2021年12月号 vol.186

Capa_186_menor.jpg

画像をクリックするとissuu.comのPDF版がご覧いただけます。

目次

ファインダー

鶴田成美

移民の肖像

松本浩治

ポルトガル語ワンポイントレッスン

リリアン・トミヤマ

ブラジル版百人一語

​おおうらともこ

開業医のひとりごと

秋山一誠

カメロー万歳

白洲太郎

クラッキ列伝

下薗昌記

今月号のスポンサー一覧

 

幻の創刊準備号

​(2006年6月号)

Kindleで復刊

​2020年7月号

​2020年8月号

Finder.jpg
FINDER.jpg

子供のころ遊んでいたテレビゲームに「リセットボタン」が搭載されていた。
そのボタンを押すとデータが消去され、ゲームが初期化されるというものだ。
あの頃はそのボタンの存在意義が理解できず、触れぬよう細心の注意を払っていた。
今思えばある種の恐怖心すら感じていたかもしれない。

ゲームを作った大人たちと同じ大人になった今、あのボタンに彼らの願望を感じてしまう。
現実世界で時は遡れないし、やり直しも効かないが、ゼロから始めることはできる。

リセットボタン-。

それは誰しもが心に持つ未知なる夢のボタン。
押した先に何があるのか、それは押した人のみぞ知る。

雲ひとつない快晴の空を飛び交う鳥のように、今までを空に解き放ち新たな一歩を踏みしめよう。

鶴田成美(つるたなるみ)

 
imintitulo.jpg

写真・文 松本浩治

戦前アマゾン移民の大嶽一(おおたけ・はじめ)さん

大嶽一さん.jpg

 生前は「アマゾンの生き字引(じびき)」的存在として慕われ、2009年10月に97歳の高齢で亡くなった大嶽一さん(静岡県出身)。戦後のアマゾン移民を各地域に入植させた辻小太郎(つじこたろう)氏の事業を手伝った経験があり、ブラジリアン柔術の創始者コンデ・コマ(前田光世・まえだみつよ)氏とも親交があった。

 大嶽さんは静岡県沼津市の商業学校を卒業した後、1931年に渡伯。「ぶえのすあいれす丸」でベレン市から約150㎞離れたオウレーンという町に入植した。同地に入ったきっかけは、日本での学校の先輩で、後にアマゾン地域を拠点にブラジルのスーパーマーケット業界で広く名声をいた「Y・ヤマダ商会」の創設者・山田義雄(やまだよしお)氏(故人)との関係があったからだという。
 山田氏は当時、ブラジルで植民事業を行いたいとの希望を持っており、日本で農業や機械操作技術に長けた日本人をオウレーンに入植させた。しかし、マラリアが猛威をふるい、入植者のほとんどがその被害に遭っている。同地では米、トウモロコシ、マンジョカ芋(キャッサバ)などの作物を生産していたが、「(マラリアの)熱が下がった者がメシの支度をする生活」(大嶽さん)が続き、大嶽さんは仕方なく4年ほどでパラー州都のベレン市に移った。
 講道館柔道の5段を取得していた山田氏のつてで、コンデ・コマ氏を紹介され、その斡旋で金物屋の店員や在ベレン日本国総領事館(現・在ベレン領事事務所)の職員として働いたこともあったという。
 その後、「アマゾニア産業」で麻袋の原料となるジュート(黄麻)の生産、販売の仕事に携わり、1930年代後半には同社の支社があったアマゾナス州パリンチンスの現場に入った。ジュート栽培は当時、ブラジルの国策として奨励され、もてはやされた時代だった。
 しかし、41年に第2次世界大戦が勃発すると、日本人はブラジル国内で敵性外国人扱いされるようになった。その影響で、大嶽さんも生産物のジュートをオリシミナーと呼ばれるアマゾン地域の町に持って行く際には、同地での行動予定を警察署に報告することが義務づけられたそうだ。
 戦況の情報などが一切入ってこない大嶽さんにとって、当時のオリシミナーの町で約80%を占めていたイタリア移民から同盟国同士の情報を聞くことが楽しみだった。ところが、ある日、警察への報告義務をせずに町を出たところ逮捕され、監獄に入れられた。その時、身柄を引き取ってくれたのがイタリア移民だったという。
 戦後、サンパウロに出ようと考えていた時に、5000家族の戦後移民をアマゾン地域に入植させる計画の準備を行なっていた辻小太郎氏と出会った。同氏から入植事業を「手伝ってほしい」と言われた大嶽さんは、40年代後半から各植民地に移民を送る船の手配などを行い、53年の第2回戦後移民到着まで辻氏の仕事に従事した。
 その頃、移民船がアマゾンに来るたびに味噌や醤油などの日本食製品を譲り受け、「新しい日本人」と会えることなどからも「移民船が来ることが待ち遠しくて仕方なかった」と大嶽さんは当時を懐かしむ。
 その後、日本の商社に入社した大嶽さんは、「黒いダイヤ」と持てはやされたピメンタ(コショウ)のブームに乗った。晩年も、ブラジルに来るきっかけとなったY・ヤマダ商会の顧問として毎日を優雅に送っていた。
 最初にブラジルに渡ってきた際には、神戸港から出港したという大嶽さん。「今まで、よく生きてきた。神戸で船が出る時のテープを投げたことを今も思い出す」と、自分の生きてきた道のりを感慨深げに振り返っていた。

