2021年8月号 vol.182

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目次

今月号のスポンサー一覧

 

幻の創刊準備号

​(2006年6月号)

Kindleで復刊

​2020年7月号

​2020年8月号

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ただいるだけ。

 

ただそこにあるだけ。

 

それだけで美しく、それだけで完結している。

 

そんな些細な美しいものを見落としてないか、

今一度自分へ問いかけてみてほしい。

鶴田成美(つるたなるみ)

 
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写真・文 松本浩治

元日本語ラジオ放送局アナウンサーの石崎矩之(いしざき・のりゆき)さん

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 第2次世界大戦後の第2回計画移民でアマゾナス州マナカプルーに入植し、その後にサンパウロ市の日本語ラジオ放送局アナウンサーとして活動した経験を持っていた石崎矩之さん(74、熊本県出身)。父親が元軍人で、戦後に公職追放処分を受けたことからアマゾン移民に応募し、石崎さんは1954年に父母、弟妹の5人家族でブラジルに渡って来た。

 マナカプルーで1年5か月を過ごしたが、「とても生活できる場所ではない。このままでは、のたれ死ぬ」と思っていた矢先、当時、日本から来伯していた評論家・大宅(おおや)壮一氏の案内役をつとめることに。サンパウロからアマゾンに来ていた日本人のつてを頼り、サンパウロ市に出ることになった。

 赤間(あかま)学園を通じて「ラジオ・クルトゥーラ」日本語放送局を紹介され、サン・ジョアン通りにあったスタジオで勤務。55年11月から57年9月までの約2年間、同局で日本語アナウンサーとして働いた。

 当時の番組には、ニュースをはじめコマーシャルなどもあったが、一番人気があったのがレコード曲の紹介だった。放送局には10数枚と少ないレコードしかなく、働く人数も少ない環境の中で石崎氏は苦労しながら番組作りを行なってきた。

 スタジオでの放送以外に、「野球のヤの字も知らないのに」(石崎氏)サンパウロ州マリリアなど地方での野球中継を行なったり、コンゴニアス空港に日本から記念の飛行機が到着した際には、「重たくて苦労の種だった」携帯録音機を担いで取材に行くなど、多忙な日々を送った。

 石崎氏がアナウンサー当時に所有していた過去の写真の中には、半世紀以上も前の「第2回コロニア芸能祭」や「近郊団体対抗歌合戦」などもあった。同氏によると、当時のコロニア芸能祭は、まだ現在の文協(ブラジル日本文化福祉協会)大講堂ができておらず、サロンに特設舞台を急造して実施していたという。また、スポンサーの一つがサンパウロ市ジャバクアラ区にあった有名料亭の「青柳(あおやぎ)」で、当時のブラジル日系社会の状況を物語っていたそうだ。

 その後、57年10月に石崎氏は、リベルダーデ広場に事務所があった「ラジオ・サンタマーロ」に移籍。日系社会でも有名な放送局となり、プロレスラー「力道山」の来伯試合の中継やレコードの新曲紹介などで人気を得た。

 特にレコードは、石崎氏たちラジオ関係者にとって「これ以上の貴重品はない」もので、新しいレコードを日本から持って来る日本人がいるとの情報を聞きつけてはサントス港まで出迎え、それらの人々からレコードを録音させてもらっていた時代だった。

 ブラジル日系社会のラジオ全盛時代は、54年から61年頃までだったそうだが、石崎氏は「知らないうちに、そういう世界に飛び込んでいた」と当時を振り返る。

 その後、テレビの発達とともにラジオは衰退していったが、全盛当時は地方から出てきて洗濯業につく日本人や近郊農業者が、仕事をしながらラジオ放送を聴くことができるとして、持てはやされた。

