top of page

2022年4月号 vol.190

Capa_190_Site.jpg

画像をクリックするとissuu.comのPDF版がご覧いただけます。

目次

目次

幻の創刊準備号

​(2006年6月号)

Kindleで復刊

​2020年7月号

​2020年8月号

Noticias_do_Brasil_Titulo.png
CACHORRO.jpg

☺ 御用だ!ワンちゃん

先月3日、パラナ州イタペルスー市の路上で軍警察が2人の男を地面に腹這いにさせ取り調べていたところ、通りがかった茶色の犬が容疑者たちの横に腹這いになり前足の先を曲げ、まるで自分も一緒に取り調べを受けているような仕草をした。その様子を面白がった警官が写真を撮りSNSに投稿したところ大反響を呼び、「今年の面白写真大賞はこれで決まったわ」とまで言う人もいた。

「あの犬は私たちの取り調べを楽しそうに遊んでいると思い、自分も仲間に入れてもらいたかったのでしょう。容疑者たちはあの犬を見たことがないと言っていました」と警官は語った。

1 REAL.jpg

☺ ○○したら1レアル

サンパウロ州グアルジャー市の交差点でピーナッツ菓子を売っている女性が変わった試みをして売り上げを伸ばしている。

グアルジャー在住のブルーナ・コヘイアさん(32歳)はコロナ禍が始まってから勤めていたカフェの職を失い、交差点で飴やガム、ピーナッツ菓子を売り始めた。路上販売の売り上げを伸ばすコツを教えているSNS等を参考にある方法を取り入れたところ、以前ならピーナッツ菓子100個を売り切るのに1時間半から3時間かかっていたのが、1時間もしないうちに完売できるようになった。その方法とは、「ピーナッツ菓子5レアル、笑顔をみせてくれた人は1レアルになります」と書いたボードを掲げたことである。

「お客さんたちはボードを見るとすぐに笑みを浮かべ、ボードの言葉が一日を楽しくしてくれるととても喜んでいます。売り上げを伸ばすだけでなく、人の笑顔を見るためにこの言葉を書きました。笑顔ほど人を幸福にしてくれるものはないですからね」

PELADO.jpg

☺ 裸で自転車

先月12日夜、パウリスタ大通りに自転車愛好家たちが裸で集まり、自転車で安全に通行できる交通環境を求める“Pedalada Pelada(裸でペダル漕ぎ)”という抗議運動を行った。この運動は2008年から毎年行われ、裸で自転車に乗る参加者たちの姿は歩行者や運転者たちの注意をひき拍手で迎えられた。

布施直佐(ふせなおすけ)

ニュース
imintitulo.jpg

写真・文 松本浩治

東京農大出身でモンテアレグレに住む大竹秋廣(おおたけ・あきひろ)さん

OTAKE.jpg

 パラー州サンタレンから、アマゾナス川を約120キロ下った対岸に位置するモンテアレグレ市。同地への日本人移住は、1931年に大阪YMCA海外協会が結成したアマゾン開拓青年団が最初とされる。第2次世界大戦後は、南米拓殖会社農場跡のムラタ地区やアサイザール地区などにベルテーラ・ゴム園からの転住者を含めた日本移民たちが入植したが、整備されていない環境に脱耕者が相次いだ。

 60年代後半には、東京農業大学出身者が同地に入植し、そのうちの一人がモンテアレグレから約50キロ離れたマカカ地区に住む大竹秋廣さん(63、静岡県出身)だ。同地でピメンタ(コショウ)、カフェ、マホガニーなどを混植したアグロフォレストリー(森林農業)を実践している。

 大竹さんは、69年10月に「ぶらじる丸」で着伯。ブラジルに行くにあたっては在学中に、東京農大の4期上の先輩にあたる故・岸靖夫(きしやすお)氏から、大竹さんの同期の加藤和明(かずあき)氏(故人)、大槻雄二郎氏(日本在住)とともに共同農場の話を持ちかけられた。

 共同農場は、66年に入植した岸氏が場所の選定などを行い、加藤、大槻の両氏は在学中に一度、同地に足を運んでいた。大竹さんは在学中に1年間、米国のアイオワ州の穀倉地帯で農業研修を行なった経験を持つ。その後、ブラジル移住を選び、モンテアレグレにある農業協同組合の職員を経て、72年に同農場に入植した。

『東京農大卒業生アマゾン移住五十周年記念誌』によると、70年代のモンテアレグレは全盛時代で、幹線道路の整備、地権交付、銀行融資など移住地の環境も好転。ピメンタを中心に牧畜、野菜、果樹などを組み合わせた営農も行なわれていたという。

 大竹さんは「その頃は日本人が多かったし、皆、(心に)燃えるものを持っていました。組合も発展したし、新しい作物に挑戦したり充実していましたね」と当時を振り返る。しかし、80年代に入ると、ハイパーインフレによる経済不況をはじめ、主作物であるピメンタの価格低迷や病害などの諸問題に悩まされ、移住地を出る人も続出した。

 大竹さんは同地で紀子(みちこ)さんと結婚し、1男4女の子宝に恵まれたが、85年に紀子さんに先立たれた。大竹さんもブラジルの不況の波にもまれ、93年から1年間は日本で出稼ぎとして働いた。

 モンテアレグレに戻った大竹さんはその後、ブラジル人で公務員のルシアさんと再婚した。ルシアさんは平日はモンテアレグレの町で働き、週末には農場のあるマカカ地区で一緒に生活を送っている。大竹さんも週2日はモンテアレグレの町に出ていく生活を続け、子供たちはそれぞれベレン市などの都会に住んでいるという。

