2022年1月号 vol.187

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写真:松本浩治 リオ州パラチ近くのアラウージョ島からの眺め

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目次

今月号のスポンサー一覧

 

幻の創刊準備号

​(2006年6月号)

Kindleで復刊

​2020年7月号

​2020年8月号

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呼び鈴を押す亡霊?!

マットグロッソ州アウト・タクアリ市に住むジグリオ・ベルニーニさんとその家族に不思議なことが毎日続いていた。家の呼び鈴が鳴らされ入口を見てみるが、まわりに誰もいないのだ。

「何とも奇妙なことで、子供のいたずらか、それとも誰かが空き巣に入ろうとしたか、はたまた亡霊の仕業とまで思いました」

ところが、ある日隣人が撮影したビデオを見てみると、ジグリオ家の愛犬ファイースカ(フォックスハウンド種)が家に着き、後ろ足で立って呼び鈴を押し、家族が門を開けてくれるのを待っている姿が映っていた。

ジグリオさん一家は念のために監視カメラを取り付け、毎日チェックしてみたが、やはり呼び鈴を押していたのはファイースカだった。

「いつも庭に放し飼いにしているのですが、誰かが門を開けた隙に外に出て、好きな時間に帰ってくるんです。特にしつけたりはしていません。とても賢くて愉快な奴ですよ」。

ファイースカは今年6歳になるが、小さい時に誰かに盗まれ6か月後に路上で見つかったことがあるそうだ。

「元々おとなしい性格でしたが、盗まれた後は家族以外の人に近寄らなくなりました。知らない人になつくまでかなり時間がかかるようになりました」。

神出鬼没のブラジルのサンタたち

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布施直佐(ふせなおすけ)

 
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写真・文 松本浩治

北東伯ピウン移住地出身の宮川頼周(みやがわ・よしのり)さん

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「自分たちはドミニカ移民と同じようなもの」—。

こう語るのは、日本政府の国策として1956年に「あめりか丸」で渡伯し、リオ・グランデ・ド・ノルテ州のピウン移住地を経て、現在はバイア州イトゥベラに在住、同地を拠点として活動する宮川頼周さん(78、長野県出身)だ。2006年で半世紀を迎えたブラジル生活だが、日本から「棄てられた」という気持ちが宮川さんの心を支配している。

 1944年、日本の陸軍航空飛行兵として1000人の志願者の中から選ばれた経験を持つ宮川さんは、「一機一艦」を合言葉に米軍攻撃を目標として自宅待機していたが、その機会もなく終戦を迎えた。戦後の食糧難の時代に神奈川県に移転し、日本の自動車免許とともにアメリカのライセンスも取得。米軍の駐留軍用員として、比較的恵まれた生活ができていたという。

 宮川さんの人生を変えたのは、結婚して間もない夫人と実弟が日本政府の南米移住政策の宣伝を聞いてきたことだった。

「ブラジルには『緑の大地』が広がっている。『こらあ、ええぞ』ということで説得されて来たみたものの、真っ赤なウソでしたわい」

と宮川さん。海協連(日本海外協会連合会、現JICA)を通じて、当時の金で「数十万円」という移住資金を貯めて、56年7月10日にリオ・グランデ・ド・ノルテ州のピウン移住地に10家族とともに入植。

「入植と同時にココ椰子の作付(さくつ)け可能と聞いていたけど、土地には泥炭地ができ、池の中にゴミが溜まっている。契約した土地は10町歩と聞いてきたのに、実際には1町歩くらいしかない。おまけに、2年経ったら地権を渡してくれるという話だったが、全然話が違ったのよ」

と当時を振り返る。

 家長会議を開き、「こんなことでは居られない」と、当時リオ州管轄だった海協連引受責任者を呼び出した際、その担当者は

「頑張ってください」と言いながら、ただひたすら土下座していたという。

 自分たちの土地に入れない宮川さんは、

「(移住地の)下の方に農場が余っているから、そこで作付けをやってほしい」

との指示により開墾作業を行い、

「血豆の中に、また血豆を作りましたよ」

という生活を続けた。他の移住者が離散する中で、宮川さんを14年間もピウン移住地に引き留めたのは、ブラジル農務大臣の言葉だった。ある年の北伯の大干ばつで宮川さんは、自分たちの暮らしぶりも厳しい中で、救援物資として10俵分のサツマイモを送った。このことが農務大臣の目に止まり、

「ぜひ、ブラジル人として帰化してほしい」

と依頼され、宮川さんは62年に帰化している。

 60年代初頭には、当時の衆議院議員で、後の日本海外移住家族会連合会会長を務めた故・田中龍夫(たつお)氏がブラジルを訪問した際、移住地の現状を訴えようと陳情書を持って、他の移住者たちとジープに乗って移住地を発った。しかし、途中で交通事故に遭い、1人の死亡者を出した。宮川さん自身も膝の皿が外れるという大怪我を負った。

 ナタール市の病院で手当てを受けていた宮川さんのもとに、移住家族連合会事務局長だった故・藤川辰雄(たつお)氏が見舞い、枕元で「頑張ってください」と言われたことが今も耳に残っているという。

