2021年9月号 vol.183

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目次

ファインダー

鶴田成美

移民の肖像

松本浩治

ポルトガル語ワンポイントレッスン

リリアン・トミヤマ

せきらら☆難民レポート

​おおうらともこ

開業医のひとりごと

秋山一誠

カメロー万歳

白洲太郎

簡単おいしい!ブラジルレシピ

先生:フセイン・アリナリさん

クラッキ列伝

下薗昌記

今月号のスポンサー一覧

 

幻の創刊準備号

​(2006年6月号)

Kindleで復刊

​2020年7月号

​2020年8月号

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颯爽と自転車が行く。

太陽の光も当たらず、自然のものは人間だけ。

 

普段は車の行き交う道路、背景にはぎゅうぎゅうに詰まった建物。

 

カラフルだけど燻んでいて、人の表情もなんだかパッとしない。

 

私が思うサンパウロはこういうところなのだが、みんなにはどう見えているのだろう。

鶴田成美(つるたなるみ)

 
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写真・文 松本浩治

綿花栽培を行う峰忠司(みね・ただし)さん

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 サンパウロ州北部のイトゥベラーバ市を拠点に、大ファゼンデイロ(農場主)として綿花栽培を行う峰忠司さん(58、佐賀県出身)。1957年、前田常佐衛門(まえだ・つねざえもん)氏(故人)の呼び寄せにより渡伯した峰さんの家族は15年間、前田農場で働いた後に独立した。ブラジルに渡ってきた当時、峰さんはまだ11歳の子供だったという。

 その頃から途絶えることなく綿作りに従事してきた峰さんは現在、イトゥベラーバを中心とするサンパウロ州をはじめ、ミナス・ジェライス州、マット・グロッソ州合わせて4700ヘクタールの土地を所有している。しかし、その態度に奢りはなく、他の農業関係者からも積極的に情報を収集するなど、アグロビジネスに対しての熱い思いを見せる。

 峰農場全体で扱う綿の量は、知人の栽培分も合わせて年間7000トン(2004年当時)。一包み200キロの原綿が3万5000個できる計算だ。

 綿花から原綿にするまでの過程や大型機械による収穫について説明してくれた峰さんは、
「ブラジルは貧乏な国だが、自分たちはアメリカよりももっと勉強している。アメリカはその年の収穫量が悪ければ政府が援助する。ブラジルはそれがないために、常に自分たちの力でやっていかなければならない」
と語気を強める。
「日本では小学校も卒業していない」
と笑う峰さんだが、話が専門の農業関係におよぶと、その目は急激に鋭くなる。訪問者の質問には、ポケットから電卓を取り出し、瞬時に具体的な数字をはじき出していく。

 イトゥベラーバ市にある事務所から南へ10キロほど離れた同氏所有の原綿倉庫には、1台100万レアル相当の大型収穫機械が何台も並んでいる。最も大きい6連の「爪」のある機械では1回で40~50トンの収穫能力を有するという。しかし、収穫の効率を良くするためには、畑の状態を良くしなければならないと強調する。

「国の違い、品種にもよるが、私の経験では(収穫する際の綿花の)背丈は、1.2~1.3メートルが一番いい」
と峰さんは、長年の経験から得た知識をもとに、そう語る。

 倉庫内には、ひときわ蛍光灯の明るい部屋がある。原綿の検査室だ。二重扉にしているのは、外光と部屋の明るさの違いで検査の狂いをなくすことが目的だという。

 「(綿を)売る側にとっては、商品を少しでも良く見てもらいたい」

 峰さんの細かい工夫と配慮が、大農場主としての地位を揺るぎないものにしているようだ。

 原綿倉庫から約20キロ離れた場所に峰さんの農場「ファゼンダ・シングー」があり、土道(つちみち)の両側には1メートルほどの高さに伸びた綿花が一面に広がる。深い緑の葉の間から、黄色味がかった白い花がところどころ咲いているのが見え、しぼんだ花は赤色に変色してしまっている。綿の花の特徴だという。収穫は4月下旬から5月はじめに行われるが、その6割はすでに先売り済みだそうだ。