(2001年5月取材)

松本浩治(まつもとこうじ)

 

第二次世界大戦後のブラジル日本移民社会で起きた勝ち組負け組抗争を描いた小説

Lilian_Titulo.jpg

リリアン・トミヤマ

「舌が肥えている」

 間違いなく、ベルキオール(Belchior)はブラジル音楽界の中で重要な位置を占めていて、しばしばボブ・ディランと比較されますが、それは以下の二つの理由によります。ひとつは歌詞、もうひとつは、こちらの方が主要な理由ですが、歌を「歌う」のではなく「語る」傾向を持っている点です。2017年に亡くなりましたが、今でも若い世代のミュージシャンや、良質なブラジルポピュラー音楽を楽しむ人々を魅了しています。その影響力は相当なもので、ラッパーのエミシーダ(Emicida)がベルキオールの「Sujeito de Sorte」という曲をサンプリングして、パブロ・ヴィタール(Pabllo Vittar)、マジュール(Majur)と一緒にシングル版をレコーディングしています。実は、ベルキオールの曲の中で私の一番のお気に入りの曲です。歌詞は短いですが強烈です。

 

 Presentemente, eu posso me considerar um sujeito de sorte

 Porque, apesar de muito moço, me sinto são e salvo e forte
 E tenho comigo pensado: Deus é brasileiro e anda do meu lado
 E assim já não posso sofrer no ano passado

 Tenho sangrado demais, tenho chorado pra cachorro
 Ano passado eu morri, mas esse ano eu não morro

 今のところオレは運のいい奴だと思っている

 すごく若いけど、自分が健全で無事で強いと感じている

 心の中で考えてきた、神はブラジル人でいつもオレのそばにいると

 これならもう苦しむことはないだろう

 去年オレはものすごく血を流した、ものすごく泣いた

 去年オレは死んだ、だけど今年は死なない

 

「Sujeito de Sorte」を基にしたラッパー・エミシーダの曲に興味があるなら、曲のタイトルは「AmarElo」です。YouTubeに動画がありますので、英語字幕をオンにしてみて下さい。翻訳が素晴らしいです。問題は、私の意見ですが、動画の導入部分が長すぎることです。私のようにせっかちな人は2分39秒のところから動画を観始めて下さい。

「Sujeito de Sorte」のような曲の“アップデート”を批判する人もいますが、私は良いと思います。結局のところ、こういったレコーディングのおかげでベルキオールが再び聴かれるようになり、良い音楽に触れる機会のない人々にまで知られるようになるのです。残念ながらブラジルのような不平等な国では当たり前ことでもあります。

 文化的な環境とあまり文化的でない環境の違い、恵まれた環境とあまり恵まれていない環境の違いということを考えているうちに、「舌が肥えている」という表現に思い至りました。ポルトガル語でどう言うでしょうか?答えは、

 

 動詞 ter+bom paladar

 

です。

 例を見ていきましょう。

 

 Ele tem bom paladar. Ele sabe apreciar pratos sofisticados.

 (彼は舌が肥えてるよ。洗練された料理の味わい方を知っている)

 Maria tem bom paladar.  Por isso, eu gosto muito das indicações dela de restaurantes.

