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2021年6月号 vol.180

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今月号のスポンサー一覧

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幻の創刊準備号

​(2006年6月号)

Kindleで復刊

​2020年7月号

​2020年8月号

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みんなと同じように、和から外れないように、崩さないように。

 

今までこうだったから、前例がないから、断られ、濁され、逃げられて。

 

古き良きはもちろん大事。でもモノによっては新しくしないと消滅する。

 

会えないからこそ、集まれないからこそ、今だからこそできること。

 

色んな「こそ」を見つけ出して対応していかないと、今度こそ…。

鶴田成美(つるたなるみ)

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写真・文 松本浩治

緑化運動を実践した木下喜雄(きのした・よしお)さん

 2004年10月、ブラジル農業分野への貢献者に贈られる山本喜誉司(きよし)賞が、サンパウロ州ジャカレイ近郊の第2高森(たかもり)移住地在住の木下喜雄さん(70、山口県出身)に授与された。木下さんの受賞は、果樹や花卉栽培の接ぎ木法開発をブラジル国内に広めたことや、1970年代半ばから進めている緑化運動などの貢献が認められたもの。「受賞は周りの皆さんが推薦し、協力してくれた結果」と控えめだが、「地球の砂漠化を防止するためにも、緑化は必要」と熱い思いを見せていた。

 第2次大戦後の混乱期に、山口県の経営練習農場でスパルタ式指導を受けた木下さんは、山口県知事などの推薦を受けて、16歳の若さで静岡県の「富士中央開拓講習所」に入所した。同所は、戦後日本の食糧難を解決するための機関として設立。2年間の訓練を終えた木下さんは、農業改良指導員の免許を持つまでになっていた。

 56年、ブラジルの山口県人会関係者の呼び寄せで、山口県から戦後初めての移民として渡伯した木下さんは、サン・ベルナルド・ド・カンポの瑞穂(みずほ)村、ブラガンサ・パウリスタなど日本人のパトロンの下で働きながら、ブラジル農業を実際に体験した。

 翌57年には、ブラジル国中で販売されているラランジャ・ペラ(オレンジ)の種から苗を30万本作り、「フォーカート式接ぎ木法」の変形式接ぎ木法を考案。大量栽培が実現した。当時はカフェが生産過剰となっていた時代で、生産者たちはカフェ畑の跡地にラランジャ・ペラをこぞって植え、国内中に広がったという。また、バラの接ぎ木も並行して行い、新種のバラを全国に知らしめた。

 力を注いできた緑化運動は、76年から始めた。ちょうどラン栽培に失敗し、2億円の借金を背負った時期だった。「自殺も考えたが、他人の土地も抵当に入っていたので死ぬわけにはいかなった」と語る木下さん。サンパウロ市パウリスタ大通りの銀行に融資を頼みに行った際、公園にある木々を見て、「サンパウロを緑にある街にしたい」と思いついたという。

 ちょうどその頃は日伯セラード構想が実現した時期でもあり、ブラジル政府は各都市への街路樹を植える法案を実施に移している時だった。木下さんは2億円の借金を2年で返済し、緑化運動を更に進めてきた。

 2004年当時、第2高森移住地内の70町歩の苗木畑には140種類、200万本におよぶ苗木があり、その数年前から管理を長男に任せていた。木下さんはその頃、サンパウロ州のグァタパラ、イタペチなどで緑化の実践講演を行なっていたほか、各種イベントでの植木の装飾を手伝うなどの活動を続けていた。

「ブラジル国内ではブラジリアが一番、砂漠化の危機にある。木々は地下水を吸い上げ、その上空に湿気をつくることで別の雨雲を呼ぶ。そのため、水を確保するには木を植える必要がある」

と木下さんは、緑化運動が世界的に減少しつつある水資源確保につながることを強調していた。

 また、砂漠化防止のための苗木の生産・販売のほか、「インブラーナ」「カブリウーバ」など家具用資材としての有用樹の生産や病虫害防止のための混植も考慮。さらに、麹(こうじ)菌を保有する「サポチー」、ガンに効果があると言われる「タヒボー」などの薬用樹生産も必要だと主張していた。

(2004年11月取材、年齢は当時のもの)

松本浩治(まつもとこうじ)

移民
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リリアン・トミヤマ

「どのぐらいかかりますか?」

 アルゼンチン・タンゴの最も偉大な作曲家のひとりがブラジル人だということをご存知でしたか? しかもサンパウロ生まれです。

 アルフレド・レ・ペラ(Alfredo Le Pera)。イタリア移民の子どもで、1900年にビシーガ地区(Bexiga)で生まれました。

 彼は世界的に有名なタンゴの曲を作曲しています。例えば、「El día que me quieras」や「Por una cabeza」などです。後者は映画「セント・オブ・ウーマン(Scent of a Woman)」に出てきます。この曲がかかる場面では、アル・パチーノ(アカデミー賞受賞)の演じる盲目の軍人が美女と踊ります。このシーンは見る価値がありますよ。YouTubeにもあります。「Scent Of a Woman - Al Pacino (tango Por Una Cabeza)」で検索してみて下さい(記事の後に動画があります)。

 アルゼンチン・タンゴの名曲の数々を作ったのがブラジル人だとは誰も想像できないと思いますよ!

