2021年2月号 vol.176
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目次
幻の創刊準備号
(2006年6月号)
Kindleで復刊
2020年7月号
2020年8月号

写真・文 松本浩治
松原移民で市長経験の森下安雄(もりした・やすお)さん

松原移民としてブラジルに渡ってきた人々の中でも、珍しい経歴を持って過ごしてきた人がいる。森下安雄さん(72、和歌山県出身)は、大阪の布施にある近畿大学を卒業してすぐの1953年、父母と兄弟4人の6人家族でオランダ船の「チチャレンカ号」で海を渡った。現在住んでいる南マット・グロッソ州グロリア・デ・ドウラードス市(以下、グロリア、松原移住地から東に約5キロ)で市長、副市長を歴任した経験を持っている。また、同地で種牛の人工授精を始めた元祖として牧畜業を営むなど、常に先を見越した人生を歩んできた。
「ブラジルに来るまでは、カネッタ(ペン)よりも重いものを持ったことがなかった」
と笑う森下さんだが、松原移住地では「エンシャーダ(鍬)を引き」、カフェを育てあげてきた。カフェは比較的よくできたが、「これでは先がない」とカミヨン(大型車)を購入。61年に8年間過ごした移住地を出て、グロリアで砂糖や米などを販売する食料雑貨店を開けた。これが当たった。
その店に1か月に一度必ず来るブラジル人客の存在を、森下さんはいつも気にしていた。読み書きはできないというが、身なりは整っている。「何(の職業)をしているのか」と問うと、「牛飼い」だという。
「ブラジルで成功するには牛飼いだ」と悟った森下さんは、64年頃からグロリア周辺地域に牛を飼い始め、当初は30頭ほどと少しずつ数を増やしていった。しかし、「(大卒の自分が)読み書きもできないブラジル人と利益が一緒では割に合わない」—。考えた末、牛の人工受精を思いつき、実行に移していった。良い種牛を買い求めては人口受精により、牛の品質を高める。近隣のドウラードス市や同州のカンポ・グランデ市の品評会でも好評を得て、少しずつ大牧場主の仲間入りをしていった。
そうした中、すでに移住地時代に日本に帰ることは考えずにブラジルに帰化していた森下さんは72年、グロリア副市長に立候補し、当選。言葉のハンディはあったものの、76年までの5年間を務めあげた。また、80年半ばにも副市長を務め、当時の市長が1年半で途中退任したために繰り上がり、約2年半、同市の市長にもなった。戦後移住者で市長になることは珍しい事例で、周辺の日系人からも大きな支持を得た。
森下さんは先を見越したアイデアもさることながら、高校時代に相撲をやっていた時の体力を生かし、今でも周りから「あいつには、とてもついていけない」と言わせるほどのタフさを誇っている。
「同じ移住者の中には、戦前にブラジルに来た親戚がいる家族も多かった。自分たちにとっては、それらの人に頼るところがなかったことが逆に幸いした」と森下さん。日本では「棄民」とまで呼ばれたが、自らの知恵と体力を頼りに大農場主にまで成り上がった。
今でも思い出すのは、移住地時代のことはもとより、「チチャレンカ号」での移動中のことだ。53年7月に休戦となった朝鮮戦争で韓国側についたアメリカ同盟軍の白人帰還兵が同じ貨物船に乗っており、片言の英語で会話をするなど親しくなった。同船の航路はアフリカ周り。南アフリカ共和国ダーバンで一時下船した際、白人兵と飲み屋に立ち寄ったが、森下さんにはコップが渡されなかった。明らかに人種差別だった。
「いつか、見とけよ」——。
ブラジルに上陸する前から築かれた反骨精神が、森下さんを現在までのし上げてきた。
(2003年8月取材、年齢は当時のもの)
松本浩治(まつもとこうじ)

リリアン・トミヤマ
Não é minha praia.
