2021年11月号 vol.185

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目次

ファインダー

鶴田成美

移民の肖像

松本浩治

ポルトガル語ワンポイントレッスン

リリアン・トミヤマ

せきらら☆難民レポート

​おおうらともこ

開業医のひとりごと

秋山一誠

カメロー万歳

白洲太郎

クラッキ列伝

下薗昌記

簡単おいしい!ブラジルレシピ

先生:アマール・シンギ・アレさん

アヌーシャさん

今月号のスポンサー一覧

 

幻の創刊準備号

​(2006年6月号)

Kindleで復刊

​2020年7月号

​2020年8月号

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私が着ていた服に書いてある「ウルトラマン」という日本の文字を彼が読んだことが発端で

パンデミック以来話すことのなくなった路上生活者と会話をした。

 

日本に20年間住んでいたが車の運転中に死亡事故を起こしてしまい、強制送還された日系人とブラジル人のハーフの男性。

「自分はもうブラジルに戻る気はなかったんだ。人生は何が起こるか本当にわからない…」

流暢な日本語でそう言うと、タバコを深く吸いこみ、タメ息と一緒に煙を吐く。

風に持っていかれ姿を消した煙は彼の内心を象徴しているようだった。

 

少しでも穏やかに過ごせるように

名前も知らないあの男性にこの写真を贈りたい。

鶴田成美(つるたなるみ)

 
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写真・文 松本浩治

ニンニク生産に貢献した長南俊(ちょうなん・たかし)さん

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 ブラジル南部のサンタ・カタリーナ州クリチバーノスでニンニク生産を行う長南俊さん(67、山形県出身)。ニンニクの優良品種の改良が認められた「長南種(ちょうなんしゅ)」はブラジル国内でも有名となり、1995年にはブラジルの農業発展貢献者に贈られる『山本喜誉司(やまもと・きよし)』賞も受賞している。

 58年、21歳の時に単身ブラジルに渡ってきた長南さんは、サンパウロ南部のサンベルナルド・ド・カンポ市、北パラナなどを経て、70年に開始された温帯果樹プロジェクトのため、サンタ・カタリーナ州に転住。リンゴ、アメイシャ(スモモ)などの果樹を生産していたが、北パラナ時代から試験的に植えてきたニンニクについて、同船者から「このニンニクは輸入ものにも負けない」と言われたことが、ニンニク生産を本格的に始める一つの契機になったという。

 しかし、当時のブラジル国内でニンニクの生産量、輸入量がどれくらいあるのかが把握できなかった。長南さんはコチア産業組合の日系農業技師を通じて、ミナス・ジェライス州に住んでいたニンニク栽培専門家のセルジオ・マリオ・レジーナ氏に面会。同氏は長南さんのニンニクを見て、「これはブラジル一の品物になる。(長南さんの住む)ブラジル南部でニンニク生産を行えば(食糧としての)自給体制ができるかもしれない」と太鼓判を押した。

「長南種」の名称を得てブラジル政府にも正式に認可されたニンニクは、5年間の生産計画により輸入種制限も実施され、生産量は爆発的に増加した。

 長南さんの話によると、80年当時、約1万5千ヘクタールの面積にニンニクの植え付けが行われ、87年にはその8割が自給体制可能になったという。現在は機械化が進んだものの、当時は「1ヘクタールに対して、のべ400〜500人の労働力を必要としました」と言うから、ブラジル国内でのニンニク生産実現化が与えた影響は相当大きかったようだ。

 しかし、増産すればするほど地元の農業生産者組合では政治的な動きも見られるようになった。「私としては、日本人として組合をできるだけ良くしようとやってきたわけですが、組合員にはブラジル人も多く、『組合を牛耳れば金になる』と政治的駆け引きを利用して組合幹部になりたがる人も出てきました」と話す長南さん。自らのニンニクが認められた喜びの一方で、ブラジル国内での組合活動の難しさも目の当りにしてきた。

