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2021年4月号 vol.178

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目次

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目次

幻の創刊準備号

​(2006年6月号)

Kindleで復刊

​2020年7月号

​2020年8月号

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どこをどう通って、どういう経緯でここへ辿り着き、そしてどこへ行ったのだろう。

 

1500年4月22日にポルトガル人によりブラジルが発見され、

 

長い年月を経て少しずつ開拓され今のブラジルの姿に至ったのはわざわざ言うまでもないが、

 

歴史ある建造物が突如として現れると当時の様子を想像し思いにふけってしまう。

 

当時の人々が今のブラジルを見ると一体何を想うのだろうか。

鶴田成美(つるたなるみ)

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写真・文 松本浩治

辻移民の西尾八州子(にしお・やすこ)さん

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 戦後の「辻小太郎(つじ・こたろう)移民」として、アマゾナス州マナカプルー(Manacapuru)のベラ・ビスタ(Bela Vista)植民地に入植した西尾八州子さん(65、北海道出身)。1954年7月31日に「ぶらじる丸」で神戸港を出発し、同8月27日にベレンに着いたという。父・正雄(まさお)さんは鳥取県出身で、富山県出身のかほるさんと結婚後、北海道開拓団の一員として極寒の地に渡っていた。しかし、「土地が狭いことから、分家させられない」状況の中、道庁から南米への移住の話を聞いた叔父の兄弟がブラジル行きに大きな夢を抱いたという。

 叔父たちのブラジルへの思いが日増しに高まる中、15歳以上の労働力が3人以上いないと構成家族ができないため、当時18歳だった八州子さんに白羽の矢が向けられた。その頃、帯広市内に住んでいた八州子さんは父を早くに亡くしたこともあり、母と姉との3人暮らしの生活が長く、事あるごとに叔父たちの世話になっていたという。

「日頃の恩返しができるものならという気持ちもありましたが、まさか本当にブラジルに行くとは思ってもいませんでした」

 叔父兄弟の2家族と一緒に神戸まで行った八州子さんは、渡伯直前の収容所での2週間の生活を過ごすにつれ、初めて「大変なことになってしまった」と後悔。夜になると収容所の前の夜汽車を眺めては、「あの汽車に乗って北海道に帰りたい」と思い続けたという。ブラジルに行く船の中でも船酔いがひどく、約1か月間の食事は粥(かゆ)と梅干だけで、ほとんど寝てるだけの生活だった。

 八州子さんたちが行くことになったマナカプルーは当時、ベラ・ビスタ植民地とアグア・フリア植民地(Água Fria)の2つに分かれていた。ベレン到着後も上陸することなく、マナウス行きの船に乗り換え、マナウスから舟でさらに4時間かかるという同地にようやく到着。しかし、同地は小石が多い土地で、「こんなところで何ができるか」と叔父たちも呆然となった。

 第3回目の入植となった八州子さんたちが着いた時は、椰子の葉で囲った隙間だらけの家が2軒あるだけで、それでもないよりは格段にマシだった。食べていくためには作物を植えなければならず、米、マンジョカ芋、グァラナ等を植えた。しかし、恐ろしいのは畑仕事を終え、夕方になる頃。毎日、蚊の大群に悩まされ、「身体中、隙間もないほどにかまれ、特に、夜にトイレに行くのは死に物狂いでした」と八州子さんは当時の生活を振り返る。

 植民地は結局、第4回目の入植が最後となり、その頃になると準備する家すらも建っていない状況だったそうだ。原始林を伐採し、州から配給されたグァラナの木に毎日水をかける生活が続いた。将来性もなく、このまま居残っても仕方がないと、ベラ・ビスタの4家族とアグア・フリアの1家族の計5家族が一緒になり、55年11月パラー州トメアスー(Tomeaçu)に転住。ほとんど夜逃げの状態だったという。