キンジン(quindim)を食べたことがありますか? キンジンは卵、砂糖、すりつぶしたココナッツでできたお菓子です。「quindim」という単語はナイジェリア、ベナン、トーゴで話されているヨルバ語から来ています。「優しさ、親切、魅力」といった意味です。
ただ、名前はアフリカのものですが、お菓子はポルトガルのものです。もっと特定して言うと、レイリア(Leiria)という町のもので、オリジナルの名前は「Brisas do Lis」です。ポルトガルのレシピとブラジルのレシピの違いは、もともとココナッツの代わりにアーモンドをすりつぶしたものが入っています。
これは、ヨーロッパと同じようなアーモンドが手に入らないために改作したわけですね。
キンジンは1940年代のディズニー映画に出てきます。ドナルドダックがオーロラ・ミランダといっしょに「Os Quindins de Iaiá」という曲をうたいながら登場します。この部分はYouTubeにありますので、「Classic Disney: Bahia (1944) - Brazilian Dance Scene - Os Quindins de Yayá」で検索して下さい。
ブラジルでは昔、奴隷たちがアフリカの宗教儀礼にキンジンを持って行っていました。愛と繁栄と美の女神オシュン(Oxum)に捧げたのです。この伝統は今でも続いています。理由? キンジンは黄金すなわち繁栄の黄色だからです。多産のシンボル、卵でできているからです。
作家でジャーナリストのマリオ・キンターナ(Mário Quintana)はキンジンの大ファンでした。自分の働くコレイオ・ド・ポーヴォ紙(Correio do Povo)社屋の軽食店でキンジンを買い、砂糖なしの濃いコーヒーを飲みながら食べました。
で、皆さんは甘いものがお好きですか?
この質問に対し、ブラジル人ならこう答える人もいるでしょう。
"Doce não é minha praia."
なんだか変な感じですね。「praia(海岸)」と「doce(甘いもの)」とどういう関係なんでしょう?
実は何の関係もありません。この表現は「好みではない」という意味になります。
こういう構造になっています。
"◯◯ não é minha praia"→「◯◯は好みではありません」
<例>
Samba não é minha praia.
(サンバは好みではありません)
Futebol não é minha praia.
(サッカーは好みではありません)
Eu amo história, mas matemática não é minha praia.
(歴史は大好きですが、数学は好きではありません)
「好みではない」という意味以外に「得意ではない」という意味にもなります。
"◯◯ não é minha praia"→ 「◯◯するのは得意ではない」
<例>
Cozinhar não é minha praia.
(料理は得意ではありません)
Dançar não é minha praia.
(踊るのは得意ではありません)
Falar em público não é minha praia.
(人前で話すのは得意ではありません)
今月もお読みいただきありがとうございました。マリオ・キンターナについて触れましたが、彼についてもうひとつ。職場の軽食店でいつもキンジンを食べとコーヒーを飲んでいたので、同僚たちに「マリオ・キンジン(Mário Quindim)」というあだ名をつけられてしまいました。みなさんは、一番好きなお菓子があだ名だったらどうなりますか? 私なら「Lili, sorvete ☺(リリ・アイスクリーム)」になります(笑)。

カエターノ・ヴェローゾ
(ミュージシャン・作家、1942年バイーア生まれ)