「移住地ではNHKも入らないし、(ブラジル大手メディアの)グローボ局も映りが悪くてね」と大竹さんは移住地の現状を語る。しかし、同地でアグロフォレストリーを実践している日本人としての几帳面な性格がなせる業か、きれいに整えられた農場が印象的だった。

 森林農業は、東京農大の先輩でトメアスーに住んでいた坂口陞(さかぐちのぼる)さん(故人)から教えてもらい、2000年から始めたという。その間、モンテアレグレとトメアスーの間を行ったり来たりする生活を送っていたが、その時の思いが実を結んでいる。

「日本から出てくる時は単身でしたが、ここでは自分の好きなように生きてきたし、日本に帰るつもりはないですよ。続く限りはここで、やっていこうと思っています」と大竹さん。モンテアレグレに住む日本人が少なくなる中で、自らに言い聞かせるかのように話してくれた。

(2009年6月取材、年齢は当時のもの)

 

松本浩治(まつもとこうじ)

移民

第二次世界大戦後のブラジル日本移民社会で起きた勝ち組負け組抗争を描いた小説

Lilian_Titulo.jpg

リリアン・トミヤマ

〜が不足して

 オ・エスタード・デ・サンパウロ紙によると、音楽マーケットに変化が起きているそうです。若い世代に対応するために曲が短くなっているのです。若い人たちは曲が2分半以上あると最後まで聴くことができないのです。理由はたくさんあります。SNSのせいで情報が速くなっていて、Instagramのストーリーズは15秒、TikTokの音楽は1分、Twitterのテキストは短い、等々。

 

 そう、物事を味わい楽しむ能力が不足しているのです。ところで、「〜が不足して」をポルトガル語でどう言うのでしょうか?

 このように言います。

 

 Por falta de ~ = ~が不足して

 例を見てみましょう。

 

 Por falta de infraestrutura, o Brasil perde investimentos.

 (インフラが足りないためにブラジルは投資を失っている)

 

 Por falta de autonomia, o ministro pediu demissão.

 (自主性がなくて大臣は辞任した)

 Por falta de peças, a fábrica suspendeu a produção.

 (部品が不足して工場は生産を一時中断した)

 

 Por falta de chuva, as represas estão com volume de água menor.

 (雨量が不足して貯水池の水量が減っている)

 

 今月もお読みいただきありがとうございました。長い音楽を聴く忍耐力がないという話に戻りますが、もしビートルズの「ヘイジュード(Hey Jude)」が今発表されたらヒットしただろうかと想像しています。「ヘイジュード」は7分5秒もあるんですよ! 良い曲なのでぜんぜん長いと感じませんけどね。また、ブラジルの古典的名曲にも、残念ながら2分半以上の曲がたくさんありますね。「Garota de Ipanema(イパネマの娘)」「Águas de Março(3月の雨)」「Samba do Avião(ジェット機のサンバ)」等々。

 でも、もし読者の方がこの新しい世代なら、アメリカの偉大なサックス奏者スタン・ゲッツとボサノヴァの巨匠ジョアン・ジルベルトの演奏する「Bim Bom(ビン・ボン)」がありますよ。2分9秒です。気に入っていただけると思います!


 Por falta de paciência, você não vai perder essa música!

リリアン・トミヤマ(Lilian Tomyama)

ポ語
Kishiwada_Titulo_Cor.jpg

岸和田仁

カルロス・ディエゲス(映画監督、1940年マセイオ生まれ)

 私がグラウベル・ローシャと初めて会ったのは、1957年の、ある月曜日だった。二人共若く、ティーンエイジャーだった。何月何日だったか、正確な記憶が残っているわけではないが、月曜日であったことだけは確かだ。というのも、リオデジャネイロ市アラウージョ・ポルト・アレグレ通りにある「近代美術館(MAM)」内の「ブラジル新聞協会(ABI)」映画上映室で毎週月曜日に行われていた上映会の場であったからだ。(中略)

 映画少年であった僕らが、米国、フランス、イギリス、イタリア、ソ連の有名な映画というよりも全時代の作品を見ることができたのは、このMAMで1957年から5年間も継続的に開催された名画上映会のおかげであった。シネクラブやこのMAMで、僕らは知り合い、何回も会うこととなって、シネマ・ノーヴォと呼ばれる同世代の映画仲間を形成することになった。同年代の僕らは、誰もが同じような夢を抱いていることをお互いが発見し、同じような道を歩むことになる。その時は、どんなことでも出来る、と夢見ていた。

 僕らよりも10歳ほど年上のネルソン・ペレイラ・ドス・サントスが自然と仲間全員をまとめあげる師匠役となったが、実際のところ彼から様々なことを学ぶことになった。そのネルソン・ペレイラがいつも言っていたことは、『シネマ・ノーヴォは、グラウベル・ローシャがリオに到着した時に、始まったのだ』、であった。(中略)

 新しい映画を通じて、社会を変革し、より豊かで不平等の少ない社会を目指し、ブラジル国民の文化と愛徳に基づいた、新しく、普遍的で、より人間的な、より公正な、より博愛的な文明を構築する、すなわち、映画を変える、ブラジルを変える、世界を変える、そう、それこそがシネマ・ノーヴォであった。

carlos diegues.jpg

 2003年11月、第16回東京国際映画祭コンペティションで話題作『ゴッド イズ ブラジリアン』(原題Deus é Brasileiro)を上映することになったため、カルロス・ディエゲス監督が初来日した。この貴重な機会をとらえ筆者はこの「シネマ・ノーヴォ運動の最も若い参列者」であった監督にインタビューした。

