2021年3月号 vol.177

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目次

今月号のスポンサー一覧

 

幻の創刊準備号

​(2006年6月号)

Kindleで復刊

​2020年7月号

​2020年8月号

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目は人となりを語り、手は人生を語る。

その手の持ち主はどのような人なのだろうか。

 

機会があれば観察してほしい。

そこには何があって、何があったのか。

 

そして考えてほしい、そこに何にあってほしいのか。

そして進んでほしい、あって欲しかったものへと向かって。

鶴田成美(つるたなるみ)

 
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写真・文 松本浩治

ロンドリーナ西本願寺元婦人会長の土井静枝(どい・しずえ)さん

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 パラナ州ロンドリーナ市で、西本願寺の婦人会長を約30年間にわたって務めていた土井静枝さん(83、埼玉県出身)。「特に、何かをしてきたわけでもありません」と淡々と語るが、周りの信望は厚い。

 父方の川口家は、先祖代々からの薬剤師として知られ、父・貞次郎(さだじろう)さんも薬局を経営していた。群馬県高崎市にいた貞次郎さんの姉の提案により、ブラジルに渡ることになった。姉の夫を家長として、貞次郎さん夫妻らと構成家族を作り、川口家族は1933年11月、「ぶえのすあいれす丸」で神戸港を出航している。

「神戸の収容所では、『行け行け同胞』の歌を歌った覚えがある」という静枝さんは、当時9歳。船内では、現在の上皇ご生誕の祝いがあり、「大きなフェスタをしたことと、ブラジルに着いたことだけは今も覚えています」と当時を振り返る。

 同船者6家族で、サンパウロ州ノロエステ線のプロミッソンとペナーポリスの間にあるアバニャンダーバ(Avanhandava)の「ボア・ベントゥーラ(Boa Ventura)」と呼ばれる、日本人がパトロンだった耕地に入植。静枝さんは、監督官の妹からポルトガル語を教わったという。

 半年して同耕地を出て、子供たちの教育面も考慮した両親は、日本人の多い場所を求めてフェルナンジアス(Fernão Dias)の日系移住地に転住した。しかし、同地に日本語学校はなく、伯父は隣の植民地で日本語学校の教師を務めた。

「今から思えば、母親は大変だったと思います。日本では薬局勤めでしたが、ブラジルに来てからは自分で水を汲んだり、環境がガラッと変わりましたから」

 翌年、フェルナンジアスの町に出て、当時盛んだった養鶏を始めたが、第2次世界大戦が始まった41年に、バウルー(Bauru)へと移った。

 年頃となっていた静枝さんは両親からの提案もあり、花嫁修業を兼ねて裁縫を習い、「橋本」という日本人の世話で住み込みとしてマリリア(Marília)やパラナ州北部のロンドリーナ(Londrina)に出たりしていた。

 45年10月、ロンドリーナで知り合った土井正敏(まさとし)さん(84、佐賀県出身)と結婚。静枝さんはバウルーに家族を残し、ロンドリーナに嫁いだ。正敏さんは当時、ロンドリーナ市内のセントロ区にあった最大の商店「フガンチ」に勤務し、50年間勤め上げた。

「バカがつくぐらいの真面目な人です」と静枝さん。夫の安定した経済力にも支えられ、2男2女の子供をもうけた。

 義父が同地の西本願寺創設の発起人であったことや、義母が日本語教師の手伝いを行う同寺関連の「母の会」に入っていたこともあり、静枝さんも入会。「子供の教育は幼稚園の頃が一番大切」と、寺の日本語学校に入れさせた。

 その頃から静枝さんは、仏教婦人会にも力を注ぐようになり、4年に1回各国で開催される世界大会には、すべて出席してきた。

「世界中に友人を持つことができて、幸せに思っています。(婦人部長を)これだけ長い間やってくることができたのは、会の皆さんや家族、友人の協力の陰です」と静枝さんは感謝の意を示しながら、晩年も同婦人会に通う毎日を続けていた。

 

(2007年12月取材、年齢は当時のもの)

松本浩治(まつもとこうじ)

 
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リリアン・トミヤマ

「高すぎる」

「ブラジリアン・ブルーズ(Brazilian blues)」という表現を最初に知ったのはスウェーデンのジャーナリスト、ヘンリク・ヨンソンからでした。外国人ジャーナリストの間では、この感情について言及することがかなり一般的なようです。