 その頃、ラジオ放送局では人手の足りない中、「ラジオ小説」なども自ら作り、解説からセリフまで1人で何役もこなしていたという石崎氏。聴者からのファンレターも数多く、返信の手紙には自身のブロマイド写真を添えて送ってこともあったそうだ。、大手スポンサーの中には、当時まだピニェイロス区にあった「カーザ・水本」の水本毅(みずもと・つよし)氏など親分肌の人物が付いてくれ、小遣いをくれたり可愛がってもらったという経験もあり、世知辛い現在よりも、良き時代だったことを懐かしんでいた。

(故人、2009年7月取材、年齢は当時のもの)

松本浩治(まつもとこうじ)

 
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リリアン・トミヤマ

「どこからともなく/どこへともなく」

 エル・パイス誌(El País)でとても興味深い記事を読みました。「ある人が他の人よりも上手に歳を取るのはなぜか」というタイトルです。この記事の中で記者は、COVIDワクチンの副反応は発熱以外に頭痛があると述べていますが、それは自分と同じ年齢層の人を行列の中で見ることによって起こる心理的な病かもしれないとのことです。つまり、ブラジルでは年齢によってワクチン接種の日が決められているので、無意識的に行列の中で人を見て比較しているのです。「私、あんなにひどいかしら?」とか「あいつはオレよりずいぶん若く見えるなあ」とか。笑えるなと思いましたが、私はドライブスルーでワクチン接種したのでハッピーになりました。ハハハ…

 ただ、ブラジル人は見栄っ張りなので、この記者の分析は意味があるなと思いました。ところで、私がいつもとても気になる習慣は、多くの人が香水をつけすぎることです。強い香水をつけた人とエレベーターに乗り合わせると、エレベーターを降りた後もその匂いがまだ自分についているみたいな気がします。また、レストランに行って、近くの人が強い香水をつけていると、素晴らしい料理や特別な飲み物の香りに集中できなかったりします。パンデミックのせいでこの習慣はだいぶ少なくなりましたが、状況が好転するや否やまたつけすぎの香水の匂いを感じるようになることでしょう。通りや、エレベーターや、店や、その他の場所で。

 匂いについて言うと、ポルトガル語で次のような文をどう言うでしょうか。

 

「どこからともなく、バラの甘い香りがただよってくる」

 

「どこからともなく」は「não sei de onde」と言います。

 そうすると、前述の文はこうなります。

 Não sei de onde exala o aroma doce de rosas.

 

 つまり、誰か/何かが突然現れるが出所がわからない、どこから来たかわからないということを示すために、「não sei de onde」を使うのです。

 例を見てみましょう。

 

 Não sei de onde ele apareceu.

 (どこからともなく彼は現れた)

 Não sei de onde esse cheiro vem.

 (どこからともなくその匂いがやって来る)

 Não sei de onde o carro veio.

 (どこからともなく車が来た)

 

 反対に、知らない場所へ行くときは、こうなります。 

「どこへともなく」=「Não sei para onde

 

 Não sei para onde o pássaro voou.

 (どこへともなく鳥が飛んでいく)

 Não sei para onde ele partiu.

 (どこへともなく彼は発った)

 

 今月もお読みいただきありがとうございました。今月は歳を取る話から始めましたが、ブラジルの女優スザーナ・ヴィエイラ(Susana Vieira)の面白いエピソードを思い出しました。若い頃は、その美しさのために、ドラマのヒロイン役を多くこなしました。78歳の今でもミニスカートやローブ・デコルテを着て、爪を長く伸ばしています。ある時記者がききました。

 

「若い娘のような恰好をして恥ずかしくありませんか?」

「私は自分が老人の恰好をしているのでも、娘の恰好をしているのでもありません。スザーナ・ヴィエイラの恰好をしているのです」

リリアン・トミヤマ(Lilian Tomyama)

 
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岸和田仁

ニコライ・ヴァヴィロフ
(ロシア(ソ連)の生物学者・農学者、1887-1943)

