2022年2月号 vol.188

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目次

今月号のスポンサー一覧

 

幻の創刊準備号

​(2006年6月号)

Kindleで復刊

​2020年7月号

​2020年8月号

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☺ 赤ちゃんが車に..

日本でもひそかに人気を博しているリボーンドール(本物の新生児のような超リアルな赤ちゃんの人形)。サンパウロ州バイシャーダ・サンティスタ地域でもリボーンドールを愛する女性たちがグループ「生まれ変わったママさんたち」を作り、写真や情報を交換し合っている。彼女たちはおしゃぶりやおむつはもちろん、散歩用のベビーカーやベビーベッドまで全て買い揃えている。リボーンドールの価格は大体1000~1500レアルだそうだ。

サンヴィセンテ市に住むヘジアーネ・ネーヴィスさん(主婦、46歳)は娘が10歳の時にせがまれてリボーンドールを購入したが、自分も気に入り収集を始め、現在、マリア・クラーラ、クロエ、ミゲルの3体を所有している。毎日きれいにし、ベビーベッドに大切に保管しているのだが、時々車に乗せて散歩に連れて行くこともある。

「先日夫と昼食に出かけた時、車にお人形さんをおいたままにしておいたの。戻ってみたら車に人だかりがしていて、本物の赤ちゃんが車に閉じ込められていると思って窓ガラスを割ろうとしていたの。びっくりしたわ」

 

☺ ワクチンを打った後に...

2021年1月に新型コロナワクチンの接種がブラジルで始まってから1年間で、検索回数が多かったワクチン関連のトピックが先日グーグルにより発表された。3番目は「どこでワクチンを打つの?」、2番目は「どのワクチンが一番良いの?」、そして1番目は「ワクチンを打った後、お酒を飲んで良いの?」でした。

 

☺ 車が釣れたー!

先月初め、マット・グロッソ・ド・スル州のナヴィライ市で渡し船から降りる時に誤って川に落ちてしまった車を、6艘の船、消防隊、プロの潜水夫で捜索したが見つからなかった。捜索を手伝っていた若者フェリッペ(28歳)は趣味の失せ物探しで使っていた磁石を紐に結び冗談半分で川の中に放ってみた。何度目かのチャレンジで手ごたえを感じ引き上げてみると、車のナンバープレートが上がってきた。すぐに一緒にいた友達が潜って沈んでいた車に綱を結びトラクターで引き上げた。フェリッペは感謝の気持ちを述べる持ち主に「今日は川で車が釣れて最高にラッキーでしたよ!」と冗談まじりに述べた。

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布施直佐(ふせなおすけ)

 
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写真・文 松本浩治

姉妹都市提携でアマゾンに移住した井上夫妻

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 1979年11月、高知県須崎市とパラー州カスタニャール市が姉妹都市提携を結んだ。その時に人事交流として両都市を結ぶために奔走した井上作義(さくよし、75)、常子(つねこ、70)夫妻(ともに高知県須崎氏出身)が、提携を機会にアマゾンに移住している。移住した当時は日本での就職が決まっていた子供たちの将来について悩みもしたが、現在では家族そろって同地に馴染み、井上夫妻は定年退職後の生活を楽しんでいる。井上夫妻がブラジルに永住するきかっけとなったのは、米作移民としてベレン市近郊のグァマ移住地に入植した経験を持つ兄・勝(まさる)さん(93)の影響だった。当時、カスタニャール市内に日本庭園を造ろうという動きがあり、庭園造成技師が必要だったが、その資金が市側にはない。勝さんは故郷・須崎市との姉妹提携を結び、弟の作義さんをカスタニャールに呼び寄せ、庭園技師として定着してもらうことで問題解決を図ろうと考えた。

 姉妹都市提携の数年前に勝さんは、高知県庁、土佐、南国、須崎の3市をはじめ、作義さん夫妻説得のために訪日。苦難の末、須崎市の産業経済委員会で審議検討した結果、両市の提携案が可決された。

 一方の作義さんは須崎市で約25年にわたって家具、建具などの木工品製造販売業務に従事していた。しかし、職業がら喘息(ぜんそく)がひどく、医者からは「ブラジルに行けるなら、そうした方が良い」との忠告を受けていた。

 作義さんは日頃から須崎市関係者と懇意にしていたこともあり、姉妹都市提携には須崎市側の関係者として尽力。勝さんの呼び寄せ依頼もあり、家族でブラジルに永住することを決意したのだった。