 (マリアは舌が肥えてるね。だから彼女おすすめのレストラン大好きだよ)

 Para ser um chef, é preciso ter bom paladar.

 (シェフになるためには舌が肥えていなければならない)

 

 今月もお読みいただきありがとうございました。みなさんに質問があります。

 

 Você tem bom paladar?

リリアン・トミヤマ(Lilian Tomyama)

 
Kishiwada_Titulo_Cor.jpg

岸和田仁

ジャイミ・クリントウィッツ(ジャーナリスト、元VEJA編集局長)(その2)

 ベリンディア(Belíndia)という合成名詞は、バシャが(ベルギーとインドを合体して)創りだしたものだが、コントラストだらけの国という意味であった。ブラジルは、同じ一つの国土のなかに、先進国ベルギー並みの生活水準を享受している一部の少数派がいる一方、国民の大部分はインドと同程度の貧困に喘いでいたのであった。この新合成語がもたらしたインパクトは広範囲にわたって、大きな影響力を残すことになった。この新名詞は、ブラジルの社会的不正義を明示した比喩としてブラジルのポルトガル語辞典に収録されることになったのだ。

 エドゥマール・バシャは経済学者として経済政策の立案や執行への貢献は実に大きいことは明白であるが、彼はミナスジェライス州ランバリ出身で、レバノン移民二世である。米国のエール大学で博士号を修得した多くのブラジル人経済学者たちの先陣を切った人であり、1994年にハイパーインフレに終止符を打った「レアルプラン」の立案に関わった中心人物であった。通貨の(インフレによる)価値目減りこそが所得の不平等をもたらした主要原因であった。彼こそが、レアルプランの本当の生みの親である、といわれる所以である。その10年前、IBGE(地理統計院)総裁の立場で価格凍結政策クルザードプランにも関与したが、ジョゼ・サルネイ政権による物価指数の粉飾調整に抗議して、同総裁の職を辞したのであった。

HISTÓRIA DO BRASIL EM 50 FRASES.jpeg

<História do Brasil em 50 frases>

  今思い出しても、1985年から1994年までの「失われた10年間」は、ブラジル国民全員がハイパーインフレに追い回されていた時代であった。そのムチャクチャぶりを、通貨のデノミやインフレ率に焦点をあてて、ざっくりと復習してみよう。

 1980年代に入ると、年間インフレ率は3ケタとなったが、10年もしないうちに四ケタのインフレの日々となると、庶民の物価観念は“認知症状態”へ陥った。なにしろ年間でなく月間インフレ率が50%とか100%だったのだから。当時はバーコードなどなく、スーパー従業員が値札ラベルを商品に張り付けていた時代で、毎週のように新価格を張り付けるものだから、例えば、インスタントラーメンのプラスチック袋には、価格ラベルが3枚も4枚も重なっていて、その1枚を剥がしてレジに持って行っても追及されることもなかった、というほどの混乱の日々であった。中産階層は様々な金融商品を利用してなんとかインフレヘッジができていたが、キャッシュ払いしか手段のなかった庶民層は、給料をもらったら、必要基礎食料などを買いだめすることが唯一のインフレへの対抗手段であった。

 この時代の最初の価格凍結策が1985年のクルザドプランで、1千クルゼイロが1クルザドへとなって、一時期インフレが止まったが、通貨政策と財政政策をリンクしなかったため、すぐに食品など基礎必需品がスーパーの棚から消え失せ、物隠しやらヤミ市場が横行、4年後には、新たなデノミが必要となった。すなわち、

 

 1985年1.000cruzeiros=1 cruzado   

 1989年1.000cruzados=1 cruzado novo

 1990年 cruzado novo ⇒ cruzeiro real(通貨名の変更のみ)

 

というようにゼロを6ケタもカットしたが、これでも間に合わず、1994年7月のレアルプランで 2.750 cruzeiros reais=1 real というアクロバティックな強硬策でようやく超インフレ経済に終止符が打たれたのであった。

 1960年代は全人口の10%を占める上位の富裕層が、全国民所得の40%を占めていたが、10年後の1970年代にはさらに悪化し、上位10%が全所得の47%を占め、1980年にはこの数値が48%と、さらに貧富の格差が拡大した。この状態を貧困層の数字で再確認すると、1960年全人口の10%を占める最貧困層の所得合計は全国民所得の2%でしかなかったが、10年後の1970年には、半減して1%になってしまった。