「誰」ということで言えば、おそらくみなさん疑問代名詞を勉強したと思います。例えば、「Quando?(いつ)」、「Como?(どのように)」、「Onde?(どこ)」ですね。

 もちろん「Quem?(だれ)」も。

例えば、このような文章。

 

 Quem chegou?
 (誰が到着しましたか?)

 Quem descobriu o Brasil?
 (誰がブラジルを発見しましたか?)

 

 ただ、もう少し複雑に、「誰に/誰から/誰と」を質問する必要のある場合はどうでしょう?

 これが今月のテーマです。さあ見ていきましょう。最初の例は基礎レベルで、2番目の例は中級以上です。

 

☆誰に=Para quem

 Para quem você telefonou?

 (誰に電話した?)

 Eu quero ajudar muito uma ONG, mas não sei para quem doar.

 (NGOをとても援助したいんだけど、誰に寄付したらいいかわからないよ)

 

☆誰から=De quem 

 Você ouviu isso de quem?

 (誰から聞いたの?)

 Eu sempre recebo essa ligação.  É um número estranho.  Como eu posso descobrir de quem é esse número?

 (いつもこの電話受けるんだ。変な番号でさ。どうやったらこの番号が誰のだかわかるのかな?)

 

☆誰と=Com quem

 Com quem você mora?

 (誰と住んでるの?)

 Palmeiras vai jogar com quem?

 (パルメイラスは誰と(どのチームと)試合するの?)

 

「com quem」と言えば、「com quem」を含む諺があります。これをみなさんと共有して終りにしたいと思います。

 

Diga-me com quem andas, e te direi quem tu és

(誰といっしょにいるか言いなさい、そうすればお前が誰だか言ってやろう(直訳)。「類は友を呼ぶ」)

 

 ではまた次号のピンドラーマで!

リリアン・トミヤマ(Lilian Tomyama)

ポ語
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岸和田仁

マルコス・ペレイラ(Sextante出版代表、J・オリンピオの孫、1963年生まれ)

「財力ある友人たちからの貸付金のおかげで、1931年11月29日、出版社ジョゼ・オリンピオ書店が創立された。開業の地サンパウロはブラジルの産業中心地ではあったが、当時、政治や文化活動の中心地は首都リオであった。3年後の1934年7月、事業地をリオに移し、中心街のオウヴィドール通りに書店を開設した。老舗書店ガルニエの真正面であった。この移転は大成功をもたらすことになった。当時の新進若手作家たち、ジョゼ・リンス・ド・レゴ、アマンド・フォンテス、ジョルジ・アマード、画家ではシセロ・ディアス、サンタ・ローザ、といった1930年代から50年代にかけてブラジル文芸界を牽引する知識人たちの作品の多くを出版することになったからである。社名の頭文字をとってJ.O.という愛称でも呼ばれた出版社は、作家たちとの友情を深めつつ、広範な読者たちから尊敬されることになる。(中略)

 前述の作家に加え、ジョゼ・アメリコ・デ・アルメイダ、ラケル・デ・ケイロス、グラシリアーノ・ラモスといったノルデスチ文学を代表する作家たちも同書店から次々と新作を刊行することになった。グラシリアーノ・ラモスの作品で一番最初に刊行されたのは『苦悶』であったが、同著が1936年に上梓された時、ヴァルガス政権を批判した著者は政治犯として投獄されていたのであった。」

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 昨年2020年5月刊行されて話題となったのが、『ブラジル人たち』(“BRASILEIROS” Editora Nova Fronteira)という評伝的エッセイ集成といえる書籍だ。対象となった著名人は42名で、一番古いのが皇帝ペドロ1世、作家ではマシャード・デ・アシス、モンテイロ・ロバト、エウクリデス・ダ・クーニャら、政治家ではルイ・バルボーザ、ジェトゥリオ・ヴァルガス、タンクレド・ネヴェス、ウリシス・ギマランエス、ミュージシャン関係ではルイス・ゴンザーガ、カズーザ、さらにニーマイヤーは兄弟二人とも(弟が建築家オスカー、兄パウロは医学博士)と、なんともまあ多彩な人選だ。人物評的エッセイを書いている寄稿者もこれまた多士済々で、どれも読者を楽しませる内容の濃い文章の“連発”で、編集のセンスが光っている。

 タンクレド・ネヴェスの章を書いているのはF・H・カルドーゾ(社会学者、元大統領)だし、パウロ・フランシスについて書いたのは未亡人(ジャーナリスト)のソニア・ノラスコで、ルッチ・カルドーソ(人類学者、F・H・カルドーゾ元大統領夫人)の章を書いたのはペドロ・マラン(経済学者、元財務大臣)だ。詩人ヴィニシウス・デ・モラエスについては批評家ネルソン・モッタが書き、往年の喜劇俳優オスカリトの章を担当したのがお笑い芸人ヘナト・アラガゥンというように、評伝を書かれる側も書く側も、この人選をながめるだけでも面白い。