 その前日、京都を訪ねていたためか、興奮冷めやらぬ雰囲気であった監督をポルトガル語の冗談や気さくな雑談でリラックスしてもらってから、1時間くらいインタビューしたが、そんな雑談の最初に、監督はユーモラスに「ミゾグチ(溝口健二)やクロサワ(黒澤明)、オズ(小津安二郎)の作品を通じてしか日本を知らなかったが、今回自分の眼で見ることができて感激している。あえて不満をいえばサムライが一人も歩いていないことだね」と話し始めたのは、今でも記憶に新しい。

 このインタビューでは、監督の諸作品(『シカ・ダ・シルヴァ』(1976年)、『バイバイ・ブラジル』(1979年)、『オルフェ』(1999年)『ガンガ・ズンバ』(1963年)など)を取り上げて、それぞれの作品に関わるエピソードなどを聞いていったのだが、それだけでは面白くないので、筆者の思いつきもあって、ちょっと意地悪な質問もしてみた。

「作家ジョルジ・アマードの表現を借りると、監督は『アラゴアス州生まれでありながらカリオカとなり、その後あらゆる地域的狭小性を喪失した人』といえるが、ご自身をどう自己規定するか」

との質問に対しての答えは、

「自分はアラゴアス出身のカリオカで地域主義的心性を持たない人間だが、あえて自己規定すれば『ブラジル知りたがり屋』かな。『ブラジルという地理的領域に限りない好奇心を抱いている男』だな」

 さらには、「監督の映画作品はラブシーンが少ないですね、何故?」

という野暮な質問に対しては、

「それは単純な理由による。映画監督のなかには男女のラブ交歓図を描かせたら天才的な人も多い、例えば、ベルトリッチ監督はスペシャリストといえるだろう。私は、その対極に位置していて、この辺は弱いんだ。ラブシーンは今でも苦手だね」

との生真面目な答えを頂戴した。こうした”証言”を引き出せたのは、インタビューアーとしての”成果”だと思っているが、ディエゲス監督は、全身全霊を注いでブラジル的価値を追求した映画人であった。

 そんなディエゲス監督が書いた、14ページにも及ぶ渾身のグラウベル・ローシャ論が、『BRASILEIROS』(Editora Nova Fronteira, 2020)に収録されている。冒頭に引用したのは、この回想録的文章からであるが、このバイーア出身の詩人的アジテーター監督ともいうべきローシャの錯綜的魅力を包み隠さず語るディエゲスの文章も読者を魅了する素敵な追悼文となっている。 

岸和田仁(きしわだひとし

百人一語
receita_oura.png

アルファジョール・ペルアーノ
Alfajor peruano

ALFAJOR.JPG

「アルファジョール」は、中南米のスペイン語圏でおなじみのお菓子で、ブラジルではアルゼンチンタイプのものが主流です。今回は、もっとバラエティーがあるというペルーの家庭で手軽に作られているアルファジョールを、ペルー出身の橘谷(きつたに)ロシオさんにご紹介いただきました。

(ピンドラーマの Youtubeチャンネルで動画を視聴できます)

【材料】

・小麦粉 Farinha de trigo...250g

・粉砂糖 Glaçucar...50gと飾り用

・バター Manteiga...240g

・コーンスターチ Maizena (Amido de minho)...200g

・ドーセ・デ・レイチ Doce de leite...適量

【作り方】

①小麦粉、コーンスターチ、粉砂糖、バターをボールに入れ、全体をさっくりと混ぜ合わせてひとかたまりにする。バターは細かく切って常温で柔らかくしておくとよい。

PROC 1.JPG
PROC 2_edited_edited.jpg
PROC 3.JPG

②生地を麺棒で伸ばし、丸型で型を抜き、天板に並べる。

PROC 4_edited.jpg
PROC 5.JPG

③180度に予熱したオーブンで15分焼く。

④冷めたらドーセ・デ・レイチを挟み、粉砂糖をふって完成。

PROC 6_edited.jpg
PROC 7_edited.jpg

 アルファジョールの語源はアラビア語のアルファヘル(al-fakher 豪華の意)ということで、ポルトガルを含めたイベリア半島のお菓子は、アラブ文化に由来するものも珍しくないようです。スペインから中南米にもたらされたアルファジョールですが、スペイン本国とは見た目もレシピも異なり、大西洋を渡って様々なアルファジョールが生まれています。 

文・写真/Tomoko Oura

 

◆今回の先生

橘谷ロシオさん

ペルーのリマで、山口県にルーツのある日系人の父親とスペイン、イタリア系の母親のもとに生まれる。サンパウロ在住25年。商業デザイナー。料理が趣味で、パンデミックに入るまでは、サンパウロでのペルーのフードイベントやチャリティーイベントの企画に携わってきた。

PROF.JPG
レシピ
Viagem_Aoki_Titulo_190.png

青木遼

 このパンデミックが長引き遠出ができず、サンパウロにずっといてもつまらない方々に、今流行りの優雅な時間の過ごし方をお勧めします。一日高級ホテルに泊まり、ご主人は仕事・オフィスワーク、奥様はお散歩・TeaTime、子供はプール等、生活に変化をもたらしてはいかがでしょうか。今回はサンパウロ市内の話題のホテル、パラシオ・タンガラと、少し郊外のマイリポランの超高級ホテル、ウニッキ・ガーデンをご紹介!

