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2021年5月号 vol.179

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画像をクリックするとissuu.comのPDF版がご覧いただけます。

目次

ファインダー

鶴田成美

移民の肖像

松本浩治

ポルトガル語ワンポイントレッスン

リリアン・トミヤマ

せきらら☆難民レポート

​おおうらともこ

開業医のひとりごと

秋山一誠

簡単おいしい!ブラジルレシピ

先生・ファビオさん

カメロー万歳

白洲太郎

ブラジル面白ニュース

布施直佐

クラッキ列伝

下薗昌記

今月号のスポンサー一覧

目次

幻の創刊準備号

​(2006年6月号)

Kindleで復刊

​2020年7月号

​2020年8月号

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ここまでパンデミックが長いと心が荒んでくる。

気兼ねなく外へ出て、人に会って、食事して、話して、笑って。

ただそれだけでいいんだけど。

ただそれだけが難しい。

 

原点というか、昔というか、いろんな「あの頃」に戻りたくなる。

今できることを、今しかできないことを、と言うけれどそれもやっぱり人ありきなのだなと。

 

やっぱり「人」は「人」というだけでいいものだ。

鶴田成美(つるたなるみ)

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写真・文 松本浩治

アマゾンで写真店を経営した滝田操(たきた・みさお)さん

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「(パラー州の)トメアスーでピメンタ(コショウ)を作れば、土地はタダでもらえるし、金も貯まる」—。

 福島県に住んでいた滝田家族は、近所に住む日本人からブラジルに行くという話を聞き及び、自分たちも一緒にブラジルに渡ることを決意。1955年9月27日に神戸港を出航し、同年10月30日に北伯(ほくはく)のベレンに到着した。

 家長の余慶(よけい)さん(故人)は当初、レントゲン技師としてトメアスーで働くことになっており、日本から事前にレントゲン機器を送っていた。しかし、渡伯後いつまで経っても肝心のレントゲン機器は届かず、生活のために仕方なくトメアスーで写真店を開くことにしたという。

 当時、6歳を筆頭に3歳と1歳の3人の子供がいた妻の操さん(82)は、日本人のパトロンの下でピメンタ栽培中心の農業活動を続けながらも、次第に夫の写真店の手伝いも行うようになっていた。

 元々、余慶さんは東京で写真の技術を習得した経験があり、第2次世界大戦後に復員してからは新聞社で写真を扱ったり、生活協同組合で映画の上映係りを行うなど、写真・映像技術に興味を持っていた。滝田家が渡伯した55年当時、ピメンタ景気で沸くトメアスーには金持ちも多く、催し事があると余慶さんが写真を撮り、販売していた。日本から写真の引き伸ばし機や修正用の道具を持って来ていたことが、農業活動とともに滝田家の生活を支えた。しかし、滝田家の生活は苦しく、当時は電気もない暮らしぶり。写真の密着作業には、日中は太陽光を利用し、夜は電球の代わりにランプの光を使っていたという。

 渡伯当初は「こんな所に子供たちを連れてきても教育はできない」と悩んだ操さん。「子供が土に絵を描いているのを見ると、クレヨンも買ってやれない自分の情けなさに涙がこぼれましたよ」と当時を振り返る。その子供たちも高校生ぐらいに成長すると、勉学を行うためには都市部のベレン市に出る必要があった。65年に長女をはじめ、子供たち全員がベレンで下宿生活を始めるようになったが、操さんは夫とともに生計を立てるために、トメアスーで継続してピメンタ栽培に従事せざるを得なかった。

 転機が訪れたのは73年のこと。操さんが植えていたピメンタに病気が入り、一晩で全滅。当時、20町歩の土地に1万本のピメンタを植えていた操さんは、体力の衰えを感じていた。ピメンタへの思いが人一倍強かった操さんだが、トメアスー全体のピメンタ栽培はすでに全盛期を過ぎており、夫とともに子供たちのいるベレンに転住することを決めた。

 その頃、余慶さんに運気が回ってきた。当時、白黒写真からカラー写真に移行しだした時期で、余慶さんもカラー写真技術を身に付けたいと考えていた。そうした時、日本の富士フイルムで技術研修生の受け入れがあった。早速、応募したところ、採用通知が来て、余慶さんは56歳で初めて日本に一時帰国することができた。

 研修を終えてベレンに戻った余慶さんは早速、日本の技術を駆使し、ベレンでは初めてのカラー写真の取り扱い店として、連日、多くの注文で賑わった。

「月曜日には一日に300本ほどのフィルム現像の注文がありました。その頃は今と違って1枚1枚手で焼いていましたから、夜中の3時くらいまで働いていました」(操さん)