 そうした中、90年代初頭に中国から、ブラジル国内産の半値という安価な輸入ニンニクが台頭し、長南さんたちは頭を痛めた。

 その頃、全国ニンニク生産者協会会長でもあった長南さんはゴイアス州の生産者からダンピング(不当廉売)適用の助言を受け、その約1年後、実現にこぎつけた。当時の適用は、中国産ニンニク1箱(10キロ入り)につき4ドルの課税というもので、5年間の有効期限があり、2003年にはさらに5年間の延期が適用された。

 その後、中国側ではニンニクを第三国で生産してブラジルに輸出するなど、課税規制を免れようと様々な手立てを行なったが、長南さんたちは連邦税庁への働きかけなどで、国内品の価格維持を保ってきたという。

 今後のニンニク生産について長南さんは、「他の作物と違って7、8年ごとに変動の波が来る。これまでのように天井知らずのように伸びることがあってはならない」と戒める。一方で、昨今の消費者側の需要の変化も大きく、組合とスーパー・マーケットとの契約やニンニク加工品の生産、新品種の栽培など、新しい動きが求められているそうだ。

(2004年2月取材、年齢は当時のもの)

松本浩治(まつもとこうじ)

 

第二次世界大戦後のブラジル日本移民社会で起きた勝ち組負け組抗争を描いた小説

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リリアン・トミヤマ

「もし必要ならば」

 IBGE(ブラジル地理統計資料院)とイプソス(​​市場調査会社)によると、パンデミックのせいでブラジル人は太ったとのことです。52%の人が太り、平均で6.5キロ太りました。

 そして、読者のみなさんはパンデミックの間体型を維持できましたか?もし必要ならばダイエットしますか?

 ということで、「もし必要ならば」をポルトガル語でどう言うでしょうか?

「se for necessário」と言います。

 もし必要ならば = Se for necessário

 いくつか会話を見ていきましょう。最初のものは形式ばらない場面です。 

 

(会話1)

 AとBがCelpe-Bras(外国人のためのポルトガル語検定試験)のために勉強しています。

 A: A data do exame está perto! 

  (試験の日が近いね!)

 B: Sim, eu sei.  Eu estou estudando muito.

  (うん、わかってる。猛勉強中だよ)

 A: Eu também!

  (私も!)

 B: Se for necessário, eu vou aumentar minhas aulas de português.

  (必要ならポルトガル語の授業の回数を増やすつもり)

 

 今度はフォーマルな場面です。

 

(会話2)

 CとDは職場の同僚です。お客さんとトラブルになっています。

 C:  Você falou com a empresa?

  (あの会社と話した?)

 D:  Eu estou tentando, mas está difícil.  

  (トライしてるけど、難しいよ)

 C:  Se for necessário, vamos acionar o nosso advogado.

  (もし必要ならばうちの会社の弁護士に話を通そう)

 

 今月のレッスンいかがでしたか? 冒頭で、パンデミックの影響でブラジル人が太った話をしましたが、パンデミックの影響でなくなってしまったものがあります。それは挨拶でキスする習慣です。この習慣がフランスから来たものだということをご存知でしたか? パリ13大学教授ドミニク・ピカール氏(Dominique Picard)によると、キスによってある意味を伝えなければならないというフランスの事情があるとのことです。その意味とは、挨拶の時にキスすることによって、ふたりの人間が平等になることと、社交性とホスピタリティをメッセージとして伝えることです。ラテン文化から私たちブラジル人はこの習慣を取り入れているのです。コロナウイルス予防のために頬にキスをしないというのがずっと続いていくのでしょうか?


 Se for necessário, eu acho que sim.

