2021年7月号 vol.181

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目次

ファインダー

鶴田成美

移民の肖像

松本浩治

ポルトガル語ワンポイントレッスン

リリアン・トミヤマ

せきらら☆難民レポート

​おおうらともこ

開業医のひとりごと

秋山一誠

カメロー万歳

白洲太郎

簡単おいしい!ブラジルレシピ

先生:アダマ・コナテさん

クラッキ列伝

下薗昌記

今月号のスポンサー一覧

 

幻の創刊準備号

​(2006年6月号)

Kindleで復刊

​2020年7月号

​2020年8月号

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「今は家はコンクリートでできていて、床はタイルで覆われている」と最後に話したときに言っていた。

ベニヤ板で建てられた家は傾いており、隙間風は入るし、玄関のドアは可動式ベニア板だった。

床は粘土質の土が剥き出しで、雨が降ると家の中に水が流れ込み床がぬかるんだ。物を落とした時の絶望感…。

しかし今はシャワーもトイレも家の中にあるという。

 

人は常により良い物を求め何かを得続けていく。

喜ばしいことだがなぜ喪失感があるのだろう。

キラキラとポカポカが減っていく感じがする。

鶴田成美(つるたなるみ)

 
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写真・文 松本浩治

緑化運動を実践した木下喜雄(きのした・よしお)さん

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 2004年10月、ブラジル農業分野への貢献者に贈られる山本喜誉司(きよし)賞が、サンパウロ州ジャカレイ近郊の第2高森(たかもり)移住地在住の木下喜雄さん(70、山口県出身)に授与された。木下さんの受賞は、果樹や花卉栽培の接ぎ木法開発をブラジル国内に広めたことや、1970年代半ばから進めている緑化運動などの貢献が認められたもの。「受賞は周りの皆さんが推薦し、協力してくれた結果」と控えめだが、「地球の砂漠化を防止するためにも、緑化は必要」と熱い思いを見せていた。

 第2次大戦後の混乱期に、山口県の経営練習農場でスパルタ式指導を受けた木下さんは、山口県知事などの推薦を受けて、16歳の若さで静岡県の「富士中央開拓講習所」に入所した。同所は、戦後日本の食糧難を解決するための機関として設立。2年間の訓練を終えた木下さんは、農業改良指導員の免許を持つまでになっていた。

 56年、ブラジルの山口県人会関係者の呼び寄せで、山口県から戦後初めての移民として渡伯した木下さんは、サン・ベルナルド・ド・カンポの瑞穂(みずほ)村、ブラガンサ・パウリスタなど日本人のパトロンの下で働きながら、ブラジル農業を実際に体験した。

 翌57年には、ブラジル国中で販売されているラランジャ・ペラ(オレンジ)の種から苗を30万本作り、「フォーカート式接ぎ木法」の変形式接ぎ木法を考案。大量栽培が実現した。当時はカフェが生産過剰となっていた時代で、生産者たちはカフェ畑の跡地にラランジャ・ペラをこぞって植え、国内中に広がったという。また、バラの接ぎ木も並行して行い、新種のバラを全国に知らしめた。

 力を注いできた緑化運動は、76年から始めた。ちょうどラン栽培に失敗し、2億円の借金を背負った時期だった。「自殺も考えたが、他人の土地も抵当に入っていたので死ぬわけにはいかなった」と語る木下さん。サンパウロ市パウリスタ大通りの銀行に融資を頼みに行った際、公園にある木々を見て、「サンパウロを緑にある街にしたい」と思いついたという。

 ちょうどその頃は日伯セラード構想が実現した時期でもあり、ブラジル政府は各都市への街路樹を植える法案を実施に移している時だった。木下さんは2億円の借金を2年で返済し、緑化運動を更に進めてきた。

 2004年当時、第2高森移住地内の70町歩の苗木畑には140種類、200万本におよぶ苗木があり、その数年前から管理を長男に任せていた。木下さんはその頃、サンパウロ州のグァタパラ、イタペチなどで緑化の実践講演を行なっていたほか、各種イベントでの植木の装飾を手伝うなどの活動を続けていた。

「ブラジル国内ではブラジリアが一番、砂漠化の危機にある。木々は地下水を吸い上げ、その上空に湿気をつくることで別の雨雲を呼ぶ。そのため、水を確保するには木を植える必要がある」