 当時、トメアスーはピメンタ(コショウ)景気で賑わい、木村総一郎(そういちろう)というトメアスー農協の組合長が経営する農場で八州子さん家族は働いた。2年後、八州子さんは組合で働く西尾氏の長男だった一夫(かずお)さんと結婚したが、1年後には体重が10キロも減っていた。

 結婚して数年は景気も良く、労働者も使用するなどしていたが、60年代後半にピメンタに病気が入り、八州子さんのところも全滅。その後、すぐに金銭につながる養鶏やマラクジャを栽培したりしたが、労働者を雇う余裕もなく、除草、伐採、施肥(せひ)など自分たちでやるしかなかった。2人の息子をもうけていた八州子さんだが、64年に5歳だった長男が白血病で死亡。次男のジョージさん(38)は1歳だったが、「もし次男がいなければ、日本に帰るところでした」と八州子さんは当時の思いを吐露する。

 後に八州子さんの母の妹がブラジルに移住し、ベレンに住んでいたこともあり、11歳になっていた次男をその叔母に預けた。その後、91年に八州子さんもベレンに出て、すでに成人となっていたジョージさんが経営する美容院の助手として働いた経験もある。

 八州子さんはこれまで何度か日本に一時帰国しているが、今でも日本に帰って暮らしたいという望郷の念は強い。「フィルムみたいに巻き戻せるなら、ブラジルに行く前の時代に戻りたい」—。八州子さんは家族のことを思いながらも、どうしようもない現状を思いつめながら涙を拭った。

(故人、2001年6月取材、年齢は当時のもの)

松本浩治(まつもとこうじ)

移民
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リリアン・トミヤマ

「話は変わるけど」

 トム・ジョビンのことを話すとき、まず思いつくのは『イパネマの娘(Garota de Ipanema)』ですね。でも、このほかにとても興味深いストーリーを持った曲がありますので、それをみなさんと共有したいと思います。

 それは『リジア(Ligia)』という曲です(スタン・ゲッツがジョアン・ジルベルトとレコーディングしたものもあります)。多くの音楽史家が言うには、この歌に登場する女性は、ジョビンの親友のひとりで作家のフェルナンド・サビーノ(Fernando Sabino)の奥さんリジア(Lygia)だとのことです。

 それで、ごまかすために「y」を「i」に取り替えたというのです(Lygia→Ligia)。

 歌詞は大変面白くて、否定を通じて自分の愛を表現しています。

 

Eu nunca sonhei com você(君のことを夢に見たことはない)~

O seu nome eu não sei(君の名前を僕は知らない)~

 

 でも、タイトルそのものがまさにその反対を示しています。彼は彼女の名前を知っていますよね。

 トム・ジョビンはこう言っています。この歌の中にあるものが示しているのは、ある物事をとても強く否定すると、現実にはその反対で、愛の告白になってしまうということだ、と。

 結局のところ、この曲はトム・ジョビンの偉大な天才的な曲のひとつだということで、「ステイホーム」の今、私のおすすめはこの美しい歌を家で聴くことです。

 ここで話題を変えてポルトガル語について話しましょう。「話は変わるけど」はどう言うでしょうか?

 「Mudando de assunto」と言います。

 会話例をいくつか見てみましょう。

 

AとBが会話しています。

A:  As ruas estão cheias de buracos.  A prefeitura precisa fazer alguma coisa.

(道路が穴だらけだよ。市役所が何とかしてくれないとねえ。)

B:  Mudando de assunto, você já renovou o seguro do carro?

(話は変わるけど、自動車保険更新した?)

 

CとDが会話しています(Cは新聞を読んでいます)。

C:  Olhe que notícia interessante!

(ほら、面白いニュースがあるよ!)

D:  Vou ver depois.  Mudando de assunto, eu estou pensando em comprar flores para decorar a casa.  O que você acha?

(後で見るよ。話は変わるけど、家を飾るのに花を買おうと思うんだけど、どう思う?)