 ベレンで初めてのカラー写真技術が、滝田家の生活を大きく変えたのだった。

 その後、写真店は93年に次女が引き継ぎ、96年には自動式のミニラボ機械を導入するなど、さらに店舗を発展させた。

 ベレンに転住してからの操さんは結局、89年までの16年間を夫とともに写真業に費やした。

「写真の仕事を辞めたくはなかったのですが、子供たちが集まって話し合い、『もういい加減、自分の好きなことをしたらいい』と言ってくれました。年寄りが頑張り過ぎると、若い者が伸びない。残念でしたけど、辞めることにしました。もしあの時、辞めていなかったら、今でも(写真の)仕事をしていますよ」

と操さんは笑顔を見せていた。

(2001年6月取材、年齢は当時のもの)

松本浩治(まつもとこうじ)

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リリアン・トミヤマ

「好きじゃないわけじゃない」

 ロベルタ・マセーナ(Roberta Mascena)という学生が、今年、とても美しい行為によって全国に知られることになりました。彼女はサントス・メトロポリタン大学で4年間教育学を学びました。貧しい家庭の出身で、母親は家政婦をしながら多大な犠牲を払いながら娘の学費を払いました。卒業写真撮影の日、フォーマルなドレスを着るほかの女子学生と異なり、ロベルタは母親に敬意を表して、母親の家政婦のユニフォームを着るという選択をしました。

 私個人としては、彼女の行為の美しさに大変感動しました。パンデミックによる悲しいニュースばかりの今、このニュースはすべてのブラジル人の心を温めたのでした。

 ただ、ニュースにしてもほかのことにしても、いつもみなの意見が一致するというわけではありません。必ずしもみなが好きなわけではないという物事があります。これが今月のテーマです。

 

「好きじゃないわけじゃない」をポルトガル語でどう言うでしょうか?

「Não que eu não goste, mas....」と言います。

 

 例を見ていきましょう。

 

 最初の例はポルトガル語の基礎レベルの方用です。

 

 AとBが話しています。

A:  Você não gosta de omelete?

(オムレツ好きじゃないの?)

B: Não que eu não goste, mas prefiro ovo frito.

(好きじゃないわけじゃないけど、目玉焼きのほうが好きだな)

 

 次の例は中級以上のポルトガル語です。 

 

 CとDがどの映画を観るか選んでいます。

C: Eu quero muito ver este documentário.

(このドキュメンタリーすごく観たいんだけど)

D: Não que eu não goste de documentário, mas estou cansada.  Vamos ver uma coisa mais leve?  O que você acha de uma comédia romântica?

(ドキュメンタリーが好きじゃないわけじゃないけど、疲れてるからさ。もっと軽いの観ようよ。ロマンティック・コメディーなんかどう?)

 

 コメディーと言えば、マザロッピ(Mazzaropi 1912 - 1981)をご存知ですか? ブラジル最大のコメディアン兼映画製作者のひとりです。彼が創ったキャラクターはカイピーラ(※簡単に言うと田舎の農民)「ジェカ・タトゥー(Jeca Tatu)」(※筆者紹介の下に動画があります)といい、大成功しました。Google Brasilからも賛辞を贈られています(先月生誕109年を祝ってDoodleも作られました)。TVクルトゥーラ(TV Cultura)のサイトによると、マザロッピは映画を作って百万長者となったブラジル唯一のアーティストだそうです。

 でも、マザロッピの映画が好きかときかれると、私は間違いなくこう答えます。

「Não que eu não goste, mas....」☺

 ただし、認めなければならないことがひとつあります。マザロッピのとても美しい言葉があって、なにか悲しい事や大変な事があると私はよく思い出します。それをみなさなんと共有したいと思います。

 

「悪いことが起こってもそれはすべてただただ私たちの人生を良くするためなのだ(Tudo que acontece de ruim, é só para melhorar a vida da gente.)」

リリアン・トミヤマ(Lilian Tomyama)

ポ語
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第20回 ベネズエラ編

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ドグラスさんとディアナさん

◆日本人の求人募集に応募

 サンパウロに到着して日の浅いベネズエラのカラカス出身のディアナ・ベネスエさん(38)。彼女は、サンパウロに来て間もなく、思いがけず日本人との縁ができた。サンパウロ在住の日本人がインターネットで募集していた仕事に応募したのがきっかけで、採用条件は、「サンパウロ在住」「英語ができる」「日本側のクライアントの提示条件で働ける」というものだった。彼女はその条件を満たしていたが、急きょ日本側で仕事がキャンセルとなり、話は振り出しに戻ってしまった。今回は、その採用担当の日本人を通して、当誌の難民レポートでも紹介させてもらうことになった。

 

◆出国から5年を経てブラジルに

 ディアナさんと夫のドグラス・ゴンサレスさん(48)は、2人の娘とともに5年前にベネズエラを後にした。経済破綻したベネズエラを離れ、より良い生活を求めてのことだった。ディアナさんは昨年4月、パンデミックが始まった直後に、当時18歳と4歳の娘を連れてペルーからサンパウロに到着した。その後、ドグラスさんが一足遅れて、今年2月にサンパウロに来着した。

 