 矛盾による行き詰まり状態は気違いじみた出来事を引き起こした。国全体の予算を事実上決定し、残りのすべての州の財政をも賄い、経済的行き詰まりの状況下にあるこの国のすべての行政機関が事実上存在しているサンパウロ州が、独立国家として分離する、という問題が持ち上がった。騒動が発生し、州と州の間で戦争が始まった。しかしこれは蜂起したサンパウロ州側が崩壊することで終わった。この戦争という出来事は、またそれでなくても緊迫した財政下にあるこの国に、また大きな混乱をもたらしている。

 ブラジルの広大な内陸地帯はいくらか標高が高くなっていて、排水は良好であり、熱帯森林地域とは著しいコントラストを示している。ここはかなり乾燥性の土地であり、しばしば干ばつが起こる。周期的に何か月間も降雨がなく、植生は乾き切ってしまう。この地域の境界の辺りのところ、または灌漑をしている地域の範囲内にある地域においてさえ、もっともっと広範囲にわたって綿花栽培が可能である。綿花は本質的に乾燥地帯の植物である。

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 かつて、「ルイセンコ学説」なるエセ科学理論が一世を風靡していた時代があった。1940年年代から1950年代にかけて、独裁権力者スターリンにすり寄って、非科学的屁理屈を“正統科学理論”に”昇格”させた“学説”でしかなかったのだが、戦後の日本でも科学者から歴史学者まで多くの「ルイセンコ信奉者」が権勢を振るっていた時代があったのだ。

 俗っぽい解説を試みると、まず、ロシア革命後のソ連が直面した食料不足問題があり、そこに登場したのが、小麦の生産性を“革命的に向上できる”という科学理論(を装ったもの)であった。ルイセンコ学説のポイントは、「生物体の遺伝性を規定するのは、固定的な遺伝子ではなく、環境の変化によって生物体の物質交代の変化が起き、その変化が生殖細胞形成の過程に関係すると、これが遺伝的になる」というものだ。

 ルイセンコ(1898-1976)によれば、生物学の基礎学説とされるメンデル遺伝学は、“ブルジョア理論”でニセ科学に過ぎないから、遺伝子そのものを認めない、という立場だ。

 このムチャクチャ学説をルイセンコが発表したのは、1936年だったが、これを政治的に利用できると判断したスターリンが大絶賛したことで、一挙に、ソビエト党官僚制社会の階段を飛び上っていく。彼がソ連科学界の最高地位であるソ連科学アカデミー遺伝学研究所所長に抜擢されたのが、1940年だった。スターリン永眠(1953年)のあとは、フルフチョフに取り入り、この地位に1965年までしがみついた。

 この「偉大な科学理論」に反対した科学者は職を追われ、収容所送りとなったが、3千人を超える科学者が投獄され、その多くが収容所や刑務所で獄死している。

 メンデル遺伝学の世界的権威であったニコライ・ヴァヴィロフもこの「大粛清」の被害者であった。彼は、植物学、生物学、遺伝学を専門としたが、語学の天才でもあり、西洋主要語はもちろんペルシャ語にも堪能であったから、1916年のイランとパミールへの調査行を手始めに、1940年まで65か国を訪問し、資源植物のルーツを探索した地理学者でもあった。サラトフ総合大学教授などを務めた後、国立実験農学研究所所長、全ソビエト応用植物学・新栽培植物研究所所長、ソ連邦科学アカデミー正会員をへて、1929年ソ連邦科学アカデミー総裁に任命されたが、1940年逮捕され、苛酷な取り調べの後、1941年有罪(銃殺刑)の判決を受け、1943年サラトフ刑務所にて病死した。彼の名誉回復は1955年であった。

 世界中の訪問先には、日本(1929年、北海道から九州まで)も米大陸(北米からチリまで、ブラジルは1932年末から33年初め)もはいっており、その主要な旅行記録は『ヴァヴィロフの資源植物探索紀行』(原著1962年、木原記念横浜生命科学振興財団完訳、八坂書房、1992年)で読むことができる。   

