2022年3月号 vol.189

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目次

 

幻の創刊準備号

​(2006年6月号)

Kindleで復刊

​2020年7月号

​2020年8月号

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☺ VRゴーグル.

マット・グロッソ・ド・スル州アキダウアナ市の研究者ルイス・フェルナンド・ダ・シウヴァ・ボルジェス(23歳)が、新型コロナワクチンを子供が接種する際にVRゴーグルを使用して痛みを軽減する方法を試験的に取り入れている。この方法はまだ他の公共医療機関では採用されておらずアキダウアナ市がブラジル初となる。

「VRゴーグルを装着している間、子供達は妖精が戦士の鎧の肩の所に宝石を着けるアニメを観ます。これまでの研究で接種時にVRゴーグルを装着すれば不安やストレスを軽減し、痛みを全く感じないこともあることが証明されています」

 

☺ Bentô Cake?

韓国で大人気の「弁当ケーキ(弁当BOXに入っているためこの名前がついている)」が、ブラジルでも昨年からSNSを通じて話題を呼び、各地のケーキ屋さんで製造が追いつかないほど注文が殺到している。韓国ではカラフルな色を使ってかわいいキャラクターを描いたケーキが一般的だが、ブラジルの「Bentô cake」はブラジル人らしい遊び心たっぷりの楽しい贈り物となっている。

《あなたに捧げたいのは『おめでとう』という言葉だけじゃないのよ(写真1)》《いつも君にふさわしいXXXXであることを約束します(写真2)》といった性的なメッセージのものがとても人気で、恋人と喧嘩した女の子が《あなたともう一度キスがしたいわ)》と書いた「Bentô cake」を渡したら仲が戻ったケースもあるそうだ。

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布施直佐(ふせなおすけ)

 
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写真・文 松本浩治

ビデオ・写真機材輸入業を行う小松英彦(こまつ・ひでひこ)さん

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「人間というのは、生きているうちは何かやっていないと面白くない」

こう語るのは、87歳となった現在もサンパウロ市内でビデオ・写真機材輸入業を行なっている小松英彦さん(東京都出身)だ。

 外科医だった父親の仕事の関係で、中国山東省の済南(さいなん)市で幼少時代を過ごした小松さん。第二次世界大戦が終結した1945年、10歳の時に母方の親戚がいた長崎県に引き揚げた。その後、父親が東京で開業したため、家族一緒に東京で暮らすことに。しかし、小松さんは中国大陸での生活に慣れ親しんでいたこともあり、戦後の荒れ果てた東京での生活の印象は「良くなかった」という。

 大学卒業後の59年、小松さんは伯母(父親の姉)が住むブラジルを一人で訪問する機会を得た。伯母は戦前から、キリスト教の宣教活動でパラナ州カンバラ市に住んでおり、小松さんは両親から「ブラジルは良い所だそうなので、見に行ってこい」と言われ、オランダ船で単身、海を渡った。カンバラ市の農園で小松さんを待っていた伯母は、沖縄県人で医師の経験もあった夫の後妻として、10人の子供を抱える大家族を切り盛りしていた。伯母の夫からは、日本から来た青年が珍しかったのか、戦後の日本の様子を根掘り葉掘り聞かれもした。しかし、農園での生活は貧しいながら自然豊かで、他人に干渉しないブラジルの気風は小松さんが幼い頃に過ごした中国と似ていた。

 半年ほどカンバラの農場で過ごした後、サンパウロ市に出た小松さんだったが、その頃にはすでに日本に帰る旅費もすっかりなくなっていたという。当時のサンパウロには日本人や日系人も多く、「何か自分で働けることがあれば」と思っていた。そうしたところ、知人の日本人から薄荷(はっか)の輸出業を手掛けていた辻三郎(つじさぶろう)という実業家を紹介され、小松さんはセントロ地区の「御茶の水橋」脇の事務所で働くことに。仕事環境はブラジル人がほとんどだったため、自然とポルトガル語も覚えていった。しかし、同社は薄荷以外に、コーヒーや綿花など国際相場に左右される商品を扱っていたこともあり、70年代に入って倒産してしまった。

 70年代初めには、知人の紹介でラジオ局のアナウンスの仕事を行なった経験もあり、その合間に各地の日本人会等で日ポ両語で司会を務めたこともあった。「日本語だけでなく、ポルトガル語ができたため、日系人の方々から頼まれましたね」と小松さんは、当時の楽しかった思い出を振り返る。