◆ペルーでの外国人嫌悪を逃れて

 ディアナさん家族はベネズエラを出た後、最初はディアナさんの父親の郷里であるトリニダード・トバゴで1年を過ごしたが、公用語が英語のため、娘たちが学校生活に慣れることができなかった。それで、ベネズエラとの国境の町コロンビアのククタで数か月を過ごし、ペルーのリマに移ることを決めた。

 リマにはベネズエラ人が多く避難して生活しており、今も100万人近くが暮らしているといわれる。リマで1年7か月ほど過ごしたが、ペルー人とベネズエラ人が暴力沙汰の喧嘩をして険悪なムードとなり、少数派のベネズエラ人は先住民同様に、仕事面でも一般のペルー人と同じように扱われないなど、次第に「シェノフォビア(外国人嫌悪)」の空気を感じるようになったという。それで、ブラジルへの移住を決意した。

 バスを乗り継ぎ、アレキパ、プーノ、ボリビアを経て、サンパウロに到着。メルコスル協定により、ベネズエラ人はパスポートか身分証を提示すれば合法的にブラジルに入国できるため、移動に困難はなかった。

 サンパウロに到着すると、カラカス時代からの友人たちが暮らしていたシェアハウスにいったん身を寄せ、その後、家族だけで暮らせるアパートに引っ越した。新移民法により、ベネズエラ人はサンパウロで居住権を得て暮らすこともできたが、多くのベネズエラ人同様に、ブラジルの保護を求めて連邦警察で難民申請を行った。即時にプロトコールが発行され、労働手帳や納税者番号を取得し、合法的に働けるようになったが、パンデミック真っただ中で、良い就職先は見つからず、商店の営業が再開されてからは、ブラス地区のフェイラ・ダ・マドゥルガーダにあるボリビア人オーナーの衣料品店で、販売員をしながら生計を立ててきた。

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フェイラ・ダ・マドゥルガーダ

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ベネズエラ時代のディアナさん

◆食料、医薬品も手に入らず

 ディアナさんはベネズエラでは会社経営に携わり、ドグラスさんはジャーナリストとしてテレビ制作のチーフを務めていた。ベネズエラの社会情勢が悪化し始める8年ほど前までは、良い生活を送っていた。しかし、2014年初頭から、18歳以上の市民には身分証番号の最後の数字によって、月曜から金曜の一日だけしか食料品が買えなくなり、数時間行列に並んでも、購入できるのはある週はパスタ一袋だけ、翌週は鶏肉一つだけといった状況になった。闇市は盛んだったが、庶民の賃金では手に届かなかった。医薬品の不足で、ドグラスさんの母親は必要な手術も受けられず、食料や子どものミルクも不足し、生き延びるために5年前にベネズエラを発った。ディアナさんは生まれたての娘を抱え、すっかり痩せ細っていたという。今ベネズエラに居たとしても、ドグラスさんの月給は5ドルほどで、カラカスにいる母親や姉妹にはブラジルから送金している。

 この5年間、長女は落ち着いて教育を受けられず、今はサンパウロでオンラインのポルトガル語の授業を受け、次女は幼稚園の授業を受けている。

 

ベネズエラでも縁のあった日本

 ドグラスさんはテレビ制作の仕事以外に、ベネズエラの美術館でも働いていた。かつて、日本大使館や日本企業の協賛で大きな美術展が開催され、日本人と交流したことを思い出し、日本にはとても好印象を抱いている。

 サンパウロに来るまで、ブラジルに日系コミュニティーがあることは知らなかったディアナさんは、

「日本人や中国人がこんなにたくさん行き交うリベルダーデ地区は、まるで映画を観ているみたい」

と印象を述べる。

 第二次世界大戦後、ヨーロッパからの移民を受け入れたベネズエラは、イタリア人、ポルトガル人、スペイン人、レバノン人、シリア人、中国人など、多民族が共生してきた。ディアナさんの祖母はスペイン人、ドグラスさんの祖母はフランス人で、母親はコロンビア人である。移民を受け入れ来たベネズエラだが、ベネズエラ人が外国に多く移民した経験はない。

「ブラジル人は温かく陽気で、人の話に耳を傾けてくれます。ブラジルを気に入っているので、ベネズエラに帰る予定はありません。もし、可能であれば、好機を求めてスペインに移住したい思いはあります。日本にも興味があります」

と、淡い期待を寄せる。

 

仕事が最優先

 

 目下、ディアナさんたちは生計を立てるための仕事を探している。過去のキャリアにとらわれず、コロナ禍が落ち着き次第、路上の屋台でベネズエラ料理店を開くことを計画している。体格の良いドグラスさんは、警備の仕事を探している。家族で落ち着いて過ごせる自分の家を持つのが、今の夢である。

※この下にインタビュー動画があります。

企画/ピンドラーマ編集部

文/おおうらともこ

難民
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『クレメ・デ・パパイヤ』

先生・ファビオさん(Fábio)