と木下さんは、緑化運動が世界的に減少しつつある水資源確保につながることを強調していた。

 また、砂漠化防止のための苗木の生産・販売のほか、「インブラーナ」「カブリウーバ」など家具用資材としての有用樹の生産や病虫害防止のための混植も考慮。さらに、麹菌を保有する「サポチー」、ガンに効果があると言われる「タヒボー」などの薬用樹生産も必要だと主張していた。

(2004年11月取材、年齢は当時のもの)

松本浩治(まつもとこうじ)

 
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リリアン・トミヤマ

「どのぐらいかかりますか?」

 ブラジルでは、人口の大部分がカトリック信者です。そして、サンパウロで最も人気のある聖人のひとりが聖エクスペディトゥス(Santo Expedito)です。

 この聖人の画像をインターネットで検索すると、ラテン語で「明日」を意味する「CRAS」という言葉を発するカラスを踏みつけている画像が出てきます。そして右手にはラテン語で「今日」を意味する「HODIE」と書かれた十字架を持っています。

 そのため、聖エクスペディトゥスは、緊急のビジネスで至急解決が必要な場合に探し求められます。救いを明日に延ばさない聖人なのです。今日助けてくれるのです。

 ところで、何かを実現しようという時についてですが、「どのぐらいかかりますか?」はポルトガル語でどう言うでしょうか。

  「Quanto tempo demora?」または「Quanto tempo leva?」と言います。

 例文を見ていきましょう。

 

AとBが会話しています。 

A: Eu moro em Campinas.

(オレ、カンピーナスに住んでるんだ)

B: Quanto tempo demora (leva) de São Paulo até Campinas?

(サンパウロからカンピーナスまでどのくらいかかる?)

 

Cは甘いものが食べたくなってケーキを作るところです。Dはイライラしています。

C: Eu vou fazer um bolo.

(ケーキ作るね)

D: Quanto tempo demora (leva) para ficar pronto?

(できるまでにどのくらいかかるの?)

 

EとFは同じ事務所で働いています。Eは帰ろうとしています。

E:  Terminei! Quer uma carona?

(終わった~! クルマで送ろうか?)

F:  Eu quero, mas eu preciso terminar esse e-mail.

(帰りたいけど、このメールを終わらせないと)

E: Quanto tempo demora (leva) para terminar?

(終わるまでにどのくらいかかるの?)

 

 今月もお読みいただき、ありがとうございました。「時」と言えば思い出す曲があって、何度も何度も時間が止まってしまうようなパンデミックの時にぴったりなのです。ネガティブな意味ではなく、良い意味で、人生のシンプルな物事に目を凝らすと時間が止まったかのようですらあるというものです。それは、カエターノ・ヴェローゾの「Força estranha(奇妙なパワー)」という曲で、ブラジルの古典的名曲なのですが、愛情に満ちた視線で日常生活を見つめるという内容です。一聴の価値ありです。え? 時間がない? 怒りますよ!


 “Quanto tempo demora para ouvir uma música?”

リリアン・トミヤマ(Lilian Tomyama)

 
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おおうらともこ

第21回(番外編) チベット

「現在、ブラジルでは、私を含めて3人のチベット人難民と認められる人が暮らしています。北米には、数千人います」

と語るのは、『チベットハウス・ブラジル』のジグメ・ツェリンさん(54歳)。ツェリンさんは、パンデミックが始まる直前の2020年、世界13か所(2021年1月時点)にあるチベット亡命政権代表部(通称チベットハウス)ブラジル事務所の所長に赴任するため、初めて南米に足を踏み入れた。元所長に迎えられ、彼のアパートで暮らし始めた矢先、サンパウロでは外出自粛令が発せられた。

「インドのチベット人は、難民として日々の生活で多くの課題に直面していますが、少なくともコミュニティで一緒に生活しています。しかし、ブラジルで私はほぼ1年間、ほとんど他者と現実の交流がなく、孤立状態でした」

 来たばかりの異国の土地で、ブラジル人をはじめ、対面での人との交流を隔絶されたことは、信じられないほど大変なものだった。新型コロナの第2波が訪れた今年3月、インドに戻る必要に迫られ、現地で子どもたちに迎えられた時には、ツェリンさんの目には涙があふれていた。子どもたちは父親が戦地から戻ったかのように感じていた。