 その後、「自分で仕事をしなければ」と考えた小松さんは、日本人・日系人が経営する写真館が多いことに目を付け、写真用の印画紙や現像用薬品など感光材料(感材)を扱う仕事を思いついた。写真館をはじめ、新聞社や出版社などプロフェッショナルの専門職を対象に営業活動を行い、一時はブラジル人の従業員を20人近く雇っていた時期もあったという。また、単なる営業活動だけではなく、カラー写真現像用の薬品調合のコントロールを自ら行うなどの技術が重宝がられた。仕事の合間には、趣味で写真クラブの撮影会にも参加し、撮影したフィルムを自ら白黒現像して写真プリント作品を作るなどして楽しんだ。

 しかし、写真の感材業界もそれまでのフィルム・印画紙の全盛時代から現在のようなデジタル化が進み、時代の波が押し寄せた。自然と小松さんの仕事も需要が少なくなるなど影響を受け、規模の縮小を余儀なくされた。10年ほど前からはビデオ・ 写真機材の輸入を行うようになり、今も現役で仕事を継続している。

「今の日本は外から見ていると、特殊な国という印象を受けますね。中国大陸で育った私はブラジルの気質が合っているし、ここでの生活を楽しんでいますよ」

と小松さんは、充実した表情を見せていた。

 

(2022年1月取材)

松本浩治(まつもとこうじ)

 

第二次世界大戦後のブラジル日本移民社会で起きた勝ち組負け組抗争を描いた小説

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リリアン・トミヤマ

Como?

「If you see her, say hello」はボブ・ディランの曲の中で一番好きな曲です。恋愛関係が終わり、彼は友人に伝言を託します。「彼女に会ったらよろしく言ってくれ (…)おれは元気だって言ってくれ/なんだかグズグズしてるけど/彼女は忘れられたと思うかも/でもそんなことないよって言ってくれ」

 レナト・ルッソ(Renato Russo)はブラジル・ロックのアイドル的存在ですが、勇気をもって、歌詞を巧みに変えて、この曲の美しく繊細な同性愛バージョン「If you see him, say hello」を作っています。このバージョンを聴いて、レナト・ルッソがどのように解釈し、変更を加えてこの曲に輝きを与えているか見てみる価値があります。

 何かを変える方法ということについて言えば、みなさんは「como」が英語の「how」に相当するということを学んだのではないでしょうか。例えば以下の例文のように。

 

 - Como você estuda português?

 (どのようにポルトガル語を勉強しますか?)

 - Eu estudo português online.

 (オンラインで勉強します)

 

 - Como você temperou esta salada?

 (このサラダどうやって味付けしたの?)

 - Com meu tempero secreto.

 (秘密の味付けだよ)

 

 - Como você chegou aqui?

 (どうやってここまで来た?)

 - De Uber.

 (ウーバーで)

 ただし、「como」には別の使い方があります。文頭に持ってきて物事の原因を示すことができます。いくつか例を見てみましょう。

 Como choveu muito, o trânsito está horrível.

 (雨がたくさん降ったので、交通渋滞がひどい)

 Como os custos aumentaram, eu vou revisar a lista de preços.

 (コストが上がったので、価格表を見直します)

 

 Como você está com muitas tarefas, a empresa vai contratar um assistente.

  (あなたは仕事量が多いので、会社でアシスタントを雇いますよ)

 

 Como eu estou muito cansada hoje, eu vou dormir mais cedo.

 (今日はとても疲れているので、早めに寝ます)

 

 今月もお読みいただきありがとうございました。今回は英語の歌の話でスタートしましたので、英語にちなんだ興味深い話を共有しましょう。ブラジル文学アカデミーには素晴らしいポルトガル語オンライン辞書があります。略称VOLPですから検索してみて下さい。最新版にはブラジル人が日々話す外来単語が1,160語、新たに追加されています。例えば、「 lockdown」「delay」 「home office」「coworking」「compliance」など。その中にひとつだけ日本語があります。何だかわかりますか?

 

 

 



 

 

 

 

Foto: Brandwatch

 

 

 「emoji(絵文字)」です。

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リリアン・トミヤマ(Lilian Tomyama)

 
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おおうらともこ

第25回 トルコ編

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ムスタファさん

◆トルコのテロリストとして認定

 2017年3月16日付のトルコの新聞イェニ・アキット紙で、「ブラジルで活発に活動するテロリスト」として報道された人がいる。サンパウロ在住のムスタファ・ゴクテペ(Mustafa Göktepe ギョクテペ)さん(44歳)だ。

「2015年からトルコ政府にテロリスト認定され、それまで年に4、5回帰国していたトルコにも旅行できなくなりました。もし帰れば即逮捕されます」

 テロリストに認定されていることは、インターネットで検索すればリストアップされており、すぐに確認できる。2015年までのトルコ政府との親密な交流から一変、手のひらを返されたような状況に陥った。