 その後、宮川さんは70年にバイア州イトゥベラに移転して、同地でもマモン(パパイヤ)などの果樹生産を行ってきた。現在は長男が農地を継ぎ、インドネシア原産熱帯果樹のランブータンやマンゴスチンのほか、クプアスーなどを生産している。

 内臓を患い、2005年にサンパウロ市の日伯友好病院で手術した宮川さんは、療養を兼ねて現在は半年ごとにサンパウロとイトゥベラを往復する生活を続けている。

「僕はウソをつくことが大嫌いなんです。日本に行って、外務省の連中にブラジルで見てきたことを陳情したい」と話していた宮川さん。

「貧しくても心は立派でいたいね。人間的な完成を目指してあと30年は生きたい」

と笑っていた。

(2006年7月取材、年齢は当時のもの)

松本浩治(まつもとこうじ)

 

第二次世界大戦後のブラジル日本移民社会で起きた勝ち組負け組抗争を描いた小説

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リリアン・トミヤマ

過去と異なる現在

 サンパウロはピザの伝統があります。それはイタリアからの移民によるものです。最初のピザハウスは1910年にブラス地区(Brás)にできたサンタ・ジェノヴェーヴァ(Santa Genoveva)という店です。オーナーはカルミーノ・コルヴィーノ(Carmino Corvino)というイタリア人で、1897年にサンパウロにやって来ました。そもそも彼は大変奇異な理由によってブラジルに移民しました。J.A. ディアス・ロペス(J.A. Dias Lopes)という記者によると、カルミーノは背が高く、恰幅がよく、テノール歌手のような低い声で、魅力的な人物でした。ブラジルへは、関係を持った既婚女性の夫に殺すぞと脅迫されて逃げて来たのでした。移民船の上で後に妻となるアヌンシアータ(Anunciata)と知り合いました。

 はじめはカットしたピザを売り歩いていて、ピザが冷めないように火のついた炭の入った円筒缶の中に入れていました。お金を貯めてピザハウスを開店し、ピザハウスは1940年に完全に閉店するまでサンパウロのイタリア移民の出会いの場所となりました。

 実際このピザハウスがなくなってしまったのは残念なことです。ところで、過去にあったものが現在はなくなってしまった、というのをポルトガル語でどう言うでしょうか?

 このような形式を用います。

 

 Não + <動詞の現在形> + mais

 

 例文を見ていきましょう。

 

 Ele não fuma mais.

 (彼はもう煙草を吸いません)

 ※過去には吸っていたが現在は吸わない。

 Eu não como mais carne.  Eu sou vegetariano agora.

 (私はもう肉を食べません。今はベジタリアンです)

 ※過去には肉を食べていたが現在は食べない。

 Eu não trabalho mais com Maria.  

 (私はもうマリアとは仕事をしていません)

 ※過去にはマリアと働いていたが現在はマリアと働いていない。

 Eles não moram mais aqui.

 (彼らはもうここには住んでいません)

 ※以前は住んでいたが今現在は住んでいない。

 今月もお読みいただきありがとうございました。ピザをサンパウロへもたらしたカルミーノ・コルヴィーノが魅力的だったということで、今月のしめくくりに、魅力的な女性についての音楽をご紹介したいと思います。男女同権ですからね☺

「Mentirosa(嘘つき女)」はオルランド・シルヴァ(Orlando Silva)が歌った曲で、1941年に出ました。インターネットで見つけることが可能ですが、ジャーナリストのジョアキン・フェレイラ・ドス・サントス(Joaquim Ferreira dos Santos)が説明するように、この曲のレコーディングはたったひとつの曲の中に才能が凝縮されたものだということです。歌手のオルランド・シルヴァは歌唱テクニックの最高潮にあり、アレンジとフルートの即興演奏は大家ピシンギーニャ(Pixinguinha)、超知的な歌詞はマリオ・ラーゴ(Mário Lago)、大胆な和音を使ったメロディーはクストディオ・メルキータ(Custódio Mesquita)。聴く価値ありです!

 今回もありがとうございました。

 2022年がみなさんにとって素晴らしい年になりますように!

リリアン・トミヤマ(Lilian Tomyama)

 
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 昔、ブラジルの雑誌Viagemの表紙を飾っていたのを思い出し、一度は行ってみたいと思っていた。今回その機会に恵まれ、喜び勇み出かける。この町サント・アントニオ・ド・ピニャール(Santo Antônio do Pinhal)は、マンチケイラ山脈沿いの、サンパウロから、179キロに位置する。車で約2時間半で町の中心部に着く。

わかりやすく言えば、避暑地カンポス・ド・ジョルドン(Campos do Jordão)の30キロ手前の町。標高1143m。両方の町は鉄道でも繋がれている。この町の名前は、1811年に創設された教会サント・アントニオ・デ・パドゥア(Santo Antônio de Pádua)に由来する。