 彼によるとこれは、ブラジルを愛するのだが、努力すればするほどブラジルは決して世界的な勢力にはならないことがわかるという、悲しい感情なのです。ブラジルの「片足」が常に第三世界の泥沼にはまり込んでいるかのようなのです。彼によれば、ブラジルは簡単に過ちを繰り返し、過ちから学ばないのです。

 批判ということについてですが、みなさんはポルトガル語でどのように批判しますか? 「muito」を使って形容詞を強めるのが最も一般的だと思います。例えば、「Rio de Janeiro é muito perigoso.(リオデジャネイロはとても危険だ)」。

 でも、批判的な面を強調したいとしましょう。その場合は、「demais」を使うことをおすすめします。

 構造はとてもシンプルです。

 

 動詞ser+形容詞+demais

 

 É caro demais.(高すぎる)

 É doce demais.(甘すぎる)

 É longe demais.(遠すぎる)

 É difícil demais.(難しすぎる)

 

 この構造で使う場合、大部分は何かを批判したり文句を言ったりするのですが、賞賛、それも大いに賞賛する時にも使います。

 Maria é linda demais.(マリアは超綺麗だ)  

(この場合、彼女は尋常ならざる美しさを持っています)

 Esse gato é fofo demais!(この猫、チョーかわいい!)

(この場合、ペットがとてもとてもかわいいのです)

 O povo brasileiro é simpático demais!(ブラジル人はめちゃフレンドリー!)

(この場合は二とおりに解釈できます。他国民にない親近感の賞賛、あるいは、真剣さが足りないことへの批判。イントネーションや文脈によります)

 

 ただ、なんでもかんでも「ブラジリアン・ブルーズ」というわけではありませんね。ですから、オーストリアの作家シュテファン・ツヴァイクの話で今月は終わりにしたいと思います。1936年にブラジルに来た時、彼はヨーロッパで最も読まれ翻訳されている作家で、ブラジルの持つ潜在力に驚いたのでした。多様な出自や地域から来た人々の間の多文化寛容性が、ヨーロッパにとっての模範になると思ったのです。こう書いています。

 

「我々の旧大陸で、競馬馬やドッグレースの犬を育てる人のように、『民族の純血』という空虚なイデオロギーに人々が専心している間に、ブラジル国民は、黒人・白人・黄色人・混血の人々の平等化を目指して、自由で制約のない諸民族の交わりを原理とした基礎の上に、ひとつの国を完璧に作り上げようと専心している」

 興味深いことに、85年前のこの思想は今でも生きています!

リリアン・トミヤマ(Lilian Tomyama)

 
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第19回 シリア編

 コロナ禍でネガティブなニュースが錯綜する中、希望を感じさせる語学学校がある。シリアから難民となったモハマド・アルサヘブさん(40歳)の経営する『セントロ・ダ・リングア・アラベ(Centro da Língua Árabe)』だ。

「自分の知っていることを全て、新しいビジネスに投資しました」 

 シリアで映像の編集をしていたモハマドさんのキャリアは、ロゴ作成からSNSを通じた学校の宣伝からオンライン授業まで、ベンチャー立ち上げの基礎となった。パンデミックが始まる前は対面授業のみを実施していて、一回のコースで多くて25人の生徒が集まる規模だったのが、外出自粛で導入したオンライン授業により、生徒数が倍増した。昨年は1年で150人、今年最初の授業では50人の生徒が集まった。

 同校は2018年1月に開校してからアラビア語授業とアラブ文化のワークショップを実施してきた。ブラジル生活6年で「今も英語の方が簡単」と言うモハマドさんだが、そのカリスマ性と流暢なポルトガル語でブラジル人にアラビア語を教え、学校運営にも尽力する。語学の才の秘訣を尋ねると、

「子どものような真っ白な心で異文化や他者を受け入れること」

と。アラブ人にもブラジルより出身国の文化を良いと思い、自分たちのコミュニティーばかりで過ごす人たちがおり、そうするとポルトガル語の上達が遅れてしまうと話す。

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モハマド・アルサヘブさん

◆「運試し」と思い難民に

「シリアで所有していた5軒の家も、自家用車も今はどこに行ってしまったか知る由もありません」

 首都ダマスカス出身のモハマドさんは、2011年にシリア戦争が始まってすぐにドバイに移住した。友人の家に暮らし、ネットオークションで中古品を販売して1年を過ごしたが、滞在許可も得られず住居も借りられずベイルートに移った。ベイルートでもシリア人難民を取り巻く状況は厳しく、滞在許可がないため銀行口座も作れなかった。2年ほどテレビのニュース番組の映像編集の仕事をしていたが、2014年、唯一シリア人を即時受け入れていたブラジルに「運試し」と思って難民となる決心をした。

