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2020年12月号 vol.171

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画像をクリックするとissuu.comのPDF版がご覧いただけます。

目次

ファインダー

鶴田成美

移民の肖像

松本浩治

ポルトガル語ワンポイントレッスン

リリアン・トミヤマ

カメロー万歳

白洲太郎

ブラジル百人一語

岸和田仁

クラッキ列伝

下薗昌記

目次

幻の創刊準備号

​(2006年6月号)

Kindleで復刊

​2020年7月号

​2020年8月号

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今年は何かをした記憶が少ないから例年以上に短く感じるのかもしれない。

新型コロナウィルスで世界中の人たちの日常が、そして家族や友達との関係が変わった。

今年を思い返すと、思い浮かぶものは暗い話題ばかりだと思う。

でもだからこそ今年起こった良いものを探し集めて2020年という一年を終えて欲しい。

そして来年は何気ない日常が戻り、何気ない笑顔と小さな幸せで溢れる平和な毎日であるように…。

良いお年をお迎えください。

鶴田成美(つるたなるみ)

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写真・文 松本浩治

水稲新品種改良に貢献した安藤晃彦(あんどう・あきひこ)さん

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 長年にわたってブラジルの水稲品種改良に貢献してきたサンパウロ州ピラシカーバ市在住の農学博士で、サンパウロ総合大学ルイス・デ・ケイロス農科大学(通称ピラシカーバ大学)元教授の安藤晃彦さん(73)は、2005年8月にリオ・グランデ・ド・スル州のサンタ・マリア市で開かれた第26回ブラジル水稲学会で表彰された経験がある。その当時、1990年代半ばからサンタ・カタリーナ州立農業試験場研究グループとの共同で育成した新品種が、自身の名前の敬称である「ANDOSAN」と命名され、安藤さんは「育種者にとって自分の名前が付けられたことは最高の名誉」と語っていた。 安藤さんは1958年、東京大学農学部育種研究室を卒業し、翌59年に農業技師としてブラジルに渡るまで、同研究室での研究に没頭した。在学中は水稲育種の権威・松尾孝嶺(たかみね)氏と放射線育種の権威・山口彦之(ひこゆき)氏(ともに元東大教授)に師事した。

​ 60年からはサンパウロ総合大学ルイス・デ・ケイロス農科大学の遺伝学科に勤務し、2002年に定年退職するまで植物の遺伝・育種研究につとめた。この間、サンパウロ総合大学の農業原子力センター(CENA)の設立にも大きく貢献。その後もこれらの研究センターで、非常勤として研究・教授活動を行った経緯がある。

 安藤さんの説明によると、2005年当時に表彰された新品種は、同氏の大学時代からの研究課題であった原子力放射線による突然変異育種法でできたもので、波長が短く透過性の高いガンマー線をイネ種子に当て、遺伝子を変化させる。つまり、人為突然変異によって生まれたものであったという。

 一般的に植物の品種改良には長い年月がかかり、生産性の高い良品種が市場に出回ることは容易ではないそうだ。新品種の「ANDOSAN」も例外ではなく、約10年間にも及ぶ長い年月が費やされた。

「ANDOSAN」はブラジル米のロンゴ(長米)で、その特性は一般のものに比べて生産性が高く、種を蒔いてから収穫までの期間が140日とやや長いものの、倒れにくく、マーケット調査では「旨みのある米」との定評を受けていたという。06年からはリオ・グランデ・ド・スル州、サンタ・カタリーナ州とボリビアで大規模に普及栽培が始められたようだが、ブラジル国内では予算や政治がらみの問題などで、研究者が一つの研究を継続して成果をあげるのは至難のわざだった。「育種は1回途切れるとダメになる。非常に手間がかかり、根気のいる仕事。多くの研究者は途中でどこかに行ってしまったり、研究も途中で費用がなくなり、行き詰まったりする」という安藤さんの言葉通り、育種研究は地道な活動とともに周りの協力者の存在も必要不可欠だ。「ANDOSAN」の育種に関しては、安藤さんの初期の教え子でもあるサンタ・カタリーナ州立農場試験場の石井タカジ博士の研究グループの絶大な協力支援があったことも大きかった。

 安藤さんがこれまでにブラジルに導入した突然変異育種法は、黒胡椒、イネ、コムギ、マメ、トモロコシなどの種子作物、ミカン、ブドウなどの果樹類や、キク、ランなどの花卉観葉植物類にも広く応用され、植物育種の一方法としてすっかり定着し、ブラジルの農作物の品種改良に大きく貢献してきた。