 この聖人は、1195年、ポルトガルのリスボン生まれで、1231年6月13日、イタリアのパドヴァで没した。縁結び、結婚の守護神として崇められている。

 この町は小さな町だが、百軒ほどポーザーダがあるという。観光のピーク時には、町の居住者7000人の倍以上に人口が膨れ上がるとか。私たちが泊まった『ポーザーダ・ド・セードロ』は超おすすめ。少し値段は張るが、コテージになっていて、暖炉やお風呂もついている。寝室は広々として間取りがゆったり。ハンモックの張ってあるテラスの先には、マンチケイラ山脈の山々が連なる。とにかく閑静で、心安らぐ自然が広がっている。今週は雨が降らないと客室係が言うので安心していたら、おや、真夜中3時ごろから降り出した雨の音で目が覚める。木々の緑に雨がたたきつける。しばらく眺めていたら、なんと蛍が飛んでいる。数匹の蛍が雨の中を飛び、錯覚か、夢見ているのか?と唖然とする。光の輪が雨の中、宙に弧を描き、曲線を描く。えならぬ風景である。小一時間雨の中、気持ちが洗われる思いで、見入り眠りにつく。

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◆エコパークから木工所へ

 

 翌日も一日雨。ヘルシーで豪華な朝食をとり、出発。エコ・パークJardim dos Pinhais に出かける。一周するのに一時間ぐらいで、多くの草木が生い茂り、楽しめる。カナダや日本等の8か所のテーマに分かれた庭園。見晴らし台や、木で作った怪獣、マンモスやワニが沼地に置いてある。所々にある看板には、公園内の植物や鳥の説明が、きれいな絵図とともに描かれている。入口には、広いレストランもあり店舗も入っている。子供から老人まで、ゆったりと歩きながら楽しめる公園だ。次に鉄道の駅に行く。鄙びた駅だ。

 そこから、木工の芸術家のエドアルド・ミゲールさんを訪ねる。木工所には、ブラジルのジャカランダ、イペーをはじめあらゆる木材が天井からぶら下がっており、所狭しと置いてある。お会いしてびっくりしたが、やけに日本びいきである。「文協、文協」と口ずさみ、以前、日本の政府の招待で、日本に行ったことがあるらしい。西林万寿夫前総領事の名前を、覚えている。“工芸展”のパンフレットなども置いてあり、この木工の芸術作品で、賞を取ったこともあるという。その工房を眺めながら、木とはこんなに美しいのかと、改めて見直す。そういえば今泊っているポーザーダもセードロCedro という。翻訳すると“杉”の木。このミゲールさんは、作品を購入してくれた人には、保証書と木工品にサインを入れてくれる。ゆったりとした木の椅子が、悠然と店先に置いてある。その姿、逸品である。

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<エドゥアルド・ミゲルさん>

◆町の中心部の賑わい​

 その後、町の中心部(Centro)に寄る。ワイン、カシャッサ、リコール、チーズ、松の実、チョコレートなどがエンポーリョ(食料品・雑貨店)に売っている。中央の高台に教会があり、店舗が並ぶ。洒落たこざっぱりした店が多い。この中心部に、サント・アントニオの泉がある。名水が湧き出ており、壁面に両手を広げ、動物の守護聖人といわれるアントニオの姿が描き出されている。この泉の近くのPraça do Artesão という小さな公園には、何故だか赤い鳥居が立っている。その真向いの山手、高台には、Mirante do Cruzeiro がある。名前のとおり大きな十字架が、荘厳な姿で立っている。小さな橋を通りそこに行くと、何だか野外教会に来たように感じる。

 夕食はホテルでとる。ニジマスに木の実のたくさん入ったムニエル。それに黒米と野菜のソテーが付く。とてもおいしい。いつも自宅で食べている黒米より太っていて、豊かな味。料理長の名前を聞くと、イタリア人の50歳の

Marcelo Catal Famoさんの弟子で42歳のノルデスティーノ(北東部出身者)のJoel Candido さんとか。お会いしなかったがなかなか美味しい。ろうそくのたくさん灯った暖炉の近くで食す。雰囲気もバツグン。

 翌日は、雨が上がる。ポウザーダの木々の緑が豊かに蘇り、木の葉は、多くの露を含んでいる。その白露の美しいこと。葉の上で丸まり、その透明の粒は水晶の連りのようだ。

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<サント・アントニオ・デ・パドゥア教会>

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<サント・アントニオの壁画>

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<Mirante do Cruzeiro>

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◆山頂からの絶景​

 午前中、車で行きたかったPico Agudo の山頂に行く。入口でこの地域の検問に引っ掛かり、「昨日は雨が多かったので、危険だ、危険だ」という。ところが運転手は慣れたもので、「大丈夫、大丈夫、行けなかったら引き返すさ」と強引に検問を説得し、車を走らす。なんのことはない。10分で山頂に着く。山頂まで.歩いてきた3人家族に聞くと「一時間半、かかったさ」という、十代の子供と一緒で、ゆっくり登って来たのかもしれないが。標高は1634m。山頂は、360度ぐるりとこの山脈の全貌が見渡せる。絶景。やはり来るべきだ。しかしここまで歩くのはちょっとね、といった感じ。広い敷地に野外駐車場といったスペースがたくさんある。やはり車で登る人が多いのだろう。近くを、ハンググライダー、パラグライダーを飛ばしている。パンフレットがある。この山頂からこの飛行物体をゆったり眺め、天空に思いを寄せるのも最大の贅沢かも。この山頂は、そのような時の流れをゆったり楽しめる空間なのだ。このふもとに、シンティアさんの陶芸のアトリエがある。また、反対方向だが、滝 Cachoeira do Lageado や、ビール工場 Cervejaria Artesanal Araukarien や、有名店のレストラ Donna Pinha もある。