「アマゾンとカーニバルしか知らなかった」ブラジルに到着し、10日ほど空港近くのホテルで滞在した。身寄りもなく、ポルトガル語も難民申請の仕方もわからず、英語でコミュニケーションしながら2ヵ月後にようやく難民申請を行い、5か月後にはRNA(外国人登録証)を取得した。昨年にはブラジルに帰化し、シリア戦争が始まった直後にエジプトに移った母親と妹とは、シリアのパスポートではエジプトに入国できなくなったため10年間会えないままだったが、再会の見通しが持てるようになった。

◆語学教師としての才能を発見!

 

 インターネットで見つけたサンパウロ市内のシェアハウスで暮らし始め、ブラジル人との共同生活の中、1年半ほどでポルトガル語に慣れることができた。

 モハマドさんは23歳の時から2年間、シリアでは勉強する学校のなかった映画制作を学ぶためウクライナで暮らしていた。ウクライナは生活費も安く、シリア人がビザを取得しやすい国だった。授業は英語で、日常生活はロシア語だった。シリアに戻ってからもアニメや広告の映像編集の仕事でキャリアを積み、良い生活を送っていた。ブラジルでも同じ職を求めて就職活動したが採用されず、8か月は無職だった。やがてeラーニングの会社でウェブデザインの仕事を得たが、同社が半年ほどで閉鎖し、新しい人間関係を求めてNGOジェネシス(Instituto Base Gênesis)で難民のためのポルトガル語教室と英語を教えるボランティアに参加した。その後、NGO・アブラッソ・クルトゥラル(Abraço Cultural)で難民の語学教師養成コースを受講して英語を教え始め、5人の生徒にアラビア語を教える機会を得た。そこで、アラビア語教師として好評を得たことで、『セントロ・ダ・リングア・アラベ』の設立を思い立った。サンパウロにアラビア語専門の学校がなかったこともビジネスチャンスと捉えた。

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パンデミック前の学校のイベントで生徒の皆さんと

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オンライン授業をするモハマドさん

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オンライン授業中のパソコン画面

●インフォメーション

『Centro da Língua Árabe』

住所:Rua Afonso de Freitas, 45 - Paraíso

電話:(11) 9 3009 9689

HP https://www.centroarabe.com.br

Facebook https://www.facebook.com/centroarabe.br/

※アラビア語は英語でも受講可。

企画:ピンドラーマ編集部

​文:おおうらともこ

 

◆アラブ文化への理解が阻まれる要因

「アラブ諸国はお金があってもブラジルでアラブ文化を普及する活動に資金援助しません。イスラム教の普及と合わせた場合は、モスクなどに資金提供しますが、それではより広く人々にアラブ文化が理解されません。私はその壁を乗り越え、多くの人にアラブ文化に親しんでもらい、アラブ世界を身近に感じてもらうのが願いです」

と語るモハマドさん。ダマスカス出身のフィアンセや生徒だった友人たちの協力とアイデアで、語学だけでなくカリグラフや化粧、ダンスなどのワークショップも開催してきた。英語やスペイン語ほどではないものの、確実に存在するアラビア語へ興味のある人たちに、SNSを通じて学校の存在が知られ、オンラインを導入してからは他州からも参加できる道が切り開かれた。

「生徒はアラブ移民の子孫やアラブ文化に興味がある人、アラブ諸国へ旅行やビジネスで訪問する人が多いです。中には『アラブ人の恋人がほしい』『恋人がアラブ文化を好きだから』という人もいましたが、恋人ができたら勉強はストップしてしまいました」

と笑顔で授業を振り返る。

 

◆戦争だから教えられたこと

「経済破綻したシリアにはいつ戻れるかもわかりません。今後戻ったとしてもまたゼロからのスタートです。今はブラジルで築き始めた自分のキャリアを伸ばしていきたいです」

 ブラジルもシリアも人を温かく受け入れるのは似ているが、シリアはもっと家族関係が強固で、ブラジルの人間関係に自由さを感じているというモハマドさん。一方で、比較的物事をお金で解決できたシリアに比べ、ブラジルは官僚主義的で融通がきかないと感じることもある。