「私は本当に幸運だった。新品種に自分の名前が付けられたことは育種者冥利に尽きる。自分だけでなく、ブラジルの日系社会の皆さんとも分かちあいたい」と安藤さんは、2005年当時の表彰で大きな喜びを表していた。

(2005年8月取材、年齢は当時のもの)

松本浩治(まつもとこうじ)

移民
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リリアン・トミヤマ

なるべく

 今年、偉大なブラジルのミュージシャン、ジルベルト・ジルGilberto Gilが78歳を迎えました。誕生日を祝うため、スティービー・ワンダー、シコ・ブアルキ、ジャヴァン、カエターノ・ヴェローゾといったすごいアーティストたちが、ジルベルト・ジルの大ヒット曲「Andar com Fé」をいっしょに収録しました(各自自宅で)。

 

 このビデオはYouTubeで観ることができます。「 GILBERTO GIL E AMIGOS – ANDAR COM FÉ」で検索して下さい。

 

 この曲はとてもポジティブなメッセージを伝えてくれます。大変困難な時でも希望と信じる心を、という。リフレインはとてもうまくまとまっています。

「Andar com fé. Eu vou. A fé não costuma falhar.(信じる心をもって歩む。私はそうする。信じる心に失敗はない)」

 

 ブラジル人ジャーナリストのニナ・レモスNina Lemosは、パンデミックの世の中、ブラジルでも世界でも悲しいニュースにあふれている中でこのビデオを観て大変感激し、こう考えたそうです。この感動はブラジル人しか理解できない感情なのか、それとも、外国人もこの曲の希望のニュアンスすべてを理解できるのだろうかと。

 もし時間があれば、このビデオを見てみて下さい。そして、この曲のポジティブな震えを感じて下さい。実際、「なるべく」美しいブラジル音楽を聴いて下さい。そうすれば必ず語彙が増え、発音も良くなりますから。

 ところで、「なるべく」はポルトガル語でどう言うでしょうか。

 「se possível」を使うことができます。

 

 例を見てみましょう。

 

 Se possível, fique em casa.

 (なるべく家にいて下さい)

 

 Se possível, gostaria de fazer home office.

 (なるべくホームオフィスにしたいです)

 

 Se possível, coma refeições balanceadas.

 (なるべくバランスの取れた食事を摂って下さい)

 

 Se possível, fale português ao invés de japonês.

 (なるべく日本語ではなくポルトガル語を話して下さい)


 Se possível, escute músicas brasileiras.

 (なるべくブラジル音楽を聴いて下さい)

 今月もお読みいただきありがとうございました。来年が皆さんにとって甘美なものになりますように。ジルベルト・ジルのこの美しい曲(上記とは別の曲「Amarra o teu arado a uma estrela」)のように。

 

 Amarra o teu arado a uma estrela

 E os tempos darão 

 Safras e Safras de sonho

 Quilos e quilos de amor

 あなたの犂をひとつの星にくくりつけて

 時が与えてくれるものは

 たくさんのたくさんの夢の収穫

 たくさんのたくさんの愛

リリアン・トミヤマ(Lilian Tomyama)

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日本ブラジル比較文化論

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しらすたろう

第57回 実録小説『町で一番の歯医者 後編』

 1600レアル。


 田舎暮らしのブラジル人の平均月収をはるかに上回るこの金額が何を意味するのかというと、太郎の歯の治療費であった。
 先日、歯の違和感を訴えた太郎は、町で1番といわれる歯医者に検診に行ったのであるが、後日送られてきた見積書を見て、文字どおり目玉が破裂しそうになったのである。


 診察結果は虫歯が2本ということであったが、そのうちの1本の状態がかなりひどく、治療費に1600レアルもかかるというのである。あまりにもべらぼうな金額なので、太郎はその数字を信じることができず、町に数軒ある別の歯医者でセカンドオピニオンを求めることにしたのであった。


 2軒目の歯医者を訪れた太郎は、予約していたこともあり、1秒も待たされることなく治療室に通された。この歯科医院は去年オープンしたばかりと聞いていたが、建物も中の造りも小綺麗で、1軒目に行った歯医者と何ら遜色がないように思われる。現れた女医は学生かと思うほどに若く、そして美人であった。太郎はグッとくるものを感じたが、家では最愛のちゃぎのが待っていることだし、ここは集中して検診に臨ばねばならない。