 しかし、長男の太(ふとし)さん(46)は当時、大学を卒業して日本での就職がすでに決まっており、ブラジル行きを躊躇(ちゅうちょ)していた。常子さんは、「一度ブラジルに行ってみて、どうしても日本に帰りたかったら帰ったらいい」と子供の意見を尊重したが、結局、太さんはブラジルに定着することになった。

 その頃はすでに日本とブラジル間を飛行機での往来ができたとは言え、一度日本を離れると「二度とは戻れないという気持ちが強かった」と振り返る作義さん。カスタニャールに到着して間もなくは、アマゾン地域特有の「マルイン」など害虫に刺され、夜は蚊の襲撃に悩まされるなど、「大変なところに来てしまった」と悔やんだこともあったという。

 最初にあった日本庭園の話も庭園づくりに欠かせない「松」など、適当な植木がないことから結局計画は実行されなかった。そのため、作義さん家族は勝さんの農場でマモン(パパイヤ)の箱詰め作業を手伝うなど、慣れない農作業も行なってきた。

現在は生活も落ち着き、太さんも農場経営を行うまでになった。作義さんは、日本庭園を造ることができなかったことに思い悩み、「何か日本人の記念になるものを造りたい」と95年に日本人仲間の出資を募って同市内にゴルフ場を完成させ、その中心的存在として働いた。

「ブラジルに来るまでは夫婦ともに、須崎市以外に住んだこともなかった」という井上夫妻。「今はブラジルに来て良かったと思えるようになりました」と思わぬ人生の波にもまれながらも、カスタニャールでの生活を楽しんでいる。

(2004年9月取材、年齢は当時のもの)

松本浩治(まつもとこうじ)

 

第二次世界大戦後のブラジル日本移民社会で起きた勝ち組負け組抗争を描いた小説

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リリアン・トミヤマ

もっと説明してもらう方法

 この2年の間にホームオフィスで仕事しましたか? どれだけのブラジル人がリモートワークで仕事したと想像しますか?

 オ・エスタード・デ・サンパウロ紙によると、リモートワークで仕事したブラジル人は10パーセントに満たないそうです(コロナウイルス感染のピーク時ですら)。ジェトゥリオ・ヴァルガス財団(FGV)とブラジル経済研究所(IBRE)によると、少ない理由は多くのブラジル人の家にインフラ、機器、機材、インターネットアクセス、仕事に適したスペースがないためだとのことです(この低い数字のうちサンパウロ市、リオデジャネイロ市、ブラジリアで半分を占めています)。

 大多数の人々にモノが足りないことは、ホームオフィスの問題に反映されているだけでなく、低所得のブラジル人がバーチャルの求職活動に参加することを困難にもしています。

 こういうことを知ると悲しくなりますね。でも、可能な解決策を探るための知識を手にすることが重要です。明らかにすればするほどいいです。

 ところで、ある事の中身をより詳しくきくにはどうすればいいでしょうか?

 

 このような形式を用います。

 

 Poderia dar detalhes de … ?

 (〇〇の詳細をいただけませんか?)

 

 Poderia dar detalhes do objetivo da viagem?

 (旅行の目的を詳しく教えていただけませんか?)

 Poderia dar detalhes da meta para 2022?

 (2022年の目標を詳しく話してもらえませんか?)

 Poderia dar detalhes do processo de produção?

 (製造工程を詳しくお願いします)

 Poderia dar detalhes do uso do material?

 (原料の用途を詳しく説明していただけませんか?)

 

 今度は、ある情報を見つけようとして手助けを頼む場面です。このように言います。

 

 Não acho … Pode me ajudar?

 (〇〇が見つかりません。手伝っていただけませんか?)

 

 Não acho o arquivo. Pode me ajudar?

 (ファイルが見つかりません。手伝っていただけませんか?)

 Não acho a foto. Pode me ajudar?

 (写真が見つかりません。手伝っていただけませんか?)

 Não acho o código. Pode me ajudar?

 (コードが見つかりません。助けていただけませんか?)

 Não acho a senha. Pode me ajudar?

 (パスワードが見つかりません。助けていただけませんか?)