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ジグメ・ツェリンさん

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チベット・ハウス・ブラジル

◆生まれながらの難民

 ツェリンさんは、チベットに近いインドのレー(Leh-Ladhak)で生まれた。両親は1960年代初頭、ダライ・ラマ14世に続き、生存のためにチベットを逃れた亡命者だった。やがて南インドのチベット人集落に移り、ツェリンさんもそこで育ち、その後、ダラムシャーラーにあるチベット亡命首都で長年働いてきた。

「私は生まれた時から難民で、チベットに行ったことがなくても、チベットに属していると言わなければなりません」

 

◆複雑なインドのチベット人の出国事情

 ツェリンさんは就労ビザを取得し、ブラジルに入国した。しかし、一般にインドのチベット人難民は、ビザを取得するのは難しい。問題は、標準のパスポートと異なり、チベット人難民には、パスポートにインド政府から発行される「イエローブック」と呼ばれるものが必要で、これを入手するのに長いプロセスを要する。チベット人はインド人とは異なり、海外へ渡航するために、警察からの出国許可と帰国のビザが必要で、多くの国ではこのイエローブックの存在が認識されていない。これはチベット人が海外へ移民するのを複雑にもしている。

 インド政府は現在、チベット人難民がインドの市民権とパスポートを申請することを許可しているが、官僚的な手続きを通過するのは狭き門となっている。

◆チベットハウスを支える日系人の存在

 ツェリンさんによると、約700万人のチベット人はチベットに住み、全世界に約15万人のチベット人難民が散在する。大部分がインドとネパール在住で、約10万人が暮らす。

 ダライ・ラマ14世はブラジルを4回訪問し、大変な歓迎を受けた。それで、ブラジルの人々と「チベットの精神的および文化的遺産を促進し、その深い知恵と美しさを共有する」というミッションを掲げ、2016年3月、サンパウロにチベットハウスが設立された。設立やこれまでの活動には、日系ブラジル人も深く関わってきた。

「パンデミックでリアルな人との交流がなく、ポルトガル語を学ぶのが困難な中、日系人の先生がとても親切にオンラインで勉強できる機会を提供してくれました」

と、ツェリンさんは謝意を表す。

 ツェリンさんは、母語はチベット語で、英語とヒンディー語も話す。ほぼパンデミック下のブラジルしか知らないツェリンさんだが、サンパウロで感じた小さなことは、様々な人種が混在している土地に見え、見知らぬ人でも温かく受け入れて助けてくれる人々がいるということだ。

「人々がもっと多くの言語を話せたら、もっと良かったように思います」

と言う。

 

◆パンデミックも救う!チベット仏教の知恵

「サンパウロに来て、健康不安はもちろん、初めての土地で言語的にも文化的にも孤立した状態の中、私自身もチベット仏教の知恵とチベットハウスのビジョンが困難を克服する助けとなりました」

 チベットハウスでは、パンデミック以来、人々が抱えるストレスに対処するのを助けること目的とし、チベット仏教の心理学に関するオンラインコースも提供するようになった。パンデミックまで対面で行われていたイベント活動は、現在は全てオンラインに切り替えられ、3か月ごとにスケジュールが発表されている。

◆ヒマラヤ山脈逃避行で足指を切断

 チベットハウスで特に人気のイベントの一つが、チベット料理の講習会。現在はオンラインのみで、その講師を務めるのがリオグランデドスル州トレス・コロアス在住のオギェン・シェイクさん。

 チベットのDiga Tibetで生まれ育ったオギェンさんは、16歳の時、3人の兄弟を含めた30人の仲間と共に、自由を求めて徒歩でヒマラヤ越えを2か月かけて決行した。映画さながらの逃避行で、チベットとネパールの国境を越えた時には、数人の命を失い、自身は凍傷による壊疽(えそ)のため、ネパールの難民病院に入院して足指を切断した。回復後は、インドのダラムシャーラーにあるチベット難民キャンプに住み、そこで兄弟と再会し、彼らを支えるためにも懸命に働いた。仏教美術アーティストとして寺院で絵を描く他、料理人としての腕を磨く機会にも恵まれた。

