けなければと何でも食べましたね」と当時を振り返る。

 そうした生活を1年間続け、56年11月には生田家の娘である栄(さかえ)さん(69)と結婚。弟で三男の慶典(けいすけ)さん(71)は、栄さんの長姉であるハマ子さん(73)とそれぞれ結ばれ、同じ日に結婚式を行った。

 住んでいた場所は乾季になると土地が悪くなるため、隆典さんは結婚を機にアレンケールから約5キロ離れたマッキーという川沿いの場所に転住。同地で豚を300頭ほど飼い、米やマンジョカ芋などを植えた。1年半ほど経った時にアレンケールの農事試験場長の呼び寄せにより、同試験場で養豚や養鶏の整備を任され、生活も安定しだした。

 

 ある時は、試験場の上司が持っていたタパジョス川にある金鉱の土地調査を依頼され、前金として4キロ分の「黄金」の値段分を手渡されたことがあったという。隆典さんの人間性が、ブラジル人に信用されていた訳だ。

 

 62年頃、子供の教育のためサンタレンの町に出て、父親や兄たちは野菜作りを行ったが、隆典さんは技術を生かし、町でラジオやテレビの修理屋を始めた。日本でやってきた技術を、ブラジルでも生かすことができた。 

 

 子供たちが大学を卒業し、独立するとともに隆典夫妻は、サンタレンの町から13キロ離れたエストラーダ・ノーバに移り、ピメンタ(コショウ)をはじめマラクジャ(パッションフルーツ)やランブータンなどの熱帯果樹を植え、現在も同所に住んでいる。また、2001年からは、ブラジルの原点であるベルテーラの土地について友人でもある市長から「何でも欲しいものがあれば相談に来たら良い」と言われ、同地に土地を所有。クプアスーやグラビオーラなどの熱帯果樹も植えている。 

 

「ブラジルでは苦労するというけれども、食べるものがないという意味では日本の戦後のほうが苦しかった。ここは食べることだけはできるから」

と隆典さんは、充実した表情を見せていた。

 

(2008年11月取材、年齢は当時のもの)

松本浩治(まつもとこうじ)

 
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リリアン・トミヤマ

“Todo o mundo”か”Todo mundo”か?

「俗ラテン語の歴史」という著作の中で、ブラジルの文献学者で言語学者のセラフィン・ダ・シルバ・ネットSerafim da Silva Netoは、話し言葉は川のようなもので、常に動いていると述べています。一方、教養語(学問の言葉)は冬の川を覆う氷の表
面のようなもので、ある時から止まったままであると。
 言い換えれば、氷面があっても川はその下を動き流れ続けているわけです。話し言葉とはそういうものなのです。
 例を見てみましょう。
 お気付きかもしれませんが、文法的に正しい「para」とは誰も言っていませんね。縮めて「pra」(最初のaがなくなっている)と言っています。 

 É um presente pra ela. (para ela)
 (彼女へのブレセントです)

 Compramos um livro pra estudar português (para estudar)
 (私たちはポルトガル語を勉強するために本を買いました)

 

 この現象は、話す時の力を節約しようという傾向によるものです。これはラテン語の時代からあるのです。
 この現象のよくあるもうひとつの例は、「você」の最初の「vo」が取れた「cê」です。

 Cê falou com ela? (Você falou com ela?)
 (彼女と話しましたか?)

 Cê tem que usar a máscara. (Você tem que usar a máscara.)
 (マスクを使わないといけませんよ)

 

 この現象は口語の現象ですから、お忘れなく。

 ただ、たまに使用頻度の高い口語が標準になることがあります。それは「todo mundo」で、「すべての人たち(todas as pessoas)」という意味です。

 

<例>

 

 Todo mundo quer a vacina contra o coronavírus.
 (みんながコロナウイルスのワクチンを望んでいます)

 

 Todo mundo tem um filme favorito.
 (みんなそれぞれお気に入りの映画があります)

 

 もうひとつの例は、アメリカのテレビシリーズ「Everybody hates Chris」で、ポルトガル語では「Todo mundo odeia o Chris」と言います。
 文法的に、昔、正しい表記は「todo o mundo」でした。しかし、人々は真ん中の「o」なしの「todo mundo」と話していました。時間の経過とともに、セガーラCegallaやワイスHouaissといった文法学者たちがこちらの形式も認めるようになった
のです。
 今月もお読みいただきありがとうございました。実際、言葉は文法だけではありませんよ。話し言葉のダイナミズムにいつも注意しておくことが大切です。マルコス・バギノMarcos Bagnoはこう言っています。

“Uma receita de bolo não é um bolo.