 農場での収穫作業など実際に行うのはブラジル人労働者たちだが、

「例えば(収穫機械を操作する)運転手には、どういうつもりで収穫したいのかという、こちらの意見をきっちり出さなくてはならない。単に『ああやれ、こうやれ』と言うのではなく、現場の意見も聞く必要がある」

と峰さんは、一日一日変化していく現場の大切さを重要視している。

 農場内には日本庭園や人工池が造成されたゲストハウスがあり、上質の牛馬も飼育されており、その整備された光景には圧倒されるばかりだ。

 しかし、峰さんは言う。

「綿作りにおいて、まだまだ卒業はない」―。

あくなき挑戦が日々、続いている。

(2004年1月取材、年齢は当時のもの)

松本浩治(まつもとこうじ)

 
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リリアン・トミヤマ

「falar」か「conversar」か

 ブラジル・ロレアル社の社長、ベルギー人のアン・フェアフルスト=サントス(An Verhulst-Santos)さんのインタビュー記事を読みました。彼女によればブラジルはオープンエア・ラボラトリーだそうです。ブラジルはロレアル社がカタログ化した直毛から縮れ毛までの頭髪8種類、同社研究員が分類した66種類の肌色のトーン66種類のうちの55種類がある唯一の国なのです。 

 彼女はとても興味深いことを話して(falou)いますね。いや、彼女はとても興味深いことを話して(conversou)いるのでしょうか?

 この場合、正しいのは「falou」です。

 

 Ela falou uma coisa bem interessante.

 (彼女はとても興味深いことを話しました)

 

 どう説明すればいいでしょうか?

 多くの辞書でこのふたつの単語は同義語として出てきますが、ひとつ違いがあります。

 「falar」は「言葉で(自己)表現する」という意味です。

 真剣な話題である可能性があります。


 

 Ela falou sobre os projetos profissionais.

 (彼女は仕事のプロジェクトについて話した)

 O professor vai falar sobre Direito Trabalhista no Brasil.

 (先生はブラジルの労働法について話す予定だ)

 O jornalista falou sobre a crise política.

 (記者は政治危機について話した)

 

 形式ばらない話題のこともあります。

 

 O jornalista da TV vai falar sobre o novo escândalo do ator.

 (記者は男優の新たなスキャンダルについて話すつもりだ)

 Ele gosta de falar sobre a esposa e os filhos dele.

 (彼は奥さんと子どもたちについて話すのが好きだ)

 Você não pode falar com a boca cheia!

 (頬張ったまま話してはいけない)

 

 また、「falar」はある特定の言語を自由に操れるという意味でも使うことができます。

 

 Eu falo português, inglês e francês.

 (私はポルトガル語と英語とフランス語ができます)


 

 一方、「conversar」は、相互作用がある、対話者がいるという考えが大きくて、人と人との交換があるということです。

 

 Eu conversei com os investidores.

 (私は投資家たちと話した)

 O médico conversou com o paciente.

 (医者は患者と話した)

 O diretor conversou com a equipe por duas horas. 

 (取締役はチームと2時間にわたって話した)

 

最後の例文では「falar」も使えますが、「conversar」を選ぶ時は取締役とチームの間に相互作用、対話があったという考えを与えることができます。

 

 そういうわけで、TVグローボの記者ベドロ・ビアル(Pedro Bial)のインタビュー番組は「Conversa com Bial」という名前なのです。番組名から招待客と記者との間に強い相互作用があることがわかります。

 今月もお読みいただきありがとうございました。「conversar」ということで、精神分析学者で作家の故コンタルド・カリガリス(Contardo Calligaris)について私が読んだことをみなさんとシェアしたいと思います。4月7日のフォーリャ紙の記事で彼のパートナーが明かしたのですが、死の前日以下のような会話があったそうで、私はとても感動しました。

 

O que vai ser de mim sem você?(あなたなしで私どうなるかしら?)」

Vai ser o que você quiser.(君の望むようになるさ)」

リリアン・トミヤマ(Lilian Tomyama)

 
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おおうらともこ

第22回 マリ編

 この約10年間でより一層存在感を増すようになったヘプブリカ広場周辺のアフリカからの移民。通りにいる彼らの出身国を尋ねると、よく聞くのは、ナイジェリア、アンゴラ、セネガル、コンゴなど。