 2011年3月にシリア戦争が始まってから10年。モハマドさんも難民となったシリア人の誰もが決して平たんな人生ではなかった。

「戦争は悪いのは確かですが、人生で本当に大切なもの、そして『命の価値』を教えてくれました」

と、生まれ変わった気持ちでモハマドさんは前進し続ける。

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ブラジルでカーニバルがなくなった日

 とうとうやって来ました。この日が来るとは! このコラムの24人の読者様、夢にも思っていなかったのではないでしょうか? というか、地球上、誰も思ったことなかったでしょ。世界中でブラジルと言えば、サッカーとカーニバルが連想されるくらい、当地の生活に組み込まれています。それが今年はコロナ禍のせいで、なんとブラジル各地でカーニバルが中止になってしまいました。まあ、どちらもブラジル人全員が好きで熱狂するわけではありませんが… サッカーに関しては、ワールドカップ時にセレソンを応援しないと国賊みたいな雰囲気がありましたが、ドイツに7対1で史上最悪の負け方をした、皮肉にもブラジルで開催された2014年大会以降「別に何もサッカー見なくていいやん」という国民感情になったと思います(註1)。当地の通念ではカーニバルは次のように“良い解釈”されます:「カーニバルほど、ブラジル国民の心を表現するものはない。皆を巻き込む至福、文化の多様性、非宗教と宗教の混合、無限の創造性、多様な人種や世代や社会階級の同居性、それらが街のいたる所で爆発する!」

『しかし、世論調査によると、実際にカーニバル大好きなブラジル人は全体の1/3くらいだそうだ。大半は「休みになるからじゃあ休もうか」程度の関心ですな』

 

 国民一致のカーニバルではないのですが、経済効果は確かにあるので、官民ともに重要視する大イベントであることには間違いありません。カーニバル目当ての海外からも含む観光客は言うまでもなく、それ以上に上の“じゃあ休もうか”の大半もどこかへ旅行へ出かけたりしますので、カーニバル期間はブラジル経済の原動力の一つと言われます。2019年度の試算では80億レアル(当時のレートで約21.3億米ドル)の経済効果があったのが、今年は全て夢から覚めてしまったように消えてしまいました。観光以外に特筆する産業がないサルバドールのような都市ではダメージが大きいのは簡単に想像できます。カーニバルが重要な場所ではコロナ禍は公衆衛生上の緊急状態であることをわかっているのかいないのか、中止を決定した行政府の長に批判が向けられています。

 ブラジルの社会にとって重要とされるイベントですが、それが中止になり、それでも暴動が起こったりはしませんでした。「大変静かな行われなかったカーニバル」は一種の驚きでもあったのですが、背景に国民の大半が支持しない事情があったのではないかと思われます。実は当地でもカーニバル不要論があるのです(註2)。元々カトリック教会が敵視していた行事であるので、純粋なカトリック教徒はカーニバルの酒池肉林を悪魔の仕業と捉えるようで、彼らに嫌われます。宗教的な理由以外での不要論は経済的理由によるものです。まず、休日が毎年変動するため、産業的な計画を立てにくいのが一つ、次に少数が楽しむイベントのために国全体が休止してしまう経済的損失が無視できないからですね。カーニバルはキリストの復活を祝うイースターから40日前である「四旬節」が始まる直前と定義されていますが、このイースター自体が移動祝日であるため、カーニバルも毎年移動になります。ブラジルでは、伝統的に1月は夏期休暇の時期で(註3)、それが終わったら「さあ仕事だあ」になるべきなのですが、実際はカーニバルが終わるまで、なんか社会全体が「どうせまた長い休暇がある」ため足踏み状態になりますね。それで、カーニバル休暇が2月の上旬に来るのであればまだ良いのですが、3月下旬などになった年などは最悪です。また、期間中、ブラジルでは野放し感がある飲酒運転による交通死亡事故が多発するのも不要論を加担します。

 