O molde de um vestido não é um vestido.

Um mapa-múndi não é o mundo.

Também a gramática não é a língua.”

ケーキのレシピはケーキではない

ドレスの型はドレスではない

世界地図は世界ではない

文法も言葉ではない

リリアン・トミヤマ(Lilian Tomyama)

 

日本ブラジル比較文化論

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暑かったらクーラーつけたいですよね

 今月のひとりごとはどちらかと言うとブラジルまたは南半球におられる24人のうちの読者様向けです。題名からも判明するように、これから暑くなる季節と関係する話です。もう既に夏が過ぎた日本はどうだったか体験を共有していただけたら嬉しいです。リオはともかく、サンパウロは元々夏期は乾燥していて暑くても気温が32度くらいまでで、日陰に入れば過ごしやすい所でした(註1)。しかし、近年の地球規模の気象変動のためか、当地でも気候が変わってしまい、夏は高温多湿になってしまいました。そのため、数十年前までは皆無であったエアコンの普及が目につきます。ブラジルでエアコンといえば、リオを連想したものです。熱帯地方の海辺の街のため、高温多湿は当たり前です。市内に走っているバスはキンキンに冷房が効いています。それが今年の夏は過去形になると発表されています。理由はコロナ対策でバスなどの公共交通機関は窓を開けて走り、エアコンの使用が禁止になったようです(註2)。この措置は閉めきった場所で密にならないようにするのもありますが、実はコロナ禍にエアコンは問題ありなのです。

 

 コロナ対策をおさらいしてみると、頻繁に手洗い、マスク使用、3密を避ける、そして感染リスクを高めやすい行動を避ける(一覧)があります。この内の「3密を避ける」に、「換気する」があります。コロナウィルスは飛沫感染するので、ウイルスを含んだ飛沫が浮遊している空気を除いてしまいたいので換気するわけです。厳密に言えば、外部と遮断されてまったく一人でいるのであれば、換気なしの密室でも問題ないのですが、実際はそうはいかないので新しい空気の入れ換えは必要です。入れ替えというより、排気が重要です。エアコンで換気できていると皆意外と錯覚していますが、できるモデルもありますが、ほとんどは換気しません。一般的に家庭で使われるエアコンは室外機と室内機があり、冷房の場合、前者で熱を放出し、冷たくなった冷媒ガスを後者に送り(註3)、室内機を冷やし、後者はその冷えた空気を室内に循環させています。したがって、エアコンを使うと、実際は室内の空気をかき混ぜているだけで、換気は行われません。

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『このような環境で、飛沫が浮遊すると、エアコンに吸い込まれ、部屋中に広がっていく。中国ではレストランでエアコンが飛沫を拡散して集団感染がおこった報告が今回取り上げている問題の良い例だな(註4)。2月に日本で大騒ぎになった豪華客船の集団感染も空調システムを介した可能性が大きい。ウイルスは飛ぶだけではなく、室内機に付着し、一定時間活性を保つので貯留されてしまい、感染機会が増えるのですな。新型コロナウイルスは低温に強いし。なので、室内の空気を排出せよと言われるのだ。』

 

 エアコンをつけないと熱中症で死ぬような環境になってきましたので、では暑い中、どのように換気するのか?窓やドアを開けて、空気の通り道を作らないと換気になりません。窓が1か所しかないなど通り道が作れない場合は、扇風機やサーキュレータで強制排気します。部屋の中の空気をかき混ぜるのではなく、窓に向かって風を送るようにします。エアコンは止めません。エアコンは電源を入れて立ち上がる時に一番電力が必要なので、換気の度に止めたりするとかえって電気を使います。換気のタイミングはこまめにするほうが効果的です。つまり、1時間に1回15分の換気より、5分3回のほうがいいです。台所やトイレの換気扇をつけっぱなしにしておくのはどうか?トイレのは容量不足だと思われます。台所の換気扇はそれなりに排気能力がありますが、新しい空気が入るようにしないと効果ありません。可能であれば、空気の通り道を作る方法が一番効果的と考えます。