 冒頭に引用したのは、サンパウロと中西部の部分であるが、アマゾンの章からも下記を引用しておく。

岸和田仁(きしわだひとし)

 

 アマゾン川には青色、バラ色、空色、まだら色など多彩な色彩のアマゾン固有の魚が豊富にいる。水の深度によって色調が変わり、そこを数多くの魚が通り過ぎるという、しばしば普段とはまったく異なった光景から目を離せなかった。しかしこのアマゾン川の岸辺でもっとも顕著に見えること、それは豪華な植物相、そしてなによりもまずヤシの多様性である。植物学者はアマゾン流域で800種に達するヤシを数えており、本当の意味でヤシの王国である。ここで見られるような多様性、変異性の幅の広さは、世界中どこを見渡しても存在しない。

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コロナ禍で頭の中がグチャグチャです

 コロナ禍も1年半を過ぎ、ワクチン接種事業もすすんできましたが、まだまだ終息に向かう気配はありません。当地サンパウロ市では成人の8割方が予防接種を1回以上済ませた状況のため、1年以上前より続いていた規制がかなり緩和されましたが、依然新規感染者数が減りません(註1)。ワクチン接種が成功している国や地域を見ると、新規感染者は減るどころか増加が認められるが、入院数や死者数が減ってはいるので、これがワクチン接種の効果と言えるでしょう。つまり、コロナワクチンは感染を防ぐのが主作用ではなく、重症化を防ぐ効果があると言えます。接種先進国の英国は6月下旬にコロナ禍の規制を全て解除しましたが、新規感染者数は爆発的に増加しています。これをみると、新型コロナウイルス感染症をワクチン接種によっていわゆる「普通の風邪」程度に変化させる政策であることがわかります。普通の風邪だと医療サービスの圧迫がないので医療崩壊しないというわけですね。

 ワクチン接種が進んでないのに、とんでもないことを実施している所はこのコラムの24人の読者様もよくご存じです。先月の23日より東京五輪を開催している日本です。はっきり言って、利権・商権・政治的操作の権化と化してしまった五輪には筆者は関心がないのですが(註2)、今回は流石にコロナのため延期されてから膨大なニュースになっているので嫌でも耳に入ります。現時点での関心は緊急事態宣言下で行われているこの「ゴリ(ん)押し東京大会」がどのように感染を拡大させるかといった疫学的・医学的なところですが、今までの経緯を見ていて連想するのが、精神科領域の「統合失調症(2002年まで精神分裂病と呼ばれていた)」です。統合失調症は深刻な精神病の一つであり、幻覚や妄想、まとまりのない思考や行動、意欲の欠如などの症状を示す精神疾患と定義されてます。政府や組織委員会の行いは正にこの定義に当てはまるのではないでしょうか?外出規制や飲食の規制などを呼びかける反面、五輪は全て例外で大量の人流を起こす。できるわけのない五輪関係者に対する規制(プレーブックとかいうやつです)を発行して「安心安全」と言っている辺りは医者からみると幻覚や妄想でないの?と言わざるをえませんねえ註3)。

 

『開催前は批判的だったマスコミもいざ始まるとなるとコロッと論調を変える辺りや「ここまで来たので応援する」と言っている人なども分裂症状でしょ』

 

 もちろん組織や官公庁、マスコミなど法人の統合失調症は存在しません。しかし相反する行動を見たり要求されたり、そのような情報に曝される側にとってはストレスになります。一般的な日本人は五輪を楽しみたい反面、五輪のため感染者が増えるのが怖いといった精神状況であると思います。コロナ禍でみんな大変な思いをしているところにこのストレスの負荷です。医学的には決してよろしくないとしか言えないです。コロナ禍は人類が経験したことのない抑制的な生活、将来の不安、死への恐怖など、巨大な心理的圧力をかけてきました。そのため、次の二つの精神的障害が去年より多々見られるようになっています。

①不安障害

②プロカスティネイション(procastination、和名なし)

