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2021年10月号 vol.184

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画像をクリックするとissuu.comのPDF版がご覧いただけます。

目次

ファインダー

            鶴田成美

移民の肖像

            松本浩治

ポルトガル語ワンポイントレッスン

          リリアン・トミヤマ

カメロー万歳

            白洲太郎

クラッキ列伝

            下薗昌記

ブラジル版百人一語

            岸和田仁

今月号のスポンサー一覧

幻の創刊準備号

​(2006年6月号)

Kindleで復刊

​2020年7月号

​2020年8月号

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作家で言うと村上龍のような。

あたかも自分がそこにいて、匂いがしてきそうな「生」の感触がすきだ。

 

人がいて、生活があって、泥があって、奥にはコンクリートの街。

私がこの写真がなんとなく好きなのも、こういう場所になんとなく惹かれるのも、

きっと「生」をより感じられるからだと思う。

鶴田成美(つるたなるみ)

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写真・文 松本浩治

横断幕文字を書き続けた佐々木正男(ささき・まさお)さん

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 ブラジル徳島県人会長や老人クラブ連合会(現・ブラジル日系熟年クラブ連合会)副会長などを歴任した佐々木正男さん(徳島県出身)は、数十年にわたって日系団体等から依頼された横断幕の文字を自筆で書いていた。字を書くことが上達した背景には、若き日の忘れられないロマンスがあったという。

 佐々木さんは18歳の時、自ら志願して徳島西部軍33部隊に入隊。乙種士官候補生として昇進し、4年後には軍曹になっていた。当時、佐々木さんは徳島県内の市役所の戸籍課で働く恋人と手紙のやりとりをしていた。

「彼女は戸籍課にいたこともあって、字がとても達筆でした」

 しかし、当時、字を書くことに自信がなかった佐々木さんは、恋人から手紙が来ても返事が書けず、字の上手な同僚に代筆を頼んでいた。戦時色が濃くなり、周りの同僚が戦地に赴きだすようになると、代筆を頼める人もいなくなった。終戦前年の1944年には佐々木さんにも中国・福州行きの任務が下り、恋人とのやりとりは途切れてしまった。 その後、恋人との手紙のやり取りをしたい一心で、字を書くことに執着心を覚えだした佐々木さん。戦地を逃れて誰もいなくなった中国人の家の中に残された硯(すずり)や筆を持ち帰っては、新聞の活字を手本に木片や紙屑などに字を書く練習を繰り返したという。

 日本の敗戦により、2年近く上海で捕虜生活をおくった後、徳島に帰郷して復員した。しかし、恋人はすでに佐々木さんが戦死したと思い、別の男性と結婚していた。

 戦後の職がない中で消防署への勤務が決まった佐々木さんは戦地での字の練習が実り、署内の庶務課に抜擢されたことで、さらに字を書くことが上達していった。

 56年にブラジルに渡ってきた佐々木さんは当初、パラナ州カンバラ移住地に入植したが、同地で過ごした17年間は慣れない生活に追われ、字を書くどころではなかったという。その後、サンパウロ近郊のサント・アンドレ市に転住。生活に余裕が出てきた佐々木さんは、地元のサント・アンドレ文化協会で改めて書道を習いはじめ、字の上手さが評判となった。これがきっかけとなり、同文化協会等の日系団体から周年行事など記念式典の際の横断幕の文字書きを依頼されるまでになった。特に、横断幕は字の達筆さはもとより、文字の大きさや平衡性なども要求されるため、素人が書くのは難しいとされてきた。

そうした中、佐々木さんがこれまでに引き受けた文字書きは「数え切れないほど」で、式典の横断幕をはじめ、舞台の垂れ幕書きなど、その達筆さはプロ顔負けの技術と称えられた。