 そんな太郎の心の動きを知ってか知らずか、ソラーニと名乗る開業医はロン毛の東洋人を診察台の上に横たわらせると、早速口内を調べ始めた。どういうわけか助手はおらず、2人っきりの空間である。ポルノビデオの世界であれば、女医が太郎の上に馬乗りになり、髪の毛を振り乱す展開になるのであろうが、現実に起こることはまずないだろう。そんなことを考えながら目を瞑っていると、ものの5分もかからずに検診が終了したのである。ソラーニは整った笑顔を太郎に向けると、虫歯が5本あることを告げ、さらさらとペンを走らせた。見積書には虫歯の治療と歯石掃除代合わせて600レアルとあり、さらに今日の検診は無料だという。
 

 狐につままれたような顔をして医院を出た太郎の顔には困惑の色が浮かんでいた。なぜなら1軒目の歯医者では虫歯が2本あると指摘され、そのうちの1本に対し1600レアルもの治療費がかかると診断されていたからである。一方、ソラーニの見立てでは虫歯が5本あるといわれたものの、歯石掃除代も含め600レアルという金額である。まさにアベコベな結果と相成ったわけで、太郎の頭は激しく混乱した。一応考える時間が必要ということで、その場では決断を留保した太郎であったが、心の中ではソラーニのところで治療をする方向に気持ちが傾きかけていた。見積書の内訳は虫歯治療1本につき90レアルであり、それに歯石掃除代150レアルが加算される。1600レアルに比べると、グッとハードルが下がった感じである。
 

 しかし納得がいかないのは虫歯の本数で、2本なのか5本なのか、一体どっちが本当なのであろうか。1軒目の歯医者には検診だけで50レアルも支払ったが、見落としがあったとでもいうのか? であれば、とんだヤブ医者ということになるが、あるいはソラーニの誤診かもしれない。謎は深まるばかりである。
 

 家に帰りちゃぎのに相談すると、
「もう1軒行ってみたらええやん」
と、こともなげに言うので、なるほどそうか!とばかり、太郎は3軒目の歯医者を予約したのであった。


 ソラーニは若く美しい女医であったが、3軒目のマルタ先生も女性である。いかにもベテランです、という雰囲気を漂わせており、見るからに聡明そうだ。ちなみにここも検診だけなら無料だという。


 果たしてマルタの診断結果は虫歯が4本であった。歯石掃除を含めた治療費総額は480レアルとのことである。
大勢は決まった。もはや1軒目の歯医者は選択肢から外してもいいだろう。検診に50レアルも徴収しといて、虫歯を2本しか発見できず、さらにどんな高級素材を使用するのかは知らぬが、料金もべらぼうである。町で1番の歯医者という触れ込みであったが、とんだ期待外れであった。 


 それにしても歯医者によってこんなにも診断がちがうとは。太郎は驚きを禁じ得ず、他の歯科医院では虫歯5本という結果だったことをマルタに告げると、彼女は「知っている」と大きく頷き、たしかに虫歯ともいえぬような小さな点があるが、ブラッシングで対処できる程度のものなので、すぐに治療する必要はない、と自信満々に言い切ったのであった。
 

 歯医者も商売である。少しでも治療本数を増やし、その分の利益を得ようとするのが人情であるはずなのに、マルタはそうしようとはしなかった。信頼に足る人物である。そう判断した太郎はこの先生に治療してもらうことに決め、早速日程の調整に入ったのであった。
 

 2020年11月19日現在、太郎はすべての歯の治療を終え、残すところ歯石掃除だけとなっている。新型コロナウイルスによるクアレンテーナが始まって以来、ヒマな時間を持て余していたかれは、自らの日常生活を題材にした動画をYouTubeに投稿するようになったが、この歯医者の件についても何本かアップされているので、興味のある方は『ブラジル露天商しらすたろう』チャンネルを是非覗いてみてほしい。


 余談だが、太郎の付き添いにすぎなかったちゃぎのが、気まぐれにマルタの歯科検診を受けてみたところ、予想以上の虫歯が発見され、その治療費は太郎の数倍の規模だという…。


 2020年も終盤に差しかかってきたが、しらす家の試練はまだまだ続きそうなのであった。

しらすたろう

カメロー
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エニオ・シルヴェイラ

(出版社代表・編集主幹、1925~1996)

12月14日、13:30 昼食、黒フェイジョン(インゲン豆)、ライス、ミラノ風ビーフ、茹でジャガイモ、と、まさに肉体労働者のメシだ。食器は皿とスプーンだけ。ナイフとフォークは危険物だからと、禁じられている。食事そのものはさほどひどくはないのだが、拘置部屋があまりにも薄汚いし臭いので、食べる気力すら喪失してしまった。デザートは、缶詰のシロップ漬け桃。