 というわけで、この著書で取り上げられている著名人の何人かを本欄でフォローしていきたい。今回は、1940年代から60年代までブラジル最大の出版社を率いたジョゼ・オリンピオ(1902-1990)に焦点を当ててみよう。彼が1931年に創立した出版社がブラジルの現代文学や歴史社会学の主要作品を刊行することになって、ブラジル的インテリジェンスが劇的に豊饒化したからだ。

 ブラジル文学の歴史において1930年代はひとつの“黄金時代”で、エポックメイキング的な作品が、続々と刊行された時期であったが、とりわけ、ノルデスチ文学と総称されることになる社会派リアリズム文学作品群が、当時の新進作家たちによって発表されていった時代であった。ジョルジ・アマード(1912-2001)の、『カカオ』(1933年)、『ジュビアバー』(1935年)、『死せる海』(1936年)、『砂の戦士たち』(1937年)、ジョゼ・リンス・デ・レゴ(1901-1957)の作品では、『サトウキビ農園の少年』(1932年)、『バンゲ』(1934年)、『少年リカルド』(1935年)、『ウジーナ』(1936年)など、ラケル・デ・ケイロス(1910-2003)といえば、『キンゼ』(1930年)、『ジョアン・ミゲル』(1932年)、『三人のマリア』(1939年)など、グラシリアーノ・ラモス(1892-1953)は、『苦悶』(1936年)、『乾いた人生』(1938年)など。詩人ジョアン・カブラル・デ・メロ・ネトの『セヴェリーノの死と生』(1955年)も、ブラジル社会論を革新したセルジオ・ブアルケの『ブラジルのルーツ(真心と冒険)』も、こうした文学や社会科学の古典的作品はいずれもジョゼ・オリンピオ出版社から刊行されている。

 9人兄弟の二番目としてサンパウロ州内陸部のバタタイスで生まれたジョゼは、15歳で州都サンパウロ市へ移り、書店の見習いとして働き始め、29歳の時、出版社を創業する。学歴は中学卒しかなかった彼がブラジル出版界を革新したのであった。

​岸和田仁

百人一語
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漢方薬が新型コロナウイルス感染症の治療に使えます

 サンパウロではコロナ感染者が減少傾向にあるようで、このコラムの24人の読者様は若干精神的なプレッシャーが低減した生活ができているのでしょうか? まあ、減少といっても、ブラジルでの1日の死者が4000人から2000人程度になっているので、半減といえば間違っていませんが、それでもブラジル型変異株が蔓延しだした1月頃の倍です。全然油断はできません。

 何回もひとりごとしているように、遺伝子情報というのは複製する度に変質する可能性があります。まさに遺伝子情報そのものでしかないウイルスも(註1)増殖する過程でこの状態がおこり、いわゆる変異株という元から変化したモノができてくるわけです(註2)。今世界中でコロナウイルスが爆発的に増殖していますので、変異する機会も爆発的に増えています。このため、次々と変異株が現れ、それは感染者数が多い場所でおこるのですね。この状況は増殖の回数が減らないと終息しません。

 

『ブラジルは意外にも世界的にみてワクチン接種が進んでいるので、世の中は「自分はワクチン受けたからもう普通の生活になるんだ」みたいな雰囲気も見られる。でも、2回接種が済んだのが人口の1割強程度ではまだまだウイルスが蔓延した状態でしょ。また、世界で流通しているコロナワクチン総量の75%がたった10か国に集中している現状を見ると、コロナ禍はまだまだ続くと考えるのが妥当ではないですかね?(註3)

 

 したがって、コロナ感染症(COVID-19)の対応はこれからも必要です。先月から治療薬についてのひとりごとをしており、今月は「既に承認されているがあまり話題に上がらない治療薬」、漢方薬に焦点をあててみます。なぜ既に承認されているか簡単に説明すると、COVID-19の症状の一つである発熱は「急性の熱性の疾患」にあたり、適用になるからです。感染症の対策や治療は人類史においていつも重要な事項であったことは疑いがないでしょう。医療の発展の過程で感染症は常に大きな存在であり、これは西洋医学でも東洋医学でも同じだと言えます。東洋医学の場合、2000年前に書かれ現在でも東洋医学を理解するのに重要な『黄帝内径』に疫病に対する対策が記載されています。一つは身体の気を充実させ、外因性の病原体の侵入に対抗する、もう一つが感染源を回避する、です。

 

『後者は正に現在のコロナ感染防疫の三つの柱、密を避ける・手洗いと消毒・マスク使用、じゃあないですか! 2000年前にはもう書いてあったのだ』

 