 

 今月もお読みいただきありがとうございました。今回の表現の発音を練習したければ、エンリケ&ジュリアーノ(Henrique e Juliano)の「Mudando de Assunto」という曲があります。彼らはブラジルでは有名なコンビです。ブラジルの2020年ストリーミングトップ10に彼らの曲が2曲入っています。YouTubeで、「Henrique e Juliano - Mudando de Assunto (DVD Ao vivo em Brasília) [Vídeo Oficial]」で検索してみて下さい。

 また次回。お互い健康に気を付けましょう。

リリアン・トミヤマ(Lilian Tomyama)

ポ語
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童話 『癌が良い? 抗癌剤が良い?』

 むかしむかし、あるところにヒトがいました。

 普通の所で、普通の生活をする、普通の人でした。

 普通の所とは、他の人もいっぱいいる街でした。

 普通の生活とは、皆と同じように朝起きて、朝ご飯ぬいて、仕事行って、お昼ご飯は外食して、夜はお酒飲んで帰る毎日でした。

 普通の人とは、平均的な身長、平均的な体重、平均的な嗜好、平均的な思考、平均的な志向、平均的な学歴をもつヒューマンでした。

 黒い板が言いました。

「これ食べたら甘くて美味しいよ」

 ヒトは食べてみたら美味しくて、とても好きになりました。

 違う黒い板が言いました。

「これ甘くて、油っぽくてもっと美味しいよ」

 ヒトはそちらも食べてみたら、もっと美味しくて虜になりました。

 また違う黒い板が言いました。

「こちらは、肉汁と脂がいっぱい出て、信じられない美味しさよ」

 一回目に食べた時は胃にもたれたのだけど、ヒトは口を通過していく時の美味しさが忘れられなくなりました。

 さらに違う黒い板が言いました。

「美味しいだけではなく、直ぐに食べられますよ。あっという間!」

 ヒトはなんと便利だと喜んで生活に取り入れました。

 街を歩いていると、大きな絵画に出会いました。絵は綺麗な人が口から煙り吐いてます。ヒトは思いました。

「自分も煙吐いたら、綺麗になるんだ」

 煙吐く習慣も採用することにしました。でも、そのうち、大きな絵画の綺麗な人がなにやら見たことのない装置を手に持つようになりました。よく観察すると、絵画に字が書いてあります。

「煙吐くの身体に悪いよ。こちらの装置は同じ効果で健康的です!」

 ヒトは身体に悪いモノは嫌なので、早速いわれた装置に変えました。

 白い箱が言いました。

「歩いたり、動いたりするの、面倒でしょ?この中で分身を作ってあげるから、分身が歩いたり動いたりしてあげます」

 ヒトは考えました。

「分身が動いてくれて同じ生活ができるのであれば、絶対便利だぞ」

 それで、歩いたり動いたりは白い箱の中の分身にまかせる事にしました。

 別の白い箱が言いました。

「あなたの個人情報や生活風景を言ってもらえたら、世界中の人に発信してあげます。世界中の人とつながれますよ!」

 ヒトは考えました。

「自分のことを教えたら、世界中の人とつながるんだ。これは便利、自分の情報なんてお安いもんだ」

 それで色色白い箱に教えてあげました。

 黒い板が言いました。

「これ飲んだら、気持ちよくなりますよ。カッコ良いし」

 ヒトは気持ち良いのは好きなので、飲んでみました。なんととても気持ちよくなれるじゃないですか! ヒトは毎日飲むようになりました。夜もよく寝られるし。それにカッコ良いし、言うことなし。

 そんなこんなで、美味しく、便利で、世界中の人とつながり、ヒトは楽しく生活をしていました。まあ、体重が増えて身体が丸くなってきていたのですが、周りをみると、皆同じような感じだし、体調も春に鼻がグズグズするくらいで、別に問題はありません。幸せです。チョー幸せです。

 

 仕事で予防が大事と言われたので、色色検査をすることになりました。ヒトは自分は幸せな生活をしているので、全部大丈夫と安心して検査しました。何日か経って、検査をした病院へ出向くと、結果が発表されました。なんと。癌の診断です!ヒトはびっくりしました。