 

 今月もお読みいただきありがとうございました。最後に興味深い話でしめくくりましょう。ブラジルの印刷媒体の新聞の販売部数ランキングです。IVC(コミュニケーション調査機関)によるものです。

 

 1 O Estado de São Paulo (São Paulo)

 2 O Globo (RJ) (リオの新聞ですが、パウリスタ大通りの新聞スタンドで時々買っています) 

 3 Super Notícia (Belo Horizonte)

 4 Diário Gaúcho (Porto Alegre)

 5 Folha de São Paulo (São Paulo)

 6 Zero Hora (Porto Alegre)

 7 Extra (Rio de Janeiro)

 8 Agora (São Paulo)

 9 Daqui (Goiânia)

 10 Correio do Povo (Porto Alegre)

 

 ランキングを見ると、ホームオフィスと同じ現象が見てとれます。大都市(特にサンパウロとポルトアレグレ)で印刷物を読む習慣が維持されていることがわかります。また興味深いことに、文章やインタビューが長く、洗練された語彙を用いているオ・エスタード・デ・サンパウロ紙が1位なのです。

 みなさんもブラジルの新聞を読んでみてはいかがですか?

リリアン・トミヤマ(Lilian Tomyama)

 
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おおうらともこ

第24回 ベネズエラの先住民ワラオ編

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レアニーさん

◆飢えの危機から逃れて

「今年10歳になる娘は、飢えで病気になり、鼻血が止まらずに痩せて黄色くなってしまいました。それで、ベネズエラを出る決意をしました」

 レアニー・ガブリエラ・トレス・モラレダさん(31歳)は、近年の緊迫したベネズエラの社会情勢を逃れ、ブラジル最北のロライマ州の州都ボアビスタで暮らしはじめたベネズエラからの避難民の一人である。ベネズエラ危機による食糧難から家族の生命にまで危険が及び、2019年、娘と姪の3人で、ベネズエラを出ることを決意した。

「毎日、教師の仕事や文化活動の指導を行っても、一か月の給料で買えるのは米1kgとチーズ1kgだけでした。今も同じような状況が続いています」

 トゥクピタからバスでサンタエレーナに行き、そこから徒歩でトローチェと呼ばれる非合法の道を通ってブラジルとの国境を抜け、ブラジルの国境の町パカライマに到着。メルコスルの国の間では、身分証を示せば国境越えに問題はなく、合法的に居住や仕事もできる。パカライマで4日間を過ごし、書類手続きを行った後、そこからバスでロライマ州の州都ボアビスタまで移動した。

 ボアビスタでは2日間バスターミナルで寝泊まりし、その後、ベネズエラの先住民のリーダーがまとめる「KA UBANOKO」と呼ばれる占有地(Ocupação)で過ごした。後に両親と夫も到着し、昨年、ボアビスタ市内に数か所設置されたシェルター(Abrigo)の一つに居住地を移した。

 

◆ワラオ族のリーダーとして

 レアニーさんは、ベネズエラの先住民ワラオ族のコミュニティであるナバサヌカで生まれ、12歳まで同コミュニティで育ち、その後は近郊の町トゥクピタで育った。

「ナバサヌカではワラオ語だけを使用していました。トゥクピタに行ったばかりの頃、スペイン語は聞けばわかるのですが、全く話せませんでした。徐々に慣れて勉強もできるようになりましたが、ブラジルに来てからはポルトガル語で、ナバサヌカからトゥクピタに移った時とまた同じことが起こりました。今もポルトガル語は得意ではありません」

と、言語の習得で先住民ならではの困難に直面してきたという。

 ベネズエラでは初等教育の教師を務め、「エコ・ワラオ」というグループでワラオ族の文化、特に伝統から現代スタイルのダンスを教えていた。現在、レアニーさんが暮らすシェルターは、「Abrigo Jardim Floresta」と呼ばれる場所で、このようなシェルターはボアビスタ市内に、ベネズエラ人の中でも先住民向けが4か所、一般のベネズエラ人向けが6~7か所ほど設置されている。このシェルターでも、レアニーさんはベネズエラでのキャリアを生かし、ボランティアでワラオ族の文化を子供たちに教え、講演活動や高齢者、女性を助ける活動を通じて、先住民の生活の改善を図ろうとしている。

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ベネズエラでレアニーさんとワラオ・コミュニティの仲間たち