PALACIO TANGARA.jpg

パラシオ・タンガラ

RECEPTION PALACIO TANGARA.jpg

ロビー

◆パラシオ・タンガラ Palácio Tangará

 

 モルンビー地区の自然保護区Burle Marx公園内にあるこの高級ホテルは、ネオクラッシック様式の建物。2017年5月にオープン。

 “マスターピース(傑作)”に値するホテルだけが加盟を許されたドイツの「オトカーコレクション Oetker Collection」に加盟。バルコニーが付いた客室は周りの森と調和して、とても静かで優雅な雰囲気。Tangaráという名前は鳥の名前で、フウキンチョウ科に属し、全部で27種あるという。名前はトゥピー語で「ダンサー」を意味する。レストランのシェフ、フェリッペ・ロドリゲスさんは腕も超一流。15時から始まるTea Timeのお菓子も美味しい。

 サンパウロの町中で、このような閑静な場所があるとは驚きだ。

 一泊二日でも、優雅な時間を満喫してみては?


 

◆マイリポラン市へ


 サンパウロから一時間半ぐらい、アチバイア方面に走るとこの町マイリポランがある。サンパウロに住んでいる人で、ここに別荘を持っている人も多い。サンタナ方面から抜けると緑の多い森やカンタレイラ州立公園を通りこの町に入る。カンタレイラ山脈 (Serra da Cantareira)は、サンパウロの水の供給源となっている。マイリポランはこのカンタレイラ山脈の町。このマイリポランの入口のポルトン(大きな戸)の近くに、小さな集落オ・ベリョン(O Velhão)がある。その地域の有力者のMoacyr Archanjo dos Santosさんが、1979年に創立した集落(Vila)である。バーや土産物屋、レストランが立ち並ぶ。娯楽の少なそうな場所で、日曜日にここでゆっくり食事するのは楽しみかもしれない。一人分62レアルだという。お得かも。若い人たちで大行列の人気レストランは、休みの日には800人の客が入る。珍しい果実酒やカサッシャを買った。このポルトンの近くに住む木工の芸術家Claudio Venerantoさん。ジャケイラの木や、ペローバ・ローザの木で2メートルを超す一木造りの大作を彫って展示・販売しておられる。「家族」とか「妊婦」の名の付く見事な迫力の作品。ベレンから取り寄せた小さな木工品や玩具も売っておられた。

Claudio Venerantoさん.jpg

Claudio Venerantoさん

NOSSA SENHORA DO ROSARIO.jpg

バジリカ・デ・ノッサ・セニョーラ・ド・ロザリオ

◆ノッサ・セニョーラ・ド・ロザリオ大聖堂

 

 ここから少し走ると、この山脈の頂上にバジリカ・デ・ノッサ・セニョーラ・ド・ロザリオ(Basílica de Nossa Senhora do Rosário)という大聖堂がある(カイエイラス市)。知る人は少ないが見事な大聖堂である。2006年10月に建設され始め2年後に完成。パリのノートルダム大聖堂やサント・シャペル等のゴシック建築に触発されて作られ、建物の高さは60メートル。荘厳、華麗、ステンドグラスが美しい。マリアの絵やイエス像もある。大聖堂の隣には、世界中の国の神学校やグループのメンバーを受け入れるための講堂や宿泊施設がある。見学者にも信徒が着る白衣が提供され、見学者は全員にわか信徒になる。日曜日にはグレゴリオ聖歌が演奏される。一般の見学は日曜日のみ、9時から受け入れる。


 

◆ウニッキ・ガーデンホテル Hotel Unique Garden

 

 サンパウロ市内ブリガデイロ・ルイス・アントニオ大通り4700番にあるスイカを割ったような、モダンなホテルの姉妹版がこのホテルである。昨年亡くなったルイ大竹の設計と言われる。

 マイリポランの中心部から20分ほど車で走るとこのホテルに着く。大きな門戸を抜けると総合受付があり、シャンパンや香草入りの水が用意されている。ちょっと一息。入口には花で囲まれた大きなツリーが聳えている。受付のテーブルは特別に作られた材質のどっしりとした木のテーブル。そこで手続きをして各自の部屋に入る。このホテルはとにかく草花がいたる所にあり、緑の豊かな環境にある。Vila Mediterrâneaというロッジは大きな花壇の中にあるような造り。14室もあるだろうか。この壮麗なホテルは、毎日従乗員が150人ぐらい働いているという。そのうちの35人は、近郊のサンパウロ、アチバイア、マイリポランからきている庭師だそうだ。ゆえにこの美しさは保たれているのだろう。広大な敷地の中に“白鳥の湖’’と名のついた池やテニスコート、プレイグランド、プール、スパの施設、それぞれのテーマの名がついた庭園、トミエ大竹と名のついた東洋風の庭等もある。車で乗りつけた人のためにChale Cristal、Chale do Golfe、Chale do Lagoという開放的なシャレーもある。他に客室にはVila Contemporaneaという名の部屋もあり多岐に散在している。この閑静な緑陰の中でぼお~としていても十分に保養になる。命の洗濯になる。山里の中ではあるが、Wi-Fiはきちんと使える。1980年代はシティオ(別荘)として使われ、2005年にホテルとなった。リトアニア人のヴィクター・ソアレス所有のホテル。敷地内の一角にこのヴィクターさんを記念し、その来歴を集めた聖所 Santuária Victorがある。小さな博物館のようで井戸などもあり、創始者のヴィクターをたたえている。その娘のLaraさんの赤ちゃんの時の写真や時計、ノスタルジックな展示物が並んでいる。