 近年では、紙に一度書いたものを知り合いの写真屋で拡大コピーして横断幕に貼り付けたりするなど時代も変わってきたが、それでも基本となる字体は佐々木さんの直筆だった。

「カラオケも社交ダンスもできないし、芸はこれだけですよ」

と笑っていた佐々木さんは、晩年も現役で横断幕の文字書き作業を続けていた。何事も「一芸に秀でる」ためには熱い情熱が必要だが、佐々木さんの場合は恋人への熱い情熱が、文字書きを上達させた。

 ちなみに、昔の恋人は20年ほど前は健在で、佐々木さんが日本に一時帰国する度に会っていたとし、互いに当時のことを懐かしんでいたそうだ。

 その佐々木さんも2005年9月に亡くなった。享年82歳だった。

(故人、2000年4月取材)

松本浩治(まつもとこうじ)

移民

第二次世界大戦後のブラジル日本移民社会で起きた勝ち組負け組抗争を描いた小説

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リリアン・トミヤマ

Haja coração!

 ガルヴァォン・ブエノ(Galvão Bueno)と言ったら何を想像しますか?

 多くの人が最初に想像するのはリベルダーデ地区の有名な通りでしょうが、最も有名なアナウンサーの名前でもあります。Observatório da Tvというサイトによると、ブラジルと世界の主要スポーツのテレビ中継のナレーションで月収150万レアル(約3千万円)だそうです。彼が創り出し、放送中にいつも言うフレーズは「Haja coração!」です。

 このフレーズはどういう意味でしょう? パラナ連邦大学教授ロン・マルチネス(Ron Martinez)の解釈では、「我慢できないくらいハラハラドキドキするので、大きな心臓が必要である」としています。実際彼の言うとおりで、ガルヴォン・ブエノがこのフレーズを使うのは、視聴者がハラハラする瞬間なのです。例えば、ブラジルのアスリートがオリンピックでメダルを取るか取らないかの瞬間だとしましょう。視聴者ひとりひとりが本当にハラハラドキドキしていますよね。

 このフレーズの「Haja」は、動詞「haver」の接続法現在形です。ただし、ブラジル人の独創性によって、「~が必要」という意味に変形させられています。

 例文を見ていきましょう。

 

 AとBが事務所で会話しています。

 

A: Hoje eu tenho reunião com o Sr. João da empresa ABC.

 (今日はABC社でジョアンさんと会議があるんだ)

B: Ele é uma pessoa muito difícil. Ninguém gosta dele.

 (彼は面倒な人間だよ。誰にも好かれていない)

A: Sim...Haja paciência!

 (そうか、忍耐力がいるなあ)

 

 上の会話からは、ジョアン氏と話すにはものすごい忍耐力が必要なことがわかります。

 

 次の例文は、マリアのインスタグラムのアカウントを見ている2人の女性の会話です。

 

C: Maria sempre está linda em todas as fotos do Instagram.

 (マリアのインスタ写真はいついもぜんぶ美人に写ってるわね)

D: Verdade! Ela é muito bonita. Eu gosto muito de ver o cabelo, o make, as roupas e os acessórios dela.

 (ほんとね!彼女とても美人よ。髪もメイクも服もアクセサリーも見るのとても好きよ)

C: Mas eu acho que não deve ser fácil.  Haja dinheiro.

 (でも簡単じゃないと思うよ。お金がないとねえ)

 

 上の例文では、マリアが美しさを維持するにはお金がたくさん必要であることがわかりますね。

 ブラジリアにPotiguar Choppという名前の生ビールの会社があって、宣伝の音楽で「Haja」を「~が必要」という意味で使っています。Maiara e Maraisaというコンビが歌うのは「Haja chopp Potiguar, haja chopp Potiguar」という歌詞ですが、生ビールを「chopp」と書いています。実際にこのように表記しているバーがあります。しかしそれは間違いです。正しいのは「chope」です。ポルトガル語教師としては、メニュー、歌詞、果ては社名などに表記の間違いを見るのはとてもフラストレーションがたまりますね…