「気の充実」または「気を増す」ことは現代語で言うと生体防御機能を増すことを示します。言うまでもなく、十分な睡眠と休息、正しい食事、適度な運動、ストレスの少ない生活により、各自が持っている防御機能を維持することから始まります(註4)。この防御機能とは免疫機能とも言い換えられます。既に科学的な研究で判明している漢方薬の作用機序の一つに免疫活性化物質であるサイトカインの一種のインターフェロンαが漢方補剤を摂取することによって産生しやすくなる結果があります。補剤と分類される漢方薬を使用することで、免疫機能を高めることができるわけです。このタイプの漢方薬はまだ感染がおこっていない状況、つまり予防に役立ちます。

 一端感染症が発症して症状がでると治療用の漢方薬が有用です。COVID-19は重症化しないのが最重要事項なので、感染徴候を見逃さないのが大事です。漢方医学ではいわゆる正常から外れたら治療可能なので、ちょっとした自覚症状でもアプローチできます(註5)。広義でいえば、COVID-19は風邪の一種なので(註6、7)、一般的に風邪の治療に使用される漢方薬が有効です。

 

『感染症の臨床経過は、体内に入ったウイルスの増殖スピードと生体防御機能の競争でどちらが優位になるかに左右される。重篤化すると圧倒的に致死率が高くなるCOVID-19はとにかく軽症患者を重症化させないことに尽きる』

 

 漢方薬の処方は先月のひとりごとで示した、西洋医学の「診断名と治療薬の縛りがない」かわり、個々の体質、状態、状況により判断されるので、ここでは「なになに湯」を服用したらコロナ対策に良いとは書きません(註8)。つまり、個別の診断が重要です。診察を受けてください。

 

『予防や治療以外にCOVID-19関連疾患では、「COVID-19後遺症」や「コロナ禍の生活の不安や恐怖」の診療にも有用です』

 

註1:2021年1月のひとりごと、「汚染、感染、伝染のちがいは?」もご覧ください。

註2:生物の細胞の場合、こういった変質が癌細胞になる。

註3:完全な鎖国でもしない限り、コロナ感染は防げない。島国であり、防疫が完璧とされていた台湾でも、防疫の例外とされている人物(航空機のパイロット)が島内に持ち込んだウイルスで再度感染拡大しているのが良い例。

註4:意外とこれらが忘れがちで、薬やサプリを外部から取り入れて防御機能を維持しようとすることが多いのでは? 例えば、正しい食事をしていれば、青汁ドリンクなど購入して摂らなくても良いでしょ?

註5:反面、西洋医学では検査などで数値や画像の異常がないと診断がつかない。

註6:風邪の正式名称は「風邪症候群(かぜしょうこうぐん)」であり、上気道(鼻腔、咽頭)におこる感染症で、原因微生物の9割方はウイルスです。ライノウイルス、コロナウイルス、RSウイルス、パラインフルエンザウイルス、アデノウイルスなどが主ですが、200種類以上あるので、あるウイルスに感染し免疫ができても何回も風邪をひくのです。インフルエンザウイルス感染症も厳密に言えば風邪の一種ですが、症状が強いのと致死率が高いので”流行性感冒”と呼ばれ、別扱いされます。

註7:ヒトに風邪をおこすコロナウイルスが既に存在するので、「COVID-19はただの風邪だ」といった発言が出るのですな。

註8:いろんなメディアに登場して有名な「清肺排毒湯」がありますが、感染症初期の漢方薬ではありませんのでご注意ください。

 

 診療所のホームページにブラジル・サンパウロの現状をコメントした文章を記載してますので、併せてご覧いただければ幸いです。

 

秋山 一誠 (あきやまかずせい)。サンパウロで開業(一般内科、漢方内科、予防医学科)。この連載に関するお問い合わせ、ご意見は hitorigoto@kazusei.med.br までどうぞ。診療所のホームページ www.akiyama.med.br では過去の「開業医のひとりごと」を閲覧いただけます。