 日本人の観光は、多くの名所を見て歩き、細切れのスケジュールを組むことが多いが、ブラジル人は一か所で、例えば浜辺に一日いて、波の音、海の色、空の雲を眺め楽しみ、空気の香りを嗅ぎながら自然と一体になり溶け込むーーーーそんな悠長な余暇の過ごし方である。ブラジルに来てよかったと思ったことは、時の流れの感じ方が違うように思うことだ。混然一体、自然に溶け込み、時間も空間も一緒に飲み込む、そんな余暇の過ごし方である。

 7月には蘭展もある。自然な中にうずもれ、松の実を肴にワイン、ビールを飲むのも最高だ。ゆったりと風呂、湯船につかり、山脈を眺め。身をゆだねる。なんといっても、閑静な自然いっぱいの町なのだ。

 今回もマンチケイラ山脈の、このサント・アントニオ・ド・ピニャールで、数日の休暇を取れたことは、大いに命の洗濯になったような気がする。是非お薦めの場所である。

 

青木遼(あおきりょう)    

旅行好き。知らない土地に行き、エトランジェ・異邦人の異空間を楽しむ。滞在歴30年を越える

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下薗昌記

第147回 ルイス・ファビアーノ

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 いとも容易く相手ゴールをこじ開けるかと思いきや、審判や相手選手に噛みつき、論争の的にーー。ブラジルのサッカー界では、数々の悪童たちがストライカーというポジションで輝きを放ってきた。

 すっかり名監督の顔を見せているレナト・ガウショや国会議員としてスーツ姿が似合うロマーリオ、そして解説者として活躍するエジムンドらは、いずれも一癖も二癖もある点取り屋だった。

 そんな系譜に名を連ねる一人のストライカーが未だにコロナ禍が収まりを見せない2021年12月、静かにスパイクを脱いだ。

 人は彼をルイス・ファビアーノと呼ぶ。

「この時が来た。この4年間、僕は愛するサッカーをプレーするため自分の体と戦ってきた。しかし、この戦いに僕は勝てなかった」

 自身のインスタグラムで引退を告げたルイス・ファビアーノは2017年にプレーしたヴァスコ・ダ・ガマで負傷。以来、ピッチに立つことを目標にしてきたが、41歳の体はもはやプロ選手として限界だった。

 1980年、カンピーナス市に生まれた幼きルイスは、地元の名門ポンテ・プレッタの下部組織で育ち、プロデビュー。輝かしいキャリアをスタートさせたが、引退発表からわずか2日後、原点でもあるポンテ・プレッタのコーディネーターとして第二のサッカー人生をスタートさせるのだ。

 ポンテ・プレッタに熱を上げる一家で育ち、とりわけ祖父は幼いルイスを連れて、グアラニーとのダービーマッチに足を運ぶほどの熱狂的なサポーターだったという。

 もっとも、ルイス・ファビアーノが最も輝いた場所といえばやはり、2001年から所属したサンパウロである。のちにブラジル代表でも名コンビを組むカカーとの呼吸はピッタリで、サンパウロでゴールを量産。通算212ゴールはクラブ歴代3位という数字である。

 左右両足の高精度のシュートに加えて、ヘディングなど多彩なゴールパターンを持つルイス・ファビアーノだったが、気性の荒さも際立っていた。

 2003年のコパ・スダメリカーナ準決勝の一幕だ。リーベル・プレートとの一戦は乱闘騒ぎになったが、ルイス・ファビアーノはジャンピングボレーならぬ、空手キックさながらの一撃を相手の背中に見舞ったが、PK戦の末に敗れた試合後「PKを蹴るより、乱闘で味方を助けるほうがいい」と言い放った。

 サンパウロから欧州に羽ばたき2004年にはポルトでトヨタカップ(現クラブワールドカップ)優勝を果たし、セビージャでも数々のタイトルに貢献。そんな生粋の点取り屋は、2003年から時折ブラジル代表にも招集されていたが、2006年のワールドカップドイツ大会後、ロナウドが代表から遠ざかると、背番号9を託されたのがルイス・ファビアーノだった。

 ドゥンガ率いるセレソンでは徐々にエースとしての地位を確立。2009年のコンフェデレーションズカップでブラジルを優勝に導き、得点王に輝くと、2010年のワールドカップ南アフリカ大会ではカカーとのコンビでチームは躍進。準々決勝のオランダ戦も優位に試合を進めながらフェリペ・メロの稚拙な退場もあって1対2の逆転負けを喫した。

「キャリアで2番目に悲しい出来事」と彼は後に振り返ったが、輝かしいその履歴書に「ワールドカップ優勝」の文字は記せずじまいだった。

「僕はここの下部組織でスタートし、下部組織の重要性も分かっている。だから若い選手たちに僕が歩んできた23年の軌跡を示したいんだ」

 キャリア通算773試合で計404ゴール。生粋のゴールマシーンは、サッカー人生の原点で新たなスタートを切った。

​下薗昌記

 
 