ブラジルに「西洋の西に位置する西洋」であることを求めていたなら、今日の僕は、僕らの現実を超西洋的に感じることを選びたい。裕福な世界と呼ばれた、ハンチントンの「西洋」に入らなかった国から来た植民者たちによって建設されたブラジルのありようは、文化的に混合しており、辺縁の、そのまた辺縁に位置している。初めてスイスに行った時、同地生まれの人が僕にこう言った。「ピレネー山脈の向こうは全部アフリカですよ」。よろしい、ジルベルト・フレイレの「熱帯の中国」からアゴスティーニョ・ダ・シルヴァのアフリカ東洋研究にいたるまで、ブラジルの住民のアメリカ大陸先住民的基礎からジョゼ・ボニファーシオのアマルガム(両アメリカ大陸のどの国の独立指導者も、奴隷解放の直後にくる彼の計画的な混血にわずかでも似たようなものを提案してはいない。人類学者であれば前代未聞の「文化の殺戮」と言うかもしれないが、少なくともこれはブラジルに特有な症状であり、僕らが取り扱う方法を知っているべきことだ)にいたるまで、黒人奴隷によってもたらされたアフリカの宗教を起源とする多神教からネオ・ペンテコスタリズムにいたるまで、すでに体験され、結局は捨てられたものとは異なる何かを、ブラジルは提起するのだ。
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1968年12月13日、軍事政権の独裁権力を象徴するAI-5(軍政令第五号)が布告された。この軍政令によって、強権を得た軍政は、大物政治家(元大統領、元州知事ほか)や言論人など200名以上を逮捕拘禁したが、その二週間後、朋友ジルベルト・ジルと共にカエターノ・ヴェローゾは、警察当局によって逮捕される。逮捕理由も定かでないままリオ軍警本部に2か月近く拘禁された後、二人共、英国ロンドンでの二年半の亡命生活を余儀なくされることになる。
1960年代後半から彼らが展開した先進的カウンターカルチャー運動はトロピカリズモと称されるが、この拘禁・亡命という蹉跌期間を経て、カエターノはミュージシャンとしても哲人作家としても成長していく。
あれから半世紀が経過し、今やMPB(ブラジルポピュラー音楽)のレジェンドとなったカエターノ・ヴェローゾ(1942年8月7日生まれ)も、2020年には78歳となった。
加齢はあっても老化とは全く無縁でアクティブな人生を過ごしている高齢者は、洋の東西を問わず、日本でもブラジルでも少なからずいるが、カエターノはそんな現役高齢者の代表例だ。シンガー・ソングライターとしてばかりでなく、批評家・作家としても現役であり続けており、彼のファンでなくても、その知的パワーには圧倒されてしまうからだ。
そんなカエターノは、「フランスかぶれ」の中産家庭環境で少年時代を過ごし、青年になると地元の最高学府バイーア連邦大学で西洋哲学全般(文学も含め)を学び、ニーチェからサルトル、メルロポンティ、レヴィ=ストロース、プルーストと濫読した由だが、彼が学生時代に活躍を始めるのは、まずは批評家としてであった。4歳年上の「同じバイアーノの兄貴」であった映画監督グラウベル・ホッシャの知遇を得て地元紙に書き続けた映画批評が評判を呼ぶようになったからだが、1965年になって「たまたま音楽活動を生業にすることになった」のだ。
こうした青年カエターノの知的彷徨をノンフィクション文学的に叙述しているのが、この度(2020年9月)、日本語完訳版が刊行された『熱帯の真実』(“Verdade tropical”(初版1997年、改訂新版2017年) である。
この『熱帯の真実』(国安真奈訳)は、ミュージシャンによる当事者証言ないし回想録といったレベルを遥かに超えた、ブラジル現代史の同時代証言でもあり、分厚くて(日本語版は二段組で544頁!)読み通すのがシンドイ哲学エッセイ集にもなっている。カエターノという類いまれなる知性が、国の近代化(マクロ)と自分自身の知的成長(ミクロ)とを、ある時は並行的に、ある時はそれぞれを交差させ複眼的に、考察しつくした成果を文章化した自伝的哲学試論である、というのが筆者の読後の感想であるが、この本のなかでも、読者に一番先に読んでほしいとカエターノが記しているのが、自身の逮捕拘禁について詳述した、第3章「ナルシスの休暇」である。
冒頭に引用したのは、初版から20年後の2017年に刊行した新版に付された序文からだが、この序文といっても、一冊の新書版になるくらいの長い論稿だ。この序文を書いた時カエターノは75歳(日本的には後期高齢者!)だったから、まさに“加齢はあっても老化しない哲学徒”らしい、込み入った哲学的文章には圧倒されるしかない。

新型コロナウイルスワクチンとは?