「マリ人を通りで見かけることは少ないはずです。私たちはあまり外で集まることはなく、もっぱら屋内で集まっているからです」

と語るのは、マリ出身のアダマ・コナッテさん(40歳、カラン生)。アダマさんは2013年11月に設立されたサンパウロ・マリ連合会の創設者の一人で、本業である会計士の能力を生かし、同会の専務理事を務める。マリ人だけでなく、近年ブラジルに来た新しい難民や移民の地位向上のための活動家としても、様々なセミナーや行政との交渉に当たっている。

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<アダマ・コナテさん>

■ひっそりと連携するマリ人コミュニティー

「ブラジルに来たばかりの時、マリ大使館やブラジル連邦警察ほか、公的機関での様々な手続きの煩雑さに悩みました。言語の壁もあり、職探しも困難の連続でした。それで、マリからの移民が連携することで困難を乗り越えることにしました」

 現在、サンパウロ・マリ連合会は約300人の会員がおり、毎年、マリの独立を祝う祝賀会を開催するほか、公的な手続きや就職のための案内や指導、マリに戻る必要があっても戻れなくなった人々への経済的援助や生活面での緊急支援などを行っている。アダマさんのもとには、ブラジルに来たばかりのマリ人から緊急に連絡が入ることも少なくない。アダマさんはセントロ地区でアパートをシェアして一緒に暮らすマリ出身のモウサ・ジアバッテさん(42歳、アンカール生/本誌2019年4月号参照)とともに、自宅を開放して、新しく来たマリ人のブラジル連邦警察での難民申請手続きの予約や書類作成などをサポートしている。

 モウサさんは、

「今は世界のマリ人のディアスポラ(離散)ネットワークもあります。日本の京都精華大学のマリ出身のウスビ・サコ教授ともつながっていますよ」

とにこやかに話し、マリ人ならではの連携姿勢を感じさせる。

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<アダマさんと一緒に暮らすモウサさん(右)とマリ人の友人たち>

■ブラジルとの最初の出会いは文学

 アダマさんは2012年7月にブラジルに到着。観光ビザで入国し、翌年に難民申請を行った。

「私がブラジルを知ったのは学生の時です。Kangni Alem (55歳、トーゴ生)が著したブラジルでの奴隷制に関する描写のある文学作品に出会い、ブラジルに来ることに興味を持ちました」

と話す。

 マリでも会計士の勉強をしていたが、ブラジルで学びたいという気持ちにも後押しされて、単身でサンパウロに足を踏み入れた。最初はホテルで滞在し、その後はブラス地区の移民博物館に隣接するアルセナル・ダ・エスペランサ(*1)(Arsenal da Esperança)でしばらく過ごし、情報を収集した。

 マリでは公用語のフランス語とマリンケ語、マンディング語を話し、英語、フランス語も勉強していたため、ポルトガル語も半年から一年ほどで慣れたが、最初はポルトガル語の壁にぶつかり、様々な手続き、住居探し、雇用の問題で困難にぶつかった。マリでは家族と一緒に不自由のない生活を送っていたが、異国では身の回りのこともすべて一人でこなさなければならなくなり、友人との助け合いの大切さを知ったという。

「マリでは基本的に女性が料理をするため、ほとんど台所に立ったこともありませんでした。サンパウロに来てから必要に迫られて料理も覚えました」

というアダマさん。今は自炊が基本で、毎日の食事にはじまり、生活に困った友人や来客が来た時には、マリ料理と一服のお茶まで素早く用意する姿はすっかり板についている。

「食材は安く手に入るのでいつもマリ料理を作ります。ブラジル料理は好きになれません。特にフェイジョアーダは…」

と言い、イスラム教徒のため、豚肉が入ったフェイジョアーダは食べられない。

「私は日本茶をいつも飲んでいますよ」

と見せてくれた愛飲するお茶は、ブラジルで日本人移民が生産している煎茶。この煎茶の種のオリジナルは、日本人が移民してくる時に寄港したアフリカで入手した緑茶ということで、アダマさんも「マリで飲んでいた味と同じ」と懐かしむ。日本茶とは飲み方は異なり、水から茶葉を入れ、沸騰してから10分ほど煮出し、好みで砂糖やミントなどを加える。コップから50センチ以上離れた高さから器用にお茶を注ぐ姿が印象深い(*2)