 ブラジルに来るチャンスが訪れたのは2006年。サンパウロ州コチアのチベット仏教寺院Odsal Lingで、仏画を描く仕事に携わることになった。3年後には、リオグランデドスル州トレス・コロアスの寺院でボランティアをしていた現在の妻アドリアーナさんに出会った。 

「オギェンさんの陽気さに一瞬で魅せられました」

 2人は結婚し、オギェンさんは永住権を取得。2013年にはトレス・コロアスの豊かな自然環境の中で、ブラジル初のチベット料理レストラン『エスパッソ・チベット』をオープン。シックな装いの店内で、チベット料理とブラジルのスパイスとの出会いが、新たな味を展開する。今年5月のオンライン料理教室では、トレス・コロアスの厨房から、チベット料理を代表するモモなどが紹介された。

「このレストランでは、チベットへの情熱を分かち合いたいと思います」

と、笑顔のオギェンさん。ブラジルはチベットやインドのように、オギェンさんを成長させてくれる第3の故郷となっている。

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チベット・ハウスのオンライン料理教室

​オギェン・シェイクさん

 

◆夢はチベットでの生活に戻ること

 ツェリンさんは、「地球で最も標高の高いチベット高原は、長い冬は雪に覆われ、生活がとても厳しい」と、両親に教えられて育った。

「私はチベットに住んだことは一度もありません。しかし、自分の家、国とは、何があっても快適な場所です。チベット人は、インドの暑い平原よりも、雪国に住むように遺伝的に備えられています」

と話す。

 心の故郷であるチベットに行って生活するのが夢のツェリンさんだが、今はサンパウロのチベットハウスでの活動を通じて、人類普遍の兄弟愛と平和のメッセージを広めるという、ダライ・ラマ法王のビジョンをブラジルで果たすのが優先課題である。

「チベットは私の祖先の土地。両親はチベットからインドに亡命しました。避難先で生まれた私も他のチベット人も、帰りたい場所はチベットです。私たちは夢と希望を決してあきらめません。願いがかなうまで、私たちは世界中の借地にチベット文化を築き、大切に保存し続けます」

 

企画/ピンドラーマ編集部 協力/ Tibet House Brasil

文/おおうらともこ

 

◎インフォメーション

 

『Tibet House Brasil』

住所:Al. Lorena, 349 - Jardim Paulista

http://tibethouse.org.br/

『EspaçoTibet』

R. Alagoas, 361 - Águas Brancas, Três Coroas - RS

https://www.espacotibet.com.br/

 

■チベット人による難民がテーマの詩

 チベット人難民テンジン・ツンドイ氏(インド在住)の難民をテーマにした英語詩集が、5月にブラジルでもポルトガル語で発行された(対訳付)。同氏は詩人、教育家、活動家であり、「インドの優雅な50人」に選出されている。

“Poesia Selecionada de Tenzin Tsundue(テンジン・ツンドイ詩撰集)”

入手先: https://digipub.me/shop 連絡先:digipub@digipub.me

PDFのみで販売(eBook)、価格R$40 売上の一部はチベット独立運動に寄付される。

​おおうらともこ

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実録会話:コロナ禍なにわ親娘

その一 出かける

 

 コロナと言うようになっても娘は学校やお友達とのお出かけになり、毎日、毎日、ママは言います。

 

母「マスクしてる?予備の持ってるのん?手にはバイキンマンがいるからアルコールで消毒してから口鼻目をさわらないようにするようにしいや。密をさけてね。人が触ったものにはバイキンマンやからね。アルコール持参やで。ほら、持たされた石けんで手を洗って。トイレもたくさんの人が使ってるから、先に手を洗ってね、トイレ済んでからもちゃんと手を洗うんやで。自分のハンカチで手え拭きや。外食する時もそこらを拭くんや、持ってるアルコールタオルで。お願いやで」

 

娘「毎日同じことを言うてるけど、そないに細かなことを言うママは世の中いてへんわ!!“あんたのママ過保護やと思うー!”って友達からバカにされてるんやけど、我慢して出かけてるんやけど、毎回そないに言うてたら念仏唱えてるような人と同じって思わへんのかいなあ!」

 

と言って娘は出かけていきます。

 

その二 帰ってくる

 