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新型コロナパンデミックのためレストランに行けない/開いていない期間が長く続き、デリバリーも何度か頼んだが、紙やプラスチックの味気ないお皿で着いた時には既に冷めていたり、味が変わっていたりして、同じ料理でもレストランで食べるのとはやはり異なる。やっと1年10か月ぶりにレストランに行けるようになり、美しく並んだカトラリーとグラスとともに再び料理を味わえるようになったことはうれしい限りである。

☆Nelita

ピニェイロスのレストランが多く立ち並ぶ通りの一画に今年、オープンしたモダンイタリアンのNelita。シェフをはじめレストランで働いているのは全員女性であるためか、とても繊細な料理が出てくる。ある批評家は鼻が高い(気取った)イタリアンと表現したのもうなずける。メニューにはIkuraやUniという言葉も見られる。
この日食べた揚げせんべいにエビとイクラを乗せたアペタイザーは東洋の香りをまとっている。最近はどのレストランも必ずメインの一品にベジタリアンを加えているが、Nelitaも例外ではない。ヤギのチーズが包まれたラビオリのようなパスタには隠し味にはちみつが使われたなんとも美しいレモンソースがかかっており、添えられた黒ニンニクのソースが味に深みを加える。タコのパッパルデッレはホウトウのような幅広のパスタにタコの足がドンドンと載っていてボリュームがある逸品。デザートのパナコッタはビジュアルがあまりにも違いすぎていて、見た途端、絶対にえっという反応を引き起こすはず。
週末以外は夜間営業のみであるのでご注意を。

 

Nelita
R. Ferreira de Araújo, 330 - Pinheiros
Tel:(11)3798-9827

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☆De* Segunda

De* Segundaのコンセプトはルールもラベルもないブラジル料理。季節の食材を使っているため、いくつかのメニューは日によって異なる。どちらも料理のリアリティ番組で優勝した若いカップルが指揮するオープンなキッチンとフレンドリーなウェイター、ウェイトレスが軽やかな雰囲気を生み出している。

カシュ―アップルシャーベットが添えられた生ガキはカキのクリーミーさ、シャーベットの酸味、甘味、冷たさが口の中で溶け合い、至福の瞬間を味合わせてくれる。トウモロコシ粉とエビで作ったクスクス・パウリスタには小イカとみじん切りのパルミットが添えられ、隠し味としてデンデ油が使われている。出汁もよく効いており、フェイラで食べるクスクス・パウリスタとは別物。この日頼んだメイン、子豚の骨付き肉の煮込みは豚の角煮を思い出させる味で、フォークで肉がほろほろ崩れる。添えられたカボチャのピューレとコルダ豆のビナグレッチソースとともにに食べるとまた違う味わいが楽しめる。この日のデザートはチョコレートテリーヌのパッションフルーツシャーベット添え。チョコレートの苦みと甘味、シャーベットの酸味のハーモニーが絶妙。

De* Segunda
R. Prof. Tamandaré Tolêdo, 160 - Itaim Bibi
Tel :  (11)3078-2900​

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宮本碧(みやもとあお)

 
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ジョアン・エドゥアルド『ポルトガルとブラジル間の貿易ルート地図』

メインパネル3m×4m,奥のパネル3m×1.05m MDF エアブラシ(エナメル塗料) 2016年 サンパウロ市 

João Eduardo “As rotas comerciais entre Portugal e Brasi”, MDF, aerografia, São Paulo

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キャラクターたちが生きているかのように、喜んで物語を想像してください。

 ポルトガル菓子店『Café Arte Nata』の雰囲気になじみながら、その場をユニークに飾る一枚があります。

 部屋の奥に設置された絵は、“植民地時代のブラジルとポルトガル間の貿易ルート”を『Café Arte Nata』仕様にパーソナライズした漫画風の地図です。この作品を描いたジョアン・エドゥアルドさん(43歳)の他の作品に最初に出遭ったのは、サンパウロ市内の別のポルトガル菓子店で、一瞬でその作風に魅せられました。そのしっかりとしたデッサン力とハイセンスかつ心地よいデザインはイタリア系移民の子孫である故か、ちょうど絵を紹介するお話をした時はローマ旅行中で、facebookに迫力ある教会の天井画や壁画がアップされていました。

 絵をオーダーしたカフェテリアのオーナーは、ポルトガル菓子をテーマにした作品を希望し、エドゥアルドさんと相談した結果、ポルトガルとブラジルの商業関係を探求するデザインということになりました。それを表現するために最も楽しい方法として、古地図を漫画化することが思いついたそうです。
 ブラジル史の本を眺めていると、植民地初期にはたいていフランス人等が描いたブラジルの絵地図が挿入されています。例えば、Lopo HomemのTerra Brasilis(1519)のように、正確さや現実よりは想像の入り混じった面白い姿の人や自然の描かれた地図が目につき、実際、エドゥアルドさんも古地図をインターネットで調べ、オーナーの関心に沿って『Café Arte Nata』オリジナルのシーンを再現しました。