◆インディオ問題の解決に向けた闘い

 レアニーさんは昨年から、ボアビスタ市にあるPADF(Pan American Development Foundation/汎米開発基金)に勤務し、先住民の問題解決に向けた仕事に携わる。同機関の地域マネージャーであるコロンビア人のヴィセンテ・クアワットさんや、活動家で、難民と移民を支援するNGO、PDMIG(Pacto Pelo Direito de Migrar)の副代表を務めてきたアブドゥルバセット・ジャロールさんと連携して、先住民問題を解決する啓発にさらに力を入れている。

 ベネズエラの先住民は、多くの人権団体があるということにも関心を持ち、ブラジルを避難先として選ぶ。ブラジルではひとまず食料や薬も購入できるが、雇用が乏しく、より良い生活を求めてきたにもかかわらず、実際には様々な偏見や差別に悩まされるという。例えば、会社に履歴書を見せても、「先住民だから」という理由で断られ、先住民でも肌が白くて背が高ければ雇用を得られるが、褐色肌で小柄であれば断られるなど。シェルターでは生活支援も得られるが、居住期間は限定されている。仕事がなければ、また別のシェルターに移り、いつまでも自立した生活ができないことを繰り返すケースも少なくない。

 ブラジルとベネズエラの先住民の権利にも差があり、ベネズエラの先住民はなかなか土地を得られない。医療機関へのアクセスも悪く、レアニーさんの父親(66歳)は新型コロナウイルスに感染したが治療を受けられず、先住民の民間療法で一か月以上かけて回復することができたという。

「私は恵まれている方です」

というレアニーさん。郷里は自然豊かで、川沿いに家が立ち並び、川が通りのような存在だったと懐かしむ。それでも、このままブラジルで生活し続けることを希望している。ベネズエラの国立大学で、ジャーナリズムと教育学を勉強していたが卒業できなかったので、ブラジルで改めて勉強し直したいという希望もある。夢は、「アメリカ大陸を縦断して、様々な先住民ゆかりの地を訪ねる」ことである。

​取材協力 アブドゥルバセット・ジャロール​

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アブドゥルバセット・ジャロールさん(左)とヴィセンテ・クアワットさん

おおうらともこ

 
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岸和田仁

エルネスタ・ヴェーバー(1920年代ブラジルに滞在したドイツ女性作家)

 大戦(第一次世界大戦)以前は、ブラジル文化におけるフランスの影響力は横暴的といえるほど強かった。

 富裕層の家庭では、子供たちはフランス語をポルトガル語と同時並行して学ぶので、ヴォルテールのしなやかな言語を通じて、外国の国々の偉大な人物たちについての知識を深めていた。

 フランスは、ブラジル人にとっては信仰の対象といえるほどで、才人も凡人も心からフランス、なかんずくパリを憧憬してやまない。

 フランスの劇団が(リオに)やってくると、良家の子女たちは、いそいそと劇場に向かう。

 どんなにつまらぬ劇であっても、フランスの劇団であれば、ブラジルのエリート家族で劇場は満席となるのだ。フランス以外の国から有名な演劇人がきても、フランスではないということで、劇場はガラガラとなってしまう。

 このようなフランス崇拝は、功罪両面の効果をもたらす。(中略)

 ブラジルのインテリ層はフランス的プリズム(視点)を通して物事を見ていた。

 ブラジルの書店の売行きがいいのは、フランスから輸入した原書が売れているおかげだ。

 フラシスコ・アルベスのように利益を出している書店は、ポルトガル語の書籍も売っているが、自社で編纂しているのが教科書だけだ。というのも、コレジオ(中学高校)ではポルトガル語よりもフランス語を教えていたからだ。

 もっとも、今日では、フランスの影響が顕著なのは、戦争に反対する限られた少数の人達に限定されており、アメリカ合衆国の影響のほうが急速に大きくなっているが、これは映画のパワーだ。

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 20世紀に入って1920年代までの日本における「フランスかぶれ」は、相当なものであった。「おフランス」のものなら何でも崇拝するようになった理由の一つが雑誌「明星」に関係した作家や詩人たちの文学パワーのおかげといわれるが、『ふらんす物語』の永井荷風もさることながら、アナーキスト思想家にしてフランス語にもロシア語にも通じていた大杉栄の翻訳家としての文才のおかげだろう、と筆者はみている。今日でも読まれ続けているファーブル『昆虫記』を日本語に最初に全訳したのが大杉であったからだ。もちろんルソー『社会契約論』を『民約論』として訳出した中江兆民によるフランス共和思想の啓蒙活動も大きな影響を残したが、広範な日本人読者層に受け入れられた『昆虫記』のほうが文化的インパクトがあった、と思われるのだ。