ひとりごと
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白洲太郎

第63回 実録小説『テレビが見たいんだ』 

 2019年某月。
 世界が新型コロナウイルスに侵される少し前の話である。
 白洲太郎は家のソファに寝ころびながら愛用のキンドルでマンガを読んでいたが、外から聞こえる些細な物音に聞き耳をたてていたため、あまり集中できずにいた。絶対に来ると言い切り、自信満々の表情でサムズアップをしたジョーズィーの野郎が、未だに現れやがらないからである。太郎の家のテレビは、かれこれもう4か月は映っていない。去年のいつだったか、ジョーズィーから購入した『数百種類のチャンネルがタダで見れちゃうデジタルテレビチューナー』がまったく作動しなくなってしまったからである。
 チューナーを購入してから数か月は絶好調で、太郎とちゃぎのはありとあらゆるチャンネルを視聴して楽しんでいた。ひさしぶりのNHKに感動したり、映画やスポーツ、料理やドキュメンタリー系のチャンネルなどを鑑賞しながら、青空市場で販売するための商品づくりに勤しんでいたのである。しかしそのような時代も長くは続かなかった。しばらくすると、画面にモザイクのようなチカチカが混入したり、映像が途切れたりするようなことが頻繁に起こり始めたのである。サッカーの試合などを見ていても、ゴールシーンの直前に映像が停止したりと、まるでコントのようなタイミングで邪魔をされる。その後、近所の人の歓声によりゴールの成否を推測したりと、通常では考えられぬほどに不便なテレビ生活と成り果ててしまったのである。
 なぜ突然、このような事態に陥ってしまったのであろうか?
 機械オンチの太郎とちゃぎのであったが、YouTubeなどで懸命なる調査を試みたところ、どうやらこのデジタルチューナーを『アップデート』してやる必要があるらしい、ということがわかった。その言葉の響きにアナログ人の太郎はビビったが、なんのことはない、インターネットで該当のパッチをダウンロードし、それをUSB経由でチューナーに適用してやるだけのことである。面倒ではあるが、こんなに簡単なことはない。なめんなよ。とばかり、勢いこんでパッチを当ててみたはいいものの、それが見当外れのヴァージョンだったか、まがい物をつかまされたのかはわからぬが、それまで280ほどのチャンネルが視聴可能であったのに、数種類の番組しか選択することができなくなってしまったのである。焦った太郎はこの劣勢を挽回すべく、渾身の力で新たなパッチをダウンロードし、あらん限りの信念をもって適用のボタンを押してみたが、なんという神の悪戯か、今度はたったひとつのチャンネルですら映らなくなってしまったのであった。
 もともとテレビを観る習慣などあまりない太郎であったが、たまにはニュースをチェックしたいし、サッカーのブラジル戦など、話題性のある試合は観戦したい。重要なのは『見たい』と思ったときにいつでも視聴できる環境にあることで、そういう意味では非常に居心地の良くない状況であった。ジョーズィーにはテレビチューナーとアンテナ2本を合わせて、決して安くはない金を支払っていることだし、彼自身も「困ったことがあったらいつでも言えよ」とアフターサポートを約束してくれてもいた。その言葉に頼るべきときがやってきたのである。
 太郎の家とジョーズィーの家は300メートルほどしか離れていない。ご近所さんである。太郎はサンダルをつっかけ、てくてくと歩いていったが、ジョーズィーの家にはインターホンが備え付けられていないため、ブラジル式に手を叩いて訪問を知らせるか、大声で呼ばうか、門をコンコンと小突いて存在をアピールするか、などの方法しかなく、そのいずれも試してみたが、扉は深く閉ざされたままである。時間帯が悪かったかと、パターンを変えて何度か訪問したものの、その日はなしのつぶてであった。
 ジョーズィーのことは、もう何年も前から知っているが、とにかく働き者で、一日中あちらこちらを動き回っている。日中に彼を捕まえるのは難しく、かといって夜に訪ねていくのも遠慮がある。ならば、と近所の住民からジョーズィーの携帯番号を入手したところ、ようやくwhatsappによるメッセージで連絡を取ることに成功したのである。彼の反応は素早いもので、一両日中に太郎の家に来てくれることになった。かれはほっと胸をなでおろしたが、それから一週間が経ち、二週間が過ぎても、一向に現れる気配がないのである。しびれを切らした太郎が再度連絡を取ると、「何度かおまえんちに行ったんだけど、誰もでてこなくてさ」と事もなげにいうので、太郎はその言葉を信じた。かれも一日中家にいるわけではなく、週の半分以上はフェイラで働いているし、たまたまタイミングが合わなかったのだろうと納得したからである。
「今週の火水木は一日中、家にいるから。いつでも来てくれよ」
と、ジョーズィーに知らせると、彼は快活に