 夕食は瀟洒なレストランで。とりどりのお酒が並んだバーがあり、魚料理にはハーブが添えてあり、美味。即日の朝食のサラダには、5種のドレッシング(モーリョ)が用意されており、ブラジル式の豪華な朝食。翌朝ハーブ園や畑を見学。庭園内には、小さな滝や橋、欄干もあり、ヨガの瞑想をする茅葺の小屋もある。ハーブ園には、カッピン・サント、ミント、エルバ・ドーセ、ラベンダー、アレクリン、マジリコン、ジャスミン、カフェなども植わっており、案内のガブリエル君は一つ一つ千切って、香りを確かめさせ(嗅がせ)、香草をくれる。いつの間にかハーブが集まり、これを大事に家に持ち帰る。すると二日分の夕食に早変わり。オムレツとスパゲッティ。旅先の香りが楽しめた。このホテル内には装飾品もさながら、所々にある椅子がそれぞれ詩情がある。木の椅子、カネの椅子、糸で編んだ椅子。

 とにかく、一泊してこの最高の天上界の雰囲気を楽しむと良い。現世を忘れ、極楽である。 

LODGE Vila Mediterrânea.jpg

ロッジ Vila Mediterrânea

SALAD.jpg

朝食のサラダ

◎インフォメーション

・Palácio Tangará

 HP : www.oetkercollection.com/pt/hoteis/palacio-tangara/

・Basílica de Nossa Senhora do Rosário 

 Tel : 11-48994-3100

・Hotel Unique Garden  tel 11 4486 – 8700 

 HP : www.uniquegarden.com.br

 予約 reserve@uniquegarden.com.br

​青木遼(あおきりょう)

旅行好き。

知らない土地に行き、エトランジェ・異邦人の異空間を楽しむ。

滞在歴30年を超える

旅行
ぐるめ
Restaurantes_Titulo.png

Cora Restaurante 

R. Amaral Gurgel, 344 - 6º andar - Vila Buarque

Tel : (11) 98871-2469

 

屋根を打つ激しい雨の音を聞きながらの昼食。Coraはミニョコンと呼ばれるサンパウロ市の幹線道路の脇に位置するビルの最上階、6階にある。混沌としたセントロ区の中に突如現れた異空間。エレベーターを降りたところにバーがあり、右に行くと室内席、左に行くと屋外席がある。雨の日だったので室内席に案内されたが、晴れた日には屋外席が気持ち良さそう。アルゼンチン人のシェフが作る料理はラテンアメリカの風をまとっている。興味深いのは野菜をメインにした凝った料理が何品もあること。料理のメインがカリフラワーを半分に切って焼いたものであったり、焼きオクラであったり、団子状になったナスであったり。野菜料理でも、ソースにはハチミツ、チーズ、ナッツなどが加えられておりコクがある。もちろん、肉もあるが、価格を抑えるためかタンやカモのハツなどが使われている。この日、食べたナス団子、焼きオクラ、豚のチーズ(豚の頬肉のテリーヌ)、グリルした魚のグリーントマトソースとサツマイモチップ添え、どれも満足の行く味。デザートはアルゼンチン名物のチョコレート菓子、アルファジョール。普通のアルファジョールと異なり、Coraのアルファジョールはレモンシャーベットがビターチョコレートのビスケットでサンドされている。思い出しただけでまた行きたくなった。

Cora.jpg
Cora TERRINE.jpg
Cora ALFAJOR.jpg

AE Cozinha

R. Áurea, 285 - Vila Mariana

Tel :  (11) 3476-8521

 

ビラ・マリアーナのひっそりとした通りにあるAE Cozinha。2年半ぶりに予約をせずに向かったが、着くまでパンデミックでもしかして閉まったかもという疑念が頭を離れなかった。着いて同じ場所に同じままあってホッとする。私は手作りソーセージ、ベジタリアンの娘はキノコのリゾットを頼んだ。ポルトガル語でDivino(神々しい)という言葉があるが、きのこリゾットはまさにDivinoという言葉にふさわしい。いろいろなキノコの滋味深い味、揚げた米の香ばしさ、ナッツとパルメザンチーズのコクが混じり合い、分けてもらった一口を陶然と味わった。若い夫婦がオーナーシェフであるが、奥さんのパティスリーが作るデザートは相変わらず美しく、おいしい。しょっちゅう行くわけではないが、いつ行っても料理も雰囲気もホッとした気持ちにさせてくれる。

AE Cozinha.jpg
AE Cozinha RISOTTO.jpg
AE Cozinha DESSERT.jpg

宮本碧

banner202204.jpg

「うつ」って度合いがあるの?

 サンパウロでは、先週よりマスク着用義務が廃止になりました。世間の注目はウクライナの戦争に移っています。しかしどうしてもコロナ禍と関連するひとりごとになってしまいます。今月はコロナ禍の一番大きな影響である「うつ」に焦点をあててみます。これは感染症に罹患した方だけの後遺症ではありません。現在、我々地球上の全員がなってもおかしくない精神の不調あるいは病気です。

 

『日本の社会文化では「うつ」と言うと、単に怠けているとか、気合いで直すべきの根性論など、理解されないことが多いのではないですかね?そのため、医療の現場では「うつ」と診断されることを嫌う患者さんが一定数いる。うつ状態の特徴の一つに社会的・職業的機能の障害があるので、外部(他人)に診断書を提出しないといけない時には「自律神経失調症」や「抑うつ状態」など医学的にあまり正確でない文書を出してお茶を濁すことがあるぞ』

 