『廃止しなくても良いけど、せめて1月の下旬に固定休日にして、2月からすっきり年始にしてほしい! という意見もよく聞きますな』

 こんなカーニバルですが、起源は諸説あり、ものすごく遡ると、文明が始まったとされるメソポタミア時代の習慣であったといった説もあります。ブラジルでは、植民地時代にポルトガル人が17世紀に持ち込んだ「entrudo」という行事が始まりとされます。エントゥルードは元々大きな人形を練り歩かせたり、道行く人に水をかけたりする様なお祭りだったのが、徐々に凶暴化していき、水のかけあいでは済まず、卵や小麦粉、砂や小便の投下に発展しました。そのため、1854年に行政府により禁止された歴史があります。名称の由来はラテン語で「肉を取り除く」という意味のcarnem levareと言う説が有力です。もともと春を祝うお祭りと関係があった非宗教的な行事だったのですが、男性が女装したり労働者が貴族を装ったり、暴飲暴食や乱交があり、社会的役割や秩序の破壊ではないかと中世時代にカトリック教会が警戒した結果という説もあります。これをコントロールするため(註4)先ず四句節を創設し、この期間は断食を行い(肉を取り除き)、粛々とおとなしく過ごすべしとしました。40日もおとなしくしないといけないので、その代わり、直前は羽目を外しても黙認する。この黙認が現在のようなカーニバルになったということです。

 19世紀にブラジルで禁止されたエントゥルードは20世紀に入り、corsoと呼ばれるパレードにとって代わりました。コルソは上層階級が自動車を飾り立てて街を行列する大変お上品なモノになり、卵や小便を投下する代わりに紙吹雪や紙テープを使用するようになりました。このパレードが現在リオやサンパウロで見られるサンバ学校のパレードの山車の起源ですね。上流階級が始めたコルソはフランスの仮装パーティーが起源と言われます。ブラジルは全体的にカトリックですが、各地方・地域により、カーニバルの仕方が異なります。代表的なモノを列挙すると次になります:

 

Desfile das escolas de samba

 エスコーラ・デ・サンバは直訳するとサンバ学校、そのパレード、日本ではサンバチームと呼ばれるようです。世界中にテレビ放映されるので有名なリオデジャネイロ市やその派生であるサンパウロ市で行われる、観客席付きの特設会場で行進する賞金付きコンテスト式のパレード。各エスコーラはその年のテーマにのっとり、山車、衣装、歌詞を用意し、リオの大きなエスコーラのパレードは5千人ほどで構成される。音楽はサンバの一種のbatucada バトゥカーダと呼称され、打楽器が中心。

 

Carnaval de Salvador

 バイア州サルバドール市のカーニバル。かの地はTrio Elétricoトリオ・エレットリコと呼ばれる、音響装置とステージを設置した大型トラックがパレードするのが特徴。トラックの周辺はロープで仕切られ、有料でこの仕切り内で踊ることができる(註5)。音楽は電化されている大音量で、いわゆるバンド形式、バイア特有のaxé (アッシェー)を始め、ロックやポップ、レゲエなど色んなジャンルが演奏されるが、サンバはあまり人気のない感じ。

 

Carnaval de Recife e Olinda

 ペルナンブッコ州のレシフェ市とオリンダ市のカーニバル。地域でお金を出し合い、音楽隊を雇い、街を練り歩く、carnaval de ruaと呼ばれる、“街頭カーニバル”の原型が残っている。この地域別の集まりはbloco carnavalescoと呼ばれ(単にブロッコ)、誰でも自由に参加できるのが特徴である。オリンダではBonecos de Olindaと呼ばれる、巨大な人形のパレードが有名で、前出のentrudoが起源? 音楽は他地域では見られない、frevo フレーボがブラスバンドで演奏される。

 

Carnaval de rua

 blocoと呼ばれる集団が街頭で行うカーニバル。この方式が全国で一番多くみられる。リオはパレードで有名だがブロッコもある。近年サンパウロで色んな集団が発生し、サンパウロ市は観光名物として認定した。音楽はリオはbatucadaが優勢だがサンパウロの場合、多様性と専門性が見られ、好きなジャンルを楽しめる(註6)。

 

Baile de mascara

 仮面舞踏会。Baile a fantasia(仮装舞踏会)やcarnaval de salão(サロンのカーニバル)とも呼ばれ、現代のカーニバルの原型とされる。イタリアのヴェネツィアのカーニバルがその一例。ブラジルでは社交サロンや社交クラブなど、閉鎖された場所で行われるが、最近は消滅傾向にある模様。音楽はmarchinha de carvanal(マルシーニャ・デ・カルナバール)が良く演奏されるが1960年代から衰退してきている(註7)。

 