 

 前者は不安神経症とも呼ばれ名称のとおり、心配や恐怖を普段以上に抱いてしまい、生活に支障を起こす状態です。後者は日本語では「延期、引き延ばし、ぐずぐずすること」などと呼ばれ、「しなければならないことを翌日に延ばす(それで翌日にはまたその翌日に延ばす)」状態です。

 プロカスティネイションの例をあげると、「試験勉強をしないといけないのに先延ばしにして、勉強しない」があります。「やらないといけないこと」がストレスになり、ストレスを避けるためにしないのがその場では精神的防御になりますが、結局やらないことによって結果が宜しくないので、さらにストレスが増えるといった心理的な罠であると説明されます。コロナ禍の場合、自宅待機になったり、テレワークになったり、失業したりなど、思ってもいない時間ができたので、「その時間を有効利用してさらにレベルアップ、今まで時間がなくてできなかったことをする」などがコロナ禍を上手に過ごす方法だと言われました。でも、結果としては「やらないといけないこと」が増えてさらにストレスが増大したわけです。それで、これらのストレスがさらに不安障害の糧となり、今度はうつ状態になったりするのです。コロナ禍では「できない」のは単に怠けているのではなく、「引き延ばし」が起こっているかもしれないし、さらに状況が悪化して「うつ状態」になっている可能性が大です。2012年4月にひとりごとしたようにうつ状態の原因は器質的疾患もありうるので、それらを判別する必要がありますが、コロナ禍で受診控えが起こり診断がついていないことも考えないといけません。

 

『日本では「安心安全」と言われば言われるほど、ストレスが増える。現状がそうではないことを示しているから。ブラジルでは「もう大丈夫だから規制緩和!」と言われてもまだ毎日1000人以上コロナで死亡している現状ではストレスにしかならん』

 

 不安障害は精神科領域では「minor disorder(軽度な障害)」に分類されますが(註4)、普段の生活に支障をきたします。次のような状況や症状がある場合は受診控えしないで医師の診断を受けることをお薦めします。

 

《状況》

・人間関係や場所や状況を避ける、注目を浴びないようにする

・電話に出たり、人前にでたり、他人と話しや食事したりすることができない

・毎日のように不安、緊張、心配、恐怖を感じる

 

《症状》

・漠然とした不安や恐怖

・イライラしたり、ちょっとしたことに敏感になっている

・集中できない、落ち着きがない

・同じことを何度も考えてしまう、同じ行為を繰り返す

・動悸がしたり、胸に違和感や不快感がある

・肩こりや頭痛がある

・腹部に違和感や不快感がある

・吐き気があったり、喉が詰まったような感じがする

・息切れや息苦しさがある

・眩暈やふらつきがある

・突然汗がでたり、身体の震えがでる

 

註1:サンパウロ市に限っては入院数は減少しています。

註2:北京大会から観ていません。都合良く利用されている選手やボランティア、子供たちがかわいそうです。

註3:ゴリ押したIOCは反面、ブレないですね。最後まで利権を守った。分裂症状はないです。

註4:因みに「major disorder(重度な障害)」は、大うつ性障害、双極性感情障害、統合失調症、薬物依存症、認知症、人格障害、発達障害、等。


 

診療所のホームページにブラジル・サンパウロの現状をコメントした文章を記載してますので、併せてご覧いただければ幸いです。

 

秋山 一誠 (あきやまかずせい)。サンパウロで開業(一般内科、漢方内科、予防医学科)。この連載に関するお問い合わせ、ご意見は hitorigoto@kazusei.med.br までどうぞ。診療所のホームページ www.akiyama.med.br では過去の「開業医のひとりごと」を閲覧いただけます。