リリアン・トミヤマ(Lilian Tomyama)

 
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おおうらともこ

第23回 アフガニスタン編

 2021年8月15日、タリバンがアフガニスタン全土を支配下に置いたと宣言するニュースが世界中を駆け巡った。このニュースを受けて、突如スポットライトが当たったのが、サンパウロ市に約20人が暮らすアフガニスタン人たち。9月に入って半月までに20以上のインタビューを受けたという、アフマド・ファゼルさん(31歳、カブール生)に話を聞いた(2021年9月17日取材)。

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<アフマド・ファゼルさん>

◆省令止まりのブラジルの人道配慮ビザ

「イスラマバード(パキスタン)のブラジル大使館には、多くのアフガニスタン人がブラジルの人道ビザを求めて扉を叩きましたが、ポルトガル語が読めないことや新型コロナ感染防止を理由に、きちんと応対してくれなかったとのことです」

 9月初め、ブラジル政府は混乱するアフガニスタン情勢に配慮し、アフガニスタン人への人道ビザを発給する省令を出した。世界に誇れるブラジルの人道配慮に見えたが、省令はすぐには機能しなかった。

 アフマドさんによると、アフガニスタンにブラジル大使館はないため、9月時点でブラジルの人道ビザを申請できるのは、イスラマバード以外に、テヘラン、アンカラ、アブダビ、モスクワという選択肢があった。しかし、陸続きでもイランへの入国にはビザが必要で、他は距離が遠すぎる。イスラマバードが最も希望を見いだせるブラジル大使館だったが、前述の状況に多くの人々が直面した。

「アフガニスタンでは皆毎日おびえて生活しています。私の義妹と甥は20日前、急に消息不明となりました」

と、現地の目を覆いたくなるような動画を見ながら心配するアフマドさん。アフマドさんの弟は、家族呼び寄せでサンパウロに暮らすことができたが、その妻子は2017年から4回、パキスタンのブラジル大使館に家族呼び寄せを申請してきたが、書類も手数料も不備がないにもかかわらず、認められないままだった。そして、8月のタリバンの宣言後、消息が途絶えた。

◆タリバンの兵役を逃れ、トルコの外交官パスポートでブラジルに

 アフマドさんは2012年、サンパウロに到着した。17歳から英語教師として働き、それまではカブールで両替商の父親や家族とともに穏やかで幸せな生活を送っていた。それが、18歳になったある日、道を歩いていると突然タリバンの車に連れ込まれ、軍事訓練所に連れて行かれた。

「私の心は打ち砕かれました」

 その訓練所では、爆弾や鉄砲の使用法を教えていた。いたたまれなくなったアフマドさんは、その場から逃げ出した。その後、父親がエージェントにお金を払い、トルコの59歳の外交官の男性のパスポートを入手し、顔写真をアフマドさんに取り換え、どこでも良いからアフマドさんをアフガニスタンから出国させるようにと航空券代を渡した。そうして、ドバイを経由して到着したのがグアルーリョス国際空港だった。

 入国審査では、59歳と記されているのに19歳のアフマドさんの顔立ちは明らかに不自然で、審査官の表情も一瞬凍りついたが、何も審問されることなくすぐに通過できた。

◆ボタン付け一個50センターボから事業を拡大

 無事、ブラジルに入国できたものの、持参金もほとんどなく、ポルトガル語も全くわからない。最初にメスキータがあると知ったブラス地区に向かい、英語で付近の人に助けを求めた。アフガニスタン人を探したが出会えず、ウルドゥー語の通じるパキスタン人に出会った。約1週間、その彼が自宅で寝食をサポートしてくれた。ブラジル到着から1週間後、当時はサンパウロに連邦警察があることを知らず、そのパキスタン人が航空券代を払って、ブラジリアまで飛んで難民申請を行った。そして、1年8か月後、ブラジルの居住権を獲得した。その間、メスキータで祈り涙を流していると、ぽんと肩を叩くムスリムのインド人が現れた。アフマドさんはヒンディー語でもコミュニケーションができたため、その後、約2年間、縫製工場を経営していた彼の店で働くことになった。

「最初、1か月900レアルで雇うと言われましたが、私は、ボタン付け1個50センターボで働きたいと交渉しました。彼は笑い、1日目は10レアルの収入でしたが、仕事に慣れてくると、翌日には15レアル、夜も働きたいと頼み、やがて1日60レアル、その内に1か月6000レアルの収入を得るようになりました」