「えー?良いと言われた事を全部した生活してるし、体調も悪くないのに。ウソでしょ?」

 初めは誰でも、嫌な事実は疑いにかかります。でも、診断は正しく、ジタバタしても、結果は変わりません。そこで、癌の治療をすることになりました。抗癌剤を使った治療です。

 

 ヒトは抗癌剤治療を始めました。病院へ行って、体内に薬を注射する治療です。一回目が終わった時にヒトは思いました。

「なんだ、しんどいとか聞いていたけど、全然大丈夫じゃない。これだったら楽勝楽勝」

 二回目、三回目と回数を重ねていきます。

 始めは大したことないと思っていたヒト。段々しんどくなってきます。吐き気はするし、眩暈はするし、不整脈がでるし… 皮膚は痒いし、頭髪はぬけるし… 食欲はでないし、倦怠感もひどいです。とうとう仕事に行くことが困難になりました。ヒトは嘆きます。

「抗癌剤だけじゃないじゃない! はき止めはいるし、降圧剤もいるし、不整脈治療薬もいるし、かゆみ止めもいる」

 薬だらけ。それで、今度は抗癌剤の副作用を抑える薬の副作用もでてきました。

 

 ヒトはいつものとおり、白い箱の中の世界中につながっている人達の情報をみてみました。みんな元気で、綺麗で、格好良くって、抗癌剤でヒーヒー言って、禿げている自分が惨めになりました。ヒトは嘆きます。

「えー。元気だったのに。幸せに生活してたのに。なんでこんな目に遭わないといけないんだあ」

 

 でも、癌は治療の効果もあり、小さくなり、そのうち見えなくなりました。喜んだヒト、幸せな生活に戻ります。

「いつもやってきたことをするのが大事だと言われてるし」

 抗癌剤は止めです。

 

『で、ここで、普通の童話であれば、「治ったヒトはいつまでも幸せに暮らしました。チャンチャン」なのだが、相手は癌なのでそうは問屋がおろさない』

 

 幸せな生活をしてたら、また癌が再発しました。再発なので、初回より悪質の癌だと言うことです。ここでヒトは選択を迫られます。

〜もっと苦しいキツい抗癌剤を使った治療をするか。キツいので死ぬかもしれません。〜

〜治療せず癌を進行させて、その内多分苦しんで死んでいく。〜

 どっちも苦しい。どっちも死ぬかも。

 さあ、ヒトはどちらを選択したのでしょう?

 

 完

 

『このコラムの24人の読者様はどうされます? キツい選択ですね。どちらも嫌ですね。一番良い答えは、ここまで行かない、つまり、癌にならない、でしょう。癌の発生要因は生活だけではないのですが、癌になりやすい生活というものは判明してきてます(註1)。コロナ禍で癌の話をするのもなんですが、今医療が逼迫してますから、癌だけではなく、入院のお世話になるような疾病は現在診てもらえない可能性が高いので、できる限りさけるにこしたことはないと思います』

 

註1:日本の国立ガン研究所に色色記載があります:https://ganjoho.jp/public/pre_scr/cause_prevention/evidence_based.html

診療所のホームページにブラジル・サンパウロの現状をコメントした文章を記載してますので、併せてご覧いただければ幸いです。

秋山 一誠 (あきやまかずせい)