「昨年、父親が新型コロナに感染したのですぐに飛んで帰りたかったのですが、見舞うことすらできなくて...」

と、両親のことを思うと肩を落とす。それでも、ブラジルでの日常そのものは順調で、パンデミックの中でもビジネスは飛ぶ鳥を落とす勢いのムスタファさんだ。

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ムスタファさん(左上)をテロリストと伝えたトルコの新聞

◆1日平均500食売れるデリバリーサービス

 現在、ムスタファさんはサンパウロ市内でトルコ料理店『LAHMAJUN』を4店舗経営している。その一店舗のデリバリー専門店だけでも、一日平均500食を売り上げる人気店で、全店で55人(2月時点)の従業員が交代でフル稼働している。

「LAHMAJUNはトルコ語でパン・コン・カルネ(肉パン)を意味します。エスフィッハに似ていますが、生地がとても薄いのが特徴です。他にもケバブのシャワルマ(ピタパンのサンドイッチ)、ピデという細長い大き目のエスフィッハ、そして、ほんのりハーブやスパイスを効かせたハイビスカスやレモンのナチュラルジュースがおススメです」

 同店付近に近づくと、食欲をそそられるスパイシーな香りに誘われ、他店と一味違う日本人の舌にも合う絶妙なスパイス遣いとお得な価格、そして何よりもムスタファさんの誠実で温かい人柄が、リピーターの増える秘訣なのがよく分かる。

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LAHMAJUN - Berrinin 店の前でムスタファさんと友人たち

◆ブラジルに帰化するまで

 ムスタファさんはトルコのコンヤで 生まれ、11歳から家族でイズミルに引っ越し、商売をする両親の背中を見て育った。トルコの大学を卒業後、私立高校で情報科の教師として約4年働き、その後、新たな仕事を求めてブラジルを目指した。同時に、現在は米国在住のフェトフッラー・ギュレン氏が始めた「奉仕(Hizmet)運動」を南米にも伝えるのも目的で、アルゼンチンかチリ、そしてブラジルの選択肢の中から、2004年にブラジル行きを決意した。当時、書類やお金がそろっていたにも関わらず、ブラジルの旅行ビザが下りなかったため、解決策としてサンパウロで3か月US$5000のポルトガル語学校に通う契約をして、学生ビザを取得した。アムステルダムを経由してサンパウロに到着。1か月はブラジル人家庭にホームステイして語学学校に通い、その後約一年は友人とシェアハウスで生活した。その間、トルコ語やトルコ文化に興味のあるブラジル人とインターネットで知り合い、ポルトガル語を覚えながら相互に文化交流を図り、半年後にはすっかりポルトガル語には慣れていた。当初、唯一直面した大きな問題は、語学学校用の学生ビザの有効期限が3か月で切れたことで、ブラジルに来て7か月後にブラジルの大学に入学し、新たに学生ビザを取得することができた。

「当時はビザが切れても、一日8レアルほどの罰金を払えば問題ありませんでした。後に一日100レアルくらいに跳ね上がったので、今思えば運が良かったです。それでも、新しいビザを取得するため、一旦パラグアイのブラジル大使館に行く必要があり、二回もパラグアイに行って出費もかさみました」

と思い返す。ブラジルに来てから2年後、トルコ文化を学びたいブラジル人のアレサンドラさんと出会い、後に結婚。ブラジルに来てから3年半後に夫婦で初めてトルコへ渡り、2012年にはブラジルに帰化した。現在は2人の娘に恵まれ、娘思いの優しい父親の顔をのぞかせる。

◆ブラジルとトルコを結ぶ民間親善大使

 2017年に『LAHMAJUN』をオープンするまで、ムスタファさんは、ブラジルとトルコ間の旅行業者、ブラジルで公式に4人しかいないポルトガル語とトルコ語の通訳者として、エルドアン大統領のブラジル訪問時やジルマ大統領、その他多くのブラジルの政治家や起業家、学術団などがトルコに訪問する際の通訳として同行し、両国の友好関係を深めてきた。またNGOブラジルートルコ文化センターを創設し、その代表として文化活動も活発に行い、2006年~2007年にトルコのサッカークラブ、フェネルバフチェで監督を務めたジーコにもその活動を称えられた。2015年にはサンパウロ市で5月29日を「トルコ・コミュニティの日」にも制定した。 

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ブラジル-トルコ文化センターの活動に敬意を表したジーコさんとムスタファさん

◆平和運動が政府ににらまれ...