「オーケー!まかせとけ!」

とサムズアップをした。まるで歯磨き粉の広告塔のような爽やかな笑顔である。そのスマイルを見て、彼は今度こそ来てくれる。やっとテレビが映るようになる。太郎は再び安堵のため息をもらしたのであった。
 ところが、気がついてみるとその3日間はあっという間に過ぎ去っていた。42インチの大型テレビは相変わらず無用の長物としてリビングにそびえたっているのであり、黒い画面にはほこりも目立つようになっている。もちろん先方にも都合というものがあり、こちらはお願いする立場にあるのだから文句をいうわけにはいかない。わかってはいるのだが、ジョーズィーも「行く」と宣言したからには、その言葉を履行する必要がある。太郎がwhatsappにて再度問い合わせをすると、ジョーズィーはまたもや、「行ったけどいなかった」という弁明を繰り返すのみで、さすがの太郎も首を傾げた。この3日間、スーパーに行く以外はずっと家に滞在していたし、買物には20分程度の時間しかかかっていない。その間に来たという可能性もなきにしもあらずだが、確率としては限りなく低いのである。ここにきてようやくジョーズィーの言葉に疑問をもつようになった太郎は、「本当は一回も来てねえんじゃねえの?」と猜疑の目を向けざるを得なくなったのである。世の中には平気で嘘をつく輩がたくさんいるが、働き者のジョーズィーに限って、という先入観がこれまでにはあった。しかし、どう考えてもおかしいのである。
 次の週の火水木こそ、来てほしい。道端で偶然出会った彼にそう告げると、ジョーズィーはまるで屈託のない様子で白い歯を見せ、親指を高々と天にかざしたのであり、その凛々しい姿はまるでドラマの主人公のようであった。だがこれまでの経緯もある。そう簡単に彼の言葉を信じるわけにもいかず、どうせ来ねえんだろ。という思いと、彼を信じたいという気持ちがないまぜになり、太郎は寝ても覚めてもそのことばかりを考えるようになった。
 そして冒頭のシーンにたどりつくのである。
 太郎はスーパーにも散歩にも行かず、ひたすら彼が家の門をたたくのを待っていた。寝ころびながらマンガを読んではいても、意識は常に外へと向けられている。車やバイクが通り過ぎるたびに、太郎はがばっと身を起こし、耳を澄ませ、実際に門を開けたりもしてみたが、そこにいるはずの彼はいない。待ち人はいくらたっても現れず、テレビが映らなくなってからすでに5か月が経過していた。その間、ジョーズィーは同じ言い訳を続けていたが、太郎はもう彼の言葉を信じる気にはなれず、不信感だけが募っていったのである。
 そんなある日。ジョーズィーを道端で発見した太郎は、これがラストチャンスとばかり、自分の窮状を涙ながらに訴えた。その内容は、「テレビが見たいんだ」というとてつもなく平和的なものであったが、本人にとってはこれが一番の悩み事なのである。「じゃあ来週の火水木のどれかに……」と言いかける彼の言葉を遮り、太郎はジョーズィーの腕に自らの腕を絡ませ、そのまま自分の家まで連行していった。最初こそ迷惑そうな顔をしていたが、いざ家のなかに入ると、彼は親身になってチューナーの状態を調べ、アンテナの位置を確認し、どうにかテレビが映るように試行錯誤を繰り返してくれたのである。しかし太郎の当てたパッチがチューナーに壊滅的なダメージを与えていたらしく、ついに回復することはなかったのであった。
 ジョーズィーは自宅に持ち帰って修理する必要があることを太郎に告げ、かれもそれを了承した。
 そこからさらに4か月待たされることを、このときの太郎が知るわけもない。
 その長い空白の期間にテレビを見る習慣はすっかり失われ、高い修理代を支払ったチューナーが戻ってきてからも、家のなかはしんと静まりかえったままであった。
 テレビを見ない生活。
 それも悪くはないと、最近の太郎とちゃぎのは本ばかりを読んでいる。

​白洲太郎(しらすたろう)

カメロー
旅行
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青木遼

 このコロナ禍で、自粛を強いられ、巣籠状態の皆様に、サンパウロから84kmと手頃な距離の、車で一時間半のグアラレマ Guararema の街を紹介しよう。

 2019年末に、某旅行社が、クリスマス・イルミネーション・ツアーを実施し好評だったとのことで、2020年はどこにも出れずうんざりしていたので、年末さっそく出かけてみた。位置的には、日系人の多いモジ・ダス・クルーゼスへ23kmと隣接する。人口は3万人ぐらいの小さな街。ただし2020年の年末は、街の名物のイルミネーションは見られなかった。なぜなら、住民が市役所にイルミネーションはやめてほしいと、申し出たとのことで、観光客が多く来ると困ると、コロナ禍を心配しての配慮とか。それでもとりあえずサンパウロを脱出して、田舎でのんびりするのも良いものだと、嬉々として出かける。筆者は、初めての街に出かける時、必ず Guia Mapograf Brasil を、検索する。しかしこのグアラレマの街は、片面ぺージの三分の一ぐらいしか表示がない。無理を言って旅行社に、データを取ってもらい、それを頼りに出かけた。

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​観光列車の車内

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昔日の蒸気機関車

 初日は、街に着くや、名物の Train(汽車・観光列車)に乗った。時間も決まっていて動かない日もある。これは、サンパウロから予約をして出かけた。一時間前にチケットを受け取ってくださいとのことで、チケットを受け取って駅のすぐ隣のノルデスチ料理のレストラン Estação Nordestina に入る。屋根が高くて、木材が豊富に使ってある。マリアフマッサ(蒸気機関車)と聞いていたのだが、現在はディーゼルで動く普通の汽車。計2時間のツアーで、汽車の中は洗面所もないと聞いていたが、乗車時間は片道30分。終着駅のルイス・カルロス(Luiz Calros)で一時間休憩。この駅は、またまた小さなミニチュアの様で、山間を背にして街がある。広場の真ん中に教会があり数件のバールや、レストランがある。1891年に建設された。グアラレマの街から、7kmの距離。この距離を30分かけて移動するのだからのんびりしたものだ。線路沿いでトレッキングしているグループにであう。車窓から手を振ると、向こうもちぎれんばかりに手を振ってくれる。健康的なコミュニケーション。この汽車の中では、アコーディオンの演奏もあり、陽気なブラジレイロははしゃぎまくる。飛沫感染するのではないかなど心配する。しかし、座席が一番前なのでその集団とは少し距離がある。だが、クラスターの発生は? と、また不安になる。が、そこはブラジルで、ブラジレイロは気にしていない。この街で一番の中心といったら、この鉄道の駅だろう。クラシックな、佇まいだ。この列車の問い合わせは、下記の通り。