 エアコンはコロナ禍でこのような問題がありますが、コロナ以前に病気と関係がある、注意が必要な装置です。空調システムは機能上、ホコリやカビが溜まりやすいものです。一番関連がある病気は「換気装置肺炎」と呼ばれるもので、空調器にカビが増殖し、それを吸入することで過敏性肺炎が発症します。カビだけではなく、細菌感染症であるレジオネラ菌(註5)による肺炎もあります(註6)。ビルなどの中央式空調は個別式よりメンテナンスが大がかりなので、きちんとしていないため病気と関連しているケースを医療現場でみます。

 

『また、俗に「クーラー病」というのもあるぞ。これは、冷房のため、室外との大きな寒暖差が生まれ、体温をコントロールする自律神経が乱れてしまうためにおきる症状(註7)だな。元々自律神経が失調気味だとなりやすい。筋肉が少ないし、冷え症になりやすい女性の方がかかりやすい。クーラーをいれた部屋で冷たい飲み物もNGだな。』

 

 エアコンって何気なく使っているけど、注意と定期的な掃除が必要な装置なのです。換気装置肺炎や換気装置感染症はエアコン以外に加湿器でもおこりますので、2019年9月にひとりごとした「加湿器はこわいぞ!」もあわせてご覧ください。

診療所のホームページにブラジル・サンパウロの現状をコメントした文章を記載していますので、併せてご覧いただければ幸いです。

 

註1:その気候が筆者がサンパウロに住んでいる大きな理由でした。

註2:窓が開かないバスなどもあったはずですが、その場合どうするんですかね?

註3:厳密にいえば、冷媒ガスを気体にして送る。

註4:https://www.nikkei.com/article/DGXMZO60063910V00C20A6EA1000/

註5:Legionella pneumophilaなど、レジオネラ属菌。

註6:レジオネラ感染は個別式である家庭内のエアコンでは起こりにくい。ビルなどに使われる熱源機器を一か所に集中設置したセントラル空調方式で報告されている。

註7:クーラー病の症状:発熱、吐き気、頭痛、下痢、悪寒、肩こり、鼻炎、喉の痛み、発汗、腹痛、眠気、めまい、足のだるさ、筋肉痛など。

秋山 一誠 (あきやまかずせい)。サンパウロで開業(一般内科、漢方内科、予防医学科)。この連載に関するお問い合わせ、ご意見は hitorigoto@kazusei.med.br までどうぞ。診療所のホームページ www.akiyama.med.br では過去の「開業医のひとりごと」を閲覧いただけます。

 
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しらすたろう

第56回 実録小説『町で一番の歯医者 前編』

 2020年10月。白洲太郎はいつものように地元の青空市場で仕事をしていた。世界は未だ新型コロナウイルスに悩まされているが、だからといって家に閉じこもっているわけにもいかない。皆、生活のためにやるべきことがあり、メシを食うために働かなければならないのである。メシといえば、太郎の市場での朝食は甘いドーナツとちゃぎののこしらえたおにぎりと相場が決まっている。ドーナツは近所のパダリアで売られているが、少し前までは3つで2レアルだったのが、最近では1つ1レアルになった。物価の上昇に嘆きつつも、これが世の中というものだ。などとため息をつきながらキツネ色の物体に齧りついた太郎であったが、食べ終わってから口内に異変を感じた。何かがおかしいのである。気になる部分を舌でなぞってみると、どうも奥歯の一部が欠けているようである。詰め物が取れたのか、歯そのものが壊れてしまったのかは定かではないが、いずれにせよ放っておくわけにはいかない。真実を知るのは怖いが、見て見ぬフリをすれば手遅れになる可能性もある。その日の仕事を上の空で過ごした太郎は、一日中、歯のことばかりを考えていた。


 翌週。太郎はちゃぎのを伴い、近所で一番評判の高い歯医者に行ってみることにした。田舎町にしては小綺麗な造りの建物に入り、受付を済ませると、待合いのソファに見慣れた人物が腰をおろしている。フランス人のフランクであった。


 50代半ばのおっさんだが、数年前からこの町に住み始め、太郎とは旧知の間柄である。日本で禅を学んだ経験がある一方、アマゾンの奥地でシャーマンをしていたこともあるというフランクは、とにかく特殊な経歴をもつ男であった。数か月前に会ったときは、ひどい虫歯を抜かなければならなくなったと嘆いていたが、まだ治療中なのだろうか?