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 ブラジルに初めて来た人が、レストランのデザートでよくすすめられるのがクレメ・デ・パパイヤ。レシピはパパイヤとバニラアイスクリームをミックスしたシンプルなもの。カシスのリキュールで大人な風味に仕上げます。今回は、デザートやコーヒー、カシャッサにもこだわる南米の川魚料理専門店『ランショ・リオ・ドーセ』で、クレメ・デ・パパイヤの作り方をご紹介いただきました。

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【材料(1人分)】

・パパイヤ(皮と種を取除く)Mamão formosa...100g

・バニラアイス Sorvete de Creme...2玉(80~100g)

・カシスのリキュール Licor Stock Creme de Cassis...適量

【作り方】

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①角切りにしたパパイヤとアイスクリームをミキサーに入れる。

②アイスクリームをスプーンなどで軽くつぶし、混ざりやすくする。

③全体がクリーム状に混ざるまでミキサーにかける(15~30秒)。

④容器に盛り付け、好みでカシスのリキュールをかける。

 すっかりレストランが遠のいたコロナ禍で、家庭でも簡単においしく作れるのがクレメ・デ・パパイヤ。小ぶりのパパイヤと大ぶりのマモン・フォルモーザを使用するのでは、微妙に風味が違ってきます。パパイヤの代わりにマンゴーを使用したクレメ・デ・マンガは意外と少なく、『ランショ・ダ・トライーラ』での自慢の一品になっています。マンゴーで作る場合は、繊維の少ないPalmer種がおすすめです。

◆今回の先生

ファビオさん(Fábio)

サンパウロ生。『ランショ・リオ・ドーセ』で創業当初からシェフを務める。

コロナ禍でも、デリバリーやi-foodのメニューに臨機応変に対応する頼もしいシェフ。

文・写真 おおうらともこ

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レシピ
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どうして新型コロナウイルス感染症の治療薬ってないの?

 ブラジルでは新型コロナウイルス感染症の第二波の真っ只中ですが、このコラムの24人の読者様、皆さんお揃いですか?昨今の感染症で亡くなった方はおられないことを祈ってます。今月も去年から続いているコロナのひとりごとです。当地の第2波は感染者・死亡者ともに去年より多く、あまり見られなかった若齢層の発症と重症化が特徴です。この原稿を書いている4月下旬では一日の死者が3100人強で推移しており、その数字は「若干減少してきているのでよかった」と言った論調です。まあ、先月(2021年4月)は4000人死亡までいったので、減ったことは減ったのですけどね。数か月前までは「死者また1000人を超えた!」で騒いでいたので、人間、慣れって怖いです。1年前と今との違いは、ワクチン接種が行われているのと、ウイルスが変異株に置き換わっているところですが、変わらないのが決定的な治療薬がない感染症だと言えるのではないでしょうか?

 

『実際の生活をしていると、軽症の場合コロナにかかっても効く治療薬はないので、対処療法になるか、放置されるかになることが多いのではないのか? 後者は日本の場合だな。診てくれるとされているお役所(保健所)がパンク状態だから。でも実は“コロナ治療薬”はあるのだな。大きく分けて3種類。まず、現時点で承認されている物がある。デキサメタゾンやレムデシビルなどで、これらは入院患者の重篤化に使用される治療薬なので、ほとんどが軽症の実状の生活にはあまり関係がない。次に承認されていないが治療薬として使える物、例えば最近日本のメディアでもよく載るイベルメクチンがこの分類に入る。そして実は既に承認されているが、あまり話題にあがらないもの。日本では正規の医療に使用される漢方製剤があるのだ。』

 

 何故新型の疾病に対して治療薬がない、あるいは少ないのは現在主流のいわゆる西洋医学の一番大きな特徴のためです。曰く、西洋医学の治療は次のように決まります:

 

ヒトが発熱とか痛みとかの症状がある → 診察と検査をする → 診断が確定(推定)する → 確定または推定された疾患名と関連する薬物(あるいは外科措置)などで治療方針を決定 → 治療をする

 つまり、疾患名を確定しないと、その疾患に効果がある治療ができません。あるいは、疾患名が確定しても、その疾患に効果がある薬物や措置が存在しないと治療ができないといった制限があるわけです。診断が確定しない時や効果のあるモノがない時はこの流れが最後の治療まで行き着かないので、そういった場合は対処療法しかできません。診断が確定しないのはそれまで未知の疾患であるか、検査方法が確立してないかのどちらかです。では確定した場合のそれに効果がある薬物(外科的や理学的な措置もありますが、ここでは薬物として考えます)はどのように検証するかというと、コロナ禍で一躍有名になっている「治験」によって行われます。基礎研究や動物実験を経てヒトに“薬の候補”を使用して効果や安全性、投与量や投与方法などを確認する作業が「治療の臨床試験」、略して治験と呼ばれます。この確認作業はいろんな方法があるのですが、医学の世界で一番良しとされているのが「double blind radomized (clinical) trial 二重盲検無作為比較試験」という試験のやり方です。