15:00 夏日で猛烈な暑さ。シャワーを浴びたが、冷水でなく温水シャワーになったのは、貯水タンクが強烈な直射日光で“追い炊き”されたから。タオルなどなく、部屋の相棒が貸してくれた、小さな布ナプキンで身体を拭いた。(中略)

12月26日、06:00 いつもより眠れた。涼しい夜風があって蚊の襲来もなかったからだろう。起床してから、シャワーを浴び、ヒゲを剃る。ラジオで朝のニュースを聞く。アポロ8号は順調にいったようだが、ベトナムでは多くの死者と混乱が続いた。中東ではアラブとイスラエルの対立・紛争が激化しているが、ブラジル(のニュース)は、何もなし。何が起きているのだろうか。(中略)

12月31日、前日の日記に書き忘れたが、昨日、中庭で、髭も髪も伸び放題のジルベルト・ジルが日光浴をしているのを見た。それから後で知ったのだが、カエターノも一緒に軍警本部に拘置されたという。トロピカリアの二人が逮捕されてしまった!

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 1968年12月13日、国家権力を掌握して4年目の軍事政権は、AI-5(軍政令第5号)を布告した。この軍政令によって、国会閉鎖権、人身保護令の停止権、地方自治体への執行官派遣権限といった強権を自由に乱用できるようになった軍当局は、即日、人権弾圧、言論弾圧に乗り出し、反政府派とみなされた政治家(元大統領、元州知事ほか)や言論関係者が200名以上も逮捕拘禁された。その中の一人が、大手出版社Civilização Brasileira(CB社)の代表・編集主幹エニオ・シルヴェイラであった。

 その30年後に刊行されたカエターノ・ヴェローゾの哲学的回想録“Verdade tropical”(今年9月翻訳刊行された『熱帯の真実』国安真奈訳)の19章「ナルシスの休暇」で、

「軍服姿でない男が一人、中庭を歩いていた。(中略)彼の長身、のびのびとしてエレガントな動きと安定感は、なにか気品ある力でもって、制服の若い兵たちを威圧しているようだった。」

と記述されていたのがエニオである。

 

 サンパウロ生まれで、サンパウロ大学で社会学を専攻したパウリスターノがリオに移動して「ブラジル文明」出版社の編集&経営に関与し始めたのはエニオが27歳の時だ。彼はPCB(ソ連派共産党)の党員であり続けたが、出版内容に関しては、党の“公認左翼学者・作家”に偏重することは全くなく、文学では欧米文学からラテンアメリカ文学まで(具体的には、ニーチェ、ヘッセ、ジェイムス・ジョイス、DH・ロレンス、グレハム・グリーン、ヘミングウェイ、フォークナー、スタインベック、ノーマン・メイラー、コルタサル、カルピンティエル等々)、社会科学ではマルクス(『資本論』全巻ポ語完訳)、グラムシ、ガルブレイス、セルソ・フルタード、ドイッチャーまでカバーしている。出版関係者にはよく知られたエピソードであるが、ドイッチャーのトロツキー伝三部作(『武装せる予言者』『武力なき予言者』『追放された予言者』)を刊行した時、党中央から「ソビエトを裏切ったトロツキー関連本を出すことは認めぬ」と査問に近いチェックを受けたが、彼は「弊社は党の出版局ではない。出版に値すると自分が判断したら出版する」と断固はねつけたのであった。

 CB社が1960年代後半発行していた隔月刊総合文化誌では、毎号サルトルやグラムシ、フロム、マルクーゼらの論稿が掲載され、常連寄稿者としては、作家エイトール・コニー、劇作家ディアス・ゴメス、社会学者オクタビオ・イアンニ、批評家パウロ・フランシスといった面々が誌面を飾ったが、グラウベル・ホッシャが「シネマ・ノーヴォ宣言」を発表したのも同誌であった。

 

 彼の没後編集された追悼本(“Enio Silveira - Arquiteto de Liberdades” Bertrand Brasil 1998)は、1950年代から80年代にかけてブラジル出版界で起きたファクトを記録した史料的にも価値のある記事や証言が収録されているが、彼の獄中日記も抄録されている。冒頭に引用したのは、この日記の一部であるが、几帳面なエニオは毎日、起床から就寝まで1時間刻みで克明にメモしている。哲学者B・ラッセルの翻訳を進めつつ、特に食事については、三食すべて詳しく記録メモしており、当初は、「まあ食える」と評価していた“クサイめし”は炭水化物ばかりで、タンパク質欠如の“冷や飯”であると日記のあちこちで糾弾している。