 太郎が目で促すと、フランクはゆっくりと頷き、これまでの経緯を2人に説明した。数か月かけて4本の抜歯を行ったこと。たくさんの費用がかかったこと。そして今日、さらにもう1本歯を抜かなければならないこと…。これまでの人生で歯など磨いたことがなかったという彼は、手巻き煙草のヘビースモーカーでもある。長年の不摂生が口内に与えたダメージは計りしれず、苦痛に耐える日々が続いているという。話を聞き終えた太郎は、明日は我が身と怖気を震った。


 フランクのようにならないためにも、早急に欠けた歯の対処にかからねばならない。詰め物が取れただけならまだしも、内部では虫歯が進行しているかもしれないのである。


 太郎は焦れる思いで自分の名が呼ばれるのを待った。


 眩いライトに顔をしかめる。診察台に横たわった太郎の歯科検診がついに始まろうとしていた。自分の歯がどのようなコンディションにあるのか。真実を知る恐怖はあるが、太郎はぎゅっと目を瞑り、歯科医に身を委ねた。大きなマスクをしているため、医者の表情をうかがい知ることはできない。それでも自信に満ちた声で、1本1本歯の状態を助手に伝えている。聞き耳を立ててみたが、何を言っているのか理解できず、不安だけが募った。痛いことをされているわけでもないのに、太郎の額には汗が滲んでいる。


 ものの5分とかからずに検診が終わり、とりあえずホッとした太郎であったが、結果を聞くまでは安心できない。思わず身を乗り出すと、歯科医は涼しい顔で2本虫歯があることを告げ、そのうちの1本はかなりひどい状態かもしれず、レントゲンを撮らないことにはなんともいえないが、治療に関する見積もりは後日メールするとのことであった。
 

 ははーっとひれ伏すように検診代50レアルを支払い、歯科医院を辞した太郎であったが、後日届いた見積もりを見て驚愕した。なんとなれば、常識では考えられぬ1600レアルという数字が書かれてあったからである。
 

 絶望とまでは言わぬが、ダメージは大きい。1600レアルといえば庶民の世界では大金であり、田舎暮らしのブラジル人の平均月収をはるかに上回っているのである。
 町で一番の歯医者というふれこみだが、まさかこれほど金がかかるとは…。

 

 呆然と見積もりを眺めていた太郎であったが、どうにも納得がいかない。レントゲンを撮ってみないとはっきりしたことはいえないと言っておきながら、1600レアルというはっきりした数字を送ってくるあたり、ナメられているとしか思えなかったのである。
 

 しかし虫歯の度合いによっては、治療費がかさむこともあるだろう。あの歯医者の出した見積もりが、実際の相場である可能性もゼロではない。それを確認する唯一の方法はセカンドオピニオンを求めることであった。
 

 調べてみると、太郎の住む町にも数軒の歯医者が存在している。真実を知るためにも、ここは手間を惜しむべきではない。
 

 そう決意した太郎は、早速2軒目の歯科医院を予約したのであった。
 
(つづく)

しらすたろう

 

ジョエルミール・ベチング Joelmir Betting 

(経済コラムニスト、ジャーナリスト 1936~2012)

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第17回 アフガニスタン編

 今年1月、ドイツのミュンヘン中央駅近くのホテルに宿泊した。3つ星と言われて全く違和感のないホテルだったが、到着して最初にフロントの女性が明らかにアジア系の顔立ちの女性であることに少し驚いた。ヨーロッパ風の装飾のフロントで、ステレオタイプのドイツ人ばかりが働いているという雰囲気はなく、市街地にはアジア人やアフリカ人の、おそらく難民や移民が行き交うのが珍しくない様子に、20年前に旅行した時のドイツのイメージをやや覆された。ホテルのある通りには、軒並みイラク人、イラン人、中国系の人々の商店や飲食店が軒を連ね、夕食には安いタイ料理を食べた日もあった。