 うつの医学的定義には

①憂うつ、気分が落ち込む、もの悲しいなどである「抑うつ気分」

②何も楽しめない、心が躍らないなどである「興味と喜びの喪失」

の二つが必ず存在します。簡単にいうと、「脳の機能の低下」と言えます。一説に嫌うことがたくさんあったので、本能的に自己防御として脳が身体全体の活動を低減させ、命を守るのである、といったモノもあります。そういった面もあるとは思いますが、先出の「脳の機能の低下」のほうがわかりやすいのではないかとこの筆者は考えます。つまり、脳も臓器の一種であり、どの臓器も無理をさせると機能不全に至り、酷い場合は後戻りが効かなくなり、臓器破壊までおこることがあります。例えば、飲酒をして、肝臓に負担をかけると、その度合いによっては肝機能障害をおこし、場合によっては肝硬変になって肝臓そのものがお釈迦様になってしまいます。仕事のし過ぎ(頭を働かせすぎ)でうつになってしまうような状況がこの例になります。

 

『うつ状態には必ずなんらかの「思考のしすぎ」がある。この「思考」は必ずしも「不快な思考」である必然性はないのだが、どちらかというと不快な経験と関連することがうつ状態を誘発させる原因(註1)になるのが多いので前出の自己防御説に発展するのではないかと考える。珍しいけど、楽しみのし過ぎでうつ状態にいたることもあるぞ』

 

 うつ病はよく見られる健康上の問題です。日本人の場合、時点有病率が1〜2%(人口10万人に100~200人が罹患)、生涯有病率が10%程度であり、極めて頻度の高い病気です。女性は男性にくらべ、2倍ほど有病率が高く、発症年齢は思春期から老年期まで幅広いので、「誰でも」、「いつでも」うつ病になってもおかしくないとも言えます(註2)。身体的疾患や物質・医薬品が原因でうつ状態になっていることもあるので、それらを除外することが必須です(この話は2013年11月号のひとりごとを参照してください)。また、気分障害、不安障害、混合性障害などの分類の仕方もありますが(2010年03月号のひとりごとを参照してください)、今回は「うつの度合い」について考えていきます。

 

 先に出た「抑うつ気分」と「興味と喜びの喪失」がうつ病の中核症状ですが、それだでけは「うつ病」の診断になりません。うつ病の正式な医学用語は、「うつ病性障害(major depressive disorder)」であり、これら中核症状の2項目プラス表の7項目のうち、3項目以上が「ほぼ毎日」、「1日中」、「2週間以上」続いている必要があります。

表:うつ病性障害の判断基準の症状

TABLE_edited.jpg

 これらの症状により、就労や就学、日常生活に機能障害をきたしているのが「うつ病」と診断されます。さらに頭痛、眩暈、胃痛、食欲不振などの身体的不定愁訴が合併することが多いです。うつ病性障害の診断を確定する検査はありません。身体疾患や脳器質性障害を除外した上で、このような診断基準に当てはめて判断するしかありません(註3)。主観的な症状が主になるので、客観的評価が難しいのがうつ病の特徴でもありますので、診断は難しいです。そのため、医療保険の免責事項とされることが多々あり(検査などで診断を確定できない)、また、こういった訴えをする患者さんと向き合っている医療従事者(この場合は医師や臨床心理士など)の主観的な評定であるので(つまり、主観的症状を主観的判断する)なんら客観性がない診断であるといってしまっても過言ではないでしょう。

 実際近年の社会傾向ではメンタル面やマイノリティーの尊重がありますので、それを悪用したケース(例:うつを偽って休職する)も見当たります。また、医療界では双極性気分障害(躁鬱病) の診断をするのが流行っている(註4)と言えますので、なんらかの事情で精神科を受診するとうつ病の診断と治療薬をもらって帰ってくることが多々あるのも見当たります。筆者の診療では、うつ状態の患者さんも多くおられますが、そのほとんどが「抑うつ状態」であり、うつ病の診断までには至りません。要するに、度合いの問題ではないかと考えます。前に出した飲酒と肝機能障害の例で考えると、軽い状態だと、禁酒すれば快復することがほとんどですし、薬物治療が必要であっても、過半数が回復します。しかし重症例もありますし肝硬変のようにもうどうしようもない状態に至ることもあります。うつも抑うつ状態から難治性うつ病まで度合いがあります。また、どの程度の負荷で脳がショートするかも飲酒の例と同じで個人差があります。軽度のうつであれば、カウンセリング(註5)や集団療法などの精神療法のみで治療できることが多いのですが、中等症以上では薬物療法が必要になって来ます(註6)。また、最近では理学療法の一種、「反復経頭蓋磁気刺激療法(repetitive Transcranial Magnetic Stimulation (rTMS))」といった治療法も確立してきてます(註7)。とにかく診断が難しい疾病であることは間違いないので、「うつ病」と診断された場合はセカンドオピニオンを受けた方が良いのではないかとこの筆者は考えます。


 

註1:うつに先立つ状況として次の出来事がよく見られる:転居、転勤、離婚、死別、身体疾患罹患、経済的苦境。

註2:これらの有病率のデータはコロナ禍によって変わると思います。

註3:主観的な症状が主になるので、客観的評価が難しい。

註4:これは双極性気分障害治療薬の開発が盛んな製薬業界の関与が大きいと感じます。

註5:英語のカウンセリングとは「助言する、助言を仰ぐ」ことであり、大変間違った言葉だと筆者は思う。うつはほとんど主観的な疾患なので、精神療法により、「自身で問題点を理解、解析、解決すること」しか治癒に至らない。他人がどうのこうの意見しても無駄です。正しい名称は「精神療法(psicotherapy)」を使用するべきと思う。

註6:反対に、抑うつ状態のようないわゆるうつ病にまでいってなくても、少し薬物を使ったほうが精神療法より手っ取り早く快復することもある。

註7:日本でも最近保険適応になったが、うつ病性障害の診断があり、かつ既存の抗うつ剤治療で十分 な効果が認められない場合に限り適応。小職は軽症にこそ効果があるのではないかと思う。

 