『結局、コロナのせいで、ブラジル国民全員「仮面(マスク)あり、舞踏会なし」になってしまったのね。来年はするんですかね(註8)』

註1:2018年7月のひとりごと、「コッパ・ビアアグラなんでしょうか?」をご覧ください。

註2:例:https://medium.com/startup-da-real/como-o-carnaval-afeta-a-produtividade-e-economia-do-brasil-5b78e0fe0e52

註3:ブラジル人は疲れるのが嫌いなので、仕事にかかる前にまず休息するのですな。

註4:19世紀頃まで、カトリック教会はヨーロッパ文明に絶大は権力を維持していた。

註5:大変な数の群衆から隔てるだけでなく、トラックの飲み物サービスやトイレが使用できる。

註6:例えば、子供向けのブロッコ、インド音楽専門、女性のみの音楽隊、等。

註7:衰退の理由の一つが、歌詞が女性蔑視や黒人蔑視など「政治的適正」に反するモノが多々あるためとされる。

註8:マスクのひとりごとは2020年3月の「たかがマスク、されどマスク」をご覧ください。


 

 診療所のホームページにブラジル・サンパウロの現状をコメントした文章を記載していますので、併せてご覧いただければ幸いです。

 

秋山 一誠 (あきやまかずせい)。サンパウロで開業(一般内科、漢方内科、予防医学科)。この連載に関するお問い合わせ、ご意見は hitorigoto@kazusei.med.br までどうぞ。診療所のホームページ www.akiyama.med.br では過去の「開業医のひとりごと」を閲覧いただけます。

 
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しらすたろう

第60回 実録小説『未来はそう悪くはないぜ』

 2021年2月8日、時計の針は午後18時30分を示している。

 外はすでに夕闇に包まれており、夏とはいえ肌寒さを感じさせるが、白洲太郎とかれの妻になる予定のちゃぎのは汗をかきながら出発の準備に大慌てであった。なんとなれば、バイーア州の州都サルバドールへの直通バスが19時に出発するからで、これを逃すわけにはいかない。去年の暮れにやむを得ない理由によりサンパウロへ旅行した2人であったが、それから2か月も経たぬうちのGo To トラベルである。サルバドールでの主目的はちゃぎののやんごとなき事由によるものであったが、そんな用事などは半日もあれば終わってしまう。であれば、せっかくだから観光でもしてやろうか、という流れになるのは必然で、さらにいえば、世界文化遺産にも登録されているサルバドールのペロウリーニョ地区付近は、太郎とちゃぎのが初めて出会った思い出の場所でもある。2人は慌ただし気に準備を済ませると、サンダルをつっかけてバス乗り場へと向かった。

 2か月ぶりの遠出である。身辺に鋭い目を光らせ、常に警戒を怠らない太郎であったが、どこかに油断があったのだろう、2人肩を寄せ合って慎重に歩いているはずであったのに、道のでっぱりにつま先を強打し、往来のど真ん中で絶叫、バス乗り場に着く頃には血をダラダラと滴らせながら息も絶え絶えの体たらくであった。

 苦悶の表情でバスの運賃を支払い、定刻通りに乗車できたはいいが、恐る恐る傷の程度を調べてみると、親指からは血がジュクジュクと滲み出ているし、人差し指の皮もベロンと剥けている。慌てて絆創膏を貼ったが、貼った先から血がぬらぬらと流れ出し、なんとも心もとない。ズキンとした痛みが脈を打つようにリズムを刻み、なんでオレがこんな目に。と、太郎は唇を噛んだ。用心しているつもりでも、肝心なところで決まりきらないのがこの男の特徴である。ちゃぎのはそんな太郎をやれやれといった様子で眺めていたが、バスの揺れにウトウトし始め、やがて深い眠りの中に落ちていった。  

 朝焼けのゆるやかな光が車内に射し込んでいる。眼をこすりながら窓の外を眺めると、慣れ親しんだ田舎の風景は姿を消し、高層ビルやデパートといった巨大な建物が天空高くそびえ立っている。車の往来もしきりで、あと小1時間もすればサルバドールの長距離バスターミナルに到着するはずであった。太郎は昨夜負傷したつま先を慈しむように撫でていたが、相変わらず血は滲んでいるし、痛みも消えてはいない。しかしどうにか歩くことはできそうで、その点は不幸中の幸いであった。