 大西洋を横切るカラベラ船は、ポルトガルを代表するパステル・デ・ナタ(エッグタルト)やキンジンが運ばれています。絵の構成全体がこのお菓子を中心に展開され、【写真①】はポルトガルのお菓子工場から船で出荷される様子、【写真②】はブラジルに到着するところです。陸上でもお菓子が運搬されています。

 青い十字架が記された船は本来のポルトガル船を示す赤いマルタの十字架ならぬ、カフェテリアのロゴで、サブリミナルメッセージとして描かれています。
 海路で結ばれたヨーロッパ、南アメリカ、アフリカ大陸では、各地域に暮らす多様な250人が自由に描かれ、バイキングのノルマン人、フランスのナポレオン、スペインのドン・キホーテ、バンデイランテス(奥地探検隊員)、インディオ...と、比較的ステレオタイプの人物像で表されていますが、同じパターンのキャラクターはおらず、人間の多様性を祝しているかのようです。あるアイルランド人の英語教師は、アイルランドでビールジョッキを持っている人物に自らを重ね合わせたということです。

 計画から店内への設置まで約1か月かかったという同作品。3mx4mのメインパネルに延長して廊下の壁の奥に、アンデス山脈を越えて太平洋側の南アメリカも描かれています。

 パウリスタ大通りからほど近い、都市の喧騒が気にならないおススメスポット。百聞は一見にしかずで、コーヒーブレイクと絵を観がてら『Café Arte Nata』に足を運んでみませんか?

★ジョアン・エドゥアルド João Eduardo(1976~)

 サンパウロ市生。2000年よりEduArte'sとして活動。幼少期より絵に親しみ、4歳で「トゥルマ・ダ・モニカ(モニカとなかまたち)」のキャラクターから描き方を学び始める。巨大なモンスターと戦う日本の「スペクトルマン」を描きたいと思ったのも絵の道に進むきっかけに。ルネサンス期の画家をはじめ、雑誌MAD(米国の風刺雑誌)やフランク・フラゼッタ(1928~2010)の英雄コナンシリーズほか、トム・リッチモンド(1966~)などのアーティストに大きな影響を受ける。現在、その実力が高く評価され、多国籍企業から個人のクライアントまで、業界・規模を問わずブラジル各地から注文を受けて制作を行う。これまで企業の広告デザインからオフィス、レストラン、家屋の装飾、プロモーション作品まで400点以上の壁画、MDFパネル、絵画を制作。その他無数のデザイン、イラスト、絵も手掛けている。

EduArte'sのサイト:www.eduartes.com 

ブログ:educaricaturas.blogspot.com.br

 

◎インフォメーション

・カフェ&ポルトガル菓子『Café Arte Nata』

 Rua Frei Caneca, 1380 - Consolação Tel: 3263-0803

おおうらともこ(文と写真)

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キツネの噺ですよ、キツネ。

 謹賀新年。オミクロン株の騒ぎで始まった2022年、ウィズコロナの今年もどうかよろしくお願いいたします。早いもので、新型コロナウイルス感染症で振り回される我々の生活も2年になりました。このコラムの24人の読者様にとってはどのような2年だったでしょうか? 年末年始になると、今年の総括や今年の抱負などが例年の行事になりますね。ここでも年末の新語大賞のひとりごとを以前にしていますが(註1)、今年は日本の某外食系サイトの「今年の一皿」なるものに焦点を当ててみます。「今年の一皿とはその年の日本の世相を反映した食を指」すそうです。

 それで、今年の一皿の“大賞”に「アルコールテイスト飲料」が選ばれました。この賞が発表されているサイトによると、「アルコール度数が1%未満で、味わいが酒類に類似している飲料を指す」、選定理由を引用(註2)すると次のようになるとのことです:

 

・酒類提供制限の要請を受け多くの飲食店でアルコール代わりとして提供され経営の救世主となった。

・製造方法が進化し一段とアルコールに近い味わいになり、料理を引き立たせる飲料として飲食店や消費者から支持された。

・アルコールを好む人、好まない人どちらにとっても新たな選択肢として加わり、今後の日本の食文化として定着する可能性がある。

 

 この第一の理由に出ているように、もちろんコロナ禍と密接に関連した現象であるのがわかります(註3)。ここでも何回も取り上げましたが、コロナ感染の対策のなかでも「飲酒を伴う複数人の会食」が一番重要です。少しおさらいすると、コロナウィルスは接触感染以外は飛沫感染しますので、飛沫を飛ばす、飛沫を吸い込む、といった行為は「マスクを外し、しゃべりまくる、飲食する」と起こりますので「飲酒を伴う飲食店」が目の敵にされたわけでしたね(註4、註5)。ということで、酒を出してはいけないのであれば、酒のようだけど酒でないものであれば良いのだ! が今年の注目になったのですね。

 

『アルコールテイスト飲料はコロナ禍以前から流通していて、酒を飲みたいけど、体質的に弱かったり、時間的にダメであったりする方のもので、「健康的である」ことがウリの商品であったな。酒に弱い人が酒を飲まないといけない場面は日本の乾杯文化のせいだな。みんな酒で乾杯しているのにジュースでは盛り下がると。仕事中に飲酒したい人はもう完璧アル中としか言いようがないのでは? 筆者にはメーカーが言う「健康的」なところが理解できない。休肝日に利用したり、カロリーを気にする方向け(註6)なんだそうだが、前者はアル中だし(註7)、後者はそもそも量の問題であったりしませんか? ここまでして「酒」を飲まんといけないのか? 東洋医学では「酒は百薬の長」と言って、使い方では薬になるけど、「薬にも毒にもなる」モノですな』