 トルコもブラジルを愛する平和主義者のムスタファさんは、2015年から平和を求める「奉仕(Hizmet)運動」を行う一人として、また、ブラジルで新たに難民申請するトルコ人をサポートしているということで、トルコ政府からテロリストに認定された。2年前にはブラジルのトルコ大使館がムスタファさんのブラジルのNGOにトルコの名前を使用することを禁止し、NGOの名称は「Instituto pelo diálogo intercultural」に改名された。しかし、ブラジルでトルコ文化をポルトガル語で伝えられる希少な人材として、6年前からは引き続きサンパウロ大学の客員教授も務めている。

「かつて私はエルドアン大統領を支持し、一票を投じた一人でした。しかし、この10年で彼は独裁的な傾向が強まりました。今、トルコでは多くの有識者が投獄され、それを逃れて郷里を離れた人も少なくありません」

 ムスタファさんによると、今、ブラジルには約1000人のトルコ人が暮らし、約60人が難民申請者や認定者として生活しているという。以前は難民申請するトルコ人はもっと多かったが、なかなか認定されないため、他国へ移った人も少なくない。

「生活に様々なオプションのあるサンパウロは魅力的です。未来のことはわかりませんが、今はブラジルに暮らし続け、さらに事業を成長させるのが夢です」

と、ムスタファさんは気合を入れる。

 

企画/ピンドラーマ編集部 取材・文/おおうらともこ

◎トルコ料理店『LAHMAJUN』

 www.lahmajun.com.br

①Delivery専用:Rua  Dr. Penaforte Mendes, 171, Bela Vista

②Berrini店:Rua Michael Faraday, 100B, Brooklin

③イビラプエラ公園内:Museu Afro-Brasil近くのキオスク

④ショッピング・フレイ・カネッカ内(3月初めオープン)

おおうらともこ

 
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Cuia Café

Av. Ipiranga, 200 - loja 48 - República

Tel: (11) 93100-7700

 

セントロが熱い。セントロは数年前までは退廃した危険な場所であったが、リフォームされた古いアパートが貸しに出されたり、スタジオと呼ばれるワンルームマンションビルが建てられたりと活気を取り戻している。現在、ルエダ夫妻がオーナーシェフを務めるカーザ・ド・ポルコ、バー・ドナ・オンサなどいつも行列ができているレストランもある。「Cuia」は絵葉書にも見られるセントロのカーブが美しいコパンビルの本屋・メガファウナの中にある。シェフのベル・コエリョはジャルジンスにあった人気レストラン「Dui」、週に一度だけ開けられた秘密クラブのようなレストラン「Clandestino」を営んだ後、昨年、「Cuia」をオープンした。ブラジル料理のレストランであるが細部にこだわりが見られ、料理にはキャッサバの汁を発酵させたトゥクピー、タピオカ粉、針のない蜂、ジャタイのまろやかなハチミツ、サトウキビから作られた糖蜜などブラジル特産の材料が使われている。この日食べたのはタピオカ粉をつけて揚げたイカのフリット、カジューのポン酢添え、糖蜜入りのソースでツヤツヤに煮込んだ角煮を思わせるスペアリブ。「Micro Lote」と呼ばれる少量しか取れない豆を目の前で淹れてくれるコーヒーも外せない。2月初めに行った際にはワクチンパスポートの提示が求められた。

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Kouzina

Rua Peixoto Gomide, 1710 - Jardim Paulista

Tel: (11) 2935-0888

 

アラメーダ・ロレーナ(Al. Lorena)とペイショット・ゴミジ(R. Peixoto Gomide)の角にあるギリシア料理の「Kouzina」。カジュアルシックなブラジル人に交じり、トロピカルフルーツ一杯の白ワインのサングリアを飲むとそれだけで幸せな気分になる。「Kouzina」のシェフのマリアナ・フォンセッカはやはり人気のギリシアレストラン、「Fotiá」と「Myk」も経営。 料理にはオリーブオイル、フェタチーズがふんだんに使われているが、野菜も多く健康的である。サラダや魚介類のフリットをつまんだ後にメイン。この日頼んだギリシア料理を代表するムサカはナス、ミートソース、チーズのバランスがちょうど良い。フェタチーズとほうれん草を詰めたイカの丸焼きも絶妙な焼き加減。白を基調としたシンプルなインテリアも美しく、街の中で潮風に吹かれたような気分を味わうことができる。

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宮本碧

 
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はたして医者は…

 まだまだコロナ禍が続く世の中です。このコラムの24人の読者様は皆お元気でいらっしゃいますか。オミクロン株の感染力から考えると、このうち何人かは罹患されているのではないかと思いますので、お見舞い申し上げます。去る1月は当地サンパウロではコロナ感染とインフルエンザ感染が爆発的に増え、PCR検査すらするのが困難でしたが、この原稿を書いている2月ではコロナ感染の後遺症を沢山診るようになってきました。ブラジルではワクチン接種の追加3回目も一通り終わり、子供の接種も随分進んでいる状態です。しかし日本をみていると、緊急事態宣言が延長されるわ、発熱患者は増えるわ、国から個別接種しろと言われるわ、でコロナ禍の医療従事者が大変忙しいようです。まあこれは一種の人災だと思います。