 サルバドールに着くと、時刻はすでに午前8時を回っている。久しぶりのマクドナルドでビッグマックを頬張った太郎であったが、昔ほどの感動はなく、気をつけていたにもかかわらず、ちゃぎのはアップルパイで口の中を火傷していた。どうにもボンヤリとしたカップルである。腹を満たしたあと、とりあえず今回の宿泊先に向かおうということになり、2人は地下鉄に乗ってペロウリーニョ広場の最寄り駅まで行くことにした。そこから10分ほど歩くとCores do Pelôというホステルにたどり着く。ここが今回の宿泊先であった。ロケーションは最高で、なんとペロウリーニョ広場の目の前である。部屋からは広場が一望でき、カポエイラをしている者もいれば、太鼓を打ち鳴らしている者もいる。伝統衣装に身を包んだ黒人女たちの姿も顕著で、いずれも観光客用の見せ物であったが、まさにこれぞバイーア、これぞサルバドールな風景であった。

 2010年、太郎とちゃぎのはこのペロウリーニョ広場で運命的な出会いを果たしたのである。あれから11年が経ち、まさか自分の隣にちゃぎのがいてくれるとは夢にも思わなかった太郎であったが、人生何が起きるかわからないものである。当時の太郎は、バックパッカーとして数十か国を放浪したのちブラジルに漂着、とある日本人宿に居候し、サルバドールの街を日がな一日フラフラするという日々を送っていた。一方のちゃぎのは女友達と2人でカポエイラ修行に来ていた短期旅行者であり、約10日間、この世界遺産の街に滞在していたのである。無職の貧乏旅行者である太郎と、日本で定職を持ち、数日もすればブラジルを去って行くちゃぎのとの接点はまったくないはずであった。しかし慣れぬ異国で同郷の者を見かけたときについ抱いてしまう親近感、それが命とりになった。ペロウリーニョ広場で何をするでもなく佇んでいる謎の東洋人に、ちゃぎのの連れであるビクリンが興味本位で話しかけてしまったのである。それが太郎とちゃぎのの出会いであった。ビクリンじゃない方に一目惚れをした太郎はその日から猛アタックを開始したが、日本に帰る予定もなく、ただ海外をフラフラしているだけの男が相手にされるわけがない。数日間、あの手この手で意中の相手に接近を試みたが、結局、手すら握らせてもらえずに撃沈したのであった。

 しかしなんという運命の悪戯か、数年後、ちゃぎのは再びブラジルを訪れ、露天商へと転身を遂げていた太郎に口説かれてしまうのである。それまで普通のOLとしての道を歩んできた彼女であったが、その人生はエキセントリックなものへと変貌していくのであった。

 ホステルにチェックインした太郎とちゃぎのはシャワーで汗を流し、思い出のペロウリーニョを歩くことにした。11年前は手すら握らせてもらえなかったちゃぎのの右手をしっかりとつかんで、2人は古都サルバドールの街並みにとけていく。

 フラれて落ち込んでいた11年前の自分に、太郎はふとエールを送ってやりたい気持ちになった。

 頑張ってればいいこともある。

 未来はそう悪くはないぜ、と。

しらすたろう

 
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ブリガデイロ・ヴェガーノBrigadeiro Vegano

先生・ケルさん

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 ブラジルで人と話せば、ベジタリアンやビーガンという人に出会うことも珍しくない昨今。今回はビーガンの料理番組なども制作しているビーガンのケル・マローネさんに、ブラジルを代表するお菓子ブリガデイロをビーガン向けにアレンジしたレシピをご紹介いただきました。

 

【材料】

・デーツ Tâmara...100g 

・無糖ココア Chocolate em pó...大さじ1強

・ココナッツ Coco ralado fresco...30g

・しょうが(好みで) Gengibre...10g

・ミントの葉 Hortelã fresca...10~15枚

・ココナッツ(飾り用)Coco ralado fresco...適量

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【作り方】

①フードプロセッサーに全ての材料を入れ、全体が混ざりほぼペースト状になるまで混ぜる。

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②①を直径1.5~2cmほど(好みの大きさでOK)の一口サイズに丸める。

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③②にココナッツをまぶして完成。

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 通常は少量のバターにコンデンスミルク、無糖ココアを煮詰めてチョコスプレーをまぶすブリガデイロ。植物素材のビーガン風ブリガデイロはまさに健康食といった味わい。これはこれでお茶請けにもOK。子供向けにはより甘さを引き出すためにデーツを増やし、ショウガやミントはひかえる等、好みで味の調整可能です。