 お嬢が帰って来たらママは言います。

母「玄関でアルコール消毒して。マスクは玄関に置いてあるゴミ箱に捨てて。入り口で洗濯する服を脱いで。服を洗濯機に入れて。洗面所で手洗いうがいして。お風呂に入るんやで。その間にもね、この家にいる人のことを考えるの。どうしたらコロナうつさんか」

それで、お風呂あがったら

 

母「毎日の行動を報告して、買って来たモンには消毒するんやで」

 

 寝る前には

母「うがい歯磨きをして。漢方薬飲んで。体調が少しおかしいと思ったらすぐに熱を測るんやからねえ」

娘「帰って来てもやらなあかんことだらけやし、おまけに、行動を報告するのどこに行った、誰と一緒やったってママに報告するの面倒くさいし。言いたいことと言いたくないこととあるんや。そんなん聞いてどうにかなるんかなあ。“お土産はコロナちゃうんやで”って言うけど、持って帰りたくないんや。そんなもん気ぃつけてるんやけど。フェイスマスクまでママに持たされて、電車でしてたら“ハアー?”って目で見られてるんやしぃ。このおかん何考えたらこんな風になるんや…」

 

と毎回娘はこういうふうに言います。

その三 ステイホーム

 

 家にいる時は今度は

母「換気してや。掃除もしてや。タオルなどは自分だけで使用やで。トイレは2階のを使ってねえ。学校はリモートでも行ってもどっちでも良いって言うからリモートにしようね。食事はバランスの良い食事を摂るように考えてるから、ご飯は朝作っておいたのにしてや。フルーツヨーグルトにしといたから、ちゃんと腸に良いヨーグルトとるんやで。家でいる時は少しでも気分転換するのが大事やから、夕方に散歩したり、買い物に行ったり、自分で楽しみを考えてや。一番大事な事は免疫力つけとくことやから、睡眠時間をきっちりとって、なんでも無理しないようにねえ。それから、おじいおばあのお家行く時は2週間考えてね、絶対に守ってや」

 

と娘に言い聞かせました。

 

娘「ママ仕事に行ってるから、いない時は自由にさせてもらってるんやけど。ママ帰ってくる時間に掃除とかしてたら今頃してるぅって、時間いっぱいあるんちゃうの?って目で見るやん。やってくれてありがとうちゃうの? コロナになって納得できるところあるけどママの性格直していった方が今後のためやと思うところあるねええ。気をつけて生きていかなあかんでえー」

 

と娘はコロナ禍で母の人生の方向を見いだすのでした。

 

『コロナ禍も1年半経過し、ワクチン接種が始まったものの、全人類に到達するのはほど遠いです。この実録会話はまだまだ続きそうです。このコラムの24人の読者様はワクチン接種済まされている方もおられると思いますが、現時点ではそれで以前の生活に戻るわけではありません。引き続き注意深く生きてくださるようお願いします(註1)

 

註1:会話と全然関係ないですが、このコラムを執筆中に東京の上野動物園でパンダが2頭生まれました。筆者からの赤ちゃんパンダの名前の提案:アンシン(安心)とアンゼン(安全)。

 

診療所のホームページにブラジル・サンパウロの現状をコメントした文章を記載してますので、併せてご覧いただければ幸いです。

 

秋山 一誠 (あきやまかずせい)。サンパウロで開業(一般内科、漢方内科、予防医学科)。この連載に関するお問い合わせ、ご意見は hitorigoto@kazusei.med.br までどうぞ。診療所のホームページ www.akiyama.med.br では過去の「開業医のひとりごと」を閲覧いただけます。

 
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白洲太郎

第64回 実録小説『頼むから冷蔵庫を返してくれ』

 その日、白洲太郎は朝からそわそわしていた。なぜなら数週間前に通販ショップで購入した冷蔵庫がもうすぐ届くはずだからで、朝からその準備で大わらわだったのである。これまでに幾度となく通販でモノを買ってきた太郎であったが、届かなかったことなど一度もないし、トラブルに発展したケースも皆無であった。しかし冷蔵庫ほどの大物となると、話は変わってくる。小包とは違って大型のトラックでやってくるのだろうし、運ぶにしても大変な代物である。信頼できるサイトから信頼できるメーカーのモノを購入したため、不安要素はないはずであったが、何はともあれここはブラジル。予想もつかないトラブルに見舞われることなど日常茶飯事であるから、いっときも気を抜いてはならない。とはいえやはり、感慨深いものが胸の奥から突き上げてくる。