 

『こういったコロナ禍をブラジルでは「puta pandemia」と言うのだ』

 

 このputaという言葉(ポル語の発音では「プッタ」)は当地に住んでいるとよく聞く言葉だと思います。直訳すると「売春婦」という意味なので、一応お下品な言葉遣いをしてはダメなテレビなどでは使われませんが、日常的に使用されているスラングとしての意味は「凄い」になります。この「スゴい」は必ずしも悪い状況をいっているわけではなく、良い驚愕を示すこともありますので(例:puta carrão=スゴい高級車)、発言の前後から判断するしかないですね。しかし良いも悪いもどちらの方向にもいけますので、なかなか判断に苦しむ場合もあります。この「プッタ・パンデミア」は「スゴい流行性感染症」ということなので、良いということではなく、「ああ、酷い流行と言ってるんだ」とくみ取るわけです。女性を示してプッタと呼ぶ場合は、売春的職業の従事者ではなく、どちらかというと「尻の軽い女」と言った意味合いになりますので、使用する際、注意が必要ですね。

 このような混同があるので、最近は職業を示す場合、garota de programa(ガロッタ・デ・プログラマ)を使うことが多いです。売春婦のポルトガル語の正式名称はprostitutaなのですが、最近では公式文章などにしかみられなくなっています。公文書と言えば、ブラジルは日本と比べて人権的な権利が発達していますが(註1)、その一つが、売春婦を労働者と認める法律があることです。当地では2002年より売春行為を労働と認めており、連邦政府労働省の職業分類(CBO、 Classificação Brasileira de Ocupação=ブラジル職業分類)にも「trabalhador do sexo(性に関する労働者)、分類番号5198」と記載されてます。

 Putaはポルトガル語の女性名詞ですが、男性名詞のputoも存在します。ブラジルではほとんど使用されませんが、ポルトガルでは日常的に使用され、「男子、男の子、子供」と言う意味です。まったく売春的な意味合いはなく、「os putos lá de casa(家の子供達)」といったような活用です。じゃあ、子供達が女の子なので、as putasと女性名詞に変化できるかというと、そうすると、前出の売春婦になりますので、ややこしいと言えばややこしいですね。

 いずれにせよ、女性名詞としてのputaは蔑む言葉であるのは間違いないでしょう。職業として認定されているブラジルでも売春婦は卑しい人種であるといった社会的位置づけだと思います。しかし、ブラジルの20世紀の大作家の一人、Érico Veríssimoが1938年に出版した小説「Olhai os lírios do campo」(註2)では反対にブラジルでも社会的地位が高いとされる医者がプッタと同じである(註3)というくだりが面白いので今回紹介させていただきます。

 

Érico Veríssimo作、ポルトガル語の本文(一部加筆、加筆部分は作者不明)

 

Você trabalha em horários estranhos.

Que nem as putas!

Pagam pra você fazer o cliente feliz.

Que nem as putas!

Seu trabalho sempre vai além do expediente.

Que nem as putas!

Seus amigos se distanciam de você, e você só anda com outros iguais a você.

Que nem as putas!

Quando vai ao encontro do cliente, você tem de estar sempre apresentável.

Que nem as putas!

Mas quando você volta, parece saíndo do inferno.

Que nem as putas!

O cliente quer sempre pagar menos e que você faça maravilhas.

Que nem as putas!

Todo dia, ao acordar, você diz: “Não vou passar o resto da vida fazendo isso!”

Que nem as putas!

Se as coisas dão errado, é sempre culpa sua.

Que nem as putas!

Você sempre acaba fazendo serviços de graça para o chefe, os amigos etc.

Que nem as putas!

Apesar de tudo isso, você trabalha com prazer.

Que nem as putas!

(これより加筆)

Porém, na verdade, médico tem uma vida pior do que puta!

Puta não atende convênio.

Puta recebe na hora.

Puta não dá recibo nem nota fiscal.

Puta não declara seus clientes para o Imposto de Renda.

Puta não preenche guias e papeladas.

Puta não precisa ter contador.

Puta não paga sindicato, associações nem Conselho Regional.

Puta não segue código de ética.

Puta não precisa ir a congressos e cursos.

Puta não precisa revalidar título de especialista.

E tem muita puta por aí ganhando mais do que médico!