秋山 一誠 (あきやまかずせい)。サンパウロで開業(一般内科、漢方内科、予防医学科)。この連載に関するお問い合わせ、ご意見は hitorigoto@kazusei.med.br までどうぞ。診療所のホームページ www.akiyama.med.br では過去の「開業医のひとりごと」を閲覧いただけます。

ひとりごと
Yutaka_Titulo.jpg

第73回 実録エッセー『ボクらのコロナワクチン狂騒曲』

 先日、ついに新型コロナワクチンを接種した。
 何を今さら、という感想をもつ人も少なくないと思うが、ボクの周りにはナチュラリスト的な観念をもつ風変わりなヒッピーがけっこういて、そのような人たちには反ワクチン派が多い。彼らがどのような思想でワクチンを打ちたくないのか、その詳細は人それぞれだと思うけれど、ボク自身がなぜこれまで打ってこなかったのかというと、単にその必要性を感じなかったからである。ワクチンを接種したからといって、『絶対にコロナに感染しない』というわけではなさそうだし、もしコロナに感染してしまったとしても、ボクの年代では重症化のリスクもさほど心配なさそうだ。この2年間、巷間ではコロナコロナと新型コロナウイルスの話題ばかりだったけれど、ブラジルのど田舎でのんびりと暮らしているボクにとっては、いつまでも実感の湧いてこない出来事だったのである。そんなボクが、どうして今さらワクチンを接種する気になったのかというと、あの悪名高き『ワクチンパスポート』の存在を無視できなくなったからだ。
 ある日、インターネットでニュースをチェックしていると、バスの乗車や公的施設の入場にもワクチンパスポートの提示が必要になるという記事を発見し、目が釘付けになった。商品の仕入れや旅行に行くにもバスには乗らねばならないし、役所などの公的施設にも、年に数回程度ではあるが入場する必要がある。もう少し時間がたてば新型コロナに関する規制も少しずつ撤廃されていくのであろうが、その時期を予測するのは難しい。ちゃぎのが役所に行かねばならぬ時期も迫っているし、これ以上ワクチンから目を背けるわけにはいかなかったのである。
 思い立ったが吉日、さっそく保健所に行き、「ワクチンを打ちに馳せ参じた。俺の気が変わらぬうちにヤッてくれ!」と絶叫、その場で左腕を差し出したボクであったが、係員の反応は非情であった。なんと肝心のワクチンがないと抜かしやがるのである。去年、ワクチンが出回り始めた頃は、市役所も大いに喧伝・宣伝をし、民衆も列をなして保健所に並んでいたものだが、それも過去の話。今では州全体がワクチン不足に悩み、入荷も未定だという。まったくなんという体たらくであろうか。ワクチンパスポートで人流を管理しようとしているにも関わらず、ワクチンそのものがないというのである。
「来週あたり入荷するから」
という係員の言葉を信じ、翌週も、翌々週も保健所を訪れたボクとちゃぎのであったが、相変わらずなしのつぶてであった。
 これぞ、ブラジルあるある!
 とにかく自分の思うようにいかぬのが南米生活の常であり、この国に住んでいればそんなことにはすっかり慣れっこになってしまうが、ちゃぎのの役所への出頭期限も数か月後に迫っている。ワクチンの接種証明として効力を発揮するためには最低2回は注射をせねばならず、1回受けただけではバスの乗車や公的施設への入場は認められない。しかも1回目と2回目のワクチン接種では28日以上の間隔を空ける必要があるというから、その日数を計算にいれると残された時間はあと僅かであった。
 まあなんとかなるだろう。と、日々を快活に過ごしつつも、やはり気になるのはいつワクチンが入荷するのかということで、あんなに受けたくなかったコロナの予防接種が、いつの間にか切望の対象になってしまったのは皮肉である。それもこれもワクチンパスポートを提示しなければ、バスに乗れぬ、施設にも入れぬという意地悪を国が奨励しているからで、まことにもって残念だ。
 このような行政の横暴に対抗しつつ、ついでに金を儲けてやろうと悪知恵を働かせる者も当然いて、噂によると『偽造ワクチンパスポート』なるニセ証明書も闇で取引されているらしい。それも単なる印刷物のコピーではなく、政府のデジタルシステムにも登録されるというシロモノで、ここまでくるとフェイクというよりは裏取引という言葉の方がしっくりくる。相場は500レアル(約11000円)とのことだが、ゴリゴリの反ワクチン派というわけでもないボクとちゃぎのにそこまでする気概はなかった。通常の社会生活を営むために、素直にワクチンの到着を待つことにしたのである。
 ちゃぎのが役所に行かねばならぬ期日を迎える1か月半ほど前にワクチンが届いたとの知らせを受けたボクらは、今度こそ! と、鼻息を荒くしながら接種会場へと向かった。
「ワクチン賛成派も反対派もクソ食らえ。オレはバスに乗れさえすればいい。こんな茶番はもうウンザリだ!」
 そんなことを思いながら会場に入り、看護師に左腕を差し出すと、アルコール消毒をされる間もなく、ボクの体内にワクチンが注ぎこまれた。筋肉注射なので相応の痛みを覚悟していたが、看護師の腕が良かったのか、蚊に刺された程度の刺激であった。メーカーはCoronavac とのことである。親友のエリアスは田舎町のブラジル人にしては珍しいワクチン反対派だが、もしどうしても打たねばならぬとしたらCoronavac がいいと言う。その理由を訊ねると、「中国製だから効かない。それがいいのさ」と満面の笑みを浮かべるのであった。
 接種後の副作用も特になく、28日後に2回目のワクチン注射を終えたボクらは、ようやく政府公認の『通行手形』を手にすることができた。が、ここで新たな問題が持ち上がったのである。正式な接種証明を提示するにはスマホを介して認証・登録を行わねばならぬとのことで、さっそくブラジルの健康保険システム(SUS)のアプリをインストールしたが、どうもうまくいかない。まずログインできたりできなかったりといった初歩的なところから始まり、試行錯誤の末にようやくログイン、喜び勇んでワクチン証明のページにいってみると、
『所定の条件を満たしていないため、証明書を発行することはできません』
といったポルトガル語がビックリマークとともにチカチカ輝いている。
「タ・アコンテセンド・オケ ?ポーハ!」
と、スマホの画面を凝視すると、なんとボクもちゃぎのも1回目のワクチンしか受けていないことになっているではないか! バスの乗車や施設の入場には最低2回のワクチン接種が必要なため、このような表示がされているらしいが、つい1週間前に2回目の注射をしたオレたちに向かってなんて失礼なことを言うのだ! と、慌てて保健所に駆け込み、2回目のワクチン接種の実績を改めてシステムに登録してもらったが、ちゃぎのが役所に行かねばならぬ期日までにスマホアプリの情報が更新されることはなかったのである。
 万事休す。あらゆる手を尽くしたが、公式のデジタルコロナワクチン証明書を用意することはできなかった。あるのは紙のワクチンパスポートだけで、簡単に複製できる性質のものであるから、係員によっては施設の入場を認めてもらえないかもしれない。そのような事態も想定しつつ、いざそうなったときには泣き落としをしてでも入場するしかない。必要ならばゲロだって吐いてやる。と、悲壮な覚悟で自宅から約300キロ離れた街の役所に赴いたボクらであったが、バスも、施設も、拍子抜けするほどあっさりと通過できたことをここに報告しておく。
 以上が、ボクらのしょうもない『コロナワクチン狂騒曲』の全貌である。