 

(11)4695-3765 /4695-3782 / 97363-6405

www.tremdegurarema.com.br

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​ルイス・カルロス駅

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グアラレマ・パーク・ホテル

 さてこの街の宿泊には、古くからある Vale do Sonho Hotel & Eventos や  Guararema Parque Hotel、Hotel Fazenda Pintado na Brasa 等や小さなポウザーダもある。筆者は、グアラレマ・パークホテルに泊まった。四つ星程度だが、敷地内は広く高台にあり、食堂からは街の中央を流れるパライーバ川が俯瞰できる。この眺めは逸品だ。ホテル内から街全体が把握でき、この川が借景となり、悠々とした気持ちになれる。初めてこのような景色に出会った。海が見えるのはよくあるが、川が眼下に見えるのは珍しい。また夜景も素晴らしい。毎日の料理も趣向を凝らし、おいしい。良い保養となりそうだ。

 2日目は、ホテルのすぐ隣の、ノッサ・センニョーラ・ダ・アジューダ教会 Igreja Nossa Senhora D’Ajuda に行く。テラコッタ様式で1682年創設。正面は長い急な階段があり、小さな教会であるが由緒ありそうな建物。垣根の金網に多くのミサンガ(プロミスリング)が結びつけてある。このミサンガは、色とりどりの紐であるが、腕などにまきつけておき、紐が切れると願いが叶うという風習がある。

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ノッサ・センニョーラ・ダ・アジューダ教会

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ミサンガ

 この教会を出て、ペードラ・モンターダ市営公園 Parque Municipal da Pedra Montada に行く。この公園に名前のとおり大きな岩があるという。ホテルを出て13kmぐらいの距離にこの市営公園はあった。このグアラレマの街は小さいので、移動にはいつもタクシーを使っていたが、あまり費用はかからない。とても便利である。ミネイロの運転手のアディルソンに毎日来てもらい、目的地で降ろしてもらい、帰りは迎えに来てもらってホテルまで運んでもらう。効率的で、大した金額ではない。さてこの公園中に不思議な岩がある。どうして重なっているのか、どうして落ちないのかわからない。すごい迫力だ。山頂付近にも、大きな岩がある。インディー・ジョーンズ博士が、見るとなんというか? 山頂付近の大岩は、秘密の儀式でも使えそうだ。この公園の入口のすぐそばに3階建ての木造のレストランがある。森林の中で、悠然とそびえている。後で、ここで休憩するが、メニューがレコード盤で作られていた。ざっと公園内を歩いても小一時間ぐらいで廻れる。老若男女、森林浴が楽しめる。マイナスイオンいっぱい。その後ホテルに帰り昼食。一休みしてホテル内でゆっくり。16時の午後のお茶には必ず出かけて、ティータイムを楽しむ。船旅でもお茶の時間があるが、ブラジルは豊かなので、この軽食で結構お腹がいっぱいになる。ホテル内には温水プールもあり、午後は施設内で楽しむ。

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ペドラ・モンターダ

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ペドラ・モンターダ公園入口

 3日目も朝5時には目が覚め、鳥の声を聞きながら絶景のレストランで朝食。その後展望台 Mirante de Guararema に出かける。暑い日で木陰がない。この見晴らし台は街の中心部にある高台。あまり高くはないが、街が360度見渡せる。大きなグアラレマの街の名を描いた甲板が中央部にある。そこを降りていくと大きなスーパーがあり、水やスナック菓子等を買うのに便利である。前には、タクシー乗り場もある。この街では流しのタクシーをひろうのは困難である。この展望台から、ノッサ・セニョーラ・ダ・エスカーダ Igreja Nossa Senhora da Escada という教会に移動する。地図を見るとすぐ近くなのだが、タクシーに乗って焦った。隣町だという。街道に出る。運転手に何キロだと聞くと、10キロだという。まあいいかと観念して乗っていた。この教会はミナス地方などに見かける古いつくりの教会。バロック様式で1652年に創設された。広場の前には大きな木がそびえている。あいにく午後しか開かないという。「なあに田舎の良い空気を吸いに来たのだ」と負け惜しみがてら、そこを後にした。その後に街の鉄橋を通り、レカント・ド・アメリコ市営公園 Parque Municipal Recanto do Américo に行く。昨日の大雨で、危ないから島のほうへは渡れない。管理人の人たちが、口を揃えて、「ベリゴーゾ、(危ない、危ない滑るぞ)」と言ってつり橋をわたらせてくれない。やむをえず、そこから川沿いに歩き、環境保全地区のイーリャ・グランデ Ilha Grande / NEA に行く。名前のごとくここは島になっていて、島全体が公園。一周して良い散歩道。パンフレットを見るとどうもこの地域が、クリスマス・イルミネーションの中心地のようだ。橋の欄干などに光の装飾の写真がある。きっとこの島に光のデコレーションが飾られ、さぞきれいであろう。少し残念だがイメージするのも楽しい。次のチャンスを狙おう。この公園を通り抜けると、民芸品の市が並んだ Centro Artesanal Dona Nenê がある。民芸品はあまり変わり映えがしないが、十数軒並んでおり、その外では、野菜や果物のフェイラをやっていた。街の特産品はあまりお目にかからないが、グアラレマ製のカシャッサやリコールがある。安価でおいしい。ミナスのチーズも売っている。この付近が街の中心部で、1875年に建てられた中央教会 Igreja São Bento がある。