「食後に飲むと健康にいいんですよ」

との言葉通り、アダマさんとマリの友人たちは肌つやがよく若々しい。

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<マリ式のお茶をいれるアダマさん>

■人種差別や外国人差別は存在する

 

「サンパウロの人々は明るく移民を受け入れてくれ、多様性への自由があるのは確かです。しかし、連邦警察での書類審査の遅延、住居や雇用の確保、難民や移民の人権は決して尊重されているとは言えません」

と、特にアフリカからの移民や言葉ができない移民に偏見が持たれることを強調する。

 海外でマリ人の大きなコミュニティーは、ヨーロッパ、中央アフリカ、西アフリカ、米国にもあるが、アダマさんの家族は全員マリにおり、将来はできればマリに戻りたいと考えている。

「独立して、結婚して、マリで家族と一緒に生活することを願っています。何かに不足したり、誰かに助けを求めたりすることなく、人生で私の魂である両親を助けて過ごしたいです」

 

<註>

*1:旧移民収容所である移民博物館の施設の一部を利用して、身寄りがなく、仕事、食糧、健康などの問題を抱える、いわゆる「ストリートピープル」を一時的に受け入れ、社会福祉、洗濯、医療、識字能力の取得、図書館などのサービスを提供している。

*2:PindoramaのYoutubeチャンネルにアップされたマリ料理の動画および2021年7月号のレシピコーナー参照。

おおうらともこ

 
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若い人の順番がきました

 去年の8月に執筆したひとりごとには、「もう5か月連続でコロナの話なのだが、またコロナの話である」ことを謝っていました。で、それ以降止めたかというと、ずっとコロナに関する話題を毎月提供してきました(註1)。このコラムの24人の読者様も飽きてきたのではないかと心配しています。実際、この筆者は大分飽きてきます。診療所のホームページのコロナ現状のページも4月を最後に更新できてませんね。しかしコロナ禍は我々人生に多大な影響を起こし、実際の生活にも毎日何かおこり、ニュースが絶えません。このところ、ワクチン接種が当地でも日本でも進み、現時点では18歳以下のワクチン接種が焦点になっています。この件で診療所でも問い合わせがあるので、若い世代のワクチン接種について今月は考えていきます。

 サンパウロ州ではコロナワクチン接種事業が進んでおり、18歳以上人口の約98%、全人口の約75%が1回以上接種を済ませています(2021/8/25現在)。8月中旬より18歳以下が接種対象(註2)となりました。日本と同様に、「子供には接種させない」といった発言は散見しますが、例外的と言えるほど少ないのではないかと思われます。成人以下のコロナワクチン接種はワクチン開発時期より課題に挙がっていました。今年に入りインドで初めて確認されたデルタ株が世界中で猛威を振るうようになりました。この変異株は去年出回っていたコロナウイルスとは違い、若齢層が感染・重症化しやすい。そのため、できるだけ低年齢層にワクチン接種を広めるのが急務になっているわけです。

 

『コロナワクチン接種事業は各地で行われ、半年以上の実績が積み上げられてきた。ここまでで判明しているのは、色んな変異株がある中、各社より販売されているワクチンは感染や死亡を100%防ぐことはできないが、明らかに重症化を防ぐ効果はあるという事実だな。いわゆる防御率はワクチンの銘柄、人種、接種事業方法などの要因で変化があるので一律の成績ではないが、この事実は反論のしようがないでしょ。コロナ禍を終息するには大変有用な手立てであることを実証したと言える』

 