 こうした格差王国ブラジルの別名の命名ブームがしばらく続くことになって、Belíndiaの次は、1995年のInganaで、これは、イギリス(Inglaterra)並みの高い税率と西アフリカのガーナ(Gana)並の公共サービスを皮肉ったものだ。ちなみに命名者はデルフィン・ネト(軍政時代の大蔵大臣・企画大臣)だ。

 2年後の1997年経済学者クラウディオ・デ・モウラ・カストロは、人間開発指数(HDI、ポルトガル語でIDHとは、保健・教育・所得という人間開発の三つの側面の平均達成度を指数化したもの)を州別にチェックした。豊かなリオグランデ・ド・スールは韓国と同じレベルだが、パライーバはインド並みだ、という州別の格差を反映してCoríndiaだと。韓国(Coreia)+インド(India)の合成語だ。

 この指数の州別比較を改めて2012年に行ったところ、ブラジリア連邦区はイタリアと同レベル、一方、アラゴアスは最低でスリナム並みだったので、また新造語Itanameが誕生した。Itália+Surinameというわけだ。

 今回も元VEJA編集局長ジャイミ・クリントウイッツの“História do Brasil em 50 frases”(ブラジル史を50のフレーズで読む)から引用した。

​岸和田仁(きしわだひとし)

 
ひとりごと.jpg

文化の移植でしょ? 残念な。

 さてまた今年もやって来ました、年末です。当地ブラジルで年末と言えば、クリスマス一色になり、カトリックが主流の国なので当たり前といえば当たり前なのです。クリスマスはキリスト教の中心人物、イエスキリストの誕生を祝う祭典です。いうまでもなく、元々キリスト教徒が行っていたモノですが、近年ではまったく関係のない日本などでもクリスマスを有り難がってお祝い事と考えている人が増えているのではないかと思います。まあこれは宗教的内容はともあれ、親しい人達が集まって、普段からかけ離れたご馳走を食べ、懇親するのが主な目的だと思われますので、それはそれで良いことだと言えるのではないでしょうか?

 

『元々この12月25日前後は欧州の古代文化では冬至を祝う時期であったのが、キリスト教が普及するにつれ、そのお祝い事をイエスキリストの誕生祝いに置き換えたとされている。なので、ある意味原点に還っていると言えるのかもしれない』

 

 そこで、クリスマスの食事を日伯の違いでみてみると面白いです。元からキリスト教と関係のない日本(註1)のクリスマスメニューをみていると、なんか訳のわからない折衷メニューや「子どもが喜ぶメニュー」など、元の文化となんら関連性がないことがわかります。ネットで調べると、クリスマスの食事のメニューランキングがあり、次の内容がトップに登場するそうです:

JPN_edited.jpg

 これら以外に寿司(にぎりや手巻き)、パエリアなども人気があるみたいです。ピザやフライドチキンなど、ご馳走であるとは言えないですが、多人数で集まって食事するのが目的なのでしょう。寿司もその延長ですね。

 反面、ブラジルのクリスマスメニューは伝統的で一貫性があります。

BRA.jpg

 このメニューの伝統性・一貫性は、すべて「ヨーロッパの冬」のご馳走であることだと言えます。それもそのはず、まさに冬至の食事なのです。日本にいると、その時期雪が降ったりもするのでそんなに違和感がないと思いますが、ブラジルでは反対の夏至なので雪景色のクリスマスデコレーションや防寒服を着たサンタさんはいかがなものでしょうか?これらを見ていると、明らかに植民地に輸入された文化であり、当地の事情・気候・旬とはまったく関係のない祭典であることがわかります。

 

『食事の内容は、カロリーの高い、寒さが厳しい冬の食べ物だな。当地では夏の始まりで、暑くって、海にでも行こうといった時期にどうしてこんな暑苦しい食事をしないといけないのだ?宗教がらみなの縁起物なので、そんなものだと言ってしまえば終わりだけど…』

 