 Haja paciência ☺

リリアン・トミヤマ(Lilian Tomyama)

ポ語
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白洲太郎

第67回 実録小説『ファンキおばあちゃんにgratidão』

 その日、白洲太郎と彼の妻になる予定のちゃぎのは隣町の青空市場に仕事をしに来ていた。晴れるという予報も虚しく、どんよりと曇り空が広がっている。そんな中、「どうも、しらすたろうです!」などと叫びながら、太郎はYouTubeに公開するための動画撮影に一生懸命になっていた。チャンネルを開設してから1年と4か月。ゼーゼー言いながら所要の条件を満たし、なんとか動画に広告がつくようになった『ブラジル露天商しらすたろう』チャンネルであったが、平均再生回数は3桁程度と依然として伸び悩んでいる。どうすればもっと多くの人に見てもらえるのか、日々頭を悩ませている太郎であったが、よく考えればどこの馬の骨とも分からぬ40男の日常動画である。検索される需要もないし、ブレイクなど到底望めるものではない。そう自分を納得させてはみるものの、数万回、数十万回と再生されている他のチャンネルの動画が超絶に面白いのかといえばそんなこともなく、なぜこんなのが?と首を傾げてしまうクオリティのモノも少なくない。であればオレがブレイクしてもいいハズだし、いずれはそうなるだろうと、太郎は固く信じていた。最近は『貧乏』をキーワードに大衆の関心をひこうと試みているが、ちゃぎのの友だちに言わせると、『自虐的な』感じがして好ましくないらしい。本音を言えば、自分が貧乏などとは微塵も思っていない太郎であったが、視聴者が興味を持つようなキーワードと、実際の生活スタイルを照らし合わせた結果、『貧乏』というテーマにたどり着いただけのことである。当分はこのスタイルでいこうと思っているが、大事なのは結果が出るまでマイペースに続けることだ。そう自分に言い聞かせ、太郎は飽くなき闘争心で撮影に臨んでいるのであった。
 この日は青空市場で繰り広げられる白洲商店の悲喜こもごもを、現地ブラジル人との交流を通して活写しようという試みである。
 まずは屋台を設営しているシーンを撮影。まだあたりが薄暗い時間帯だが、市場で働く露天商としては当然のことである。それにしてもだ。ブラジルの青空市場で生計を立てている日本人など、そうそういるものではないし、個性は突出しているのである。そんなオレがどうしてYouTubeでブレイクしないのか、太郎は不思議でならなかった。海外在住系のユーチューバーはたくさんいるが、現地人と同じような生活をしている輩は意外に少なく、ましてローカル人相手に10円20円の商売をしている者など、太郎くらいしかいないのではないか? そんな希少価値に溢れる動画を惜しむことなく提供しているというのに、YouTubeからの評価はすこぶる低いらしいのである。がために、多くの人にオススメされず、いわゆる底辺ユーチューバーのカテゴリーから抜け出せずにいる。自分よりも大したことないヤツらがYouTubeの狂ったアルゴリズムにプッシュされ、何万回、何十万回、何百万回と再生されている、その現状が太郎は大いに不満であった。しかし他の底辺ユーチューバーも同じことを思っているのだろう。なんとかせねばと焦るあまり、ある者は過激路線に走り、ある者はチャンネルのコンセプトにそぐわないトレンドを追いかけ、そしてある者は更新そのものをやめてしまう。が、オレはちがう。と、太郎は拳を握りしめた。オレはオレのやり方で出世する。ブレない生き方。それこそが魑魅魍魎がうごめくブラジルで生き抜いてきた彼の信念であり、強味であった。
 屋台の設営が終わったので、あとは客が来るまでのんびりモードである。しかし太郎には動画撮影という仕事があるので、一瞬たりとも気は抜けない。何かいいネタはないかと周囲を見渡していると、商品をパンパンに積み込んだ年代モノの車が市場の路肩に乗り上げてきた。ここらで最も有名なカメローのひとり、パッチャンカの登場である。11人もの子どもを抱え、膨大な借金で首が回らなくなっているにもかかわらず、常に陽気さを忘れない稀有な人物であった。