 ここでも以前ひとりごとしたとおり、コロナワクチンは市販までのプロセス、つまり開発や認可などは通常の方法ではおこなわれなかったため、スタート時点から疑問点が多いものでした。医学的に考察すると一番の問題点は長期的な安全性の検証ができていないところです。それには時間がかかりますがその時間がなかったという非常に単純な理由からですね。今回初めて使用されているmRNAワクチン(ファイザー製とモデルナ製)を含め、理論的には問題ないであろうと考えられますが、理論と現実は異なることがあったりするわけです。既に一般的に流通し、有用性と安全性が検証されているワクチン(例:麻疹ワクチン)にでも疑問を唱えるワクチン反対派がいますが、それこそ検証が不十分なコロナワクチンの場合はデマやフェイクニュースの最適の標的になります。コロナ禍の場合、始まった当初より政治的、権力的、経済的、価値観的な抗争に利用されたというか、巻き込まれましたので、正しい情報を選択するのがとても難しいと思います。日本の若者の間で流通している反ワクチンの情報は次のようなものがあるようです(註3)

 

• 接種したら妊娠できなくなる、流産する、妊娠できにくくなる

• 発熱が怖い、大きく腫れる、注射が痛い

• 注射が嫌い

• データが少なすぎる、いろいろ怪しすぎる、短時間でできたワクチンなんか信用できない

• 遺伝子が組み変わるらしい

• 人体実験に使われている

• 接種したら生命保険が無効になるらしい

• アレルギーとかある人は大丈夫かわからない

• 打っても感染したり、死亡したりする人もいる、ワクチンで死にたくない

• 接種して死亡した人が100人以上いるらしい

• コロナ感染していないのにワクチン打つ意味がわからない

• 自己責任で接種を決めるのは無理

 

 ブラジルでの反ワクチンの情報はこのような理由ではなく、どちらかと言うと、日本よりもう少し哲学的、価値観的であるように見受けられます。

 

• 宗教的な理由でワクチンは何であっても打たない

• 人工的な物質は自分の体内には入れない

• ワクチンは(どれでも)自閉症をおこす

• 自己決定権があり、政府が言っているとおりにはしない

 

『サンパウロ州の大人人口のほとんどが(1回は)接種しているように、反対派は極少数だな。なんか日本とは対照的だなあ。ワクチン接種に対する市民の意識は社会学や公衆衛生学の研究対象になるほどで、単純ではない。理由だけみると、ブラジルの方が意識高目に見えるけど、数からいくとブラジルの場合はあまり考えないで打ってると言えるかも。ブラジル人がコロナワクチン接種する理由は冗談のような次の3つがあるそうだ。

①ブラジル人はタダの物が好き

②ブラジル人は他の人がやっている事が気になり、自分もしたがる

③ブラジル人は(接種した)写真をSNSに投稿して“いいね”をもらう機会は逃さない。

これ結構本当だと思うぞ。日本人は不安ばかりが目立つなあ』

 

 宗教的や哲学的な理由でどうしても接種したくない方や、既往歴のため摂取できない方はともかく、ほとんどの反対理由は「説明不足」だと思います。なにが足りないかというと、

 

①コロナワクチンとはどういったものか、どのような工程で製造され、どのように認可されたのか

②ワクチンの利点と問題点の詳しい説明

③個人の判断で接種する場合と社会状態の判断で接種する場合の違い

 

 ブラジルの方がこれらの説明が丁寧にされているようです。しかし、一般市民のリテラシーはあまり高くないので、これだけほとんどの人が接種しているのは、なんといってもコロナ死亡者が圧倒的に多く、必ず自分のまわりにコロナで死亡した人がいるためだと思ってます。反面、日本では副反応の怖さばかりを報道して不安をあおり、それを受けるかどうかは個人の判断であると政府は突き放すのが、これだけワクチンを受けたくないニュースが出る理由だと考えます。日本の場合は結局同調圧力で接種しているように見えます。

 

『「みんなが正常な生活に戻るために(ある程度リスクがあるにしても)各自ができる措置である」という説明が足りない。また、コロナ禍であるにもかかわらず、GoToや五輪のようなイベントをして矛盾する情報を発信するからさらに判断が混乱する。医師として現時点でいえることは、「人と接触しない」方法(密を避けるですな)が上手くいかなかった(唯一その方法が上手くいった(と言ってる)所は中国、ほんまかいな)ので、ワクチンでコロナ禍を終息するしか方法がないのでは?』

 

 18歳以下の方の保護者は悩む所が多いと思います。確かに不安要素の多いワクチン接種かもしれませんが、一つ判明しているのは、「無症状感染でも後遺症がでることが多い」という事実です。痛いだの、熱がでるだの、といったような理由で接種しない方向の保護者はこの事実を是非考慮していただきたいです。あるいは既往歴などの考察もあると思いますので、疑問がある方はかかりつけ医に相談することが大事です。