 日本でも「土用のうなぎ」といって、極暑にスタミナがつくものを食べるといった習慣もありますが、それにしてもこのメニューではカロリーオーバーでしょ。若干ブラジルで発展した内容もありますが、それもヘビーなサラダですね。このコラムの24人の読者様もブラジルのクリスマスの食事の経験がある方も多いと思いますが、翌日胸焼けしませんか?東洋医学の考え方で、食事で最も重要なのは「旬の物を楽しむこと」ですが、このメニューはそれを完璧に無視した「とんでも料理」だと筆者は思います。

 

『当地でも日本でも、クリスマスの輸入文化だけでは事足らず、最近は「ハロウィーン」も輸入されている。人が集まって楽しんだり、食事で懇談するのは良いことだと思うけど、特定の民族・宗教団体・文化などのイベントを単なる商業的目的で普及させるのはどうか。それにのせられているのはもっと残念で悲しいぞ』

 

 今年の年末はコロナ禍も落ち着いているので、例年の様にみんな沢山集まるのでしょうね。25日の朝にはあちこちで大破した車を見かけます。大量に飲酒するので、24日の深夜の運転は非常に危険です。ご注意ください。

 

註1:日本には昔は切支丹、現在はキリスト教徒がおられますが、日本人の主流ではないのでこの様な表現とします。



 

秋山 一誠 (あきやまかずせい)。サンパウロで開業(一般内科、漢方内科、予防医学科)。この連載に関するお問い合わせ、ご意見は hitorigoto@kazusei.med.br までどうぞ。診療所のホームページ www.akiyama.med.br では過去の「開業医のひとりごと」を閲覧いただけます。