「一応、撮っておくか」
 とばかりスマホを向けると、心得た、といった笑みを浮かべたパッチャンカがカメラ目線で歌を歌い始めた。若いときにはバンドをやっていたという彼であったが、うまいのか下手なのか太郎にはイマイチよくわからない。そんなありきたりな歌などいいから、彼の特技である『入れ歯芸』を披露してもらおうと思い、ジェスチャーで促したものの、こういうときに限って気分が乗らないのか、その技が炸裂することはなかったのである。
 パッチャンカに興味を失った太郎は、他のネタを見つけるべく自分の屋台に戻った。しばらくすると、『空き缶はないかえ?』とやたらと背の低いおばさんが現れたのであるが、彼女も昔からの知り合いである。出会った頃は家政婦として働いていたが、いつのまにか空き缶拾いに転職していたらしい。これぞまさにブラジルのど田舎の庶民の姿であり、白洲太郎にしか撮れない映像である。カメラを向けると、おばさんはひととおりの身の上話と、空き缶がいくらになるのかをかいつまんで話してくれた。彼女には特定の仲介人がいるらしく、1キロあたり4レアルで取り引きしてるそうだが、他の空き缶拾い仲間の情報によると、キロ6レアルで引き取ってくれる業者もいるらしく、心が揺れているとのこと。青空市場で仕事をしていると、空き缶拾いをしている人が意外に多いことに気づかされるが、それがどのくらいの金になっているのかは知らなかった。空き缶ひとつといっても15グラムほどしかないので、1キロ集めるだけでも大変である。しかし歩き回ることによって運動にはなるし、さらに金まで稼げるとなれば、案外ステキな職業かもしれぬ。おばさんも健康そうだし、何より幸せそうなのである。貴重な話を聞くことができたと大満足の太郎であったが、そこでひとつ疑問が浮かんできた。オレ自身はとてもいい動画が撮れたと満足しているが、果たして視聴者は喜んでくれるだろうか? ということである。自分としては、普通の旅行者が遭遇することのできない映像をお届けしているという自信があるが、平均再生回数3桁という数字が物語っているとおり、とても大衆の支持を得られているとは思えない。が、太郎の動画を楽しみにしてくれている視聴者が一定数、存在していることは事実であり、そういった人たちを満足させつつ、いかに外に広げていくか。これが課題なのである。
 しかし一体どうすれば…。再びジレンマに陥る思いでいると、太郎の屋台にほど近いプレハブ小屋、週末だけ簡易Barとして機能している盛り場で何やら騒ぎが起きている様子である。なんぞや? とばかり目を向けると、カシャーサでベロベロになったおばあちゃんがファンキ・ミュージックに合わせて奇怪なダンスを踊っている。その様子はある意味セクシーであり、滑稽でもあり、神々しさすら感じさせたのである。これだ!と、閃いた太郎は夢中でシャッターを切り、動画を撮影した。人生を知り尽くした老婆の、集大成ともいえる命の燃焼。その貴重な瞬間を映像として残すことに成功したのである。これをYouTubeチャンネルに公開した日にゃあ、あっという間に100万回再生、最終的には1000万回以上の記録的な再生数を叩きだすにちがいない。
「ファンキおばあちゃんにgratidão 」
 そう呟いた太郎は缶ビールをひと息に飲み干した。
 空は相変わらず曇っていたが、彼の心はこれまでにないくらいに晴れやかである。
 世界がしらすたろうを知る日。
 そんな日が来るのも遠くはないと、ロン毛の東洋人は満更でもない表情で顎ヒゲをなでたのであった。

​白洲太郎(しらすたろう)

カメロー
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下薗昌記

第144回 デル・デッビオ

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 クラブ創設以来、110年の長きに渡る歴史を誇るコリンチャンスにおいて、最初のアイドルは言わずと知れたネッコである。