『いろいろ条件などもあるのだがすごく簡単に言うと、試験に参加する患者を抽選で二つのグループに分け、投与する医師も服用する患者もどんな薬(試験薬か偽薬)を投与/服用するのか一切知らずにすすめる方法だな。つまり、最後にならないと、誰が何を服用して効果があったかわからないので、“治療薬を使用して良くなった”といったような暗示、つまり主観的な判定を減らす方法とされている。二重盲検無作為比較試験は是非があるのだが、できるだけ万人に効果がある薬を求める西洋医学の考え方に沿っているので、この方法以外では治療薬の評価が有効でないと考える医者がほとんどである。モノによってはこの試験方法が一番よいわけではないけど、一種の宗教的盲信だな。』

 治験の結果は統計学的に解析されます。それで、統計学的に有意な結果がでるには検定力という概念、簡単にいうとある程度の数が必要です。例えば、「効果が半数にある」という結果があるとします。2人に試験して、1人に効果が現れるのと、1万人に試験して5000人に効果が現れるのでは同じ半数ですが後者の方が信憑性がありますね。つまり検定力がないと、「統計学的に有意差が認められない」といった状況になり、治験が成立しません。まさにこの状態に陥っているのが、日本の抗ウイルス剤アビガン(ファビピラビル)です。日本ではコロナ患者が欧米やインド、ブラジルなどと比べ少ないので“数”が足りないので評価できないということになっています。

 

『しかし、現在のコロナ禍は衛生上の緊急事態なのだな。なので、悠長に普段のとおりの事前審査や治験申請をある程度割愛し、「緊急事態承認」といった方法をとらないとコロナの治療薬やワクチン等の開発には5年、10年かかる。実は今ブラジルやヨーロッパで使用されているワクチンはファイザー製を除き、どれも緊急事態承認薬なのだな。つまり、「緊急事態だから使えますが、恒久的承認ではないですよ」といったものなのだ。日本は折角アビガンや大阪大のDNAワクチンなどがあるのに普段のとおりの審査をやっているからそれらは世に出ないのだ。』

 “折角日本の”といえば、コロナ治療薬として非常に高い可能性をもっている薬物がイベルメクチンです。寄生虫の駆虫剤であり、この薬品の開発で日本の研究者大村智先生がノーベル賞を受賞されてますね。イベルメクチンはウイルスの増殖を阻害する効果があるのが知られており、ブラジルを含め、去年より世界各地で試験されて(27か国で44研究)有効性があることが示されています。予防、早期治療、死亡率の低下に効果が認められています。しかし、疑問が多い研究結果が有力医学誌に発表され、それを元に否定的な意見をする医師や団体が多く、何よりも開発した製薬会社が否定的であるのが目を引きます。製造元のメルクによると新型コロナに対してイベルメクチンは安全性と有効性がないと言っているのです。この薬は主に中南米やアフリカで河川盲目症と呼ばれる寄生虫症やシラミの治療に億単位の数の錠剤が使用された実績があり、さほど副作用が出ない安全な薬と位置つけられていたのが、コロナには安全ではないことになったのですかね?

 

『大村先生の話によると、コロナ禍が始まり、製造元のメルクにイベルメクチンをコロナ治療薬に承認させようと持ちかけたところ断られたそうだ。メルクを含め、各製薬会社は治療薬の開発に躍起になっているが、どれも抗ウイルス剤や抗体医薬などの方向だ(註1)。イベルメクチンは安い薬だな。1回の治療が20〜30万円する抗ウイルス剤や抗体医薬を開発している製薬会社はイベルメクチンでコロナが治ってしまったら困るわけだ。どうやらその辺りの経済的理由でイベルメクチンやコルヒチン、ヒドロキシクロロキンなど安価な薬品をつぶしにかかっている。そのように思う。』

 ブラジルでは医師の自主性を医業の基本と位置つけるので、患者の利益になるのであれば、医師が責任をとり患者の同意があれば非承認の薬でも使用できます(自費診療の場合)。そういった意味では、日本でコロナに罹患するより、当地でしたほうが治療の範囲が大きいと言えます。ただし、当地の巷で流通している「kit covid(キッチ・コビージ)」なるものは絶対に勝手に服用しないでください。コロナに効くだろうとイベルメクチンを含め色んな薬で構成されたキットで、それぞれは危険な薬ではないのですが、大量かつ併用するため下手をすると重篤な肝障害を起こします。素人がコロナパニックで手当たり次第服用し、良からぬ副反応が現出し、折角の有用な薬物を否定的な効果にもっていて大変残念です。そして実は既に承認されているが、あまり話題にあがらないもの、日本では正規の医療に使用される漢方製剤は来月のひとりごとで展開しますのでまたお付き合いいただけたら幸いです。

 