サンパウロで開業(一般内科、漢方内科、予防医学科)。

この連載に関するお問い合わせ、ご意見は hitorigoto@kazusei.med.br までどうぞ。

診療所のホームページ www.akiyama.med.br では過去の「開業医のひとりごと」を閲覧いただけます。

ひとりごと
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しらすたろう

第61回 実録小説『神様ありがとう』

 その日、白洲太郎と彼の妻になる予定のちゃぎのは隣町へと車を走らせていた。何をするのかというと、もちろん仕事をするためである。忌まわしきパンデミックによっておよそ一年にわたり隣町への行商が禁止されていたが、ここ数か月、予想外の出費が嵩んでいる太郎は、そろそろ自分の住む町以外でも仕事がしたくなってきたのである。
 隣町はかつて、しらす商店の売上に大きな貢献をしていたドル箱であり、そこからの収入が途絶えたことは大きな痛手であった。とはいえ気楽な田舎暮らしである。週に1、2回、働くだけで生活は十分に成立していたが、以前は週に4日ガッツリと行商していたし、金はあるにこしたことはない。現状を確認するためにも、隣町への視察は必須事項であった。
 数か月前までは、まるで市街戦でもあったかのようにえぐれていた道路がキレイに舗装されている。町までは約50キロほどの道のりであったが、太郎は鼻歌を歌いながら軽快に車を走らせた。天気こそ曇りであったが、爽やかな風がそよいでいる。
 車を青空市場の駐車場に滑り込ませると、太郎はまず市場の管理人であるフィスカウ(fiscal)の姿を探した。各町の青空市場には必ずといっていいほどフィスカウが存在しており、ショバ代の徴収から、各露天商のポント(定位置)の割当などを一手に握っている。青空市場で仕事をする以上、避けては通れない存在なのである。太郎とこの町のフィスカウとは長いイザコザの歴史があった。10年前に初めてこの地を訪れたときからの因縁で、太郎とフィスカウはことあるごとに衝突しては口論を繰り返してきたのである。
 その1番の理由はポントであった。露天商にとってのポント、企業などでも、モノやサービスを提供するような業態では、出店場所の選定にかなりの労力を費やしていると思われるが、カメローにとってもそれは同様で、ポントの良し悪しによって売上はかなりの振り幅で左右されることになる。
 もちろんポントがすべてというわけ訳ではないが、できることなら人通りの多い、なるべく目立つ場所に屋台を設営したいと思うのが人情というもので、その折り合いがことごとくつかなかったのがこの町のフィスカウなのである。めぼしい場所を見つけても、なんやかやとイチャモンをつけられ、人が誰も来ないような隅の方へと追いやられる。そういうことが何度も続くと、太郎は自分だけが意地悪をされているような気分になった。フィスカウはルールに則っているだけで、個人的な差別をしているわけでないことはわかっていたが、たとえそうだとしても、辺鄙な場所でわざわざモノを売る気にはなれない。
 太郎は指定された市場内で屋台を設営するのを諦め、フィスカウの目の届かぬ場所、つまり町中で勝手に開業することにしたのであるが、これが大当たりとなった。彼が選んだ場所は四方八方から人がやってくるプチ広場のようなところで、青空市場に向かう客の通り道にもなっている。この恵まれたロケーションを最大限に活用した太郎は、水を得た魚のごとく安物アクセサリーを売りまくり、その栄華は8年もの間、続いたのであった。
 しかし無常の世の中である。栄枯盛衰、栄えるものは必ず滅び、栄光が続くことなどあり得ない。
 それまでは市場の管理だけを任されていたフィスカウが、その枠を飛び越え、市場以外の露天にまで口を出すようになってしまったのである。どうやら現市長派である地元のコメルシアンチ(商店主)たちがプレフェイトゥーラ(市役所)に働きかけ、露天商排除条例のようなものが発令されてしまったらしい。取り締まりは厳しいものとなり、我が世の春を謳歌していた太郎にもその手は伸びてきた。はじめは知らぬ存ぜぬ、のらりくらりとフィスカウの立ち退き要請をかわしていた太郎であったが、日を追うごとにプレッシャーがキツくなり、無視し切れない状況に追い込まれていったのである。
 そんな中にあっても、ドル箱の売上を手放したくない太郎は頑張った。たとえ天地がひっくり返ろうとも立ち退きには応じん。矢でも鉄砲でももってこい! わしゃ絶対にここを動かんぞ! 眼を血走らせながらフィスカウへの抵抗を続ける太郎であったが、旗色は著しく悪かった。そして決定的ともいえる事件が起きてしまうのである。
 ある日。いつものように隣町の広場で屋台を設営、やってくる客にbijuterias(安物アクセサリー)を売りまくり、缶ビールをガブ飲みしていた太郎であったが、いつなんどきフィスカウの野郎が現れるかわからない。周囲に視線を走らせ、一事が万事、警戒を怠らない態勢を整えていたが、生理現象だけは致し方ない。客の流れが落ち着いたころを見計らって、太郎は数百メートル離れた草むらまで用を足しに行った。今日も売れ行きは絶好調である。数か月分の家賃は楽に稼げてしまいそうな勢いで、いわゆるホクホクというやつであった。小便を済ませ、鼻歌を歌いながら屋台に戻ると、ちゃぎのが浮かない顔で佇んでいる。さては一瞬のスキをついて、フィスカウのガキが現れやがったか! と顔色を変えた太郎であったが、時すでに遅かった。