 そんな日本に比べると、ブラジルの知識層・富裕層の「フランスかぶれ」は、時間軸の長さの点でもその広がり具合からも、はるかに“筋金入り”である。「ミナスの陰謀」や「1817年革命」といった独立運動の時代から影響力を有したのがフランスであったが、なんといっても、ブラジル国旗のなかの標語「Ordem e Progresso」とブラジル文学アカデミーが、フランス崇拝の象徴事例といえるだろう。

 ブラジルには「秩序も進歩」も欠如しているから、国旗のなかに「秩序と進歩」と入れたのだ、と自嘲気味にいうブラジル人インテリは少なくないが、この標語は、1889年の共和革命を主導した軍人たちが信奉していたフランスの実証主義哲学者オーギュスト・コントの基本コンセプトであった。

 一方、17世紀に創設されたフランスの国立学術団体「アカデミー・フランセーズ」をモデルとして、「ポルトガル語とブラジル文学を振興する」目的で1897年リオに設置された、非営利文化団体が「ブラジル文学アカデミー」(略称ABL)で、初代会長は、文豪マシャード・デ・アシスであった。本家と同じく、定員は40名、終身制となっているので、会員は“imortal”(不死の人、名声不朽の人、の意)と呼ばれるのが伝統である。

 現在のリオのABL本部は、ベルサイユ宮殿内にある小トリアノン宮殿(マリー・アントワネットの私的な宮殿)を模した石造建築で、1923年フランス政府から、「ブラジル独立100周年」を記念して寄贈されたものだ。ブラジルの知識層にとっては、あこがれのフランス文明を象徴する建造物であり、その中に40席しかない文学アカデミー会員の特別スペースに入れることは、文学者にとっては、最高の栄誉である。

 冒頭に引用したのは、ドイツの女性作家エルネスタ・ヴェーバーの『私の見たブラジル』(初版1930年、再版1942年)からだ。この著書については、1920年代当時、ブラジル文学アカデミー会員であった作家ウンベルト・デ・カンポスが、「Dra.Ernestaは、好奇心の塊であり、洞察力の鋭い、非凡な精神の持ち主であり、現代のクロニスタ(年代記作家)といえるだろう」と高く評価しているが、本書のどこにも彼女の経歴など書かれておらず、ヨーロッパからやってきて5年以上滞在して、ブラジルに心底惚れた、という程度のことしかわからない。再版のあとがきに「現在の危機的状況を救うのは、チャーチルとルーズベルトの二巨頭だ」と書かれていることから、反ナチスのドイツ人であることは確認できるが、それ以上の彼女に関する情報は不明だ。

​岸和田仁(きしわだひとし)