 その2年間は、5人のシェアハウスで1か月寝食込み400レアルで生活し、他はすべて貯金に回した。ポルトガル語を覚えるために、英語教師も行った。2015年にはパキスタンに一時帰国して結婚。2017年までパキスタンで暮らし、そのまま同地で暮らしたいとパキスタン政府に願い出たが、ブラジルで居住権を得ていたことが理由で、パキスタンでの居住は認められなかった。そのためブラジルに戻り、2018年には妻と2人の息子、2019年には両親や弟を呼び寄せた。

 その後、ボタン付けの仕事で独立し、さらに仕事を請け負うようになり、従業員2人を雇ってさらに事業を拡大。資金を貯め、パンデミックが始まる前には、アフガニスタン料理店をオープンし、半年前にはハラール(イスラムの教えに則った方法で屠畜・加工された肉)専門の肉屋をオープンした。

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<アフマドさんの肉屋>

◆アフガニスタンが良くなることはない

 

「20年前には米国、35年前にはタリバン、40年前にはソ連…。世界各国がアフガニスタンをかき回し、私たちは親子3世代以上にわたってアフガニスタンが良い土地になるという希望を失ってきました。米国もタリバンも戦いばかり。アフガニスタンの人々がほしいのは平和だけです」

 親戚の多くはイギリスに暮らし、アフガニスタンの義妹と甥の行方は心配なものの、家族も呼び寄せ、堅実にサンパウロで事業を続けるアフマドさん。今、アフマドさんの肉屋はサンパウロのアフガニスタン人のたまり場になっている。目標は、アフガニスタン人のメスキータやNGOを創設することである。

「治安の問題を除いてサンパウロは気に入っています。夢は、アフガニスタン人の子供の学校を作ること。私たちは両親を敬うことをとても重視しますが、ブラジルで育つ子供たちにも一番大切に教えたいです」

 今後、ブラジル政府が実際に人道ビザを出し、アフガニスタン人がサンパウロに到着した後は、アフマドさんたちはコミュニティで最初の世話をする心づもりでいる。

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<アフマドさんの肉屋に集うアフガニスタン人の仲間>

〇インフォメーション

・アフマドさんのハラール肉店「Halal Center」

 住所: Praça Eduard Rudge, 36 - Pari Tel: 11-98747-9854

 

・アフマドさんのアフガニスタン料理店

 住所: Av. Carlos de Campos, 69 - Pari Tel: 上記と同じ。

 行く前に電話確認必要。

おおうらともこ

 
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その体調不良、悩んでないで相談しましょう

 またコロナの話です…。ずっとコロナに関する話題をほとんど毎月提供してきました。今月は新型コロナウイルス感染症の後遺症や感染症に関連する疾病についてひとりごとさせていただきます。もうコロナ禍は飽き飽きですね。現時点でまだまだ世界的にワクチンが行き届いたとは言えませんが、我々の生活圏ではワクチン接種政策が功を奏してきています。外出制限やマスク使用などが解除された国も多くあり、当地サンパウロや日本でもいろんな規制が緩和され、「さあ出かけるぞお、飲み屋行くぞお」状態になっています。

 

『この原稿を執筆している直前の土曜日の夜、サンパウロ市内を車で移動していたのだが、飲み屋、クラブなどが大繁盛していた。スゴイ人出! まあこの“飲み屋行くぞお”もコロナ関連の疾病とも言えるのでは? ワクチンの接種率が増えた、コロナ死者が減ったとは言え、サンパウロ市ではまだ自宅内以外ではマスク使用義務が適用されているし、飲み屋やイベント規制を解除した場所(国)では感染者が増えている事実があるのだが、「自分は大丈夫、もう大丈夫」と判断して出かけているのだな。これは「確証バイアス(註1)のコロナ拡大版」と言えるだろう。一種の精神疾患?』

 

 コロナ禍も間もなく2年になろうとしており、最近は各所で「新型コロナウイルス感染症後遺症外来」が設置されています。この後遺症はまだ確定した定義が認知されていないのですが、概ねコロナ感染から4週間以上経過しても表1のような症状が続く場合、後遺症と考えられます。

 