 当時ポルトガル語をロクに喋れなかったちゃぎのは、フィスカウが差し出した承諾書に訳もわからずサインをさせられてしまったのである。拒否することもできたはずだが、いかんせんちゃぎのは気が弱い。強く言われるがままにサインをしてしまい、そうなってしまっては後の祭りである。その紙切れには、今後指定された場所以外でモノを売ってはならず、従わない場合は国家権力による制裁も辞さず、という旨のことが書かれてあった。太郎はがっくりと肩を落とし、地面に這いつくばりそうになるのをじっと堪えたが、この一件でちゃぎのを責めるのは酷であった。遅かれ早かれ立ち退きはさせられていたであろうし、近いうちに警察が介入してくるという噂もしきりだったのである。
 以上の理由により、太郎は再び青空市場内で仕事をせざるを得なくなった。空いている場所といえば、通行量のまるでない過疎地のようなスペースしかなかったが、それでもやらないよりはマシである。幸いなことに俺にはちゃぎのがいる。二人三脚でまた頑張ろう。という前向きな姿勢が功を奏したか、辺鄙な場所であるにも関わらず、少しずつ客足が戻ってきたその矢先に、パンデミックになってしまったのであった。
 数か月ぶりに隣町の青空市場を訪れた太郎は、当時の思い出を振り返りながらフィスカウの姿を探していたが、場内は閑散としており、依然として部外者の規制が行われていることは明らかであった。当分の間、コロナによる営業自粛が続きそうであったが、半ば予想していたことでもあり太郎は冷静にその事実を受け止めた。ちなみに当のフィスカウもコロナにかかって入院してるとのことである。彼とは浅からぬ因縁があるが、早く復活してほしいものだ。そんなことを思いながら、太郎とちゃぎのはパステウを頬張った。コロナで騒がしい世の中ではあるが、彼らにとってはとても平和な1日である。
 神様ありがとう。
 誰に言うでもなく、太郎は呟いた。
 怪鳥が空高く舞い上がっていた。

​しらすたろう

カメロー
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岸和田仁

イエダ・ペッソア・デ・カストロ Yeda Pessoa de Castro

(民族言語学者、1937年バイーア出身)

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 ブラジルで一番優れた大学といえば、USP(サンパウロ大学)であると相場が決まっていたが、最近は、USPとほぼ同格、いや、分野によってはUSPより格上だとの評価を得ているのがUNICAMP(カンピーナス大学)である。いずれもサンパウロ州立の大学であるが、カンピーナス大学の開学は1966年(州条例による大学設立年は1962年)と意外と新しい。

 その大学創立40周年を記念したシンポジウムが2006年11月6日から9日にかけて4日間開催されたが、そのテーマは『ポルトガル語の辿った道:アフリカーブラジル』であった。ポルトガル、フランス、カーボ・ヴェルデ、アンゴラ、モザンビーク、そしてブラジル各地から集まった16人の歴史学者、言語学者、人類学者、作家らが語った内容は、ポルトガル語という地理的な壁を超越した多彩な言語世界についてであった。その各論者の発表内容は、“AFRICA-BRASIL:Caminhos da língua portuguesa”(Editora Unicamp,2009)に収録されており、いずれの論稿も極めて刺激的で面白い。