岸和田仁(きしわだひとし)

百人一語

岸和田仁の著書

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下薗昌記

第134回 パウロ・ヴァレンチン

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 イギリスの高級紙オブザーバーが2004年、「死ぬまでに見るべき」スポーツイベントの1位に選出した競技をご存知だろうか。

 答えはスーペルクラシコ。いわずと知れたアルゼンチンの二大巨人、ボカ・ジュニオールズとリーベルプレートの激突である。

 狂気。興奮。熱狂。混沌……。そんな言葉の全てが陳腐に聞こえる一戦で、確かにその名を歴史に刻み込んだブラジル人がいる。

 男の名はパウロ・ヴァレンチン。勝負強いストライカーでもありながら、ピッチ外では破天荒な生き方でも知られた型破りのクラッキだった。

 1932年、リオデジャネイロ近郊の町、バーラ・ド・ピライーに生まれたパウロは、地元の小クラブでパウロの父もプレーしたことがあるセントラウでキャリアをスタートさせると1954年、名門アトレチコ・ミネイロに移籍。アトレチコ・ミネイロでも期待どおりの活躍を見せたパウロだが、ベロ・オリゾンテの生活ではのちに、TVグローボのテレノヴェーラでも放映される「イウダ・フラカン」のモデルとなるイウダ・マイアと出会い、恋に落ちるのである。イウダの職業は、いわゆる春を売る職業だった。

 

 アトレチコ・ミネイロからボタフォゴに移籍。いよいよブラジルサッカー界の中心地でプレーし始めたパウロだったが、夜の街を愛するパウロはリオデジャネイロで身を律することができず、そのポテンシャルを当初発揮しきれなかったが、のちにブラジル代表の監督も務めるジョアン・サウダーニャはこう評価するのだ。

 「パウロは戦車のような選手だが、インテリジェンスも持っている」

 その慧眼はさすがだった。

 1948年以来、ボタフォゴが手にしていなかったリオデジャネイロ州選手権では1957年の優勝に貢献。1959年にはブエノスアイレスで行われた南米選手権でブラジル代表としてもプレーしたが、タンゴの国で見せたパウロのパフォーマンスは、アルゼンチン人も惹きつけたのだ。

 1960年、ボカからオファーを受けたパウロはアルゼンチンでのプレーを決意。そしてその傍らには恋人から妻に立場を変えたイウダも一緒だった。

 1963年のコパ・リベルタドーレスの決勝でサントスと対戦した際、王様ペレにさえ「ブラジルの猿」と今であれば大問題となる人種差別的なヤジを飛ばしたボケンセ(ボカサポーター)であるが、パウロは彼らの心をがっちり鷲掴みにするのだ。

 ヴァレンチンはスペイン語読みすればバレンティンだが、「ティン、ティン、ティン、ゴル・デ・バレンティン(ヴァレンチンのゴール)」なるコールは定番に。ポジショニングの良さと、抜け目のない動きで両足から放つシュートでゴールを量産したパウロだが、未だにスーペルクラシコでプレーしたボカの選手として最多ゴールの記録を持っているのだ。

 リーベルとの公式戦7試合で計10ゴール。親善試合では計3ゴールを奪ってきた。この数字はパレルモやテベス、マラドーナでさえなしえなかったものである。

 そして妻、イウダはボカのホームスタジアム、ボンボネーラの貴賓席で夫のプレーを見守った。

 1960年から1965年までの在籍中、2度タイトル獲得に貢献したパウロは1965年に母国のサンパウロに移籍。メキシコなどでもプレーした後、1968年にスパイクを脱いだ。

 ボカの下部組織で指導者を務めていたパウロだったが1984年、51歳でこの世を去ったが、不摂生な生活が原因とされる心臓麻痺が死因だったという。

 晩年は貧困に喘いだというパウロに寄り添った友人の一人は、スーペルクラシコでパウロに何度も苦汁を舐めさせられたはずのリーベルのGK、アマデオ・カリーゾだった。

 酒飲み仲間でもあったというカリーゾは「いいワインを手にしている時に、ボカだろうとリーベルだろうと関係ないさ」と笑ったがボカのサポーターにとっては永遠の英雄、一方、リーベルのサポーターにしてみれば、いつまでもにっくき仇である。

 スーペルクラシコの歴史を紐解く時、必ずパウロ・ヴァレンチンの名が思い出されるのである。

下薗昌記(しもぞのまさき)

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下薗昌記の著書

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