今月もコロナの話です。もうこのコラム、ひとりごとではなく、コロナ解説に変えようかなと思うくらい、毎月コロナコロナですね。何回も言っていますが、100年に一度の人類の危機なので、ずっと話題の中心になることは仕方がないです。
我々の生活をこれだけ脅かすようになった疾病を通り越して、社会現象といえるコロナ禍も1年が過ぎたところです。たった1年前は人類は普通に「喜怒哀楽」に満ちた生活をしており、今は「怒哀」だけのこんな色んな制限のある生活を強いられるとは誰も思ってなかったですよね。この不自由な生活を終焉させるとされる一縷の望みがワクチンとされ、最近の一番の話題です。コロナワクチンについては4か月前に免疫の話の中で少しひとりごとしました。今回はさらに詳しく解説を試みます。
世界中の生活を止めてしまったコロナ禍なので、とにかく早くワクチンを実用化せよと大号令がかかり、人類史上かってないスピードでコロナウイルスワクチンの開発が進められてきました。去年の前半では100社以上が開発をスタートし、現時点では臨床試験段階にあるのが25種類、前臨床試験段階にあるのが139種類で、実用化にこぎ着けたのは今のところ一桁台の製品です。ワクチン開発には通常5年や10年といった時間がかかります。それを1年もかけず実用化されたのは従来の有効性や安全性の検証が省略されたからに過ぎません。
『はっきり言って「まあこんなもんで大丈夫だろう。大丈夫だったらいいな。大丈夫でありますように」程度の検証で認可された製品だな』
ワクチンを接種することによる問題の一つが、副反応です。つまり、該当する感染を防御するか重症化を防ぐといった効果である主反応以外の作用のことです。副反応は超短期的・短期的にはアレルギー反応や脳神経炎などがあり、長期的にも後期副反応と呼ばれるものもあります。10月にひとりごとした「抗体依存性免疫増強」などは長期的な安全性を検証しないと判明しない重篤な副反応です。とにかく今回は公衆衛生上緊急性が高いということで、どんどんワクチンが認可されていますが、純粋に医学的に言うと、危険は想定内だとは認知されていますが、大々的な人体実験が行われている事情に該当します。
『しかし一番懸念するのは今まで認可されたことがない手法で製造されたワクチンの使用だな。手放しで喜べない。理性的に容認するのと感情的に否定するのとの狭間で揺れる』
ワクチンを生産するのに一番古い手法は感染症をおこす病原菌を不活性化または弱毒化させ、それを体内に入れ、その抗原に対して免疫反応をおこし、中和抗体ができ、次にその病原菌と接触があっても抗体が無力化して発症しないといった方法です。この方法は二つ問題があります。まず不活性化させる前に病原体を培養しないといけない、つまり生物学的な危険を伴う作業であり、安全に病原体を扱える施設が必要ということ。次に、下手をすると、予防すべき感染症になってしまうことです。不活性化を強め過ぎると、病気にはなりませんが、免疫反応があまりおこらない。なので予防効果を強めようと不活性化を弱めると本当に元の感染症になってしまう。「不活性化ワクチン・弱毒性ワクチン」の一番難しいところはこの兼ね合いですが、古くから使われてきた生産方法なので、これまで数多のヒトに接種した実績があり、安全性に関しては一番知見が多いワクチンです。サンパウロで導入されている「コロナバック(CoronaVac)」がこのタイプのワクチンです。従来のワクチン政策に沢山使われ、普通の冷蔵で流通が可能な点も利点です。
感染をおこしてしまう問題を回避するのに開発された手法が、元の病原体でない生物(大腸菌、酵母など)の遺伝子を組み換え、該当する病原体の特徴であるタンパク質を作らせる方法です。そして作られたタンパク質を摂取する、一般的に「組み換えタンパクワクチン」とよばれる製品になります。これだと、病原体の一部の部品(タンパク質)しか接種しないので絶対に元の感染症にはならないのです。アレルギー反応などはおこす可能性はありますが。コロナ用はまだ製品化されてなく、オーストラリアで臨床試験されています。ブラジルにも日本にもありません。
「組み換えタンパクワクチン」の発展型というのが「ウイルスベクターワクチン」です。ベクターとは「運び屋」という意味です。これも同じように元の病原体の遺伝子を利用するのですが、病原性のないウイルスにその遺伝子を置き換え、今回の場合はコロナウイルスのタンパク質の合成を誘導します。この病原性はないが病原体のタンパク質を作るウイルスをヒトに接種すると、それに対する免疫ができる仕組みです。コロナワクチンの場合はアデノウイルスを運び屋に利用します。ブラジル連邦政府が導入を進めているオックスフォード大学・アストラゼネカ系のワクチンやロシアのスプートニクVがこれに該当します。日本でも供給が予定されているようです。