 4日間宿泊したそのホテルで、連日部屋の清掃作業を務めていた男性も、明らかに外国からの移民で、小柄でどことなくアジア風の黒髪と褐色肌を持ち、黙々と仕事をこなす姿に思わず出身国を尋ねると、一言「アフガニスタン」とだけ答えてくれた。

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カブールでの写真

●欧米を目指すアフガニスタン人

 国際移住機関(IOM)のサイトによると、2019年には約510万人のアフガニスタン人が国外に移民している。

「隣国のパキスタン、ウズベキスタン、タジキスタンだけでなく、イランとトルコを経由して、ドイツやイギリス、イタリア、フランス、ポルトガル、そして米国やカナダを目指すアフガニスタン人は少なくありません」

と説明するのは、ブラジルに帰化したアフガニスタン人イスマット・ウラーさん(29歳)。イスマットさんの両親はアフガニスタンのジャララバード出身だが、ソ連が軍事侵攻を行ったアフガニスタン紛争(1978〜1989)を逃れてパキスタンのペシャワルに移民した。イスマットさんも18歳までペシャワルで生まれ育った。

 

 イスマットさんは4人の弟と2人の妹がいる7人きょうだいの長男で、16歳の時に父親が病死したため、母親ときょうだいの生活の責任を一手に担うことになった。町中の露店で野菜を販売する等、早朝から夜まで働き詰めの毎日を過ごしていたが、将来への希望が持てず、18歳の時、家族から離れて一人パキスタンを去り、知人のパキスタン人とドバイを経由してブラジルに到着した。

 

「遠く離れた土地で、より良い生活を求めたかった」

 

 2009年、ビザを持っている知人と一緒にいたことで、ビザがなかったことをとがめられることもなく、スムーズにブラジルに入国。サンパウロ市内に到着してからは、友人もいない、言葉もわからない、ホテル代もない状態で、一時的にリベルダーデ地区のミッソン・ダ・パス教会の「移民の家」に身を寄せ、パキスタン人やムスリムを探し、ようやくブラス地区のモスクに助けてもらうことができた。早速衣料品を販売する仕事を得て、2010年には難民申請を行い、半年後には認定され、2011年にはRNE(外国人登録証)を取得した。

 

 イスマットさんの第一言語はダリー語で、他にウルドゥー語と英語を話すことができる。ポルトガル語は仕事を通して独学で覚え、半年ほどで慣れ、それほど悩んだことはない。これまで一貫して衣料品の売買に従事し、今も縫製工場で仕入れた商品を、商店や知人に販売している。

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長男を抱くイスマットさん

●家族全員で一緒 

 ブラジルに来てから、順番に母親と弟と妹を全員呼び寄せた。現在はパキスタンにいる時から知っていた従妹と結婚し、3歳の息子と1歳の双子の娘がいる。ブラス地区の一軒家を借りて、一つ屋根の下で全員が暮らしている。2人の弟は一緒に働き、他の2人の弟は学校に通い、妻と母親、妹たちは家事育児を行う。

「サンパウロは仕事のチャンスもあってとても良いです。しかし、何でも高く、家族を養うために走り続けなければなりません。子どもたちも生まれ、さらに責任が重くなりました」

 家族を呼び寄せるための航空チケットなどを借金したため、その返済を行う必要があり、パキスタン時代と変わらず、今も寝る間を惜しんで働き続ける。パンデミックになってから2か月は仕事がストップしたが、インターネットでも販売を開始し、今は仕事面では以前と変わらない状況に戻っている。

 

●パキスタンで人気のクリケット

 

 仕事ばかりの生活と言うイスマットさんだが、これまでつかの間の休息の時となってきたのが、週末に行うクリケットだ。パキスタンではポピュラーなスポーツで、イスマットさんも8歳から親しんできた。ブラジルでもパキスタン人、インド人、イギリス人、ブラジル人のセミプロ級のメンバーが集い、チームを作ってゲームを行う日がある。

 ブラジルにアフガニスタン人のコミュニティーはないが、家族同士での交流はあり、サンパウロでは100人くらいが暮らしているという。

「アフガニスタンはいつも戦争ばかり。今は少し落ち着き、アフガニスタンに戻った親せきもいますが、我が家はまだブラジルにいるつもりです。経済状況が良くなれば、子どもの教育のために米国か英国、カナダに移住したいという気持ちもあります。子どもたちには私のように朝から晩まで働くだけの人生ではなく、ゆとりのある人生を送ってほしいです」