<新型コロナウイルス感染症の後遺症で現れる症状>

 咳、倦怠感、味覚嗅覚異常、脱毛、睡眠障害、動悸、関節痛・筋肉痛、食欲不振、呼吸困難、思考力・集中力の低下、下痢、

 頭痛、発熱、立ちくらみ、うつ・不安、胸焼け

 これらは、コロナ関連の報道でもよく取り上げられているので、このコラムの24人の読者様も周知されていると思います。新型コロナウイルス感染症は基本的には「免疫系統かつ、循環器系統を侵す疾患」なので、全身のどこにでも症状が出てもおかしくないわけです。表1をみてみると、器質的疾患(身体の不調、例:下痢、発熱)と心理的疾患(心の不調、例:思考力の低下、不安)に分類することができます。これらは実際感染症を発症した人の経過です。だから「後遺症」なのです。ブラジルだけで、COVID-19と認可された人口は現時点で2千2百万人弱、全人口の約一割です。つまり、後遺症そのものは当国の場合、この一割に起こりうる状況です。残り九割は感染が確認されていないわけです。しかし、発症した人と同じようにコロナ禍に曝されているので、いろんな体調不良が認知されるようになっています。ストレスのたまる外出規制、人との接触制限、慣れないリモートワーク、ステイホームに伴う家族のありかたやもめごと、不安が積もり続ける経済状態、見通しが不透明な仕事や学業などなど、健康を脅かす状況がてんこ盛りです。

 後遺症の他にもよく取り上げられるのがコロナ禍による「健康二次被害」です。これはステイホーム(外出控えや医療受診控え)や人との関わりが減ることで引き起こされます。この状況は免疫機能を低下させることがわかっており、免疫が関連する疾病の発症や悪化が考えられます。社会生活で一番怖いのは高齢者の筋力低下や認知機能の低下です。さらに一番多いのは間違いなくストレスによる心の不調でしょう(註2)。ステイホームでは飲酒の増加や運動不足のため肥満や生活習慣病の悪化が関係しています。ということで、「ステイホーム(家にいろ)」とともに、「ステイアクティブ(活動しろ)」と「ステイヘルシー(健康でいろ)」の二つのステイも提言されています。

 さらに最近、「新現代病」と呼ばれる身体の不調もでてきています。長引くコロナ禍によるもので、誰に現れてもおかしくない状況です。次の表に“病名”と“筆者のコメント”を記します。

 

<新現代病の病名と筆者のコメント>

 マスク皮膚炎:これは説明不要でしょ。マスク使用しなかったらおこらない。

 マスク依存症:マスクがないと落ち着かない、他人がマスクしてないと不安といった状態。

 スマホ肘:肘をついてスマホを長時間使用してるからだな。

 手洗い強迫性障害:手洗いに過度に過敏になり、元々強迫性障害の傾向があったら、強度に発症するのでは。

 ふれあい拒否症候群:コロナのため、他人との接触恐怖だな。

 デジタル時差ボケ:これもスマホなどデジタル環境と関連。深夜にスマホやパソコンをいじり、朝時差ボケする。

 デジタル認知症:世の中デジタル化が進み、自身の思考力が低下するのだ。以前からあったが、コロナ禍で顕著に?

 子ども腰痛:コロナ禍のための運動不足が主な原因。

 ドケルバン病(註3):スマホの使いすぎだな。

 急性内斜視:これもスマホの使いすぎ、パソコンなどの画面を見る時間が長いなどが原因。

 ドライアイ:急性内斜視と同じ原因。

 近視:急性内斜視と同じ原因。

 突発性難聴:ストレスで緊張し、歯ぎしりや食いしばりが原因となることが多いようだな。

 歯痛:歯ぎしりや食いしばりのため。

 頭痛:マスクを使用することで引き起こされるマスク頭痛と呼ばれるモノもある。

    一番危ないのはマスクのため酸素不足になる事態。よくあるのはマスクの紐がきついためおこるモノ。

    マスク頭痛以外では緊張で肩や側頭筋がこる事態がほとんど。

 このような症状がコロナ禍と関係している可能性があります。居酒屋に行けるまで社会活動が回復してきていますので、医療機関へも行けます。体調不良の方は悩んでいないで受診しましょう。