 ルイス・フェリピ・デ・アレンカストロ(パリ大学教授)による皮切り講演「ブラジルにおけるアフリカ人とアフリカ諸言語」は、1500年に「発見」されたブラジルが、南大西洋圏の国ブラジルとして形成されたのは18世紀以降でしかなく、奴隷貿易を通じたアンゴラとの緊密な歴史的・文化的相互関係の上に、この国家としての実態が出来上がったのであり、それ故に、ブラジルのポルトガル語に入り込んだアフリカ言語を研究する必要がある、と説いている。そのなかでいくつもの歴史学者らしい事例を語っているが、(現在は首都ブラジリアの住民を意味する)「brasiliense」とは、16世紀から18世紀前半ごろまでは、先住民インディオを意味していたし、「brasileiro」とは、ブラジル史において最初の経済商材であったパウ・ブラジル(染料用ブラジル蘇芳)の集荷人のことを指していたのであり、ブラジル人という意味で初めて史料に登場するのは1706年でしかない、との指摘には目からうろこが落ちた。つまり、18世紀までは広大なブラジルでは分散した各地域が点として存在していただけだったが、ミナスにおける金鉱の開発が進み、労働力(黒人奴隷)も植民地国内市場も地域間交流が頻繁となるにつれ、地域限定から国全体への視点・概念が生まれ、ブラジルという国としての認識が出来上がり、「brasileiro=ブラジル人」となったのだ、との説明だ。染色用木材集荷人だったブラジレイロが、ブラジル人に”進化”したのは18世紀であったとは、現代のブラジル人の多くは忘れている。

 イエダ・ペッソア・デ・カストロ教授は、ブラジル人(白人)としては初めてアフリカの大学(ザイール国立大学)でアフリカ言語学の博士号を修得した民族言語学者だが、彼女の発表「ブラジルのポルトガル語-その歴史における一つの混交」は、黒人奴隷が持ち込んだアフリカ諸言語がどのようにブラジルの言語世界に混合していったか、を概観したうえで、ブラジルのポルトガル語は、インドヨーロッパ語族に属するポルトガル語に、先住民のトゥピー系言語が加わり、さらにアフリカ諸言語(バントゥー系、ナゴ・ヨルバ系、ハウサ系など)がミックスしたメスチーソ言語、新型ポルトガル語であることを明らかにしている。冒頭に引用したのは、この論稿の結語部分である。

 他の論者たちは、モザンビークにおける植民地主義とポルトガル語の現地化の関係を論じたり、アンゴラやモザンビークなどで行われている現代アフリカ文学を言語学の視点から再解釈している。ポルトガル語の世界は一様でなく多様で広い。

​岸和田仁(きしわだひとし)

百人一語

「ブラジルのポルトガル語の起源に関しては、学問的にきちんと論じられてきたとはいえないので、その4世紀にわたる歴史の概要を改めてまとめてみようと試みているところだ。ブラジルにおけるポルトガル語の創造に直接関与した当事者であったアフリカ黒人の話者たちの声を可視化するチャレンジを再度試みたい。別の表現でいえば、歴史的な理由やら認識論的理屈から隠されて見えなくなっていた真実を再発見しつつある、ということだ。その真実とは、ブラジルのポルトガル語の共有ルーツは三つの語族にある、ということだ。すなわち、①欧州からアジアにかけて広く分布したインド・ヨーロッパ語族、②南米大陸で広まったトゥピー語族、③サハラ以南のアフリカに起源を持ちアフリカ大陸全体に広まったニジェール・コンゴ語族、という三つの語族である。つまるところ、先住民インディオもアフリカ黒人もどちらも、ブラジルに定着したポルトガル系植民者のカルチャーに深い痕跡を残したのであり、その影響の結果、ポルトガル語の新しい変異種、すなわち、ブラジル的混淆語が誕生したのである。」