 
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白洲太郎

第71回 実録小説『白洲太郎のミッション・インポッシブル 後編』 

 2021年10月某日。
「よお、ジャパ。お前の車、駐禁切られちまったみたいだぞ」
 充実の青空市場を終えた白洲太郎にとって、友人のダニーからもたらされたこの一言はあまりにも衝撃的であった。カギを握るのは市場の管理を任されているヴィニーという人物であるが、時刻はもうお昼過ぎ。どこをどう探しても彼の姿を見つけることはできず、おまけに電話もつながらないのである。幸運なことにヴィニーと太郎は旧知の間柄であった。直接話せば誤解もとけ、駐禁をキャンセルにしてくれるかもしれぬ。こうなった以上、直談判しかない。と、かたく決意した太郎であったが、問題はヴィニーがどこに住んでいるのかわからないということである。焦燥に駆られつつも、2、3の露天商仲間に聞き込みをし、裏付けをとっているうちに有力な情報が飛びこんできた。それによるとどうも、ヴィニーはエンカンターダという村落に住んでいるらしい。エンカンターダはここから約5kmほどのところに位置するpovoado(集落・村落)で、太郎も何度か訪れたことがあった。30軒ばかりの家屋が立ち並んでいるこじんまりとした地域なので、現地まで行けば何かしらのインフォメーションが得られるであろう。太郎とちゃぎのははやる気持ちを抑えて車に乗り込んだ。 
「あのー、市場でフィスカウをしているヴィニーの家を探してるんですけど」
「ああ、ヴィニーの家か。あの大きなマンゴーの木の横に赤い家屋が見えるじゃろ? あそこじゃよ」
 エンカンターダのエリアに入るなり、通りがかりの老人が教えてくれたのである。幸先の良いスタートだ。こりゃ案外スムーズに解決するかもしれん。などと呟きながら欣喜雀躍、早速太郎は赤い家を訪ねることにした。
「ヴィニー、オレだ!ジャパだ!」
 家の前で大声を張り上げると、
「俺がヴィニーだが」
という低い声とともに、ヴィニーとは似ても似つかぬ大男がぬうっと現れた。完全に予想外の展開である。仰天した太郎であったが、
「ボクの探しているヴィニーは、青空市場でフィスカウという役職についている、背が低くて、口のまわりにヒゲが生えている人物なのですが、ご存知ないですか?」
 震える声で訊いてみると、
「ここらでヴィニーといえば、オレだけだ」
と、にべもないのである。
 ならばオレの求めるヴィニーはいずこ?
 礼を言って赤い家屋を辞すると、太郎は虚ろな目で空を見上げた。駐禁を切られるのは悔しいが、もはやここまでか…。がっくりと肩を落とすと、諦めの気持ちが滲みでてきた。と同時に、ある閃きが脳内を横切ったのである。そういえばこの村落には親友エリアスの親族が住んでいる。彼らを訪ねれば何か新しいことがわかるかもしれない。
 そう思い直した太郎が昔の記憶をたどりながら彼らの住居を探していると、すぐに見覚えのある家に着いた。レンガ造りの素朴な家だが、家屋は広く、そして大きい。しーんと静まり返った室内に向かって、まずは声を張り上げ、次に手拍子で来意を告げた。しばらくすると、眠気眼の白髪の男性がゾンビのような足取りで姿を現したのであるが、彼こそ親友エリアスのsogro(義父)、ジョルジである。どうやら昼寝をしていたらしく、目をショボショボさせているのが気の毒であったが、背に腹は代えられぬ。急な訪問を侘び、かくかくしかじか、市場でフィスカウの役職についているヴィニーという青年に会わねばならぬのだがどこに家があるのかわからない。噂によるとこの村に住んでいるらしいのだが…。という事情を話すと、ジョルジは我が意を得たりといった表情で、この村落に住む大男のヴィニーについて話し始めたが、彼が太郎の探すヴィニーでないことは証明済みである。しかしジョルジはかまわずに喋り続け、大男のヴィニーを訪ねるよう執拗にすすめてくる。ジョルジの年齢を考えれば、こちらが辛抱強くなるべき場面である。決して怒ってはイカン。と自らに言い聞かせ、根気よく説明を続けたが、太郎が何を言っているのか、ジョルジには最後まで理解できないようであった。そうこうしているうちに彼の息子たちが続々と現れ、そのうちのひとりであるファブリシオが太郎に有力な情報をもたらしたのである。それによると、太郎の探し求めている人物は『ここから7kmほど先にあるトランケーラという村落に住んでいる』ということらしい。ファブリシオに何度も確認をとった太郎は、トランケーラに住むヴィニーが、自分の探しているヴィニーと同一人物であることを確信した。ならば一刻も早く突撃するしかない。
「トランケーラへはどのように行けばよろしいのでしょうか」
 身を乗りだして質問すると、その場に居合わせた男たちがてんでバラバラの説明を始めたので太郎は困惑した。ひとりがこっちと言えば、もうひとりがその反対方向を指さすといった有様で、誰を信じたらよいかわからない。見かねたファブリシオがインターネットをつないで地図を見せてあげたらいいじゃないかと提案し、それがもっとも確実だと喜んだのもつかの間、今度はWi-Fiのパスワードに関して問題が起きた。ジョルジが言い張る「19521123」という数字ではインターネットがつながらないのである。ちゃぎののiPhoneで地図を読み込み、オフラインでもマップを確認できるように調整したかったのだが、いきなり暗雲が立ち込めてきた。ジョルジに他の数字を思い出すように促してみても、「19521123」以外ありえまへん! と、取りつく島もないので、仕方なく息子たちのスマホで地図を見せてもらい、なんとなく村落の位置をつかんだ太郎とちゃぎのはいそいそと車に乗りこんだ。日が暮れる前にはトランケーラに着きたいところである。別れ際に、