 
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白洲太郎

第65回 実録小説『ゲーノージンじゃないから仕方ない』

 2021年6月20日。

 しらすたろうはYouTubeからの通知にホッと胸を撫でおろしていた。『ブラジル露天商しらすたろう』チャンネルを開設してから、早1年と2か月。念願だった収益化がようやく叶い、ついに太郎の動画に広告がつくようになったのである。それまでに作った動画はおよそ110本。芸能人がたった数分でチャンネル登録者数1000人を達成するのを恨めしげに眺めながら、砂を噛むような思いで動画制作を続けてきたが、ついにスタート地点に立つことができたのである。本来ならば感慨もひとしおといったところであるが、思いのほか太郎は落ち着いていた。というよりもむしろ、己の不甲斐なさに腹が立っていたくらいである。知名度ゼロからのスタートとはいえ、自分と同じような境遇のチャンネルがぐんぐんと伸びていく様を山ほど見てきたし、それに引きかえオレはなんだ? という嫉妬とも羨望ともつかぬ感情が、怒涛のごとく湧き上がってくるからであった。

 例えば、同じような時期にチャンネルを開設したベトナム在住のある女性は、すでに登録者数4万人を突破しており、動画を公開するたびに数万回再生されているし、太郎と数日ちがいでチャンネルを始めたアラフォー女性は、しばらくの間、登録者数6人という頼りない数字であったが、気がつけば半年足らずで5000人を突破している。ヒットした動画は50万回以上再生されており、1万回はおろか5000回再生の動画すらもたぬ太郎にとっては、夢に見るような数値であった。この女性、仮にハナさんとしておくが、顔出しはせずに、自らの手取り給料とその使い道を公開するというスタイルで人気を獲得しているようである。 

 ベトナム在住の女性は『無職・貧乏の独身女』という設定を売りにしているが、再生回数から類推する限り、YouTubeから相当の収益を得ていると思われ、画面越しにもかかわらず、すでにオーラすら漂っているように見える。この2人以外にも、チャンネル開設から一年足らずで大成功を収めている輩は多数存在しており、『ゲーノージンじゃないから仕方ない』という言い訳は、もはや通用しないのが現状であった。収益化を達成したといっても太郎程度の再生回数ではいくらもらえるか知れたものではない。聞くところによると、YouTubeからの収益は100ドル単位でなければ受け取れないらしいが、その数字に達するのに何か月かかるのか、今の太郎には想像すらできなかった。

 もともと金だけが目的で始めたチャンネルではなかったが、広告がつくようになった以上、数字は意識する必要があるし、収益が上がれば動画作りへのモチベーションにもなる。太郎はどうにかして、底辺ユーチューバーの座から抜け出したかったが、何をどうすれば良いかがわからない。大したことをしているようには見えないチャンネルが数万回再生の動画を連発しているのを目の当たりにすると、自分もいつかは…という期待が高まってしまうが、その期待は例外なく裏切られてきたのである。

 なんとかしなければ…と太郎は思う。しかしこれまでと同じことをしていてもジリ貧は目に見えているのであり、かといって何をどのように工夫すれば良いのか、皆目見当がつかない状況なのである。チャンネルを成功させるにはコツコツも大事だが、やはりブレイクスルーしなければならない。つまりどうにかしてバズらなければならないのであるが、これまで一度もバズったことのない太郎にとって、それはまるで宝くじに当たるのと同じくらい現実感のないことであった。とはいえ、このまま何の工夫もなしに動画投稿を続けていても、大した成果は上がらないだろう。であれば、やはりトレンド。流行りの話題を取り入れるべきなのか? しかしブラジル生活をテーマにしている以上、それ以外の話題でバズったとしても、所詮は一発屋で終わってしまう。ブレイクするにはチャンネルのコンセプトに合致したうえでバズる必要があるのである。一体どうすれば…太郎は頭を抱えたが、ここはひとつ徹底的に視聴者目線になって考えることが肝要だ。と思い直し、何はともあれ企画を書き出してみることにした。