これらのワクチンは既に実績があったり、認可されたりしているのですが、全く新しい手法のため、喧々諤々と是非が激しいのが「いわゆる遺伝子ワクチン」です。mRNAワクチンとDNAワクチンがありますが、後者はまだ製品化されていません。前者がヨーロッパや北米で大々的に接種が開始されたファイザー社とモデルナ社の製品です。コロナウイルスの抗原タンパク質をつくる遺伝子情報(塩基配列)をヒトに接種し、それがヒトの細胞に取り込まれ、細胞内で抗原タンパクが作られ、それに対し免疫が誘導されるという手法です。ウイルスに感染するとウイルスの遺伝子情報がヒトの細胞の機能を使い、ウイルスタンパクが産生されていたのと同じこととされます。今までにこのタイプのワクチンは認可、使用されたことがないので、理論的には安全ではあるとされますが、長期的な安全性や効果については未知の製品です。現在の技術では遺伝子情報を作成するのは簡単かつ大量にできるので、開発と生産が容易なのが利点とされていますが、流通にはマイナス75℃や20℃など、普通のインフラでは不可能な超低温を必要とされ、いったん超低温から出すと数時間の有効期限しか持たないのも非常に大きな弱点といえるでしょう。日本はこの種類のワクチンを中心に接種政策を行うと発表していますが、ブラジルを含め後進国では一般的な使用はあり得ないと思います。
『ブラジルでは富裕層向けにこのタイプのワクチンを提供するサービスが準備されていると噂があるぞ』
元々呼吸器系の疾患に対して生涯免疫ができるワクチンは今まで製造されたことはなく、いずれのワクチンを接種しても中和免疫ができる効果があっても、あまり長くは持続しないであろうと思われます。なので、当分はインフルエンザワクチンのように毎年定期的に接種する必要があるのではないかと考えます。
『コロナウイルスは変異しやすい。去年は再感染の問題が指摘されていたが、どうやらウイルスが変異してそれに“再”感染するようなのだな。その証拠ともいえるのがブラジルで4月頃一番始めに感染爆発し、一番始めに集団免疫を獲得したとされるアマゾンのマナウス市の先月からの再度感染拡大ではないか? ブラジルで確認されているコロナウイルス変異種はこのアマゾン型である』
コロナウイルスも変異種がインフルエンザウイルスのように持続的に出現するのであれば、ワクチンは感染防御にはそれほど役立つわけではありませんが、インフルエンザワクチンのように「重篤化」を防ぐ効果は期待できると考えます。筆者はコロナワクチンを接種するべきではないとは思いません。現時点ではB国のように政争のタネにされていたり、C国のように国益のために供給したりしなかったり、J国のように官僚主義のスピード感などで24人の読者様がワクチンにたどり着けるかわかりません。しかし、接種機会があればどうしたいか今から熟考しておくに値すると思います。
診療所のホームページにブラジル・サンパウロの現状をコメントした文章を記載していますので、併せてご覧いただければ幸いです。
秋山 一誠 (あきやまかずせい)。サンパウロで開業(一般内科、漢方内科、予防医学科)。この連載に関するお問い合わせ、ご意見は hitorigoto@kazusei.med.br までどうぞ。診療所のホームページ www.akiyama.med.br では過去の「開業医のひとりごと」を閲覧いただけます。

しらすたろう
第59回 実録小説『オレはここから成り上がる』
2021年1月。
白洲太郎がYouTubeチャンネルを開設してから約9か月が過ぎようとしている。世間は相変わらず新型コロナウイルスに振り回されており、その影響はブラジルの田舎でひっそりと暮らす太郎とちゃぎのの生活にも反映されていた。まず影響を受けたのは、しらす商店の主戦場である「feira livre」である。
「feira livre」 はブラジル中の市町村で行われている青空市場のことで、太郎の場合、パンデミック前は半径100キロ圏内の町を週に4回のペースで行商していた。が、新型コロナの蔓延によるクアレンテーナ(隔離政策)の実施によって、居住地以外の町を行商することができなくなってしまったのである。幸いなことに太郎の住む自治体では週に2回、青空市場が開催されていた。そのため食いっぱぐれることはなく、むしろ外部からの露天商がシャットアウトされたことで売り上げが急増、政府が月600レアルの給付金をばらまいたことも大きく、その時期がちょうどコーヒーの収穫シーズンにも重なっていたため、太郎の住む町は未曾有の好景気にわいた。行商が週4から週2にペースダウンしても売上はさほど変わらず、田舎暮らしを満喫するだけの余裕は十分にあったのである。