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下薗昌記

第138回 イポジュカン

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 大航海時代の偉大なる航海者の名をクラブ名に抱きながらも近年、低迷が続くヴァスコ・ダ・ガマ。2020年には4度目のブラジル全国選手権2部降格を余儀なくされたリオデジャネイロの名門だが、王国のサッカー史においては様々なクラッキを輩出してきた。

 クラブ史上歴代5位となる225得点を叩き出したのはイポジュカン。その数字はいつまでも陰りを見せることはないが、とりわけ評価されるべきは、彼が生粋の点取り屋ではなかったことだった。

 大型化が進む現代サッカーにおいて、2メートル近い身長の選手は決して珍しくないが、イポジュカンがプレーした1940年代から50年代にかけて、190センチの長身は、やはり際立っていた。

 コーナーキックやフリーキックなど相手ゴール近くでのセットプレーではしばしば、その長身を生かしてヘディングシュートを叩き込んだイポジュカンではあるが、もっとも得意としたポジションは中盤でのプレー。「ピッチ上の芸術家」とさえ称された長身の天才は、のちにブラジル代表でキャプテンを務めるソークラテスの原型とでもいうべき男だったのだ。

 1926年、ブラジル北部のマセイオで生を受けたイポジュカンは地元クラブで、早くも頭角を表していた。細身だが、左利きの技巧派は11歳にして、ヴァスコ・ダ・ガマの下部組織に引き抜かれるのである。

 まだユースチームに在籍していた1944年からトップチームでのプレー機会を手にし、徐々に存在感を高めていく。

 もっとも、その繊細なボールタッチ同様、メンタル面も、ひ弱でこんなエピソードが残っている。

 1950年のリオデジャネイロ州選手権の決勝戦の一コマだ。前半、アメリカを相手に決定的なシュートをミス。すると長身の芸術家はのちにブラジル代表を率いる名将、フラヴィオ・コスタに対して「今日は調子が良くない。後半はもうピッチに立ちたくない」と懇願したという。

 もっとも、指揮官からハッパをかけられて後半もピッチに立ったイポジュカンは、エースのアデミールの決勝点をお膳立て。優勝に貢献するのだ。

 ブラジル代表では1952年のパンアメリカン選手権で優勝に貢献したものの、ワールドカップには縁がなかったイポジュカン。

 ただ、その才能の確かさをブラジルサッカー史に残る天才SBのニウトン・サントスはペレに比肩する技術の持ち主だったと証言している。

 ヴァスコ・ダ・ガマで5度のリオデジャネイロ州選手権制覇に貢献した後、ナイトライフもこよなく愛したボールの芸術家は、1954年からポルトゥゲーザに移籍。1960年までの在籍期間中に218試合に出場し、52ゴールをゲットした。1960年に現役を退き、ポルトゥゲーザで指導者としての道を歩み始めたイポジュカンだったが腎炎に苦しめられ、1970年には腎移植の手術を受けているが、これは当時の南米では極めて珍しいものだったという。

 かつてはマラカナンスタジアムで、そしてポルトゥゲーザのホームであるカニンデーで芸術的なボールさばきを見せつけた左利きの天才は1978年6月、52歳の若さでこの世を去った。

 トゥピ・グアラニー語では「殺し屋」を意味するとも言われるイポジュカン。「Ipojucã」「Ipojuca」「Ypojucan」。当時の新聞では様々な名前の表記もされた彼ではあるが、ヴァスコ・ダ・ガマとポルトゥゲーザの両サポーターにとっては、イポジュカンの綴りなど、どうだっていいことなのである。

 長身ながら抜群のボールタッチを見せ、ゴールも量産した紛れもないクラッキ。イポジュカンとはいつまでも英雄の同義語なのだから。

下薗昌記(しもぞのまさき)

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​ブラジル、サンパウロ

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