『ちなみに、秋山一誠診療所ではスタッフ全員(といっても3人だけですが)コロナワクチン2回接種済です。安心してご来院いただけます。』

 

註1:確証バイアスとは自分が信じていることを裏付ける情報だけを探し、自分に不都合な情報を無視する傾向のことを表す心理学で使用される用語。

註2:コロナ禍の精神的問題は今年の8月号(“コロナ禍で頭の中がグチャグチャです。”)でひとりごとしていますので合わせてご覧ください。

註3:狭窄性腱鞘炎。手の親指を外側に動かす腱の腱鞘炎。


 

秋山一誠(あきやまかずせい)

サンパウロで開業(一般内科、漢方内科、予防医学科)。

この連載に関するお問い合わせ、ご意見は hitorigoto@kazusei.med.br までどうぞ。

診療所のホームページ www.akiyama.med.br では過去の「開業医のひとりごと」を閲覧いただけます。

 
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白洲太郎

第68回 実録小説『売れるのか?それとも売れぬのか? 前編』 

 2021年10月8日。

 早朝というにはあまりにも薄暗い午前3時、白洲太郎は起床した。世界を恐怖と混乱に陥れた新型コロナウイルスの大流行も、ワクチンのおかげか集団免疫のおかげかは知らぬが、徐々に落ち着きを見せはじめている。と同時に、世の中の動きも通常モードに戻りつつあり、それは太郎の住む田舎町エリアも例外ではなかった。これまではパンデミックの影響もあり、自分の住む自治体の市場でしか仕事ができなかった白洲商店であったが、近隣の町がよそ者の受け入れを続々と解禁しているという噂を聞くにつれ、太郎も重い腰を上げざるを得なかったのである。

 気楽な田舎暮らしなので、生活に困っているというわけではない。これまでのように週2回程度の仕事量で十分にやっていける状況ではあったものの、やはり金があるにこしたことはなく、数週間後にはちゃぎのの慰安も兼ねて、リオ・デ・ジャネイロに行く予定もあったため、一念発起、真面目に働こうと思い立ったのであった。

 これから向かおうとしている町は険峻な山道を数時間かけて運転せねばならぬ過酷なロケーションに位置しており、車のダメージや高騰するガソリン代のことを考えると行く気が揺らいでくる。現に、昨夜は緊張からかあまり眠れず、いつもなら寝起きの良いはずの太郎がなかなかベッドから起き上がることができなかったのである。隣のちゃぎのも同じような表情をしており、やはり昨夜は眠れなかったらしい。おまけに女性特有の生理現象の真っ只中ということで、体調は最悪の様子であった。ちゃぎのの調子次第で、今日の行商は中止にもなり得る。太郎は彼女の顔色を窺いながら、遠慮がちに問うた。

『もしキツイようだったら来週に行くってことでもいいぜ?』

 何はともあれ、ちゃぎのの体調が第一である。今日仕事をしなかったからといって、明日の生活に困るようなことはない。今までオレが積み上げてきた基盤はそんなことじゃ揺るぎやしない。安心して休んでよい。いや、休もう。という期待をこめてちゃぎのを見つめると、予想に反して『行く!』という力強い言葉が返ってきた。

『あたいのせいにしてサボろうったって、そうはいきまへん』

と疑り深い視線を向けてきたので、太郎は慌てて頭を振った。

『何いってやがんでえ!よっしゃ、覚悟はできてるようだな!』

というわけで、白洲太郎ご一行は山道を3時間かけて行商に行くことになったのである。

 とにかく険しい山道である。未舗装なのは当然として、そこら中にある穴ぼこ、土中に埋まった石くれ、いつ飛び出してくるかわからぬ野生動物、シャワーのように降り注いでくるホコリ、その他もろもろをかいくぐって進まねばならない。その見返りとして、朝日に照らされた雄大な自然の姿を仰ぎ見ることができるが、一番の心配事はやはり、車が壊れぬかどうかということで、太郎は細心の注意を払いながらハンドルを握る手に力をこめた。