こうなってみると、これまで週に4回も働きに出ていたのが信じられぬくらいで、人間、生きるために仕事はするが、仕事のために生きているのではない。大事なのは心のゆとりであり、幸福度である。
日本では大多数の人間が会社という組織に所属し、そこで骨身を削ることによって報酬を得ている。結果、人生の時間の大半を義務的に過ごすことを余儀なくされ、その事実を深く考えることもなく、言わば盲目的に仕事をしているのである。なんたる悲劇であろうか。企業戦士やモーレツ社員が経済大国日本の礎を築きあげた事実に違いはないが、その弊害が自殺率の上昇など、目に見えるカタチで社会問題となっている。自分は企業戦士にならなくて本当に良かった。太郎は心の底からそう思い、与えられた環境に感謝した。なにせ毎日の時間を自分の好きなように使えるのである。太郎にとって、ブラジルでの田舎暮らしはまさに天啓ともいうべきものであった。
といって、ありあまる時間をただ無為に過ごしているわけではなく、パンデミック後、太郎は持てる時間の大半をYouTubeの動画制作に費やしていた。それから約9か月が経過したが、未だに満足のいく結果は残せていない。
そもそも太郎がYouTubeを始めたきっかけは、収益化による副収入の増加にあった。長年ブラジルで商いをしているため、レアルはあっても日本円がまったくない状態である。いずれ日本とブラジルを行き来するような生活を目論んでいる太郎にとって、円の創出は課題であった。これまでに安物プロポリスなどを日本に送って小銭を稼いだりもしていたが、最近ではそれもできない状態である。ならば、とばかり近年話題になっていたYouTubeでの広告収入に目をつけたわけだが、現実はやはり甘くない。
YouTubeで収益化を達成するためには、チャンネル登録者数1000人と年間再生4000時間以上という2つの条件があり、太郎はそのどちらも未達成であった。心血を注ぎ、これまでに60本以上もの動画を投稿してきたが、この体たらくである。
視聴者としてYouTubeを見ていると、1万回以上再生されている動画などはザラであり、内容も別に大したことはない。これならオレもイケるんちゃうん? 楽勝ちゃうん? という気持ちにさせられるが、一部のYouTubeエリートたち(芸能人を含む)を除けば、ほぼ全員失望することになるだろう。なぜならYouTubeを始めたばかりの人が、持てる力をすべて注ぎ込んだ動画を作成、投稿したとしても、100回どころか50回も再生されず、最悪の場合はひとケタ、もしくは自分が見た回数しかカウントされていないのが関の山だからである。それでもめげずに動画を投稿していけば、少しずつ見てくれる人も増えるだろう。頑張ってコツコツ続けていけば、収益化の条件くらいは達成できるかもしれない。しかし広告収入ったって、どんなもんもらえるんだよ? という点も気になるところで、情報サイトなどを覗いてみると、1再生につき0.1~0.5円というのが相場らしいが、これを自分の動画に照らし合わせてみると、とんでもないことがわかった。太郎の投稿した動画の中で1番再生回数が多いのは、どういうわけか歯医者で治療を受けたときのもので、現時点で2400回ほどであるが、これを前述した相場で換算した場合、予想せらるるのは240円から1200円という収入で、仮に1200円で計算したとしても、10本作って12000円なのである。太郎の場合、1本の動画を作るのに丸2日以上はかかる。これでは生活などできたものではなく、巷間で囁かれている。
YouTubeドリームはやはり夢やった。オレはもう田舎に帰る。あ、ここもうすでに田舎やったわ。たはは。といった事態に陥るのは火を見るより明らかであるが、まあ別にそれでもいいぜ。オレはすでに田舎でセミリタイアのような生活を送れる身分だ。気長にいこうよ。時間ならある。という、半ば開き直ったような、達観したような気持ちになっているので焦りはないが、それでもやはり100万回再生されるような動画を作るにはどうしたらいいかを、太郎は日々考えているのである。
ブラジルギャルにエロインタビューしたり、ギャングにケンカを売ったり、ファベーラの中を全裸で走り回ったりすれば再生回数を稼げるだろうか? それともあれか? ボウソナロ大統領に焼きそばでも作って食わせてやろうか? もしくはそこら中に毒ヘビが生息しているという立入禁止区域、『ケイマーダ・グランデ島』にでも潜入してやろうかしら?