註1:2021年4月時点で新型コロナウイルス感染症治療薬として承認されている薬物:デキサメタゾン(ステロイド系消炎剤、免疫抑制剤)、レムデジビル(抗ウイルス剤)、バリシチニブ(抗体医薬)、Regn-Cov2(カシリビマブ+イムデビマブ)(抗体医薬)、ケブラザ(抗体医薬)。


 

 診療所のホームページにブラジル・サンパウロの現状をコメントした文章を記載してますので、併せてご覧いただければ幸いです。

 

秋山 一誠 (あきやまかずせい)

サンパウロで開業(一般内科、漢方内科、予防医学科)。

この連載に関するお問い合わせ、ご意見は hitorigoto@kazusei.med.br までどうぞ。

診療所のホームページ www.akiyama.med.br では過去の「開業医のひとりごと」を閲覧いただけます。

ひとりごと
カメロー
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しらすたろう

第62回 実録小説『イージーなミッションだ』

 その日、白洲太郎と彼の妻になる予定のちゃぎのはいつものようにフェイラ(市場)で仕事をしていた。空には快晴が広がり、柔らかな陽射しが道行く人々を照らしている。そよ風が頬をくすぐるように吹いていき、太郎は思わず微笑んだ。とてつもなく爽やかな日である。このような一日はそう頻繁にあるものではなく、何かスペシャルなことが起こりそうな気配がビンビンであった。
 太郎の機嫌が良かったのはなにも天候のせいだけではない。
 先日、愛用していた海パンのボタンがダメになってしまったので、ちゃぎのに交換してもらったのであるが、今日はその海パンの再デビューの日だったのである。新しいボタンの締まりはとてもよく、以前のように海パンがずり下がってくることもない。むしろ頑丈すぎてボタンが外しにくいと感じるくらいであったが、それぐらいしっかりしていなければ、またすぐにダメになってしまうだろう。もともと服には無頓着な太郎である。重視する点は快適さと気楽さであり、長年使い古された服はその条件を見事に満たしていた。破れたり壊れたりすればちゃぎのに修繕してもらい、限界ギリギリまで使い倒す。それが太郎の衣服に対するスタンスであった。
 彼の機嫌はすこぶる良かったが、若干の不安がないわけでもない。というのも先ほどから、腹の中で妙な音がしているのである。まだごく小さな、さざ波のようなサインであったが、これを甘く見てはいけない。緊急事態というほどのものではないが、水面下では何かが確実に進行しているのである。
 脱糞に関するエピソードは枚挙に暇がないが、太郎はこれまでのブラジル生活で幾度もの危機に見舞われてきた。フェスタの最中に急にもよおし、やむを得ずマイカーの中でしたこともあったし、市場からの帰り、トイレまで間に合わず自宅の車庫で済ましたこともある。兎にも角にもうんこは話題を提供してくれるものであるが、下手すれば人の人生を変えてしまうほどの破壊力をはらんでいるのであり、読んで字のごとく『舐めちゃいけない』存在なのである。
 幸いなことに青空市場から太郎の家までは歩いて10分ほどの距離であった。公衆トイレで用を足すことを嫌った太郎はちゃぎのに屋台を任せ、自宅まで歩いて帰ることにした。これが別の町であれば選択の余地はないが、幸いなことに地元である。これをアプロベイター(利用)しない手はない。ちゃぎのは一瞬、不満そうな表情を見せたが、ついでに猫のエサを買って帰るという条件で渋々了承した。1年ほど前から白洲家の裏庭にはニャボという名の野良猫が姿を現すようになっており、ちゃぎのはその猫を溺愛していたのである。
 時刻は午前8時半。ニャボのエサをミニスーパーで購入する時間を計算にいれても、15分後には脱糞が完了しているはずである。イージーなミッションだ。ベテランらしく、余裕の表情で市場を出発した太郎であったが、その胸のうちでは微かな違和感を感じていた。本能的な勘と言いかえてもよい。つい先ほど抱いた感想とは矛盾しているのであるが、
『果たして今の自分に、ニャボのエサを買って帰るなどという時間が残されているのだろうか?』
 太郎はふとそう思ったのであった。
 市場からミニスーパーまでは5分ほどの道のりであったが、帰り道ついでというわけではない。わずかな距離ではあるが遠回りになるため、最短距離で家に帰りたい太郎にとっては余計な手間であった。が、なんのこれしき。偉丈夫を自負する太郎にとって、この程度のおつかいで怯むわけにはいかない。