 3時間後。7時近いとあって、すでに町の市場には活気が満ち溢れている。約2年ぶりに訪れたカンタガーロという町はすっかり様変わりしていた。パンデミックの間に市長が代わり、広場を新設したのを皮切りに様々な改革に着手、その余波は市場にまで広がり、白洲商店が屋台を開いていた場所は野菜売りの商人たちで埋め尽くされていたのである。

 せっかく来たのに売る場所がない。普通だったら途方に暮れるところであるが、露天商売にかけては百戦錬磨の白洲太郎である。混雑を極める市場のなかで、一瞬のうちに空きスペースを見定め、電光石火の速さで屋台を設営した。メイン通りから少し外れてはいるものの、悪くはないロケーションである。だが、このような場所が7時近くになっても空いているのは単に幸運だったからではない。なぜならそこは人んちのどまん前、正確にいえば車庫の目の前であり、他の露天商たちはあえてその場所を避けていたのである。当然、住人とのトラブルが予想されるが、ここは低姿勢で『お願い』するしかない。屋台設営前に交渉したのでは、断られる可能性が大である。ならば、と先に既成事実を作っておき、そこから誠意をこめて『お願い』をするのが太郎の小狡い作戦であった。それでもダメなら潔く他の場所を探すつもりである。小心者のちゃぎのはハラハラしていたが、オレに任せておけ、と太郎は一顧だにしない様子であった。

 設営が終わると同時に、家の住人が顔を出した。明らかに怪訝な表情をしているが、ダメで元々である。誠意をこめて事情を説明し、もし車が出入りするのであれば、その時だけ屋台をずらして、通行に支障のないようにするから。と、子犬のような目で住人を見つめると、険しかった表情がみるみる笑顔になり、太郎はその場所で商いをすることを許されたのであった。幸い、青空市場が終わるまでは車を出し入れする予定はないとのことである。

 ホッとした太郎とちゃぎのはパンとモルタデーラとグァラナジュースで腹を満たし、あとは客を待つだけであった。

 売れるのか?それとも売れぬのか?

 リオ旅行の資金を稼ぐための、白洲商店の戦いがついに始まったのである。

(つづく)

​白洲太郎(しらすたろう)

 
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下薗昌記

第145回  レナト・ルイス・デ・サー・フィーリョ

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 ブラジルのサッカー界には実に様々な選手の肩書きが存在するものだ。

「無敗記録の死刑執行人」

 レナト・サーを人はこう呼ぶが、そんな物騒な肩書きとは対照的に、彼はごく平凡な勤め人として人生を終えるはずの男だった。

 1955年、レナト・ルイス・デ・サー・フィーリョはサンタ・カタリーナ州のトゥバロンで生を受けた。

 父は1940年代にサンタ・カタリーナ州を代表する名門、アヴァイーでプレーしたサッカー選手。幼きレナトも自ずとボールを愛し、ボールと戯れる日々を過ごしていたが、父は息子をサッカー選手にするつもりはなかったという。

 趣味でフットサルに興じていた十代のレナトは16歳にしてフロリアノポリスで勉強をしながら、銀行で事務員として働く日々を過ごしていたが、やはり才能は名声を呼び寄せるものである。

 パスセンスと得点感覚を兼ね備えたレナトは銀行のフットサルチームに誘われ、あっという間にその名を町に知らしめた。

 1975年12月27日、サンタ・カタリーナ州のフットサル選手権でレナトが所属する銀行のチームは決勝に進出。しかしレナトは試合中、相手選手と頭をぶつけ、意識を失うと病院に緊急搬送。48時間を集中治療室で過ごしたのだ。

 一命を取り留め、一般病室に移ったレナトにとっては散々な年の瀬だったが、数日遅れのクリスマスプレゼントが待っていた。

 見舞いに訪れたフットサルチームの監督が手にしていたのは大会得点王のトロフィーと準優勝のメダル。エースを欠いたチームは決勝で敗れたのだが、この大会での活躍を見たアヴァイーの会長がオファーをしてきたのだ。