 

開業医の和訳

 

医者はいつも変な時間帯で仕事してるね。

プッタと同じだ。

顧客を満足させるために報酬もらうね。

プッタと同じだ。

仕事は定時で終わることなどないね。

プッタと同じだ。

昔の友人はみんな離れて行き、今は同業者の付き合いしかないね。

プッタと同じだ。

ボスは素敵な車を所有してるね。

プッタと同じだ。

顧客に会うときは、チャンとした服装が要求されるね。

プッタと同じだ。

でも、帰って来た時は、地獄から生還したようになってるね。

プッタと同じだ。

顧客はいつも報酬が高すぎると文句を言い、けど仕事はしっかり要求されるね。

プッタと同じだ。

毎日起きた時、「こんな仕事を一生続けないぞ」と言うね。

プッタと同じだ。

何かヘマがあったら、いつもあんたのせいにされるね。

プッタと同じだ。

なんだかんだでボスや家族や友達にタダで仕事することになるね。

プッタと同じだ。

それでも、喜んで仕事してるね。

プッタと同じだ。

 

でもね、本当は医者はプッタより酷い生活してるんだ。

プッタは安モンの健康保険を扱わない。

プッタの仕事は現金決済。

プッタは領収書を発行しなくてもよい。

プッタは確定申告に顧客申請しなくてもよい(註4)。

プッタは用紙の記入など書類仕事する必要がない。

プッタには税理士の出費がない。

プッタには組合費や会費などの出費がない。

プッタには電子署名の維持費が必要ない(註5)。

プッタの仕事は倫理憲章や法律に縛られない。

プッタは学会や研修会に出なくてよい。

プッタは認定医制度の更新を気にしなくてもよい。

しかも、医者より収入の多いプッタも結構いるぞ!


 

註1:これはブラジルの社会のほうが新しく、昔からのしがらみや利権が少ないからできるのであると思います。

註2:現在も販売されています:ISBN-10=8535906096。邦訳は「野の百合を見よ(地湧社)」。

註3:小説は苦学して医者になった主人公が逆玉の輿にのり、社会階層を登り詰めていく過程で、自身の信念や医師としての倫理を失っていくという話。

註4:ブラジルでは確定申告の医療費控除があるため、医師側は顧客申請する義務がある、つまり脱税できない。

註5:電子署名はオンライン診察やオンライン処方箋を発行する際必要。

 

秋山 一誠 (あきやまかずせい)。サンパウロで開業(一般内科、漢方内科、予防医学科)。この連載に関するお問い合わせ、ご意見は hitorigoto@kazusei.med.br までどうぞ。診療所のホームページ www.akiyama.med.br では過去の「開業医のひとりごと」を閲覧いただけます。