 

 ここで注目したいのは、選定理由に書いてある「類似する」です。今の世の中、類似するモノだらけですよね。甘いけど、砂糖でないとか、肉みたいけど、肉ではないとか、女(男)みたいけど女(男)ではないとか。口から入るモノは大概「健康的である」というのがその存在価値ですが、どうでしょう? 人工甘味料は砂糖よりカロリーは少ないけど、健康的なんですかね? 人工肉は動物性蛋白が入ってないけど、製造過程や構成物質をみると健康的なんですかね? 良いも悪いもお酒の一番の特徴はエタノールの薬理作用であり、それが人類文明の発展や衰退、社会の潤滑に役立ってきたと思います。そこからエタノールを抜くと同じ効果を発揮できるのでしょうか? 人間、その気になれば、その気になって、問題なし! なんですかね? 酒を飲んだ気分になる…まあ、プラシーボ効果(註8)というのもあるし。自分を化かすというのですか? 「化かす」のは昔から日本の文化では人間がキツネに化かされたのだったけど、この類似品を喜んでいる人達はキツネに化かされる必要がないのでは。それとも大きなキツネの仕業ですかね。

 

『キツネの化かしや酒は落語の定番ですな。今回のアルコールテイスト飲料の話を見たとき、一番初めに思ったのが、ああとうとう酒もここまできたか、と、二番目が落語の「煮売屋の場面」が改定できるなだった。曰く、次のようになります:

 

 喜六と清八のコンビが、伊勢参りの途中でとある煮売屋に立ち寄った。

「おいおやじ、酒はあるか? 何々、地酒で良いのがあるって? 『村さめ』と『庭さめ』と『じきさめ』?」

「へえ、村さめ』は村を出た辺りですぐ醒めるますねん、庭さめは店を出た途端にすぐ醒めますねん、ほいで、じきさめは飲んだ傍からすぐ醒めますんや」

「呑まん方がましや、そんな酒。ぎょ~さん酒ん中へ水回すんやろ?(註9)」

「そんなことはしまへんで、水ん中へ酒回します。けど最近はもっと良い酒が出てますんや。」

「なんちゅう酒や?」

「へえ、「さめない」ですねん。」

「お、そらええな。呑んでもさめんのか?」

「へえ、化かされて、元から酔わんし、覚めんのですわ」』

 

今年もどうかよろしくご購読をお願いいたします。

註1:2019年1月号と2021年1月号

註2:https://gri.gnavi.co.jp/dishoftheyear/2021/

註3:因みに、去年の一皿もコロナ禍関連で「デリバリーグルメ」であった。

註4:飲酒すると、アルコールの作用で抑制が効かなくなり、大概大騒ぎになるのは東西昨今、日本でもブラジルでも同じ。居酒屋やバールに行ったらすぐにわかります。

註5:当初、人が密集するのが一番危ないとされていたが、みんながマスクをし、喋らないで密集している通勤電車内などは結果としてあまり感染機会がないことが判明した。

註6:アルコールテイストでかつゼロカロリーのタイプもあるぞ。

註7:アルコール中毒の医学的な定義は「アルコール依存症=エタノールによって得られる精神的、肉体的な薬理作用に強く囚われ、自らの意思で飲酒行動をコントロールできなくなり、強迫的に飲酒行為を繰り返す精神障害」であり、社会に忖度してあまり言われないのだが、「反復的そして定期的にエタノールを6か月以上摂取する状態」でもある。アル中は問題を起こすと問題であると思われがちであるが、そうではない。2015年10月号にアルコール依存症のひとりごとに詳しく書いてます。

註8:プラシーボ効果とは「薬理学的にまったく不活性な薬物(プラシーボ=偽薬)を薬と思わせて被験者に与え、有効な作用が現れる現象」つまり、偽薬を飲んで効果があること。

註9:江戸時代は酒造に関する税金は量に課せられ、エタノール含有量とは関係なかったので、製造元はできるだけ濃度の高い酒を出荷し、卸や酒屋で水で希釈した小売りしていた。

 

秋山 一誠 (あきやまかずせい)。サンパウロで開業(一般内科、漢方内科、予防医学科)。この連載に関するお問い合わせ、ご意見は hitorigoto@kazusei.med.br までどうぞ。診療所のホームページ www.akiyama.med.br では過去の「開業医のひとりごと」を閲覧いただけます。

 
 
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第70回 実録小説『白洲太郎のミッション・インポッシブル 前編』 