 
Yutaka_Titulo.jpg

白洲太郎

第69回 実録小説『売れるのか?それとも売れぬのか? 後編』 

 2021年10月8日。
 リオ・デ・ジャネイロへの旅行資金を稼ぐためにカンタガーロという田舎町にやってきた白洲太郎と彼の妻になる予定のちゃぎのは、青空市場の片隅に屋台を設営し、ホッとため息をついているところであった。スマホを見ると、ちょうど8時が過ぎた頃である。野菜や果物の屋台には人が群がり、市場は活気に満ち溢れている。
 これは期待できそうだ。
 ふくみ笑いをしながら客がやってくるのを待っていた太郎であったが、どうも様子がおかしい。10分が過ぎ、20分が経ったにも関わらず、しらす商店に立ち寄ろうとする客がひとりも現れないのである。深夜の3時に起床し、剣呑な山道を3時間もかけてやってきたというのになんたる仕打ちであろうか? ただでさえ燃料が高騰しているご時世である。これでは利益を出すどころか、ガソリン代を稼ぐことすら困難かもしれぬ。やはり今日はあかん日やったか。こんなことなら仮病をつかってでも家でゆっくりしとけば良かった…。
 などと、マイナス思考に陥りかけた太郎であったが、彼もプロの露天商である。フェイラの流れというのは日によってまちまちで、屋台を設営した直後から売れ始めることもあれば、昼前にラッシュがくることもある。1日の結果は終わってみるまでわからず、ここはひとつどっしりと構えることだ。
 ベテランらしく気持ちを立て直した太郎は、このヒマな時間を利用して、約2年ぶりに訪れたカンタガーロの町を散策してみることにした。ブラジルで路上起業したばかりの頃は1日の売上が数千円ということも珍しくなかったが、そんな時代にあって1万円以上という売上を記録したのがこの町の青空市場であり、太郎にとっては記念碑的な出来事であった。と、同時に忘れたくても忘れられないイヤな思い出も持ち合わせている。同業者の嫉妬による傷害事件の発生である。
 売上が1万円を超え、ノリにノッていた太郎であったが、ちょうど同じような時期に、あるヒッピーがカンタガーロにたどり着いていた。知り合った当初こそ友好的な雰囲気だった入墨だらけの男は、後に脱獄囚だったことが判明するが、その本性が現れるのに長い時間はかからなかった。ここでの詳細は省くが、本誌のバックナンバーに事の経緯を記してあるので(2018年5月号から9月号)、興味のある方は目を通していただききたい。
 そのような忌まわしい記憶もあるにはあるが、カンタガーロでの思い出は基本的には良いものばかりであった。客としてやってくるブラジルギャルをナンパしまくっていたあの頃。青空の下、廃線路の脇で乳繰りあった経験は、青春のひとコマとして太郎の心に刻まれている。
 それにしても変わったなあ。
 フラフラと町をウロつきながら、彼はそんな言葉をつぶやいていた。10年前、ナタで左太ももを2ヶ所刺され、血まみれになって転げまわったあの思い出深きプラッサ(広場)も、今ではすっかり改築され、昔の面影は残されていない。負傷した太郎が絶望に打ちひしがれながら一晩を過ごした診療所もすでに閉鎖されてしまっていた。
 無常の世をひしひしと感じながら、太郎は町をそぞろ歩いた。約2年前まではほぼ毎週通っていた青空市場である。知った顔には何人もすれちがったし、言葉を交わすこともしばしば。思わぬ人が激太りしていたり、ハナタレだった少女が立派な娘さんに成長していたりと、懐かしさの中に新たな発見があった。
 感慨深い思いで往来をキョロキョロしていると、後ろから大きな声で呼ぶ者がいる。
「ジャパじゃねえか!久しぶりだな、おいっ!」
 振り向くと見覚えのある顔が朗らかな笑みを浮かべていた。ハチミツ屋のウィリアである。ここらじゃピカイチのハチミツを売っている男で、馬糞や牛糞などの手作り肥料も販売している。背は低いが、がっしりとした体格の持ち主であった。
 コロナ騒動ですっかり疎遠になっていたが、パンデミックが始まる前はこのオヤジからよくハチミツを購入していた太郎である。久しぶりの再会は嬉しいもので、このようなやりとりを市場のあちこちで繰り返しながら、太郎は自分の持ち場へと戻っていった。
 しらす商店の屋台に到着すると、数人のスクールボーイ&ガールズが群れをなして商品を吟味している。ちゃぎのの話によると、太郎が席を外していたこの数十分の間にけっこう売れたらしい。
「ほらな?これがフェイラなんだよ!諦めなければ、必ず流れはくるんだ!」
 太郎は胸を張って言ったが、
「あんた、いなかったやん。どこほっつき歩いとったん?」
と、呆れ顔のちゃぎのである。
 何はともあれ、フェイラは生き物だ。売れるときもあれば売れないときもあるが、思いがけない幸運に恵まれたり、想像もしなかったような事態が起きたりもする。それも含めてフェイラの魅力なのである。
 学生たちが去ると、今度はやや耄碌した感のある初老の男性が錆びついたネックレスを持ってやってきた。
「これはオフクロの形見の18金ネックレスだ。訳あって現金が必要になってな。どうだ? 格安で譲るよ」
 逆に営業をかけてきたのである。ネックレスはもちろん安物で、金などというシロモノであるはずがない。一見、パリッとした格好をしているように見えるが、実はこの男、ここらでは有名なボケ男であり、虚言癖もあれば手癖も悪いという曰くつきの人物なのである。太郎の屋台でも何度か万引未遂事件を引き起こしているので早々に去ってもらうことにしたが、扱いが悪いと激怒するので、追い返すときもVIP待遇でなければならない。まことにもって面倒な人物なのである。
 ボケ男の背中を見送りつつホッとしたのもつかの間、
「あんた、指輪作ってる人じゃろ?」
 小柄なオヤジに声をかけられた。太郎の『古いコインを再利用して作った結婚指輪(Aliança de moeda antiga )』は、ここから半径100km圏内の町の間ではかなりの評判になっており、10年以上かけて口コミが広がっていた。
「オヤジも指輪が欲しいのかい? オレのAliança de moeda antigaは100%本物だから安心しなっ!じゃ早速サイズでも測ろうか」

 太郎がやる気を見せると、

「いや、ちがうんじゃよ。ワシは古いコインを大量にもっているんじゃが、アンタがAliança de moeda antiga を作ってるなら材料が必要じゃろうと思ってな。いかがかな?」
と、ご丁寧に見本品まで持ってきている。確認すると、それらはいずれもMoeda antiga amarela であり、結婚指輪作りに使用できる種類のコインであった。値段を聞くと、インターネットで買うよりはお手頃のようである。コレクション的な意味合いではあまり価値のないものであったが、なにせ100年くらい前のコインなので見つかりにくいのだ。オヤジの熱心なセールスもあって、60枚ほど購入することにした。モノを売りにきたのに逆にセールスをかけられる。これも青空市場の醍醐味である。その後もなつかしい顔ぶれが続々としらす商店に押し寄せ、久しぶりのフェイラは大盛況となった。
 長いコロナ禍を経て、日常が戻りつつあるのを実感した白洲太郎である。ここ1、2年はクアレンテーナ(隔離期間)を言い訳にのんびりと過ごしてきたが、やりたいことや、やるべきことは山積みであった。
 何はともあれ、今日のフェイラは大成功である。
 思い出の町カンタガーロに、また新たな思い出ができた一日であった。