 
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第72回 実録エッセー『ヂエゴという男』 

 先日、バイーア州のイタカレという町に行ってきた。イタカレはイレウスから約70キロ北に位置するビーチスポットで、旅行者やサーファーなどで賑わっている。ボクもイタカレの噂は12年ほど前から聞いていた。バックパッカー時代にサルバドールで知り合ったコウイチくんという青年が、『イタカレでサーフィンをやりながら生活している』という内容のメールをくれたことがあったからだ。彼はビーチ沿いの民宿で働いていて、月500レアルを給料として受け取っていた。当時のsalário mínimo (最低賃金)が600レアルだったことを考えると、決して高い金額ではないけれど、住み込みで働いているから家賃などの費用はかからない。なので500レアルの給料でもけっこう楽しくやっている、とのことだった。そのメールを読んで、なんてスゴいヤツなんだ! と感心したのを覚えている。なぜなら当時のボクはただのバックパッカーであり、旅ズレしているとはいえ、現地で金を稼ぎながら生活をするという発想など微塵も持ち合わせていなかったからだ。
 コウイチくんは食事、睡眠、仕事以外のほとんどの時間をサーフィンに費やすという生活を数か月続けたのち、日本へと帰っていった。その後は一切連絡を取っていないが、今思えば、『現地で金を稼いで生活をする』というヒントを与えてくれたのはコウイチくんだったのかもしれない。その後、ボクも路上にたむろするヒッピーたちにマクラメアクセサリーの作り方を学び、現地で働きながら生活をすることになるのだが、懐かしい記憶である。
 そんなことを思い出しながらイタカレの町を歩いていたが、今回の旅行が決定したのは一週間前のことで、唐突といえば唐突であった。長年の露天商仲間のひとりであるヂエゴに『イタカレという町でちょっとした知り合いがPousada(民宿)をやっている。グループでいけば安くなるので一緒に行かないか? パッチャンカとミシェウも参加する予定だから』と誘われたのである。
 これを聞いた瞬間、ボクは眉をひそめざるを得なかった。なぜかというと、これまでにも何度かそういう話をされたことはあるが、実現したことなど一度もなかったからである。『あたりさわりのない関係でなら良い奴だけど、口先だけの食えない男』、それがヂエゴに対するボクの印象だったのだが、どうやら今回はマジで行くらしい。その情熱にほだされ、半信半疑のまま宿泊先への前金だという300レアルを支払い、多少の不安を感じながらも事の成り行きを見守っていたら、いつの間にかイタカレに着いていたというわけだ。
 今回参加したのは、ブラジル人アミーゴの3家族とボクとちゃぎのの計14人。それぞれの家族には子どもが1人から3人おり、カップルだけで参加したのはボクたちだけだった。どんな珍道中になるのか期待と不安が入り混じっていたが、まず一番最初に驚かされたのはヂエゴの車である。ピカピカのシボレーS10。トヨタでいえばHilux にあたるラインの高級SUVが彼の愛車だとは知らなかった。いつの間にこんないい車を買ったんだよヂエゴのやつ? 仕事にはボロボロのワゴン車で来ていたのに、実はこんな車を隠し持っていたとは。訝しみつつも、この旅行では彼の車に分乗させてもらうことになっていたので、ボロ車よりははるかに安心である。なにせ片道約400キロもの道のりを走らねばならないのだから、車のコンディションは重要だ。ヂエゴとは10年来の付き合いだが、プライベートで遊んだことはほとんどなく、彼の運転する車に乗るのも今回が初めてである。結論からいうと、ボクもちゃぎのも生きた心地がしなかった。マシンの性能が素晴らしいのは言うまでもないが、それ以上にヂエゴの運転が『ワイルドスピード』そのものだったのである。前方の見通しが悪いところでも躊躇なく対抗車線に突っ込んでいき、次々と車を追い抜いていく。何回か『本気でヤバいかも』という場面もあり、その度に小さなキンタマをさらに縮こませていたボクであったが、ちゃぎのもワキ汗をびっしょりとかいている様子であった。しかしヂエゴの細君であるヴィヴィアーニとひとり息子のギエルミ(9歳)は平気な顔でスマホをいじくっていたので、慣れとは恐ろしいものである。事故に遭わなかったのは、ブラジル人がよく口にする『Graça a Deus (神のおかげ)』、まさにその一言に尽きるだろう。 
 イタカレはさすが海辺の町というだけあって、異国情緒の豊かなところであった。ボクらの住む山村では食べることのできない海鮮レストランや、カカオの実がズラリと並べられたフルーツジュースの屋台、小洒落た土産物屋などがヤシの木を背景に密集している。
 他所から移り住んできたヒッピーやサーファーたちの姿も数多く見受けられ、彼らは自らのartesanato(手作り品)を観光客に売り込み、生計を立てているようであった。欧米の観光客が積極的に訪れるようなリゾートエリアではないが、たまにスペイン語が聴こえてくることもあり、その度にボクは2009年の南米旅行を思い出した。ペルー、ボリビア、チリ、アルゼンチン、パラグアイ、ウルグアイなどの国々を数か月かけて周った日々は、まさに青春のメモリーである。
 トロピカルなムードが漂うイタカレのビーチエリアをブラブラ歩いていると、タトゥーだらけの水着美女たちがこんがりと焼けた肌を見せつけるように闊歩している。ボクとちゃぎのはサングラス越しにその様子を眺め、品定めをし、うっかりビーチサッカーでもしている美女を発見しようものなら、おっぱいポロリ、またはそれ以上のハプニングを期待して、目を皿のようにしていた。平和なおとぼけカップルである。
 このようにして、露天商仲間のブラジル人たちとイタカレ旅行を楽しんだボクらだったが、もちろんトラブルがなかったわけではない。その騒動の中心はやはりヂエゴで、問題は彼が段取りをしたPousada(民宿)にあった。事前の説明では、それぞれの家族・カップルには部屋が平等に割り当てられるということであったが、着いてみれば話がまるで違っていたのである。
 この3階建てのPousadaには部屋が6室あるが、我々のグループはそのうちの2室を借りた。ここまではいい。だが、その割り振りが納得のできるものではなく、ヂエゴファミリーは自分たちのためだけに1室を丸々使い切り、パッチャンカファミリーとミシェウファミリー、そしてボクとちゃぎのの計11人は、もう1室の方にギュウギュウに押し込まれることになったのである。しかもヂエゴの部屋にはエアコン、テレビなどの設備も充実しており、その不平等は明らかであった。皆同じ金額を支払っているはずなのに…と、これに激怒したのがパッチャンカの妻であるニヤだ。血相をかえてヂエゴの部屋に抗議に行こうとしたが、争いを好まぬパッチャンカが必死にそれを押しとどめる。ミシェウも『ヂエゴはサビードでエスペルトだ』と苦い顔をし、ミシェウの婚約者であるカルレイジも漆黒の肌をブルブルと震わせながら、『アイアイ』と怒りを押し殺していた。やはりこれがヂエゴという男の本性である。後に、彼の宿泊代金は、我々からピンハネした代金でまかなわれていたことも発覚し、一同さらに憤慨することになるのだが、これもブラジルではよくあることである(少なくともボクの周りでは)。
 このようなずる賢い人間のことをポルトガル語で『sabido(サビード)』や『esperto(エスペルト)』などと表現するが、その代表選手がヂエゴだったというわけだ。とはいえ、民宿の人間とやり取りをし、この旅行をオーガナイズしたヂエゴにとってみれば、当然の報酬と思っているのかもしれない。
 今回の件ですっかり株を落としてしまったヂエゴだが、本人はまったく反省せず、『宿の人間の手違いだ!』と、人のせいにしているというのだから、さすがはブラジル人といったところであろうか。
 とはいえまあ、旅行自体はとても楽しかったので良しとしてやろう。