 1913年から1930年までの17年間の在籍歴はクラブ史上最長だが、手にした8つのサンパウロ州選手権のタイトルもクラブ史上最多。しかし、クラブの長い歴史を紐解くと、ネッコの功績に勝るとも劣らない記録を持つクラッキの姿が浮かび上がってくる。

 男の名前はアルマンド・デル・デッビオ。まだコリンチャンスがこの世に存在してなかった1904年、サントス市に生まれたデル・デッビオは、今は存在しないサン・ベントでサッカー界のキャリアをスタートさせたが、1922年にコリンチャンスのユニフォームをまとった。

 器用なセンターバックではなかったが、フィジカルの強さと闘争心を持ち合わせていたデル・デッビオは移籍一年目にレギュラーを獲得し、サンパウロ州選手権優勝に貢献すると、1924年まで3連覇を達成する。

 栄光に満ちたキャリアのスタートだった。

 1928年から再び、サンパウロ州選手権で3連覇を果たしたが、ブラジル全国選手権が存在する現在とは異なり、当時のブラジルサッカー界では各州の選手権が狙いうる最高の栄冠である。国内屈指のザゲイロ(センターバック)として1929年にはブラジル代表にも選出されたが、次なる舞台はイタリアのセリエAだった。

 1931年にイタリアのラツィオに移籍し、1937年までプレー。そして再び愛する古巣、コリンチャンスでのプレーを選んだデル・デッビオは復帰一年目の1937年にサンパウロ州選手権で優勝を手にするのだ。

 クラブがプロ化して以来初めての栄冠だった。

 この時点で彼が手にしたのは通算7つの優勝だったが、8つ目の栄冠は偶然かつ牧歌的な時代だから許された奇跡のタイトルだった。

 現役を退いた直後、1938年からコリンチャンスの指揮官を務め、1938年には早くも監督としてサンパウロ州選手権を制していたデル・デッビオだったが、1939年10月のイピランガ戦で選手にアクシデントが生じたため、監督としてベンチに座っていたはずのデル・デッビオがピッチに立ったのだ。

 1試合だけの予期せぬ現役復帰によって、1939年には選手、そして監督としてサンパウロ州選手権を制したことになるデル・デッビオ。様々なクラッキや、名将を生み出してきたコリンチャンスではあるが、1939年のこの偉業は、間違いなく前代未聞であると同時に、唯一無二の記録である。

 監督としても5度のサンパウロ州選手権を制し、サンパウロ州選抜の監督も務めたデル・デッビオは選手、指揮官の双方でクラブ史にその名を刻んだ数少ない男だった。

​下薗昌記(しもぞのまさき)

クラッキ
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岸和田仁

ジャイミ・クリントウィッツ(ジャーナリスト、元VEJA編集局長)(その1)

 (ポルトガルで)1898年に刊行された、最初の本格的ポルトガル語辞書『Novo Dicionário da Língua Portuguesa』の“Brasil”の項目には、「パウ・ブラジル(染料用蘇芳)を採取するマメ科の植物」としか書かれていない。国のブラジルについての言及はまったくなしだ。この欠落をどう説明するか。考えられる答えは、ブラジルの表記をBrasilとするかBrazilとするか、国民のあいだでもどちらにするか意見の一致をみていなかったことから、無用な混乱を避けるためにも、辞書の編集責任者カンディド・フィゲイレードが、あえて国のブラジルについての言及を省いたのだろう、というものだ。(中略)

 ブラジル文学アカデミーの客員会員でもあったポルトガルの国語学者フィゲイレードは、「ブラジルは、世界の文明国のなかでも、唯一、自国の名前をどう書いたらいいかわかっていない国だ」と、1908年に刊行した自著『国語正字法』のなかで記している。(中略)