 

 翌日は、また街の中心部や見忘れた所をまわり、土産を買いに行く。この街は小さくてこれという特産品などないが、週末にふらりと出かけ、市営公園でゆっくりするのもよいだろう。

 

 筆者は、3泊4日とホテルでの休暇を楽しみながら、街を散策した。このコロナ禍で、サンパウロに閉じこもっている人には、おすすめの観光地だ。Go To Travel !!! グアラレマへ。

​青木遼(あおきりょう)

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下薗昌記

第140回 ペドリーニョ

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 タイトルには縁がなかったが未だにサッカー王国の民に古き良き時代のノスタルジーを感じさせる1982年ワールドカップスペイン大会のブラジル代表。

 ジーコ、ソークラテス、ファウカン、セレーゾらいわゆる「黄金のカルテット」に負けず劣らずの輝きを見せていた天才が左SBを託されていたジュニオールである。

 古くはニウトン・サントスに始まり、ブラジル代表は数々の天才的な左SBを輩出してきた。ジュニオール、ブランコ、ロベルト・カルロス、そして近年ではマルセロらワールドカップで定位置を守ってきた。

 戦術的かつ体力的な交代も多い中盤や前線のポジションと異なり、DFラインに試合中、手が加えられるのは稀で、絶対的なレギュラーを脅かすのは至難の技である。

 ブラジル代表では実に111人が背番号10を託されてきたが、本来はSBだったジュニオールもその一人。マルチロールな才能を持つ「化け物」と左SBでポジションを争い、そして日陰の身に甘んじたSBがいた。

 テレ・サンターナが率いたスペイン大会で17番を託されたペドリーニョである。

 ブラジルの登録名ではありがちなペドリーニョだが、正式な名前はペドロ・ルイス・ヴィセンソッチ。パウメイラスとヴァスコ・ダ・ガマのオールドファンならば、彼の名は必ず覚えているはずだ。

 1957年、サント・アンドレーに生を受けたペドロは当時の名門の一つ、ポルトゥゲーザの下部組織入りするものの、十代で最初の挫折に直面する。

 ボールを扱う才能が欠けていたわけではない。細身の白人少年は、その体格の貧弱さを理由にチームを追われたのだ。

 しかし、捨てる神あれば、拾う神があるのがサッカー界。パウメイラスの下部組織で再び、ボールを蹴る機会を得たペドリーニョは1978年、若手の登竜門であるタッサ・サンパウロ・デ・ジュニオーレスで頭角を表すと、その年にトップチームでプロデビューを飾るのだ。

 スピードを生かした攻撃参加と高いテクニックを誇るペドリーニョはパウメイラスで最初の絶頂期を迎えるのだ。

 1979年には11万2千人の大観衆を飲み込んだマラカナンでジーコ擁するフラメンゴと対戦。パウメイラスは4対1で圧勝したが、ペドリーニョもフラメンギスタを歯ぎしりさせる1点を決めている。

 この年、プラカール誌が選出する年間ベストイレブン「ボーラ・ダ・プラッタ」に選ばれたペドリーニョだが、当時のパウメイラスの指揮官はのちにセレソンを率いるテレ・サンターナ。1981年からはヴァスコ・ダ・ガマに移籍していたペドリーニョではあったが、スペイン大会でメンバー入りしたのはある意味で必然だったのだ。

 ブラジル代表では16試合に出場したものの、スペイン大会での出場時間はゼロ。しかし3人の交代枠をフル活用する現代と異なり、当時は試合中にせいぜい1人入れ替えるのがやっとだった。

 フラメンゴのジュニオールとヴァスコ・ダ・ガマのペドリーニョ。スペイン大会直前にプラカール誌で二人は対談を行っている。

 当時、世界最高の選手の一人とさえ評価されたジュニオールは、

「ポジション争いのライバルが間近のリオサッカー界に来たことは最高だ」

と歓迎。一方のペドリーニョは、

「もしジュニオールがヘマをしたら、僕にプレーするチャンスが回ってくる」

と言い切ったが、そんな言葉が大言壮語に聞こえない実力の持ち主だったのは間違いない。

 1983年にはイタリアのカターニャに移籍。より攻撃的な前方のポジションでプレーし、1986年のワールドカップメキシコ大会でもメンバー入りを目指したペドリーニョだったが、テレ・サンターナは、そのリストにサント・アンドレー生まれのテクニシャンの名を書き込まなかった。

 世界最高のSBをライバルにした男は今、代理人として第二の人生を過ごしている。

​下薗昌記(しもぞのまさき)

クラッキ

​ブラジル、サンパウロ

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