 ブラジルといえば、まず思いつくのが美女である。したがって、美女が登場する動画を作ればよい。しかし視聴者は美女のどういう動画が見たいのであろうか? ここでエロに走るのは簡単だが、露骨な映像はYouTubeのコンプライアンスに引っかかる可能性がある。あくまでセクシー程度にとどめておく必要があるだろう。であれば、とにかく谷間。それとクンクンに引っ張りあげられたホットパンツを着用してもらえばブラジル娘らしいコスチュームの完成である。さあ衣装は決まった。あとは彼女が動画で何をするかであるが、重要なのは、あくまでしらすたろうチャンネルのコンセプトに則っていることである。ならばやはり舞台はフェイラか? しらす商店に入社したブラジル美女が青空市場で男性客を悩殺、売上げもガンガンに上がって、オレはその金でフェラーリを買う。ヘリコプターも買う。ついでに宇宙へも行く。そうやってブラジリアンドリームを体現していく様をリアルタイムで配信するのである。視聴者は太郎がどのようにして世界のTarô になったのか、その過程を詳細に知ることができるし、賢い人はその成功物語を自分の人生に活かすかもしれない。であればオレも嬉しいし、視聴者も嬉しい。大切なのは見てくれる人たちとウィンウィンの関係を築くことである。それができれば成功したも同然だ。わはははは…。

 などと呟きながら、太郎は企画書をびりびりに引き裂いた。ブラジル美女のプランは荒唐無稽にも程があるが、バズるにはそれくらいのインパクトが必要なのであって、成り上がるための企画立案は依然として難航している。しかし諦めなければいつかキラーコンテンツが見つかるはずだ。

 太郎はそんな夢を見ながら、今日もスマホの無料アプリで動画制作を続けている。着古したティーシャツとボロボロの短パンをはきながら、目だけはどぎつく、ギラギラと輝いていて。

​白洲太郎(しらすたろう)

 
 
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ボーロ・デ・マンジオカ

先生 ルシーさん
Luci

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 ブラジルを代表する食材といえばマンジオカ(キャッサバ)。その新鮮なマンジオカとココナッツから作る、ブラジル東北部由来の焼ケーキ「ボーロ・デ・マンジオカ」は、餅っぽい食感もポイント。焼きたてのうちに Bom apetite!! (ピンドラーマの Youtubeチャンネルで動画を視聴できます)

【材料】

・マンジオカ Mandioca crua...1kg(皮をむいたもの) 

・ココナッツ Coco fresco ralado...2カップ(フェイラなどで販売されている削りたての新鮮なもの) 

・砂糖 Açucar...2カップ

・バター Manteiga...120g

・卵 Ovo...4個

・牛乳 Leite...450ml

・ベーキングパウダー Fermento quimico...大さじ1

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【作り方】

①一口大に切ったマンジオカを200gずつ、浸るくらいの水と一緒にミキサーにかける(約30秒)。

②ボールにこし布を置き①を流し入れ、汁を絞る。布に残ったマンジオカは別の容器に分けておく。しぼり汁をミキサーに戻し、残りのマンジオカも同じ作業を繰り返す。

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③卵黄と卵白に分け、卵白をツノが立つまで泡立てる。

④砂糖、バター、卵黄、牛乳をよく混ぜ、②で水分を取ったマンジオカとココナッツを加えてさらに混ぜる。

⑤④に、ベーキングパウダーと③を加えて全体を混ぜ合わせる。

⑥バターを塗って小麦粉をまぶした直径25cmほどのリング型容器の7分目まで生地を流し込む。

 

⑦230度に熱したオーブンで50分から1時間焼く。冷めたら型から抜く。

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インディオの食文化だったマンジオカが、ヨーロッパ風レシピにアレンジされ、アフリカの女性によって作られていたというボーロ・デ・マンジオカ。今日まで広く親しまれているブラジルオリジナルのケーキです!