 ミニスーパーに着き、手早くお目当てのエサを購入、そそくさと立ち去ろうとしたが、こういうときに限っておしゃべり好きのデボラが積極的に絡んでくるのである。デボラは太郎の親友エリアスの兄弟であるワギナーの元カノで、数か月前からこのミニスーパーで働いている。先日、太郎はその気まぐれからふと、凧揚げでもしたろうか知らん?と思いつき、この店で凧揚げセットを購入したのであるが、その際、凧揚げに関しては常人よりも知識をもっているらしいデボラの講義を長々と傾聴した経緯があり、彼女はしきりに凧揚げについての話題に触れたがったのである。邪険にするわけにもいかず、太郎はグッとこらえながらデボラの話を聞いていたが、そうこうしているうちに腹の中が唸り始めた。急に天候が悪化し、海が荒れはじめたのである。それでもやはり、口角泡を飛ばしながら熱弁しているデボラを無下にはできない。話が切れるのを辛抱強く待った太郎はポーカーフェイスで店を出ると、その途端に小走りに駆け出した。時計など持ってはいないが、10分以上のロスであることはマチガイない。これを取り戻すためには歩を早めるしかないが、そうすることによって腸への負担も激しくなり、肛門の締まりにも影響がでる。数分前までさざ波程度だった波が、すでにモンスタークラスのビッグウェーブに変貌しているのであり、もはや一刻の猶予も許されない。太郎はフォレスト・ガンプのようにリズミカルに走る自分を想像してみたが、実際の歩みは亀よりも鈍いという体たらくであった。
 普段何気なく歩いている道も、状況がちがえばまるで異質な風景に見えてくる。通常であれば気がつかなかったような植物が目についたり、人んちの壁の色が変わっていることにハッとしたり、野良犬に新顔がいたり、と様々な発見があるが、それも瀬戸際に追い込まれた人間の一種独特ともいうべき現象であろう。気がつけばつま先立ちで歩く以外に選択肢のない太郎であったが、そうしている間にも目的地は確実に近づいてきている。もともと大した道のりではないのである。かなりのところまで追い込まれてはいるが、絶望といった場面ではない。頑張り次第で自宅のトイレで用を足すことは十分可能であり、彼はそれを全力でやり遂げねばならなかった。 
 亀のような歩みで少しずつ目的地に近づいていく。空は相変わらず冴えわたり、雲ひとつない晴天が広がっている。平和を象徴するかのような風景を尻目に、地獄の苦しみに耐えている自分が哀れであった。しかし泣き言をいってるヒマはない。今は少しでも早く自宅にたどり着き、無事に脱糞を済ますことだ。それをやり遂げたら、自分の人生ともう一度真剣に向き合おう、と太郎は思った。気ままな露天商稼業に身をやつし、働き盛りの年代にも関わらず、田舎で隠居生活を送る自分の境遇を羨ましく思う人もたまにいるが、やはりゆくゆくはお国のため、というか人類の役に立つような事業に取り組んでみたい。この難局を乗り越えた自分にはその資格があるはずで、ここが正念場、言わば勝負どころである。脂汗のにじむ顔でそんなことを考えていたが、そうこうしているうちに自宅の門が目と鼻の先にまで迫ってきている。安堵の気持ちなどというのはまったくなく、一瞬でも気を抜けば肛門の栓が吹っとんでしまいそうな危機的な状況であった。
 ドラッグ中毒者のようなおぼつかぬ手つきで鍵を取り出し、門の中に身をすべりこませた太郎は、つま先立ちで車庫ゾーンを通過したが、家の中に入るにはさらにもう1枚、木製のドアを開けねばならない。もはやなりふりなどかまっていられない彼は荒々しい鼻息でもって鍵をこじ開けると、駆け出したくなる気持ちを抑え、身体中の全神経を菊の門に集中させた。限界はとっくのとうに超えている。それでもどうにか正気を保っていられたのは、愛するちゃぎのを思えばこそであった。彼女の名誉のためにも、今ここでうんこを漏らすわけにはいかない。そんなことになれば、うんこたれ亭主をもつ不幸な嫁として近所中の噂になってしまうであろう。
 鬼の形相で居間を抜け、キッチンを通過した。身体はエビのように反りかえり、ギリギリのところでテンションを保ってはいるが、汚物が怒涛の勢いで溢れだすのも時間の問題である。
 這々の体でトイレに入った。
 あとは海パンをずり下げ、思いのたけを噴射するのみだ。
 勝った!
 そう叫ぼうとした瞬間、異変が起きた。
 いつもならあっさりとずり下がるはずの海パンが、ベルトで固定でもされたかのようにビクともしないのである!
 愛するちゃぎのの顔が脳裏に浮かぶ。
 なんという皮肉であろうか、彼女が処理してくれた海パンのボタンがあまりにもしっかり縫いつけられていたため、いつものようなスムーズな着脱が不可能な状態になっていたのである!
 その瞬間、太郎はすべてを悟った。

 数秒を待たずに海パンのすそから汚物がボタボタと落下していき、バスルーム内に異様な臭気が漂った。もし猫のエサなど買わずにまっすぐ家に帰っていたらオレは間に合っていたのだろうか?などと無意味なことを考えながら、彼は呆然とその場に立ちすくんだ。
 白洲太郎、39歳。
 人はいくつになってもうんこを漏らすことができると証明した男である。
 糞まみれの海パンを手洗いしてから、太郎は何気ない顔で市場へと戻った。
 海パンを履き替えたことにちゃぎのは気付くだろうか?
 そんなことを思いながら、