 2021年10月某日。
 白洲太郎と彼の妻になる予定のちゃぎのは、田舎町の青空市場で安物アクセサリーを売りまくっていた。この日のフェイラ(市場)は好調で、ひっきりなしに客が現れては売れていく。その勢いはメシを食うヒマもないほどで、太郎もちゃぎのも腹をグーグー鳴らしながら屋台の周りを飛び回っていた。昼過ぎになりようやく客足も落ち着いてきたが、かるく数か月分の家賃は稼いだはずで、まさに充実の商いである。ホクホク顔で昼メシを平らげ、腹を満たしたところで屋台の解体作業に入った。時刻はすでに14時近くになっており、普段なら13時前には閉店するはずの白洲商店にとっては嬉しい残業と相成ったのである。
 テキパキと片づけを行うちゃぎのを尻目に、太郎は愛車ウーノを迎えに市場の少し外れた方へと歩いていった。パンデミック全盛の頃は屋台も少なく、車を止める場所もよりどりみどり、フィスカウ(市場の管理人)もコロナ対策に忙しく、駐車に関してはあまりうるさいことを言わなかったのであるが、世の中が平常運転になるにつれ、再び管理されるようになってきたのである。
 太郎が駐車した場所は使われていない倉庫の真ん前で、すぐ側ではアイスクリーム屋がイスやテーブルを出して営業をしている。太郎の車が彼らのスペースを圧迫しているわけでもないし、迷惑をかけているという雰囲気は皆無であった。その証拠に先週も同じところに車を置いたが、文句を言われるようなことはなかったのである。
 さっそうと愛車に乗り込み、エンジンを始動。ギアをバックにいれ、ルームミラーで後方を確認していると、窓をコツコツと叩く者がいる。何者? とばかりに目を向けると、露天商仲間の怖い顔をしたおっさんであった。俳優のダニー・トレホに似ていることから、密かにダニーと呼んでいたが、その彼がいつになくマジな表情をしているのである。
 こりゃ何かあったな。
 ただならぬ気配を察した太郎が慌ててサイドガラスを下げると、
「よお、ジャパ。お前の車、駐禁切られちまったみたいだぞ」
と、興奮した様子で一部始終を語りだしたのである。

 それによると日中、数名のポリシア(警察)を引き連れたフィスカウのヴィニーが市場内を練り歩き、その威厳と仕事ぶりをアピールしていたが、ふと太郎の車に目を止めると、聞こえよがしにこう叫んだという。
「この車、先週もここに置いてやがったな! ふてえ野郎だ!どこのどいつかは知らねえがもう我慢ならねえ! おい、ポリさん、ちょっとコイツに駐禁切ってやってくんねえか」
と言うや、車のナンバーを撮影し、威風堂々と引き上げていったというのである。
 それを聞いた太郎の顔面は蒼白になった。フィスカウのヴィニーとは知らぬ仲ではないし、前に似たようなことがあったときは素直に車を動かした太郎である。今回も一言いってくれればすぐに対応したのに…。と戸惑いを隠せずにいると、
「すまなかったな、お前の車だってことがわかってればすぐに呼びにいったんだが…。知らなかったもんでな」
 申し訳なさそうに顔をふせるコワモテのダニーであったが、
「今からでも遅くはねえ。ヴィニーを探して事情を話せよ。ひょっとしたら駐禁をキャンセルにできるかもしれねえぞ」
と、重病患者に希望を抱かせるドクターのような口ぶりで言うので、崩れ落ちそうな精神をどうにか持ちこたえた太郎は、
「ヴィニーのザッピ(WhatsApp )は知ってるか?」
 かろうじて訊くと、ダニーはマフィアのような顔をパッと輝かせ、
「よしきた!」
 さっそくヴィニーに電話をかけ始めたのである。
 ここでつながれば話は早い。ヴィニーとオレは旧知の間柄である。事情を話せばヤツもわかってくれるはずだ。速やかに駐禁をキャンセルしてもらい、今回の件はなかったことにする。できるかできないかじゃなく、やるしかねえんだ。
 と、太郎は拳をかたく握りしめた。 
 が、そんな彼の思いも虚しく、電話はつながらない。ブラジルの『ど』がつく田舎町である。都会のようにどこにでも電波が飛んでいるというわけではなく、何回かけてもなしのつぶてであった。もう14時すぎである。市場内のどこを探してもヴィニーの姿は見当たらず、すでに家に帰ってしまったという説が濃厚であった。
 とりあえず彼のWhatsAppをゲットした太郎であったが、メッセージを送ってもいつ読んでもらえるかわからない。その間に『駐禁キャンセル』が間に合わなくなる可能性も十分に考えられるのであり、悠長なことを言っている時間は残されていなかった。
 露天商売をやっている割に心配性な性格の太郎である。このままでは駐禁の二文字が脳内を踊り狂い、夜も眠れぬ可能性が高い。憂いはその日のうちに解消する。精神衛生上、それがもっとも健全であることはマチガイないだろう。
 であればどうするか?
 ヴィニーの家を探しだし、直談判するしかない。
 充実の青空市場のあとに、まさかこのような事態が待ち受けているとは誰が想像したであろうか?
 まさに『一寸先は闇』の世の中である。
 それにしてもヴィニーはどこに住んでいるのだろう?
 まずはそれを突き止めることから始めねばならない。
 というわけで、『白洲太郎のミッション・インポッシブル』は怒涛の後編へと続くのであった。

 

つづく

​白洲太郎

​ブラジル、サンパウロ