 というわけで、今日はこのへんで。

 Até a próxima!

​白洲太郎(しらすたろう)

カメロー
クラッキ
craque.jpg

下薗昌記

第150回 アンドレー・カチンバ

andre.jpeg

 アルゼンチンがこの世に送り出した不世出の天才、ディエゴ・マラドーナが、突然、そして気まぐれにこの世を去ったのは2020年11月25日のことだった。

 イタリアのナポリ時代にはブラジルが生んだ偉大なFWカレッカともコンビを組んだマラドーナだが、左利きの小柄な天才と最初にプレーしたブラジル人が存在する。

 カルロス・アンドレー・アヴェリーノ・デ・リマ。サッカー界ではアンドレー・カチンバの登録名で知られた気性の荒い点取り屋である。

 相手選手を挑発して、退場に追い込んだり、冷静さを失わせたりする南米ならではのしたたかな振る舞いを「カチンバ」と称するが、アンドレーもまた相手の守備陣からは嫌がられたFWだった。

 1946年、サウヴァドールで生まれたアンドレーだが、6人生まれた子供のうち、男の子はアンドレーただ一人。地元のクラブ、イピランガに見出され、クラブ関係者が学費や小遣いを提供すると誘いをかけてきたが、母は簡単に首を縦に振ろうとしなかったという。

「あの時代、サウヴァドールではサッカーはガキか海辺にたむろしている奴がするものだったからね」

とはアンドレーの述懐である。

 しかし、サウヴァドールの街で幼き頃からカポエイラや空手に興じ、身体能力を磨き上げてきたアンドレーの才能は本物だった。

 バイーアと並ぶ名門、ヴィトーリアに移籍するとその点取り屋の才能は一気に開花するのだ。

 そして、「カチンバ」の愛称に相応しく、ゴール前では相手のマークに怯むどころか「CBが奴に激しく当たりに行くと、奴は必ずそれ以上にやり返してくる。恐れるってことを知らない選手だった」と振り返るのはかつて対戦したコリチーバのCBオベルダンである。

 もっとも荒々しいだけのストライカーではなかった。1973年にはガリンシャの引退試合として開催されたブラジル代表対外国人選抜の一戦で、アンドレーはブラジル代表としてプレー。そして1977年にはグレミオに移籍し、タイトル獲得にも貢献するのである。

 名将テレ・サンターナが率いた当時のグレミオでは133試合に出場し、65得点。その中でもグレミオサポーターが永遠に忘れない一瞬がインテルナシオナウとのダービー「グレ・ナウ」でグレミオにリオ・グランデ・ド・スウ州選手権優勝の栄冠をもたらした得点である。

 後半42分、劇的な決勝点を決めた直後、カポエイラ仕込みの宙返りを見せようとしたアンドレーは空を回れず、腹からピッチに落下。その光景はカメラマンに収められ、今でも語り草となっている。なお、あまりの痛みで交代を強いられ、優勝の瞬間をピッチで味わえなかったのも、彼らしいエピソードである。

 1980年、アルゼンチンのアルヘンティノス・ジュニアーズに移籍したアンドレーは、若き日のマラドーナと同じ時を過ごしている。

「俺は当時34歳でマラドーナはまだ19歳。でも当時から質の高さは持っていたよ」

とマラドーナの死去を受け、応じた取材の中でこう振り返っている。

 アルゼンチンではわずか半年プレーしたのみで、キャリアの晩年はブラジルの小クラブでプレーしたアンドレーは現役引退後、古巣のヴィトーリアでも監督を務めたが、指導者としては短いキャリアで終わっている。

 マラドーナの死からわずか8か月。2021年7月28日、風変わりな登録名を持った男は天に召された。74歳の生涯だった。

下薗昌記(しもぞのまさき)

​ブラジル、サンパウロ

bottom of page