『毎度ありっ!』
 次々とやってくる客を相手に太郎は声を張り上げた。

しらすたろう(白洲太郎)

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布施直佐

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3月17(水)午後、リオデジャネイロのXV広場に設置されたオゾリオ将軍像に全裸の男性が上り、「コロナワクチンを打ってもらうまでここから降りないぞー!」と拡声器を使って訴えた。通報を受けた警官が像から下りて服を着るよう説得したが受け入れず、強制的に下ろされた後逮捕された。

男性は調べに対して「芸術的マニフェスト」を行っていたと語っている。男性の氏名・年齢等は公表されていない。

この騒動を撮影したビデオはSNSを通してあっという間に拡散した。それを見たリオ市民の反応は、

「ここ数年間にリオで起こった最良の出来事だ。彼はリオで一番正気を保っている市民だ」

「こんなオモロイ男がいるこの街が大好きだ」

「私はこの人の気持ちがわかるわ。私も同じことをやりたいくらいだわ」

と、概ね好評だったようだ。

布施直佐(ふせなおすけ)

ニュ-ス
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下薗昌記

第139回 アマウリ

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 本能の赴くままにピッチを駆ける破天荒な天才を数多く輩出してきたブラジルだが、同時にこのサッカー王国ではごく稀に、文武両道を地で行くクラッキが現れることがある。

「ドトール」の呼び名で知られたソークラテスや、トスタンはその代表ではあるが、その先達となる名手が、1950年代のベロ・オリゾンテにいた。

 抜群の技術を持ち、相手ボールを奪う能力に長け、チームに忠実、それでいて、10年以上、退場処分になったことがないボランチとは誰だーー。

  あたかも、スフィンクスの謎かけにも似たこの問いに即答できる者は、間違いなくクルゼイロのオールドファンである。

 ボランチとして全ての要素を兼ね備えていた男の名はアマウリ・デ・カストロ。1932年、ミナス・ジェライス州のカルモーポリスに生を受けたアマウリは、11歳の時にベロ・オリゾンテでの生活をスタートさせる。

 幼少からサッカー選手になることを夢見ていたアマウリではあるが、ベロ・オリゾンテに移り住んだのは学業が目的だった。

 医師揃いの家庭に育った彼もまた、サッカーボールを愛しながらも、右手には鉛筆を握ることを忘れなかった。

 アメリカの下部組織でプレーしていたアマウリは十代でミナス・ジェライス州選抜に名を連ねるほどの逸材でありながら、薬科大学を目指して勉強。そんな文武両道の逸材は1954年、セッテ・デ・セテンブロでプロの世界に足を踏み入れるが、そこで得た給料は学費に充てていたという。

 当初はアマチュア契約で加入したアマウリだったが、そのサッカー人生が大きく変わったのは1958年のミナス・ジェライス州選手権の大一番だった。

 対戦相手は名門のクルゼイロ。その試合で勝利すれば、優勝が決まるはずだったクルゼイロに3対2で逆転勝利を収めたセッテ・デ・セテンブロだったが、逆転の決勝ゴールを決めたのは他ならぬアマウリで、まさかの敗戦に怒り狂ったクルゼイレンセ(クルゼイロのファン)は、若きアマウリに大ブーイングを送ったが、彼らはまだ知らなかった。

 その後、アマウリがクルゼイロが手にする数々のタイトルに主力として貢献することを。

 1957年、クルゼイロに引き抜かれたアマウリだったが、1958年には薬科大学に合格する。

「父から叔父までが医者の家系の僕にとって、大学合格がいかに大きなものだったかわかるだろ。僕は当時、サッカーと学問の双方に行ったり来たりの日々だった」

 アマウリの述懐である。

 1957年から1962年まで在籍したクルゼイロでは1959年からミナス・ジェライス州選手権で三連覇を達成。ボランチとして献身的なプレーを見せる一方で「幸運にも相手のペナリティエリア近くでは僕にボールが溢れて来て、それを逃すことなくゴールを決めたものさ」。

 223試合で奪ったゴールは40。ボランチとしては十分に及第点がつく数字である。

 1962年、29歳の若さでアマウリはスパイクを脱ぐ。

「薬学に心血をそそぐべき時が来たと思ったから引退したんだ。僕の父が歩んだ道を進むことにした」

 きっぱりとプロサッカーの世界に別れを告げたクラッキは、その後クルゼイロで役員も務め、週末にはOBで構成される「ラポザォン」でもプレーする。

 2012年、この世を去ったアマウリだが、10年間にわたって退場処分を受けなかった選手に与えられるベウフォルト・ドゥアルテ賞も手にしている。

 文武両道でありながら、フェアプレーも忘れなかった名手は、クルゼイロが誇るクラッキの一人であり続ける。

下薗昌記(しもぞのまさき)

クラッキ

​ブラジル、サンパウロ

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