 20歳でアヴァイーと契約し、プロキャリアをスタートさせたレナトだが、1977年にはサンタ・カタリーナ州選手権で準優勝に貢献。グレミオから誘いを受け、1978年から活躍の場をポルト・アレグレに移すのだ。当時、グレミオを率いていた名将、テレ・サンターナがその才能を認めたのだ。

 全国的にその名を売ったのは移籍一年目のことだ。1978年7月、ブラジル全国選手権でグレミオはボタフォゴと対戦。当時ボタフォゴは公式戦52試合無敗という記録を誇っていたが、レナトの2得点を含めてグレミオがマラカナン競技場で3対0と快勝。ボタフォゴの快進撃をストップしてみせた。

「死刑執行人」としての活躍は一度だけにとどまらなかった。1979年にはボタフォゴに移籍。そしてやはり52試合無敗が続いていたフラメンゴとマラカナン競技場で対戦すると、レナトの決勝ゴールで1対0の勝利。ジーコ擁するフラメンゴに13万9千人が見守る中で土をつけたのだ。

 流浪の技巧派は再びグレミオに移籍し、1981年のブラジル全国選手権ではグレミオの初タイトルにつながるアシストも記録。ブラジル代表には縁がなかったが、ビッグクラブを点々とし、32歳でスパイクを脱いだ。

 かつて銀行で働いたことがあるだけに「人生設計」の計算も抜かりなく、サンタ・カタリーナ州知事を務めた大物政治家の娘と結婚し、企業家として第二の人生でも成功を収めている。

 もっともボタフォゴとフラメンゴのオールドファンにとって、レナトは無敗記録をストップした憎き存在であるのは間違いない。

​下薗昌記(しもぞのまさき)

 
 
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セルロッティ

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アマール・シンギ・アレさん

アヌーシャさん

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「セルロッティ」は米粉で作られるネパールでおなじみのドーナツ。熱した油に円を描いて生地を流し入れて揚げられます。今回はネパール料理店『Veganalaya』のアマールさん&アヌーシャさんご夫妻にご紹介いただきました。

【材料】

・米(陸稲)Arroz...2合(水に6時間浸しておく)

・砂糖Açucar...大さじ4杯

・シナモンCanela...小さじ1/2

・小麦粉Farinha de trigo(好みで)...30~50g

・水Água...180~200ml

*漏斗代わりのペットボトルを用意しておく。

【作り方】

①水に浸した米をザルにあげる。

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②①と全ての材料をミキサーに入れ、30秒から1分ほど混ぜる。小麦を加えると生地の目が粗くなる。ホットケーキ生地くらいの硬さが良い。

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③②を漏斗代わりのペットボトルに入れる。流れ出ないように、口は手で押さえておく。

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④180度に熱した油の近くにペットボトルの口を近づけ、ゆっくりと生地で円を描いて揚げる。(やけどに注意)

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⑤1分ほどで裏返し、もう1分ほどで全体がきつね色になったら完成。

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 1日4食のネパールで、セルロッティは朝食とおやつの時間に、野菜や肉のおかずを添えて食べられるとのこと。今回はアルドンというトマトソースであえたゆでジャガイモ料理を添えてくれました。揚げる様子も、手でちぎってソースをつけながら食べる様子も、スペインのチュロスを思い出させます。カルダモン、しょうが、黒コショウがほんのりきいたネパール風チャーイ(ミルクティー)も忘れずに!

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◆今回の先生◆

アマール・シンギ・アレさん&アヌーシャさん

ネパールのタナフン生。ネパールではホテルやレストランで働き、政治経済の不安定さを逃れ、ジョージアに移ってレストランを営業し、2015年よりサンパウロ在住。現在、パライゾ地区でネパール料理店『Veganalaya』(Rua Chui, 240)を営業し、デリバリーを行っている。ネパールで日本語を習ったことがあるという気さくなご夫婦です。

(11) 96387-6788  Veganalaya

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おおうらともこ(文と写真)

​ブラジル、サンパウロ