「そういえば19521123はわしの生年月日やったわ、すまんすまん」

と照れるジョルジに礼を言い、太郎は車のアクセルを踏み込んだ。 
 山道とはいえ、7kmの道のりなどあっという間である。幸いなことにさほどの苦もなくトランケーラの村落にたどり着くことができた白洲商店コンビは、ヴィニーの家を探しだすべく調査を開始した。
 車をゆっくりと走らせながら、道行く町民に訊いてまわる。その誰もがヴィニーの住まいはこの村落の外れにある家だ、と異口同音に言うので、いよいよゴールは近そうである。今回思いがけない災難に見舞われたが、なんとか解決してみせる。そんな決意を固めて、太郎はヴィニーの家の門を叩いた。
 ところが、出てきたのはだらしのない格好をしたおばさんで、ヴィニーはまだ市場から帰ってきていないという。ならば帰ってくるまで待たせてもらおう、そう言いかけたとき、バイクの排気音が聞こえてきた。音のする方へ駆け寄ってみると、紛れもなくフィスカウのヴィニーである。夢にまで見た彼の姿が眼前に! 太郎はquerido(愛しの人)の足元にひざまずき、涙ながらに窮状を訴えた。あの場所に駐車したのは決して悪気があってのことではなく、単に不注意であったこと。二度と同じような過ちは起こさぬから、駐禁をキャンセルにしてはくれまいか? 後生だ、一生のお願いだ。こんな頭ならいくらでも下げるから。と平身低頭する太郎であったが、
「あの車はお前のだったのか。持ち主を探すために写真は撮ったが、駐禁なんて切ってないし、オレにはそんな権限もない。ダニーの野郎、お騒がせなこと言いやがったな」
と、笑顔を見せるヴィニーの姿に後光がさして見えた。
 なんのことはない、すべてはダニーの勘違いだったのである。駐禁を切られたという事実など最初から存在しなかったのだ。太郎は顔をくしゃくしゃにさせながら喜びに打ち震えた。
 拍子抜けするほどあっさりとこの事件は解決してしまったが、しなくてもよい苦労をしたうえに、帰りの道中で落とし穴にハマった太郎の車はドライブシャフトの交換を余儀なくされることになる。結果として駐禁を切られるよりも高い代償を支払うことになったのであった。とほほ。

​白洲太郎(しらすたろう)

 
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Naia 

R. Dr. Melo Alves, 767 - Cerqueira César

Tel : (11) 3086-4722

サンパウロではAmadeusやRufinosなどの高級店以外、シーフードを扱うレストランはあまりなかったが、最近、カジュアルなシーフードレストランがオープンしている。

Naiaもそのうちの一軒である。レストランを入ってすぐのところにウニ、カキ、ロブスターなどの水槽があり、これらのシーフードは生あるいは炭火焼きで提供される。

おすすめは目の前で料理人たちがきびきび働く様子を見ることができるカウンターである。

アペタイザーのカラスミ入りのリコッタチーズを付けて食べるパンはいくらでも食べられそうであるが、後のことを考え一切れでぐっと我慢する。

この日、食べたエビの点心も目の前で作られ、餃子の皮を丁寧に折りたたんで小籠包のような形に整えられていた。

メニューの品数はそれほど多くなく、その日の入荷によって中身が変わる。

この日、メインに頼んだスペイン風のタコご飯はタコのほか、ホタテやムール貝など魚介のエッセンスが染み込んだ濃厚な一品であった。

目の前で炭火焼きされる鯛にも心惹かれたが、それは次回に。

デザートはパッションフルーツとマンゴーのアイスとココナッツムースがあったが、デザートはもう少し改善の余地があると感じた。

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Vista

MAC USP - Av. Pedro Álvares Cabral, 1301 - 8° andar - Vila Mariana 

Tel: (11) 2658-3188

現代美術館MACの8階、イビラプエラ公園を見下ろすところにある洗練されたブラジル料理のレストラン、Vista。

このレストランは日本人にもなじみの深いJiquitaiaのシェフの経営である。

たまたま行った日がよく晴れており、食事前、上から見るイビラプエラ公園の緑に癒された。

JiquitaiaにもあるTorresmoは絶品。普通、Torresmoは豚の脂身をカリッと揚げて作られるが、Vistaのものは皮はパリッとしているが、中身はしっとりとしている。マスタードと野菜のピクルスとともに食べると濃厚な味に酸味が加わり、極上のハーモニー。