そんなことを考えながらソファーに寝転び、今日も太郎は動画編集をしている。愛用機はiPhone 5S。編集アプリももちろん無料のやつである。
オレはここから成り上がる。
年収1万円くらいなら、いつかきっと…。
そんな彼の野心を知ってか知らずか、外では雀がちゅんちゅら鳴いている。
ちゅんちゅんちゅらちゅら。ちゅんちゅらちゅん。
太郎は大きく伸びをすると、チャンネル登録お願いします、と雀たちに呟いた。
そよ風が柔らかに吹いていく。
今日も爽やかな一日になりそうである。

下薗昌記
第136回 セルジオ・セレリーセ

サッカー王国、ブラジルに負けない伝統と歴史を持つイタリア。そんな長靴型の形をした国のサッカーリーグは「セリエA(アー)」の愛称で親しまれ、世界中のクラッキを引き寄せてきた。
ブラジル人に目を向けても1982年スペイン大会で、黄金の中盤を形成したジーコ、ファウカン、ソークラテス、トニーニョ・セレーゾの4人全てがセリエAでプレーし、カレッカもナポリで英雄に昇華した。そして近年に目を向けてもロナウドやカカーらがイタリアのサポーターを魅了した。
そんなイタリアのサッカー界で、燦然と輝く記録を残したアタッカーがいる。セルジオ・セレリーセ。1960年代から70年代にかけて、カルチョ(イタリア語でサッカー)の国で名門を渡り歩いた点取り屋である。
セリエAにおけるブラジル人ストライカーとしては歴代2位となる102得点。この数字がいかに優れているものであるかはアドリアーノ(77得点)、カカー(同)、カレッカ(73得点)、ロナウド(58得点)の記録を見れば明らかだ。
イタリアでは「エル・グリンゴ(よそ者)」の愛称で親しまれたセルジオは外国人選手として唯一無二の記録を誇っている。セリエAでは実に6つのクラブを渡り歩いたが、外国人選手として最も多くのクラブに所属した男としてその名を刻み込んでいるのである。
1941年5月生まれのセルジオは、サンパウロ市に生を受けた。父はイタリアのロンバルディア州出身で、母はトスカーナ州にルーツを持っていた。つまりイタリア系のブラジル人だったのだ。ボールを相手ゴールに蹴り込む才能に加えて、イタリア人の血を受け継ぐことが、後にセルジオの人生を大きく変えていく。
ナシオナウやパウメイラスでもプレーしたセルジオがポルトゥゲーザ・サンチスタでプレーしていた1960年、当時19歳のセルジオはイタリアのカルチョ・レッコ1912に移籍する。当時のイタリアサッカー界は、イタリアにルーツを持つ外国人選手しかプレーを許されていなかったが、セルジオの体を流れていたのはイタリアの血。父祖の国に導かれるように、彼は長靴型の国の土を踏む。
近年は3部や4部に低迷するレッコではあるがセルジオが移籍した当時はセリエAをカテゴリーとしていた。しかし、セルジオは最初の2シーズンでわずかに2得点。2部落ちからチームを救うことが出来なかったが1964-65シーズンには得点王にも輝くのだ。
その後はボローニャやナポリ、フィオレンティーナといった名門でもゴールを量産。ブラジル代表にこそ縁はなかったが、セルジオの実力は折り紙つきだった。
イタリアでの登録名はイタリア風に「セルジオ・セレリッチ」としていたセルジオだが1978年にはサンパウロ州の中堅、フェロヴィアーリアに移籍。この歳限りでスパイクを脱ぐと、指導者の道に足を踏み入れた。選手としては母国で無名に近かったセルジオだがパウメイラスやサントスでも指揮を執っている。