 1822年のブラジル独立から一世紀たった1922年になっても、表記をzとするかsとするか、国の正式の正字法はペンディングのままであった。当時一番読まれていた作家コエリョ・ネトがブラジル文学アカデミーに対し「ブラジルという単語の表記は正式にsとすべし」と提言したのが、同年11月8日のことであった。この提言は、政府の語彙検討委員会へ提示されたが、同委員会は40日後に、コエリョ提言を支持するとの意見書を発出した。(中略)

 1923年1月18日付けでブラジル文学アカデミーが承認した、sのBrasil表記は、1931年6月14日付け連邦行政令によって、ようやくオフィシャルな表記となった。

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ブラジル史を50のフレーズで読む

岸和田仁(きしわだひとし)

百人一語

 ブラジルを横文字で表記するとどうなるか。英語ではBrazil、フランス語ではBresil、イタリア語ではBrasile、で肝心かなめのポルトガル語ではBrasil、ということになっている。これは昔から決まっていた常識だから、sとzを間違いないようにと、語学教師は学生たちを恫喝気味に説教してきた。いや、今でも同じような説教が続けられていると決めつけてもさほど的外れではあるまい。

 だが、ブラジルをBrasilと表記することがブラジルで正式に決まったのは、1931年に過ぎない。つい最近のことなのだ。

 1824年憲法では、ブラジルを“Império do Brazil”と表記していたし、1896年に創立されたブラジル文学アカデミーも、“Academia Brazileira de Letras”とz表記であった。

 ブラジル各地の地名表記にいたっては、つい最近まで、いくつもの綴り方があって、面白かった。ちょっと古い文献を読んでいると、例えば、クリチバはCuritibaよりも Curitybaだったし、ニテロイはNiteróiと確定するまではNicteroy ないしNietheroyであったし、マナウスはManausもあれば Manaosもあり、だった。

 今やブラジル文学の古典的作品と認知されている、エウクリデス・ダ・クーニャの“Os Sertões”(直訳:複数の奥地)の初版が1902年に刊行された時、あまりにも多くの単語の表記がページによってごちゃごちゃに混在していたため、全冊回収して、改訂版を発行することになった。

 お役所のなかで国の表記をsのBrasilとすることを一番早く決定したのが大蔵省で、1820年から同省造幣局が印刷製作した紙幣や硬貨の国名はs表記となっている。大蔵省に次いでs採用したのが海軍で、艦内の表記、海兵隊員の教育などBrasilで統一していた。

 というような話を、現代のブラジル人が聞くと、「エー、そうなの」とびっくりする。というよりも、こうした歴史的ファクトをほとんどのブラジル人は忘れてしまっている、というべきだろう。

 だから、歴史に造詣の深い作家やジャーナリストが、様々な切り口から、ブラジルの歴史話を読者にわかりやすいような文体で解説する教養本が出版され、そこそこの売行きをみせることになるのだろう。

 ジョルナル・ド・ブラジル紙の編集幹部、総合週刊誌ISTOÉの国際報道局長、フォリャ・デ・サンパウロ紙文化面編集委員などを経て、総合誌VEJAの編集局長を長年務めていたジャイミ・クリントウイッツが2014年に上梓した“História do Brasil em 50 frases”(ブラジル史を50のフレーズで読む)は、そんな歴史解説書の一冊だ。

 登場するひとたちは、アメリコ・ヴェスプッチから始まって、ペドロ1世の「独立か死か」、ダーウィン(『ビーグル号航海記』)のブラジル奴隷制批判などを追いかけてから、カンディド・フィゲイレードの 「ブラジルは、世界の文明国のなかでも、唯一、自国の名前をどう書いたらいいかわかっていない国だ」の背景を読み解いていく。

 冒頭に引用したのは、この章のさわりの部分である。

 ちなみに、同書のはしがきは、「歴史とはファクトによって成り立つが、フレーズによっても歴史はつくられる」と書き始めている。

​ブラジル、サンパウロ

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