ププーニャ(パウミットの一種)にホタテのカラスミをかけて焼いたアペタイザーもおいしい。

この日は偶然、私もベジタリアンの娘もトゥクピーのリゾットを選んだ。一皿はベジタリアンのためのキノコのリゾット、もう一皿はアマゾン地方の名物料理、Pato no Tucupiをアレンジしたカモのリゾット。トゥクピーはアマゾン地方でよく使われるマンジョッカ芋の汁を発酵させた調味料で、独特のコクと酸味と甘みで料理の味に深みを出す。

デザートはメレンゲとバナナクリーム、レモンアイスを組み合わせたPavlova。Vistaは州立美術館の中にあるため、入口でワクチンパスポートを求められるのでご注意を。

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宮本碧

 
 
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下薗昌記

第148回 ダニーロ

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 世界的に知られる存在でありながら、クラブや代表チームで世界一に手が届かない選手は数多いが、決して突出した個ではなくても、栄冠に満ちたサッカー人生を送る選手もいる。

 2019年にスパイクを脱いだダニーロは、紛れもなく後者に相当する男である。

 かつてはサンパウロサポーターが、そして近年ではコリンチャンスサポーターが、彼のことをフランスの天才ジダンにちなむ愛称「ジダニーロ」と呼んだ。

 もっとも控えめなダニーロ自身は、ジダンの足元にも及ばないことを自認している。「サポーターの評価には感謝しているよ。ただ、選手にはそれぞれの器がある。ジダンは凄すぎたよ」

 独特の間合いでプレーするダニーロは走力やフィジカルが重視されている現代サッカーにおける絶滅危惧種のような存在だった。

 ダニーロ・ガブリエウ・デ・アンドラーデは1979年ミナス・ジェライス州のサンゴタルドで生を受けた。幼少からサッカーに励んだ左利きの少年は、地元の小クラブで十代を過ごしていたが、ある大会で名門ゴイアスのスカウトにその才能を見出され、成功街道への入り口に立つ。

 ゴイアス時代の指揮官はブラジルサッカー界屈指の名将に成長したクーカだったが、クーカがサンパウロの指揮官に就任した2004年、自身初のビッグクラブとなるサンパウロに移籍。当初は独特の間合いから繰り出すパスセンスがサポーターに理解されず、厳しい批判を受けたこともあったが、2005年にはコパ・リベルタドーレス優勝に貢献し、クラブワールドカップでもリヴァプールを破り、「世界一」の称号を手にするのだ。

 サンパウロでも英雄としての地位を築き始めていたダニーロだったが、キャリアハイの舞台となったのは鹿島アントラーズでのプレーを終え、新たな新天地として向かったコリンチャンスだった。

 2012年にはコリンチアーノにとっての悲願だった南米制覇、コパ・リベルタドーレスの初優勝に貢献すると、再びクラブワールドカップでチェルシーを下して、二度目のクラブ世界一を勝ち取ったのだ。

 コリンチャンスでは3度のブラジル全国選手権優勝も手にし、その栄光に満ちたキャリアの中で手にしていないのはコパ・ド・ブラジルの優勝のみ。

 しかし、ベストイレブンなど個人の栄冠には縁がなく、ブラジル代表のユニフォームをまとうことは一度もなかった。

「僕のキャリアに欠けていたものはセレソン歴。しかし、僕のポジションにはライバルが多く、彼らは欧州で成功した選手ばかりだった」

 負傷もあってコリンチャンスのキャリアの終盤には満足なプレーができなかったダニーロは2019年にヴィラ・ノヴァに移籍。その年に現役引退を決意したが、ゴイアスで家族と暮らしながらサッカースクールを経営。そしてサッカー監督のライセンスを取得したダニーロは今、古巣のコリンチャンスの下部組織で監督としてのキャリアをスタートさせている。

「僕のポジションでは必ずしもスピードは必要ない。ただ、クレバーであることが大切だ」

 キャリアを通じて得たのは2度の世界一を含む25のタイトル。「ジダニーロ」と呼ばれた男は、指導者としても勝者を目指す。

​下薗昌記(しもぞのまさき)

​ブラジル、サンパウロ