「監督は非常に難しいものだ。何故なら、勝利に対しての重圧は選手の時以上に大きくなる」
現役時代とは対照的に、監督としては決して大成しなかったセルジオだが、選手を見る確かな目を持っていた。ジュアリィやエヴァイールらイタリアで活躍した選手は、彼が移籍を後押ししたものだった。
母国よりも、カルチョの国で名を高めた名ストライカーは、サッカー界から遠ざかっているが未だにイタリアの地で愛されている。

田中規子
第97回 カネリーニャ Canelinha


この土地に初めて栗を植えて今年で8年目、ここへ引っ越してきて4回目の栗収穫期になった。徐々に土地を開いては栗を植えて、3年前に栗の苗を植えたところにはカネリーニャという大西洋岸林の在来種の大きな木が3本残されている。もとの持ち主は養鶏をしていた農家で、鶏舎跡には2次林が生い茂っていた。そこに栗を植えるため新たに開こうとしたところ立派なカネリーニャがあって、それは残した方が良いというのでそうした。いま、カネリーニャの実がたくさん生る時期で、朝夕にはたくさんの野鳥がやってきて実をついばんでいる。
カネリーニャは葉がシナモンのような良い香りがすることからそう名付けられた。葉を揉んでみるとなるほど良い匂いではあるが、シナモンかな?と感じるのが正直な感想である。うちのカネリーニャはあまり樹勢が美しいわけではないが、一般的には樹勢が丸く美しく、根がはびこらずまっすぐ伸びることから、1950年代ごろサンパウロ州の地方やパラナ州で街路樹として植えられることが多かった。樹高はおよそ15m~25mになり、幹は直径60㎝までなので、そう大木にもならないのが街路樹には好都合でもある。サンパウロ市内ではブエノスアイレス公園に樹齢100年以上の木がいくつかあり、ヴィラ・オリンピア地区にも街路樹として利用され、市内の排気ガスにも耐え公害にも強いとか。
花は6月から9月に白い花が咲き、結実は11月から1月にかけてである。実は緑色のどんぐりほどの大きさで、どんぐりのように帽子をかぶったような実を付けている。サルや野鳥が実を大変好み、夕方この木を見に行くとサビアやサニャッソなどサンパウロ市内でもよく見かける鳥が群がり、時にはトゥッカーノも見られることがある。この街路樹に野鳥が来るのも一つの魅力だろう。 木材としては硬く材質が良いとされており、家の窓枠や梁に使われている。ただ葉と違って材木は湿ると臭いとか。カネリーニャが家の建築材として使われている例としては、ブタンタンにあるカーザ・バンデイリスタ(要確認)という18世紀前半に作られた当時の農園主の家にある。タイパという厚さ50㎝、高さ5mにもなる泥壁の家で、当時のいわゆる有力者の家の一般的な建築様式だった。パウ・ブラジルなどのブラジルからポルトガルに輸送する高級材以外の木材で、大西洋岸林の在来種のなかでも建築材として有用だったのがカネリーニャだったのだろう。カーザ・バンデイリスタにも豊富に使われており、床材に使われている。当時はカネリーニャ含め多くの在来樹種が豊富にサンパウロにあったことが伺える。なおこの建築物は当時の建築様式を後世に伝えるため保存されている。 ところで、農場では春に拾ったサニャッソの雛が成鳥になって巣立ちを待っている。いかにも飛び立ちたがっているのが良くわかる。サっちゃん(サニャッソ:学名Tangara Sayaca)の巣立ちは少し寂しいけれど、このカネリーニャの傍に放てばたくさんの仲間に会えるだろう。