 

『人間はまだおこってないこと(コロナ感染、後遺症)より、やっておこること(痛い、発熱する)を重要視するものだ。コロナワクチンの晩期副反応のリスクがコロナ感染症のリスクより大きく見えるのだな…』

 

註1:今年の4月だけ例外、物事の選択の話でした。

註2:8月29日までは有既往歴および妊婦、30日より一般の18歳以下。

註3:若者のHYさんの調査です、ありがとう!

 

 診療所のホームページにブラジル・サンパウロの現状をコメントした文章を記載してますので、併せてご覧いただければ幸いです。

 

秋山 一誠 (あきやまかずせい)。

サンパウロで開業(一般内科、漢方内科、予防医学科)。

この連載に関するお問い合わせ、ご意見は hitorigoto@kazusei.med.br までどうぞ。

診療所のホームページ www.akiyama.med.br では過去の「開業医のひとりごと」を閲覧いただけます。

 
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白洲太郎

第66回 実録小説『たまには人助けもいいんじゃない?』

 2021年8月7日、ブラジルでは父の日の前日ということで盛り上がるかに見えたフェイラ(青空市場)であったが、白洲商店の屋台には閑古鳥が鳴いていた。白洲太郎はビーチで使うような折りたたみ式のサマーチェアにもたれかかりながら、彼の妻になる予定のちゃぎのとオニギリを頬張っている。それにしても寒い。ブラジルは冬真っ盛りで、なんでも南の方では南極からの寒波が猛烈な勢いで押し寄せてきているらしい。常夏をイメージさせるこの国も、寒いときは寒いということなのである。

 客がまったく来ないといっても、それは時間帯のせいかもしれん。ベテラン露天商らしく、太郎は落ち着いた表情でそう分析していたが、その実、彼の心は今朝起こった事件により散り散りに乱れていた。目をつぶると、その時の光景がまざまざと蘇ってくる。まさに穴があったら入りたい、という心境であった。

 時は数時間前に遡る。

 夜明け前、太郎とちゃぎのは愛車ウーノを慎重に走らせながら、隣町へと向かっていた。暗闇の中に霧が立ち込め、かなり見通しの悪い状況ではあるが、運転できないというほどでもない。

 しばらく行くと、100メートルほど前方の反対車線に車のハザードランプが点灯しているのが見えた。目を凝らすと、誰かが止まってくれというジェスチャーで手を振っている。ちっ、めんどくせーな。思わず本音を口にしかけたが、これまでに散々、通りすがりのブラジル人に助けてもらっている手前、さすがの太郎も無視はできない。それに黙って通りすぎれば、愛しのちゃぎのにも軽蔑されてしまうだろう。そんな計算も働き、素直に車を止めた太郎であったが、新手の強盗じゃないだろうな、という警戒心も多分に持ち合わせている。

 ところが、車両の近くに佇んでいる青年をひと目見て、そんな不安は氷解した。とても善良そうなモレーノだったからである。傍らには金髪の婦人が肩を震わせて寄り添っており、車のなかには白髪の老婦人が毛布にくるまっていた。

 青年は助かった、という表情を隠そうとはせず、気がはやるのも無理はない、ラッパーのような早口で、パンクをしてしまったこと、ジャッキはあるがタイヤを交換するためのレンチがないこと、だからそれを貸してはくれまいか?

 というようなことを一気にまくしたてた。なるほど、事情はわかった。困ったときはお互い様、快く助けて進ぜよう。太郎は心の底からそう思ったが、問題なのはレンチが保管されている場所である。愛車ウーノの後部座席は仕事道具を運ぶために取り外され、そこに台車や屋台の骨組み、商品の入ったズタ袋、ミリタリーバッグ、パラソルや重し用の石など、ありとあらゆるものが積まれており、それらをすべて下ろさないことにはレンチを取り出すことができない仕組みになっていたのである。本気を出せば数分で終わる作業ではあるが、やはり億劫である。それにレンチを貸すということは、タイヤの交換作業が終了するまで待たなくてはならないということであり、せっかく市場に行くために早起きをしたのに…という狭い心が言葉となって表現されるのに時間はかからなかった。