 

文・写真/Tomoko Oura

 

◆今回の先生

ケルさん Sr. Kell Malone

18歳までマトグロッソ州バハ・ド・ブグレスで育つ。カリカチュアのアーティストとして様々なイベントで活動し、注文制のオリジナル似顔絵入りマグカップやTシャツ、クッションが記念品に人気。ビーガンとしても知られ、毎月サンパウロ市内の北海道協会で開催されるビーガン・フェイラやiFoodでも料理を販売。年に数回は一か月近い断食を行い、医者いらずで健康維持!

https://www.kellmalone.com.br/

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おおうらともこ/文と写真

 
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下薗昌記

第136回 ニウソン・ボルジェス

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 2021年2月5日に行われたブラジル全国選手権の第34節でアトレチコ・パラナエンセはユニフォームの背中に一人の偉大な英雄の名を刻み込んでプレーした。

 インテルナシオナウをホームで迎え撃った選手たちが背負った名前は前日に天に召されたばかりの「ニウソン・ボルジェス(Nilson Borges)」。1960年代後半から70年代にかけてアトレチコ・パラナエンセで一時代を築いた名ウインガーだった。

 1941年、サンパウロ市内のボン・レチーロ区で生を受けたニウソンは、当時のサッカー選手としてはごく当たり前だったストリートサッカーでその技を磨いた。

 サッカーに自らの人生を賭けようとする大勢の少年とは異なり、プロサッカー選手になるつもりはなかったというニウソンだったが、父は当時の名門、ポルトゥゲーザで働いていたこともあり、運命に導かれるようにポルトゥゲーザで入団テストを受験。1959年にポルトゥゲーザでプロのキャリアをスタートさせるのだ。

 1958年のワールドカップ・スウェーデン大会でブラジルは初めて世界を制し、最初の黄金期に突入していたが古き良き時代のブラジルサッカーの象徴が、華麗なプレーを披露するポンタ、つまりウイングのポジションだった。

 ガリンシャやぺぺ、カニョテイロら王国のサッカー史に永遠にその名を刻む天才ウイングが綺羅星のごとく並んだ時代だったが、左利きだったニウソンはぺぺとカニョテイロを自らのお手本として技を磨き続けた。

「僕はカニョテイロから多くを学んだ。彼は素晴らしい選手だったね」

 ウイングだけでなくセンターフォワードとして勝負強さも見せたニウソンは1965年にベルギーのスタンダール・リエージュやポルトガルのスポルティング・リスボンなど名門でのプレーの機会を手にしかけるも、移籍金で合意に至らず、ブラジルでのプレーを余儀なくされたが、1968年にのちに心のクラブとなるアトレチコ・パラナエンセに加入することになる。

 1958年のパラナ州選手権制覇以来、遠ざかっていたタイトル獲得に向けて、豪華補強を行なっていたアトレチコ・パラナエンセ。

 ニウソンが加わった当時のチームは従来のチームのニックネーム「フラコン(ハリケーン)」にふさわしい豪華な顔ぶれが揃っていた。ジジャウマ・サントスやベリーニらワールドカップの優勝メンバーをチームメイトにしたニウソンは1970年のパラナ州選手権で優勝に貢献。

 テクニックに優れ、大一番での得点力も持ち合わせていたニウソンではあるが、現在のサッカー界とは異なり、暴力的なファウルもまかり通っていた当時、その足はDFから再三、削られ続けるのだ。

 笑顔が似合う大きな口から「ボカン(大きな口)」の愛称でも知られたニウソンだが、度重なる悪質なファウルにその顔を歪め、そして33歳にしてスパイクを脱ぐことになる。陽気な男も負傷には勝てなかったのだ。

 しかし、ニウソンとアトレチコ・パラナエンセの「結婚生活」は現役引退後も変わりはなかった。下部組織の監督やスカウト、トップチームのヘッドコーチも歴任し、引退後は一貫してクラブの発展に身を尽くしたニウソン。アトレチコ・パラナエンセのトレーニングセンター内にある小さなスタジアムの名前に「ニウソン・ボルジェス」の名を与えようと、一部のサポーターがネット署名を始めたのは、その存在の大きさ故、だった。

 現役を退いても変わることがなかったニウソンのクラブ愛。大きな口を開けて見せる笑顔と、華麗なプレーは永遠にクリチーバ市内で語り継がれていく。

下薗昌記(しもぞのまさき)