 ついにオレも冷蔵庫のオーナーになるのか…。

 太郎は自宅の裏庭から真っ青な空を眺め、しばし物思いにふけった。

 太郎が今の家に住み始めてから10年以上が経つが、冷蔵庫は大家であり友人でもあるネイが無料で貸し出してくれていた。ガスコンロや電子レンジ、オーブン、テレビ、ベッドなどは自分で買い揃えたが、なぜか冷蔵庫だけは融通してくれ、そんな彼の好意に甘えるかたちでこの10年を過ごしてきたのである。

 しかし無常の世の中である。今から8か月ほど前に、そろそろ冷蔵庫を返してくれないかと打診され、のらりくらりとカポエリスタのようにその催促をかわしてきた太郎であったが、1か月前、いつになく真剣な表情で訪ねてきた彼の顔を見るにつけ、『ああ、ついにこのときがきたか』と、さすがの太郎も観念をするしかなかった。ネイはゴリラのような身体つきをしてはいるものの、情緒は不安定であり、これ以上、彼をenrolar(ぐずぐずと自分のペースに巻き込んでいく)するわけにはいかない。とまあ、そういうわけで1か月以内に新しい冷蔵庫を買わなければいけなくなった太郎であったが、コレと目をつけていた機種は前からあり、それがどのような冷蔵庫なのかというと、冷凍室と冷蔵室が完全に別れている二層式タイプのモノである。これは食材管理を任されているちゃぎのたっての希望であり、ワンボックスタイプに比べるとやや値段は張るが、現場の声を無視するわけにはいかない。太郎は渋々了承したが、そんな彼にとっても冷蔵庫の購入にあたっては譲れないポイントがあった。せっかく新しいのを買うのなら、是非Frost Freeタイプのモノが欲しい。彼はそう決意を漲らせていたのである。Frost Free、詳しい仕組みはよく分からぬが、とにかく冷凍室に一切の霜がつかぬという驚異的な代物で、数年前から憧れていたタイプである。なんとなれば現在、大家から借りている冷蔵庫はワンボックスのなかに冷凍室が設けられている形式であり、1か月もしないうちに氷河のような霜が発生してしまうのである。その氷に押されるカタチで冷凍室のフタも壊れ、ますます霜がつきやすくなっているという有様で、この数年、多大なる不便を被っていたのであった。

 しかし、そのような状況も今日で終わりを告げるはずである。新しい冷蔵庫が届けば食材管理も改善され、その勢いにのってしらす商店の経営も大幅に飛躍するかもしれぬ。少なくとも大家が目に涙を浮かべながら、『頼むから冷蔵庫を返してくれ』と夜中に訪ねてくることもなくなるだろう。

「それにしても遅いな…」

 太郎は時計をチラリと見たが、まだ午前の10時を回ったばかりである。心配をするような時間帯ではないのだが、実際に店舗から購入するときとは違う不安が、通販には確実にある。まず『本当に届くのか?』というところから始まり、たとえ無事に届いたとしても、長距離トラックに何十時間も揺られてきているだけに、本体へのダメージも気になるところである。そればかりか、電圧の違う機種や、誤った型番のモノが送られてきた場合、返送するのも手間だ。

 ではなぜそれほどのリスクを冒してまで通販で購入するのか?

 実店舗なら自分の目で商品をチェックできるし、場合によってはその場で持ち帰ることも可能である。後から届けてもらうにしても、かかる時間はせいぜい数日といったところであろう。これだけ書くと、店舗での購入はメリットしかないのではないかと思わされるが、何事も完璧というのはあり得ない。都会の量販店などに行けば事情も違うのだろうが、太郎の住む田舎町に限っていえば、冷蔵庫などの大物家電の価格は通販のそれと比べると雲泥の差なのである。

 例えば今回購入した二層式の冷蔵庫、容量でいえば310リットル程度のモノだが、地元で買えば2600レアルはする。ところが、通販での価格は約2000レアル。それも送料込みの価格なのである。その差600レアルといえば大金であり、届くのに多少の時間がかかったとしてもメリットの方が大きい。地域商店主の売上に貢献したいのは山々の太郎であったが、ここまでの価格差である。600レアルに目が眩んでしまった落ち武者風東洋人を誰が責めることができるだろう? 大物家電以外は地元で購入するから許してちょ。誰に言うでもなく、太郎はそうひとりごちたのであった。