とイスマットさんは話す。

 

「日本は入国が厳しいですし、言葉も難しいです。それでも素晴らしい国だと思います。チャンスがあれば自分の目で日本を見たいです。アフガニスタンのために尽くしてくれた日本人の故中村哲さんのことはメディアを通じてアフガニスタン人は誰でも知っています。皆、彼をとても愛し、尊敬していました。日本はとても愛のある国だと思います」

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クリケットをするイスマットさん

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インド人、パキスタン人、ブラジル人、英国人の合同チームでのイスマットさん

企画/ピンドラーマ編集部 文/おおうらともこ 写真/イスマット・ウラー

【取材協力】Caritas arquidiocesana de São Paulo

 

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下薗昌記

第133回 ビスマルク

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 時を超えて、クラッキの名前そのものが次世代に受け継がれることがある。

 現在、サウジアラビアのアル・カーディシーヤでプレーするビスマルキの名を聞いて、ピンと来る方はJリーグ好きか、生粋のヴァスコ・ダ・ガマのサポーターである。

 Jリーグが創設された当時、最強を誇ったヴェルディ川崎(現東京ヴェルディ)でカズらとともにタイトル獲得に貢献。その後、鹿島アントラーズでも5年間で7つのタイトルを手にしたビスマルク(本来はビスマルキだが、日本での登録表記に従う)は1980年代末、ヴァスコにとって希望の星だった。

 サウジでプレーするビスマルクは1993年生まれだが、彼の父は熱狂的なフラメンゴサポーターだったにも関わらず、ヴァスコ育ちで1990年のワールドカップイタリア大会にも出場した俊英の名前を愛息につけたのだ。

 話をビスマルクに戻そう。1969年、リオデジャネイロ州のサンゴンサロで生まれたビスマルクは、わずか8歳でヴァスコの下部組織に加わり、フットサル部門でその技を磨き始めた。

 派手なフェイントをひけらかすわけではないが、ボールを蹴る、止めるという基礎技術の高さに加えて、高い戦術眼を兼ね備えていたビスマルクは16歳でプロデビューを果たすと、1990年のイタリア大会のメンバー入りを果たすのだ。22人の登録メンバーには4年後のアメリカ大会でブラジル代表を世界一に導くロマーリオやべベット、ドゥンガらもその名を連ねていたが、20歳のビスマルクはチーム最年少。イタリア大会では出場機会こそなかったが次世代のホープだったのだ。

 そんな逸材が1993年、極東の島国に誕生したばかりのプロサッカーリーグを新天地に選ぶ。名門サンパウロやスペインのクラブからも誘いがあったビスマルクは当初、日本行きを考えていなかったがヴェルディ川崎からの誘いに首を振る。

 

 ビスマルクは敬虔なキリスト教徒。日本ではゴールや勝利の後に見せる神に祈りを捧げるビスマルクのポーズは、サッカー少年の間でも流行したが、ヴァスコ育ちの逸材は神が指し示した日本でのプレーを決断するのだ。

 

 4年間、ヴェルディ川崎でプレーし、女子テニスの伊達公子との交際が報じられるなどピッチ内外で日本に適応していた優良助っ人が、1997年に新たに選んだのは鹿島アントラーズでのプレー。言わずと知れたジーコが育て上げたクラブである。

 

 ヴァスコ育ちのビスマルクではあるが、幼い頃からのアイドルはフラメンゴの英雄、ジーコだった。

 

 ヴェルディ川崎ではチームの顔だったラモス瑠偉に敬意を評し、10番を譲っていたビスマルクだったが、鹿島アントラーズではジーコも背負った背番号10を託され、優勝請負人としてフル稼働。2002年にはブラジルに帰国し、フルミネンセやゴイアスでプレーしたが、2003年にJリーグでは3クラブ目となるヴィッセル神戸でプレーし、この歳を最後にスパイクを脱いでいる。

 

 現在は、サッカー選手の代理人として日本にも選手を送り出しているビスマルク。その風貌にかつての面影はなく、すっかりと太ってしまったが、Jリーグ初期に見せた最強助っ人の記憶は永遠に色褪せることはない。

下薗昌記(しもぞのまさき)

 

下薗昌記の著書