◆今回の先生◆

ルシーさん Luci Judice

バイーア州サルヴァドール生。ジャーナリスト、フォトグラファー、料理教室の講師として活動。日系三世のご主人と結婚し、一昨年には初孫が誕生。バイーア料理をはじめとするブラジル料理教室を、日伯援護協会や佛心寺の婦人部などで開催してきた。

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おおうらともこ(文と写真)

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下薗昌記

第141回 ヂーニョ

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 ブラジル人が愛して止まないフッテボウ・アルテ(芸術サッカー)。創造性に満ち溢れたプレーや、ドリブル、フェイントが百年以上、多くのブラジル人に喜びを与えて来たが、そんな芸術性を真っ向から否定した男がいた。

 彼の名前はエジ・ウィウソン・ジョセ・ドス・サントス。いかにもブラジル人にありがちな長い名前を語る必要はない。グレミオのサポーターにとってはアルファベット5文字もあれば十分だ。

 Dinho――。グレミスタたちはヂーニョの登録名で知られたファイターのことを永遠に忘れはしない。

 1966年、セルジッペ州の小さな町に生を受けたヂーニョはアラカジューにある小さなクラブ、コンフィアンサでキャリアをスタートさせる。

 泥臭いプレースタイルとは対照的に、数々の栄冠に満ちた華やかなキャリアで最初に浴びたスポットライトは1992年から2年間所属したサンパウロでのものだった。

 テレ・サンターナ率いる黄金時代に2度のコパ・リベルタドーレスとトヨタカップ制覇に貢献したヂーニョだが、1994年に移籍したサントスでは定位置をつかみきれず、1995年にグレミオで出直しを図った。

「パンパの盗賊」の愛称で知られたヂーニョだが、彼が盗むのは金銀財宝ではなく、相手ボール。まさに「殺人タックル」という表現がふさわしい、深いタックルで相手ボールをかっさらい、そして時に相手選手の足までも削ったものだった。

 よりファウルの適用が厳格化されている現代サッカーなら、炎上案件となりかねないほど時にラフプレーも厭わなかったヂーニョだが、その信条を象徴するような言葉が残っている。

「ボールをまたいで、どこに向かおうとしているのかわからないようなロビーニョは見たくないね。もし奴が俺の前であのフェイントを見せようものなら、首根っこをへし折ってやるさ」

 火事と喧嘩は江戸の華と言ったものだが、ヂーニョのキャリアにおいて、ハードタックルと乱闘は付き物だった。

 グレミオに移籍した当時、チームを率いていたのはフェリポンことルイス・フェリペ・スコラーリ。この厳格な指揮官もまた、芸術サッカーの対義語でもあるフッテボウ・レズウタード(結果のサッカー)の信奉者だったが、そんな監督にとってヂーニョは頼もしい懐刀であり続けた。1995年には自身にとって3度目となるコパ・リベルタドーレス制覇を果たし、一気にグレミオサポーターの心を掴んだのである。

 そしてグレミオでのラストイヤーである1997年にはコパ・ド・ブラジルでも優勝。無骨なハードワーカーはブラジル代表に全く縁がなかったものの、その長いキャリアにおいてクラブシーンで考えうる全ての栄冠を手にしていた。

 引退後は指導者やポルト・アレグレ市議も経験したヂーニョだが、今はポルト・アレグレでの生活を満喫する日々である。

「サポーターが街中で、僕に対して示してくれるリスペクトぶりに魅了されたんだ」

 ライバルであるインテルナシオナウのサポーターにとっては忌むべき存在であろうが、グレミスタにとっては南米王者に輝いた永遠のヒーローだ。

 かつてヂーニョがプレーした当時のスタジアム、オリンピコは取り壊されたが、現在の新たなホーム、アレーナ・ド・グレミオにはグレミオのサポーターが横断幕に掲げた有名な言葉が刻み込まれている。

「練習は試合、試合は戦争」

 パンパの盗賊と呼ばれた男は、まさに戦争を戦い抜いたのだ。

​下薗昌記

 

​ブラジル、サンパウロ