 

「頼むから無事に届いてくれ」

 トイレで用を足しながら、太郎は神にもすがる思いで頭を垂れていた。2000レアルもの買い物は、これまでのブラジル生活を振り返ってみてもそうそうあるものではない。届かなかったらどうしよう?という不安は拭いきれず、しかし最近の通販サイトはけっこうしっかりしてるし…などと、自らを励ます問答を繰り返しているうちに、家の前でトラックの停車する音が聞こえてきた。

 一目散に駆け出した太郎であったが、あまりにも慌てていたためドアの角に足を強打し、目がくらむほどの痛みにもんどりをうちつつも、冷蔵庫のためなら死ねる。唇を噛み締めて立ち上がり、血をダラダラと流しながら車庫の門を開けると、眼前には運送屋と思しき大型トラックがあり、そのすぐ側で伝票らしき紙切れをもったにーちゃんが訝しげな表情で太郎を見すえていた。

 トラックの後部では運転手らしき人物が荷物を整理している風であり、居ても立ってもいられぬ太郎がにーちゃんににじり寄ると、

「ちゃぎのさんのお宅? ここにサイン欲しいんだけど」

 ぶっきらぼうに紙切れを差し出してきた。通販ショップのアカウントはちゃぎの名義なので、彼女宛に商品が送られてきたということなのだろう。大慌てでちゃぎのを呼び、サインをさせると、厳重に梱包された白い冷蔵庫が今まさに荷台から降ろされようとしているところであった。腰の悪そうな運転手が苦悶の表情を浮かべているのに気づいた太郎は、これはいかんとダッシュでかけ寄り、「オレに任せろ!」サムズアップで役目を引き受けると、えっさ、ほいさ! とばかりに先ほどのにーちゃんと一緒に冷蔵庫を運び始めたのである。門の前には犬のうんこが鎮座していたが、大事の前の小事、糞を避けることによって冷蔵庫の運搬に支障があってはいかんと無遠慮に踏みつけ、無我夢中で冷蔵庫を家の中に運び入れると、太郎とちゃぎのは小躍りをしながら新しい家族を抱きしめ、記念撮影などをしてその日の午後を過ごしたのであった。

 ようやく肩の荷が降りた心境の太郎である。が、休む間もなく、次なる試練が彼に襲いかかろうとしていた。このときの太郎にそれを知る術などないが、その翌日、今度はこと切れるように洗濯機が動かなくなってしまったのであるーー。

​白洲太郎(しらすたろう)

 
 
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テケテケナー

先生 アダマ・コナテさん
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 アフリカ料理に自宅で挑戦!鶏肉をいつもの野菜とピーナッツペーストで煮込むテケテケナー。今回、このマリ料理を紹介してくれたのは、マリ出身のアダマ・コナテさん。日本の味噌感覚でピーナッツペーストをたっぷり使うアフリカ料理。サンパウロ市内のアフリカ料理店でも、様々な国を代表するピーナッツペーストを使ったメニューがあります。

【材料(4人分)】

・鶏もも肉 CoxaかSobrecoxa...600~700g

・トマト(大) Tomate...2玉

・玉ねぎ(大) Cebola...1個

・にんにく Alho...6片

・油 Óleo...適量

・塩 Sal...適量

・コショウ Pimenta do Reino...適量

・ピーナッツペースト(無糖) Pasta de Amendoim sem açucar...大さじ7~8杯

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ピーナッツペースト

【作り方】

①油に塩とスライスしたニンニクを入れ、ニンニクがこんがりしてきたら、鶏肉を入れる。

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②鶏肉を裏返し、両面がこんがりしてきたら、小口切りの玉ねぎとトマトを入れ、全体が浸るまで水を入れる。

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③沸騰したら中火で10分ほど煮込み、ピーナツペーストを加えて全体をかき混ぜ、さらに10分ほど煮込む。

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④塩、コショウで味を調えて完成。

 マリではあまり料理をすることはなかったというアダマさん。ブラジルでの移民生活は自炊で、友人たちにもふるまいます。1時間以内でテケテケナーを煮込んで米を炊き、他にもザメン(牛肉炊込みご飯)、バナナの揚げ物、そして食後のマリ風ティーを手早く作ってくれました。白米の炊き方は、水から炊く方法と熱湯に米を入れる方法があり、ガスの消費を減らすエコ意識から、水から炊くとのこと!