​白洲太郎

 
 
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下薗昌記

第149回 マルセロ・ラモス

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「南十字星」の名をクラブ名に抱く名門クルゼイロ。過去、2度の南米王者の栄冠に輝いたミナス・ジェライス州の名門は、2019年にブラジル全国選手権2部に降格。2020年と2021年は2部での戦いでも苦闘が続き、2022年も1部復帰を目標にせざるを得ないのが現状だ。

 そんなクルゼイロで16歳の時にプロデビューを飾ったロナウドが2021年末、4億レアルを支払い、クルゼイロの筆頭オーナーになったことでも話題を集めた。

 そんな「南十字星」が南米王者としてきらめきを放った1997年、エースとして南米制覇に貢献したアタッカーがいる。

「フレッシャ・アズーウ(青色の弓矢)」の愛称で知られたマルセロ・ラモスである。1973年、サウヴァドールに生を受けたマルセロは5人きょうだいの家庭で育ったが、貧しい家庭で育った彼の運命が変わったのはサウヴァドールで行われた13歳以下のサッカー大会でのひとコマだ。

 地元の名門バイーアの目に止まったマルセロはバイーアの下部組織で成長し、やがてプロデビュー。クラブ史上6番目の得点数をマークする名手としてバイーアでもその名を残しているマルセロだが1995年にクルゼイロに移籍。1996年にはコパ・ド・ブラジルの優勝に貢献するが、1996年にオランダの名門PSVに移籍が決定する。奇しくもクルゼイロからPSVに羽ばたき、バルセロナにステップアップしたロナウドの後釜として獲得されたのだ。

 一度はオランダの地で挑戦を始めたものの、1997年のコパ・リベルタドーレスの大会途中に、クルゼイロに復帰。チーム得点王となったマルセロの活躍もあってクルゼイロはクラブ史上2度目の南米王者に輝いた。

 クラブ史上6番目となる162得点をクルゼイロで叩き出したマルセロだが、サンパウロやパウメイラスなどブラジルの名門だけでなく、Jリーグの名古屋グランパスエイトやサンフレッチェ広島、コロンビアのアトレティコ・ナシオナルなどでもプレー。文字通りのボヘミアンだった彼だが、一つだけ拒んだクラブがある。

 それはクルゼイロの宿敵、アトレチコ・ミネイロである。クルゼイロとアトレチコ・ミネイロの双方で指揮を執ったレヴィー・クウピからの誘いだったが、マルセロは当時を振り返る。

「クルゼイロとのアイデンティティが、僕にアトレチコでのプレーを許さなかったんだ。多くの選手が二つのクラブでプレーしてきたことを知っている。彼らの決断はリスペクトするが、僕にとって正しい決断ではなかった。何故なら僕のクルゼイロへの愛は大きいからね」。

 2003年にはブラジル全国選手権とミナス・ジェライス州選手権、コパ・ド・ブラジルの三冠を獲得。マルセロはクルゼイロで14個のタイトルを手にしてきたが、これはクラブ史上2番目に多いものである。

 2012年に現役を退くと、サッカー人生の原点でもあるバイーアの下部組織で指導者としてのキャリアをスタート。しかし、2022年1月、マルセロはバイーアを後にすることを発表している。

 いつの日か、クルゼイロで監督をしてみたいと公言しているマルセロはクルゼイロ通算360試合で162ゴール。ブラジルサッカー界の表舞台から遠ざかって久しい「南十字星」を監督として、再び輝かせるかもしれない。

​下薗昌記(しもぞのまさき)

​ブラジル、サンパウロ