​白洲太郎(しらすたろう)

 
craque.jpg

下薗昌記

第146回 ヴィンキ

WINK.jpeg

 2021年8月、横浜国際総合競技場で行われた東京五輪男子サッカー決勝でブラジルは2度目の金メダルを獲得した。

 5年前のリオデジャネイロ五輪ではネイマールが悲願だったブラジル初の金メダルに感涙。サッカー王国は過去にも五輪に好チームを送り込んできたが、数多くのクラッキたちが涙を飲んできた。

 べベット、マルセロ、チアゴ・シウヴァら6人のブラジル人選手だけが王国のサッカー史において五輪で2度のメダルを手にしてきた男だが、その中の一人がルイス・カルロス・ヴィンキである。

 ヴィンキは、1985年にブラジル代表に初招集。1993年まで何度かカナリアイエローのユニフォームを身に纏ってきた名手だったが、ワールドカップ出場には縁がない不運なサッカー人生を送った。

 1963年、リオ・グランデ・ド・スウ州のポルタンで生まれたヴィンキはインテルナシオナウの下部組織で育ち、プロデビューを飾った。1984年のロサンゼルス五輪で銀メダルを手にし、1988年のソウル五輪でも再び金メダルに手が届かなかったヴィンキではあるが、その実力の確かさを物語るのが、ソウル五輪当時のエピソードである。

 レギュラークラスに名を連ねたのはロマーリオやベベット、タファレウ、ジョルジーニョら6年後のワールドカップアメリカ大会でブラジルを「テトラ(4度目)」に導く名手たち。

 そして右SBだったヴィンキも当然ながらレギュラーだったが、本来は右SBのジョルジーニョが左SBを務めざるを得ないほどの実力者だったのだ。

「ヨーロッパでプレーすること、そしてワールドカップの舞台に立つことは僕の夢だった。その可能性はあったんだけどね……」

 ヴィンキの言葉に嘘はない。

 メキシコ大会を翌年に控えた1985年には当時の指揮官、エヴァリスト・デ・マセードに期待をかけられていたもののテレ・サンターナの就任後、構想から外れメキシコ行きを逃す。そして1988年のソウル五輪後、イタリア大会出場を目指すも、インテルナシオナウの一員として出場していたコパ・リベルタドーレスで負傷し、イタリア行きも夢に終わるのだ。

 1993年のコパ・アメリカにも出場。1991年から1993年までブラジル代表に招集される機会も多かったヴィンキは当時、ブラジル屈指の右SBであり続けた。

 ヴァスコ・ダ・ガマでは1989年のブラジル全国選手権優勝を決めるアシストも記録。クラブ史にその名を刻んでいるヴィンキは、1994年のワールドカップアメリカ大会で総監督を務めたザガロとも師弟関係にあったが、ザガロと監督のパレイラはジョルジーニョの控えとしてヴィンキではなく若き日のカフーをチョイス。2度の五輪を経験しながらも、ヴィンキの履歴書に、ワールドカップ出場歴は刻み込まれることはなかった。

 ビッグクラブを渡り歩き1996年にスパイクを脱いだ名手は1998年から監督として様々なクラブを率いるが、その大半が地方の中小クラブだった。

  兄セルジオもグレミオなどでプレーしたプロ選手で、セルジオの二人の息子もまた王国でサッカー選手として生きることを選択。文字通りのサッカー一家であるヴィンキ家だが、選手として最も成功したヴィンキは、監督としてまだ夢を果たせていない。

「インテルナシオナウでいつか監督をしてみたい」

 58歳の挑戦は、まだ終わらない。

​下薗昌記(しもぞのまさき)

 

​ブラジル、サンパウロ