「レンチ貸すのはいいけど、オレあんま時間ないからね」

 ちょっとぶっきらぼうな感じでそう言ってしまったのである。青年は急いで作業をするから、お時間は取らせませんよ。と恐縮しきりであったが、その瞬間、太郎は自分の意地悪な言葉にかすかな後悔を覚えた。とはいえ、これから荷を下ろさねばならぬことを考えると、手間であることに違いはない。この暗闇の中、車を止めただけでも親切だし、朝の貴重な時間を使っての救援なのだから、多少の無礼も致し方なし。太郎はそう己を納得させたのである。

 面倒くさいという気持ちもあるが、たまには人助けもいいんじゃない?

 と、ようやくポジティブな心境に至った太郎が愛車ウーノの後部ハッチを開けようとしたまさにそのとき、異変が起きた。カギをいくら差し込んでもハッチが開く気配がまったくしないのである。ここ数週間、たしかに愛車ウーノの後部ハッチはご機嫌斜めであった。オイルをさし、汚れを拭き取ってやることで、都度、その問題は解決したと思っていたが、まさかこの場面で再び!? 太郎はしばらくガチャガチャやっていたが、こうなってしまった以上、ハッチを外側から開けることは不可能である。レンチを取り出す唯一の方法といえば、車のフロントドア(太郎の車は2ドア仕様)から、コツコツと荷下ろしをすることであったが、そうした場合、かなりの労力になるのは目に見えている。さきほど意地悪な発言をしてしまった手前、できることはしてやりたいという気持ちになっていた太郎であったが、早朝とはいえ、決して交通量の少ない通りではないことから、青年らにとっても他の車を止めた方が良いという結論になり、太郎はなんの役にもたたずに放免されることになったのである。

 青年たちは一応、感謝の気持ちを述べてはくれたが、きまりの悪い太郎はそそくさと運転席に戻り、エンジンを始動させるしかなかった。中途半端な親切心が丸つぶれになった瞬間である。こんなことになるなら、せめて気持ちの良い対応をしてあげればよかった。と、後悔しきりの落ち武者風東洋人であった。あの意地の悪い発言でさえ、レンチを貸し出し、タイヤ交換が無事に終われば結果オーライ、『初めは嫌な人かと思ったけど、実はいい人だったんだね』という感想に落ち着き、日本人ってやっぱりgarantido(保証つき)やわ!と、尊敬されたに違いないのであるが、悪態をついたうえに役立たずとなると、言い訳のしようがないのである。

 早朝にこのような出来事があったため、太郎はその日1日をアンニュイな気分で過ごす羽目となった。

 人助けをするなら気持ちよく。

 それが相手のためでもあり、自分のためでもあるということを、太郎は40目前にして学んだのであった。

白洲太郎(しらすたろう)

 
 
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ムハラビヤ

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先生 フセイン・アリナリさん

「ムハラビヤ」はレバノンやシリアなど、アラブ人家庭でよく作って食べられている簡単スイーツ。風味の決め手がオレンジフラワーウォーター。今回はパンデミックでも客足の絶えないアラブ料理店『エスフィッハ・タイバット』のシェフ、レバノン人フセインさんにアラブ食材の豆知識までご紹介いただきました。

(ピンドラーマの Youtubeチャンネル動画を視聴できます)

【材料(200mlのカップ7個分)】

・牛乳 Leite...1ℓ

・砂糖 Açúcar...1カップ

・ココナッツ Coco ralado...1/2カップ

・コーンスターチ Maizena...1/2カップ

・オレンジフラワーウォーター Água de Flor de Laranjeira...大さじ2

[飾り]好みでココナッツ、クルミ Noze、アプリコット Damasco、ピスタチオ Pistacheなど。

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【作り方】

①牛乳、砂糖、ココナッツ、コーンスターチを鍋に入れ、中火にかける。10分ほどかき混ぜ続け、煮立ち始めてトロッしてきたら火を消す。

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②オレンジフラワーウォーターを加えてかき混ぜて完成。

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③カップに流し入れ、ココナッツやナッツ類、アプリコットなどを飾る。冷蔵庫で冷やし、食べる時は好みでローズシロップをかける。

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 アラブ菓子に必須のオレンジフラワーウォーター。料理や飲料の香りづけをはじめ、血圧が上昇して気を失いかけた時には、顔につけると意識が戻る薬効があるとのこと。砂糖と煮つめてローズシロップも作れます。ムハラビヤはお米を加えてもよく、花の香りの甘いお米のデザートは、和食の白ごはんとは対極的です!