◆今回の先生◆

アダマ・コナテさん(Adama Konate)

1981年、マリのバマコ生まれ。

2012年よりサンパウロ在住。

バマコ時代から会計士、詩人。

ブラジル・サンパウロ・マリ連合会の創設者の一人で、移民の地位向上のための活動家として、様々なセミナーや行政との交渉に当たる。

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おおうらともこ(文と写真)

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下薗昌記

第141回 リカルジーニョ

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 前身のパレストラ・イタリアが創設されたのは1921年のこと。今年で百年の節目を迎えたクルゼイロは、王国のサッカー史を彩る数々の天才を生み出してきた。トスタンやジルセウ・ロペス、若き日のロナウドらが青色のユニフォームに身を包んできたが、長いその歴史の中で、この男ほどクルゼイロでタイトルを手にした男は他にいない。

 リカルド・アレシャンドレ・ドス・サントス。1976年生まれの彼は、リカルジーニョの登録名でその名をクラブ史に刻み込んできた。

 1976年生まれのリカルジーニョはクラブが生んだ生え抜きの逸材だった。ミナス・ジェライス州の小さな町、パッソスで生まれた少年は、およそその後クラッキに育つような体格ではなかったが、その細身の体にはミッドフィルダーで活躍するための全ての要素が詰め込まれていた。

 170センチ、60キロ。クルゼイロの下部組織に合格した十代の当時は試合を組み立てる司令塔タイプのプレーヤーだったが、当時の指導者はリカルジーニョを中盤の下がり目であるボランチにコンバートする。

 試合の流れを見抜く戦術眼の高さと、細身ではあるもののフィジカルコンタクトに耐えうる体の強さに光るものがあったからである。

 ポジショニングの良さと、泥臭いプレーを厭わない献身性、そして粘り強い守備――。現代サッカーではもはや当たり前のエッセンスを1990年代に持ち合わせていたリカルジーニョは1994年に出場機会を獲始めると19歳だった1995年には不動のレギュラーの座を手にしていた。

 下部組織時代は2002年のワールドカップ優勝メンバーでもあるベレッチやロナウドともプレー。「あの当時の僕らのチームは凄く強かった」と振り返るリカルジーニョだが、ボランチとしてのお手本はデビュー当時の同僚だったトニーニョ・セレーゾだった。

「セレーゾからはポジショニングとボール支配を教えられた。僕にとっての英雄だし、素晴らしい人だったよ。僕は彼を師匠と呼んだものさ。毎日、彼から何かを学んだんだ」。リカルジーニョの述懐である。

 クルゼイロの一員としては440試合に出場したが手にしたタイトルはクラブ史上最多となる15。ブラジル全国選手権こそ手が届かなかったもののその履歴書に刻んだ最高の栄冠は1997年のコパ・リベルタドーレスである。

 8年間、プレーしたクルゼイロに別れを告げ、細身のボランチが向かった新天地は地球の反対側の日本だった。2002年に柏レイソルに移籍し、その後は鹿島アントラーズでもプレー。怪我にも泣き、必ずしも本領を発揮したとは言い難い日々だったが、2007年クルゼイロに復帰し、キャプテンを務めるも、かつてのパフォーマンスを見せきれず、同年にコリンチャンスに移籍する。そして古傷でもある足首の痛みに悩んできたボランチは31歳の若さでスパイクを脱ぐことを決断するのだ。

 現役時代、ピッチ狭しと駆け巡った献身的なスタイルは引退後にも変わりはない。ただし、ビジネスの世界で、だ。ベロオリゾンテで展開するスーパーマーケットにサンダルを売る会社を営むかつてのクラッキは順調な第二の人生を歩んでいる。

 かつての古巣クルゼイロは、ブラジル全国選手権2部でも低迷。今や3部降格の危機に瀕しているが、リカルジーニョが手にしてきた栄冠にその輝きを失うことはない。

​下薗昌記(しもぞのまさき)

 

​ブラジル、サンパウロ