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◆今回の先生◆

フセイン・アリナリさん

レバノンのタイベ生。14歳から飲食業に携わり、ブルガリアやルーマニアで生活した後、1997年よりブラジル在住。

ゲーム機や衣料品販売を手掛けてきたが、昨年8月にペルディーゼス地区で『Esfiharia Tayibat』(Rua Turiassú, 335 - Perdizes / 98833-0877)をオープン。

焼きたてへのこだわりと手頃な価格で、口コミで人気に。

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おおうらともこ(文と写真)

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下薗昌記

第143回 エウレル・エリアス・デ・カルヴァーリョ

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 ミナス・ジェライス州の二強といえば、言わずと知れたアトレチコ・ミネイロとクルゼイロ。しかし、同じベロ・オリゾンテを本拠とするアメリカもまた、確かなクラッキを輩出していた。

 ピッチ内を疾風の如く駆けたストライカーがいた。人は彼のことを「フィーリョ・ド・ヴェント(風の子)」と呼ぶ。エウレル・エリアス・デ・カルヴァーリョのことだ。

 ベロ・オリゾンテから180キロ離れたフェリシランジアで生まれたエウレルはヴェンダ・ノヴァという小さなクラブでその才能を磨いていた。

 1930年創設の歴史を持つヴェンダ・ノヴァだが、全国レベルでは無名。ただ、レイナウドやパリーニャ、フレッジらはこのクラブを踏み台にビッグクラブに羽ばたき、そしてブラジル代表にたどり着いているのである。

 ミナス・ジェライス州における隠れた登竜門的クラブでプレーしたエウレルがアメリカに引き抜かれたのはまだ下部組織に所属していた16歳当時のことである。

 スパイクを与える代わりにアメリカに移籍した、というのが定説だが、エウレルの述懐はこうだ。

「アメリカの監督がやってきて、5人の選手をチョイスした。その代わりに、アメリカはヴェンダ・ノヴァの寮にソファーマットやスパイクなどを提供してくれたんだ」

 1987年にアメリカにやってきたエウレルは1990年に一度はトップチームに昇格するもの、その後規律に問題があり、再び下部組織での出直しを強いられた。

 1993年にミナス・ジェライス州選手権でブレークしたエウレルだったが「風の子」としての名付け親は、かの著名な司会者ミウトン・ネヴェスである。若き日の彼もまた、ベロ・オリゾンテのラジオ番組で働いていたのだ。

 1994年にはサンパウロに移籍し、ミューレルとコンビを組んだ風の子だったが、様々な名門を転々とした後2000年から2001年まではヴァスコ・ダ・ガマでプレー。相棒はロマーリオだったが、ルイス・フェリペ・スコラーリが率い、南米予選で苦戦していた当時のブラジル代表でもプレー。貴重なゴールを決めていたことから、本大会行きも有力視されていたが、スコラーリが読み上げた日韓ワールドカップのブラジル代表メンバーにその名はなかった。

「悲しみは本当に大きかった。すごく泣いたよ」。

 その年、エウレルがアイドルと公言するジーコがかつてプレーした鹿島アントラーズ移籍も経験した。

 名門を渡り歩いたスピードスターがキャリア最後の舞台として選んだのはプロ生活の原点でもあったアメリカだ。2008年にはアメリカがミナス・ジェライス州選手権1部昇格に貢献。2011年にスパイクを脱いだ風の子だったが、第二の人生で選んだのは指導者としての道である。

 現役時代はブラジルと日本でしかプレー経験がないエウレルだが、スペインのバレンシア州にあるサフォル・クラブで監督を務めている。

下薗昌記​(しもぞのまさき)

 

​ブラジル、サンパウロ